七
あれは間違いなくエヴァだった。
常に眉間に皺が寄っているような、不機嫌そうな青い瞳。
「髪型、変えたんだな……」
自分の呟きが空しかった。キコはバイクを駆りながら、何度目になるか分からない溜息を吐く。覚悟していなかったわけではないのだけれど、精々死んだことになっているか、仮想人格が生きていることになっているか、どちらかだろうと甘く見ていた。
エヴァは、キコのことを忘れていた。
覚えていないということは、エヴァの人生にキコが不要だったということだ。キコと違って、そもそも初めから必要なかった。はあ、とまた溜息。どうして、と自問自答しても、そりゃ当たり前だとしか言えない。
補正込みでキコが見えたのは、ミオとエヴァの二人だけだった。それがあれば、仮想人格なんかいらなかった。
未解析者寮でのあの日々が、エヴァにとって不要だったことが何よりも悲しかった。エヴァの幸福に自分が関わっていないことを落ち込むなんてどうしようもない身勝手だ。また自分が嫌になる。
自分が好きだったことなんて一度もないけれど、エヴァの友達である自分は嫌いではなかったのに。
落ち込んでいようが身体は帰路を覚えている。重心を後ろに掛けて減速しつつ、球状星間船の前で停止する。夕暮れはここまでは届いておらず、キコの視界はのっぺりとした固有色に変わっていた。うんざりしながらきつく目を閉じ、十秒数えて目を空ければ、そこには闇が満ちている。Edenのお節介で人類に付与された暗視機能は、便利ではあるが好きではない。
数分、キコはバイクに身体を預けて俯いていた。
やがて身を起こし、這うようにバイクから降りてハンドル側面をカチリと押した。ガチャカチカチャリと平行時空に折り畳まれて立方体と化すバイクを手に、船へ足を運ぶ。
もう、これからキコが何をしようと、珍妙な未解析者が暴走したとしか彼女は思わないだろう。
それなら。
それならそれで、徹底的にやるだけだ。こんなところで終わらせたりしない。行けるとこまで行って、『覚えてる? 君に宇宙の果てを見せたげるって約束した、キコ・カンナヅキだよ』って、これが約束の最果てだって、あの仏頂面に叩きつけてやればいい。別にエヴァのためじゃない。行きたいんだって言ったら見るだけは見てみたいですねって言ったのを、こっちが勝手に覚えてるだけだ。
キコは強く息を吐いて、扉を開けた。
「遅かったな」
そう言ったのは、予想外の、しかし聞き覚えのある声だった。
部屋の奥、スクラップの山と山の間、振り返ったトウマの向こうに大嫌いな知り合いが座っていた。
「なんで君がいんの!」
「まあ落ち着け。お前と敵対するつもりはない」
ノヴァ・ロイド。元同僚でエヴァの兄。Edenに見つかったのか。
「Edenはお前を発見できていない。俺もお前と同じオフラインだ」
「……何しに来たわけ」
ノヴァは、悠々とコーヒーカップに口をつけた。当たり前のように寛ぐノヴァの代わりに、トウマがたどたどしく説明を始めた。
「多世界収束を起こす装置が欲しいって言ってるんだけど……」
「まだそんなことやってんの!」
「お前にだけは言われたくないな」
一緒にされたくはなかった。ノヴァはカップをソーサーに置くと、その手に分解装置を生成した。
銃だ、とキコが認識したときには手遅れだった。
「造れるだろう? できるだけ手早く頼む」
その銃口は、真っ直ぐトウマをロックしていた。
「何のつもり」
キコの視線に気づいたトウマが振り返って硬直した。
「できないならこいつを撃つ」
「冗談ですよね?」
キン、と甲高い音が空気を裂いた。
「え」
浅い反動が床を撫でる。駆け出そうとしたキコが銃口に阻まれる。
トウマの左耳があった場所から、じわじわと鮮血が滴った。
トウマはおずおずとそこに手をやり、触れた途端にびくりと離す。
「いっ……」
「トウマ!」
「次は腕だ」
ノヴァの、憎たらしいくらいに冷めた碧眼がキコを射抜く。
「できるな?」
やるわけない、と叫びそうになるのを寸前で堪えた。
「メインサーバ内で多世界収束を起こせるんだろう? 結局はやらなかったようだが」
実際のところ、できはする。ノヴァの言う通り、造ったことだってある。多世界を利用する技術は前時代には実用化されていた。再現するのは簡単だ。
トウマを庇いながらノヴァを斃すことは不可能だ。一対一でも勝てるかどうか。
そこで、キコはようやく思い出した。
「できるけどその前に、君に教えなきゃなんないことがある」
トリガーに指を這わせるノヴァに、キコは素早く言った。
「君の妹、エヴァが生きてる。会ってきたけど元気そうだったよ」
ノヴァは、ほんの少しだけ目を見開いた。
まるで驚いたように、手に持った銃が銃であることを確認して、それから、安心したような溜息を吐いた。
「そうか。それは良かった」
その、死んだと思っていた妹が生きていたことを知った兄として完璧な態度が、キコの癪に障った。
「本気で言ってる?」
「どういう意味だ?」
ノヴァは、困惑したように眉を顰めた。キコは隠す気のない舌打ちをつく。トウマは耳の周辺を手で覆うようにしながら「妹?」と声を発した。キコはノヴァを睨んだまま吐き捨てるように言う。
「こいつは、君の同僚のお兄ちゃんだよ。ノヴァ・ロイド。おんなじ遺伝子から両親の希望で生成された正真正銘の兄妹」
ノヴァが驚いたように眉を上げた。
「同僚なのか。お前のプロフィールにエヴァの名は見当たらなかったが……まあ、弾かれていたんだろうな」
「なんとも思わないわけ? 君の幸福な人生のためにはエヴァが死ぬ必要があったって、本気で思ってる?」
「ん? 俺自身のことは、そう気にすることじゃない。エヴァが今幸せならそれでいいさ」
キコが感情に任せて踏み込むと、爪先を巻き込んで床に穴が空いた。キコは恐怖を抑えて叫んだ。
「それでもEdenを終わらせたいって、本気で言うつもり!」
「むしろ、動機が増えたくらいだ。仮想の方が幸福に決まっているからな」
ノヴァが、見せつけるように銃を握り直した。
「それで、いつ完成するんだ?」
「キコ、僕のことは見捨てていい」
トウマが耳から手を離して振り返り、痛みなど感じていないかのように微笑んだ。
「君なら、僕がいなくても大丈夫だろ」
トウマの掌にべっとり付着した血が、白い床にぽたぽたと染みを作る。ノヴァだけを分解するように設定したとしても時間稼ぎにもならないことは分かっていた。
「自殺したいなら構わんが、それならあいつの両脚を吹き飛ばす」
「何もそこまでしなくたって」
躊躇いなくトリガーを引けるという時点で、キコとノヴァの間には縮めたくもない強さの隔たりがあった。キコが銃を生成する瞬間に、ノヴァはキコの両足を撃ち抜いていることだろう。
「妹さんに会いたくはないんですか?」
「お前、そんなに俺を止めたいのか? お前は大人しくしていればEdenに戻れる。その後は今まで通りの平穏な暮らしだ」
「僕はキコを助けたいだけです」
「命に代えても?」
「死ぬつもりはないですよ」
「……夜明けまでにはできる」
ノヴァがキコに視線をやった。
「遅いな」
「嘘じゃない。多元穿孔に関する設計図は直接取得できないから、部品から組み立てるしかないんだ」
「以前造った物は残していないのか」
「バラしたに決まってるでしょ。多世界収束を起こすなんて、本気じゃなかったし」
バラしていてよかったと、キコは心から思った。嘘を隠しきれたことは人生で一度もなかったし、だからこそノヴァを信じさせることができたから。
何か言いたげに口を開けるトウマに、キコは首を振った。血は止まっていて、耳の再生が始まっている。耳程度ならば問題ないだろうが、四肢であれば調整素子が不足しかねない。それは命に関わることになる。
「大丈夫、多世界収束が起きたって、すぐに世界が終わるわけじゃないし、Edenも流石に黙ってないよ」
「Edenが望んだからここにいる、なんて言っていたけれど」
「こいつと、こいつの上司がそう思い込んでるだけ。自分たちがこういう行動に出ることをEdenは知っているはずだ、それなのに仮想送りにされないなら、それは肯定されているって理屈」
「喋っている暇があるのか?」
キコはノヴァを睨みつけると、右手を大きくスライドさせた。無数に展開する情報窓に、キコの瞳が青く染まる。アンドロイドを経由してEdenからデータを取得し、船内に実体化させる。バックアップ用調整素子、外付け重力制御装置、ブラックドッグ他、更なる機材がスクラップの山に積み上がる。
キコはその山の前にどっかりと座り、ブラックドックの平坦な頭を、果実を割るように親指で二分割した。
多世界収束を起こすには、平行世界を観測すればいい。多元穿孔、つまり世界を隔てる壁に穴を空けるのは、実のところ簡単だ。
例えば可変素材、あれは平行次元で合成した物質をこちらに現出させるものだ。ならば、可変素材を暴走させて未知の空間に向かわせれば、向こうの世界とこちらの世界に穴が空く。観測すれば世界はどちらかに確定する。
多世界収束がどのような原理で発生したのか、キコが調べることをEdenは止めなかった。教えてくれはしなかったけれど。
スクラップの山からパーツを探しては取りつける。天井まで積み上がっていたパーツが満遍なく床に広がる頃、偽窓に満ちていた闇が薄ぼんやりと晴れてきた。
確かめるようにそれを持ち上げ、キコは短く息を吐いた。トウマは机に突っ伏して眠っていて、ノヴァは銃を握ったまま煙草も喫わずにキコの作業を眺めているところだった。
「できたよ。多元穿孔装置」
キコの身の丈よりも巨大な筒に引き金が取りつけられた、大砲のような装置だった。
「どう使う?」
言葉を発せば発するほど、早朝の静寂が重くのしかかる。
「何でもいいから物体に向けて撃てばいい。バグって適当な空間に繋がるはずだから」
「試す必要があるな」
「……じゃあ見せるよ」
キコは装置を肩に担いでドアに向かった。
外はほとんど無風だった。さくりと歩を進める度に感じる、塊のような冷気を睨みつけるように数歩進み、キコは装置を廃墟の壁に向けて構えた。
射出するのは調整素子の一種だ。可変素材に内包された空間を経由して、未知の平行世界まで調整素子を撃ち出す。
キコはトリガーに指を掛けた。
「じゃあやるよ」
射出する素子はそう多くない。観測することでどちらかの世界が選ばれ、置き換わるだけ。問題は、向こうの世界が脅威だった場合。過剰に観測し過ぎてこちらの世界が消え過ぎた場合。
キコは背後に立つノヴァの気配を感じながら、ガチンと、トリガーを引いた。
重低音が空気を震わせ逆流した。
地面から反動が伝う。着弾地点の壁が歪む。暗中の可変素材が、絵の具が混ざるように丸く溶ける。ように見える。それは正確ではない。そこには虚空がある。そこには可変素材が変わらずある。
歪む景色に耐え切れず瞬きをすれば、そこには丸い空洞が空いていた。
丸い空洞が水で満ちていることに気づいたのは、それが重力に従ってぱしゃりと地面に落下してからだった。他世界の向こうは海だったのかもしれなかった。
現れたのはそれだけで、速やかに水を吸収した廃墟に変化はなく、登りつつ朝日で仄かに青く見えるだけだった。
「こんなもん。お気に召した?」
装置を肩から降ろしながら、キコが振り返る。
「ああ」
「……Edenが黙ってないと思うけどね」
「余計なお世話だ。お前も宇宙の果てに行きたいなら早めに都市に戻るといい」
キコはつまらない冗談を鼻で嗤いながら、装置を両手で持ち直した。
「ま、せいぜい扱いには気をつけて、ねっ」
言いながら、キコは背後に立つノヴァへ装置を放り投げた。
相当な重量のそれをノヴァが難なく受け止めた瞬間、キコが銃を構えていた。
高音の残響。
浅い反動が空気を裂く。
分解素子の弾丸が、ノヴァの右腰から大腿部を丸く抉った。
ノヴァは左足に重心を掛け、横へ跳躍して脱出を図る。二発目が肩を掠る。噴き出す血液がそれを追う。
致命傷ではない。舌打ちしながら放つ三発目は、廃墟に穴を増やしただけだった。左足だけで跳躍したノヴァを追おうと外へ向かうと足元にクレーターが穿たれ、慌てて後退すると追いかけるように穴が空いた。
数発撃ち返せば、やがて辺りは静かになった。
キコは、ゆっくりと銃を手のひらに戻した。心臓が早鐘を打っている。あれだけやれば、あとはEdenがどうにかするだろう。例えEdenがノヴァを許容していても、多世界収束なんていう不確定要素は表向き排除しなければならない、はずだ。
当たるとは思わなかったが、それは自分の腕が優れていたわけではなく嘗められていただけなのだろう。
悲鳴のように伸びる血痕と、小さなクレーター群だけが残っていた。それらは少しずつ可変素材として均されていく。路地から壁に伸びる血痕も、やがてさらさらと砂になりながら溶け混ざっていく。
キコは、ノヴァの顔を思い出して、きつく目を閉じた。
銃口を向けた瞬間、ノヴァが浮かべていたのは紛れもなく歓喜の笑みだった。
「君は間違いなく
そう吐き捨てて船へ戻る。流れ弾は当たっていないか掠った程度のようで、そこだけは心から安堵した。船が壊れるのはともかく、トウマに当たれば洒落にならない。単に困るだけじゃない。人を亡くす経験なんか、もうしたくはないのだ。
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