八
「新生児の生産なんてやめればいいのにな」
と、ソファから
その日は確か休日で、両親はどこかに出かけていた。Edenに外があるなんて考えもしなかった昔の話。妹はソファに深く背を預けていて、当時やりこんでいたアンノウン・パズルに集中したまま、適当な返事を寄越した。
「実はもうやめてるのかもしれないですよ」
誰が相手でも標準語を崩さない妹だった。誰よりも標準的に見えるのに、誰よりも早熟で、いつまでも未解析だった。
「それならそうと教えてほしいもんだ」
「どうしてですか?」
「幸せになるために生まれてくるなら、初めから生まれない方がマシじゃないか?」
深く考えて言ったわけではなかった。しかし妹の手は数秒止まり、ちらりとこちらを見上げてくる。
「Edenが私たちを幸せにしたいだけで、私たちは幸せになるために生まれてくるわけじゃないですよ」
「そうは言うが……」
「あっ」
妹が声を上げた。終盤の一手で間違えたらしく、ゲームオーバーの文字が浮かんでいる。
「兄さんのせいですよ」
「悪かったよ」
ちらりと画面を覗くと、
そういう、いつも通りの昼下がりだった。それからはテレビを流し見つつ、推奨課題を片付けていた。妹は第二ラウンドに取り組んでいた。
永遠にも思える穏やかな幸福がそこにはあった。
「死ぬか……」
それが自分の口から零れたものだと、一拍遅れて理解した。
妹と目が合った。失敗したな、とそれだけ思い、気づいていないふりをして首を傾げる。
「どうした?」
下手な隠し方だったと思う。
妹は、笑いもせず責めもせず、アンノウン・パズルを終了させると無言で席を詰めてきた。
膝に、小さな頭がぽすんと乗った。
「エヴァ?」
「Edenでは、許されたことしか起きません。兄さんはもっと好きに生きたらいいんです」
励まそうとしているんだな、という理解より先に、甘えたいのだろうか、という見当違いの推測が浮かんだ。だから、妹の小さな頭をぽんぽん撫でてやった。妹の頭は小さかった。片手でも持てるだろうな、と想像するくらいには。
「兄さん」
「ん?」
「死にたくなったら私を呼んでください」
傍にいますから。そう、いつも通りの仏頂面を隠すようにしながらも、妹ははっきりとそう言った。
その真剣さに応えきれず、その頃には既に染みついていた作り笑いを浮かべて、妹の頭を撫でた。
「ありがとな」
妹は照れたように身体を起こして、再びパズルに熱中するふりをした。
それから数年後、十八歳になる前にエヴァは死んだ。幸せになる前に妹は死んだ。その事実は、悲しみ以上の深い安堵を齎した。殺さずに済んだ。幸せにならずに許された。
もし、あの瞬間に、お前を殺して死んでもいいかと訊いていたら、妹はなんと言ってくれただろう。
その瞬間は、永遠に失われて久しい。
天井に、虫食いのように穿たれた四角い穴から陽光が差し込んでいた。空はまだ青く、認知機能と体内時計が狂っていなければ昼下がりの筈だった。
肉体の再生を待つ間、ほんの少し目を閉じていただけのつもりだったが、経過時間を考えるに眠っていたのだろう。それだけ消耗している。
目覚めたノヴァを心配するように、ELが心配など微塵もしていなさそうな笑顔で覗き込んできた。
『おはようございます。お加減はいかがですか?』
ノヴァはいつもより重い身体を起こし、右脚を見て舌打ちした。丸く抉れたままの断面は半透明の薄い皮膚で覆われ、大腿骨が半ば剥き出しになっている。強化スーツとのリンクも十分ではなく、右脚は使い物になりそうになかった。
痛みはない。ELによって補正されている。早急な治療が必要なことは理解できるが、当分は不便なだけだ。
『やはり、一度Edenに戻るべきではありませんか?』
「戻れば仮想送りだ」
ノヴァの傍らには、キコが造った多元穿孔装置がある。Edenはこの装置の存在を許さないだろう。許せるなら、こんな回りくどい方法で終わらせようとはしない。
『装置が無ければ問題なく復帰できる可能性もあります。何より、その怪我で隔壁まで歩くのは無茶です』
隔壁まではおよそ二百キロの距離がある。
それだけの距離を、ノヴァの背丈とほぼ同程度の物体を抱えて赴くのは容易ではない。だが不可能ではない。
「このまま行く」
『本気ですか? いくら兄さんでも分が悪いといいますか』
ELが表情を消して顔を上げた。
廃墟の窓枠の向こうに、屋上で辺りを見回す探査用のアンドロイドがいた。
万全とも幸福とも言い難い状況のノヴァを、Edenが見逃す筈はなかった。
ノヴァは銃を生成しかけたが、僅かな思案を経て多元穿孔装置を持ち上げた。
座ったまま身体を回し、重い筒を構え、アンドロイドに引き金を絞る。
出力は最大まで上げている。
ドン、と砲口が跳ねる。
さざめく空気と共にアンドロイドの姿が歪み、弾けるような音を立てて上半身が消滅した。消滅した箇所にはコンクリート製の建物の一部が現れ、下半身を押し潰しながら落下していった。
落下した振動が、ノヴァの元にも伝わった。
『移動する必要がありますね』
「そうだな」
ノヴァは壁に手をついて、装置を抱えたまま左足だけで立ち上がった。
『兄さん』
無視しようとするノヴァの背後から、声だけを投げる。
『もう、都市には戻らないつもりですか?』
ELはいつだってにこやかだった。
「やることが終われば戻る」
『エヴァが生きているのに?』
ノヴァは、『私が』と表現しないプラグインを正面から見据えた。
「エヴァが生きているからだ」
無表情に微笑むELに、妹の面影はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます