「新生児の生産なんてやめればいいのにな」

 と、ソファから共有情報窓テレビを見ながら冗談めかして言ったことがある。

 その日は確か休日で、両親はどこかに出かけていた。Edenに外があるなんて考えもしなかった昔の話。妹はソファに深く背を預けていて、当時やりこんでいたアンノウン・パズルに集中したまま、適当な返事を寄越した。

「実はもうやめてるのかもしれないですよ」

 誰が相手でも標準語を崩さない妹だった。誰よりも標準的に見えるのに、誰よりも早熟で、いつまでも未解析だった。

「それならそうと教えてほしいもんだ」

「どうしてですか?」

「幸せになるために生まれてくるなら、初めから生まれない方がマシじゃないか?」

 深く考えて言ったわけではなかった。しかし妹の手は数秒止まり、ちらりとこちらを見上げてくる。

「Edenが私たちを幸せにしたいだけで、私たちは幸せになるために生まれてくるわけじゃないですよ」

「そうは言うが……」

「あっ」

 妹が声を上げた。終盤の一手で間違えたらしく、ゲームオーバーの文字が浮かんでいる。

「兄さんのせいですよ」

「悪かったよ」

 ちらりと画面を覗くと、最小ブロックアスタリスクが二スタックされていた。いざというときにだけ役に立つものを貯めて、結局使わないのは妹の癖だった。

 そういう、いつも通りの昼下がりだった。それからはテレビを流し見つつ、推奨課題を片付けていた。妹は第二ラウンドに取り組んでいた。

 永遠にも思える穏やかな幸福がそこにはあった。

「死ぬか……」

 それが自分の口から零れたものだと、一拍遅れて理解した。

 妹と目が合った。失敗したな、とそれだけ思い、気づいていないふりをして首を傾げる。

「どうした?」

 下手な隠し方だったと思う。

 妹は、笑いもせず責めもせず、アンノウン・パズルを終了させると無言で席を詰めてきた。

 膝に、小さな頭がぽすんと乗った。

「エヴァ?」

「Edenでは、許されたことしか起きません。兄さんはもっと好きに生きたらいいんです」

 励まそうとしているんだな、という理解より先に、甘えたいのだろうか、という見当違いの推測が浮かんだ。だから、妹の小さな頭をぽんぽん撫でてやった。妹の頭は小さかった。片手でも持てるだろうな、と想像するくらいには。

「兄さん」

「ん?」

「死にたくなったら私を呼んでください」

 傍にいますから。そう、いつも通りの仏頂面を隠すようにしながらも、妹ははっきりとそう言った。

 その真剣さに応えきれず、その頃には既に染みついていた作り笑いを浮かべて、妹の頭を撫でた。

「ありがとな」

 妹は照れたように身体を起こして、再びパズルに熱中するふりをした。

 それから数年後、十八歳になる前にエヴァは死んだ。幸せになる前に妹は死んだ。その事実は、悲しみ以上の深い安堵を齎した。殺さずに済んだ。幸せにならずに許された。

 もし、あの瞬間に、お前を殺して死んでもいいかと訊いていたら、妹はなんと言ってくれただろう。

 その瞬間は、永遠に失われて久しい。


 天井に、虫食いのように穿たれた四角い穴から陽光が差し込んでいた。空はまだ青く、認知機能と体内時計が狂っていなければ昼下がりの筈だった。

 肉体の再生を待つ間、ほんの少し目を閉じていただけのつもりだったが、経過時間を考えるに眠っていたのだろう。それだけ消耗している。

 目覚めたノヴァを心配するように、ELが心配など微塵もしていなさそうな笑顔で覗き込んできた。

『おはようございます。お加減はいかがですか?』

 ノヴァはいつもより重い身体を起こし、右脚を見て舌打ちした。丸く抉れたままの断面は半透明の薄い皮膚で覆われ、大腿骨が半ば剥き出しになっている。強化スーツとのリンクも十分ではなく、右脚は使い物になりそうになかった。

 痛みはない。ELによって補正されている。早急な治療が必要なことは理解できるが、当分は不便なだけだ。

『やはり、一度Edenに戻るべきではありませんか?』

「戻れば仮想送りだ」

 ノヴァの傍らには、キコが造った多元穿孔装置がある。Edenはこの装置の存在を許さないだろう。許せるなら、こんな回りくどい方法で終わらせようとはしない。

『装置が無ければ問題なく復帰できる可能性もあります。何より、その怪我で隔壁まで歩くのは無茶です』

 隔壁まではおよそ二百キロの距離がある。

 それだけの距離を、ノヴァの背丈とほぼ同程度の物体を抱えて赴くのは容易ではない。だが不可能ではない。

「このまま行く」

『本気ですか? いくら兄さんでも分が悪いといいますか』

 ELが表情を消して顔を上げた。

 廃墟の窓枠の向こうに、屋上で辺りを見回す探査用のアンドロイドがいた。

 万全とも幸福とも言い難い状況のノヴァを、Edenが見逃す筈はなかった。

 ノヴァは銃を生成しかけたが、僅かな思案を経て多元穿孔装置を持ち上げた。

 座ったまま身体を回し、重い筒を構え、アンドロイドに引き金を絞る。

 出力は最大まで上げている。

 ドン、と砲口が跳ねる。

 さざめく空気と共にアンドロイドの姿が歪み、弾けるような音を立てて上半身が消滅した。消滅した箇所にはコンクリート製の建物の一部が現れ、下半身を押し潰しながら落下していった。

 落下した振動が、ノヴァの元にも伝わった。

『移動する必要がありますね』

「そうだな」

 ノヴァは壁に手をついて、装置を抱えたまま左足だけで立ち上がった。

『兄さん』

 無視しようとするノヴァの背後から、声だけを投げる。

『もう、都市には戻らないつもりですか?』

 ELはいつだってにこやかだった。

「やることが終われば戻る」

『エヴァが生きているのに?』

 ノヴァは、『私が』と表現しないプラグインを正面から見据えた。

「エヴァが生きているからだ」

 無表情に微笑むELに、妹の面影はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る