六
サナが、窓の外を眺めていた。
壁一面のフィックス窓から見えるペールブルーに、ほんのりと橙が滲んでいる。階層状になった都市は未だ活発で、その向こうにはセントラルタワーが真っ直ぐ建っている。彼女の隣に立てば、その上に浮かぶ演算月を窓の端から捉えることができた。
「サナ、課題は終わりましたか」
終わっていないことを知りながら、エヴァはそう声を掛ける。いつも曖昧な返事で済ませるサナが今日は珍しくこちらを振り向いた。常に引き結ばれた口が、おずおずと小さく開く。
「シラハナ先生は、明日も来る?」
これまた珍しい問いだった。今日も来るんだ、と目を逸らすことは多々あれど、待ちわびるような言い方はまずしない。
トウマ・シラハナのデータがエヴァの脳に流れ込む。少なくとも明日までは休みだった。
「いえ、どうやら、明日はお休みするそうです」
「そうなんだ……」
実は好きだったのだろうかという推測は外れらしい。脳裏にサナの思想が流れ込む。彼女は自身の情報を直接取得されることを好まないので推測でしかないわけだが、精度は高いはずだった。
「休みのときは休むって、いつもは言うのに……」
「そういえばそうですね。メッセージを送ってみますか? そのくらいなら……」
「違う人から返事が来るかもしれないからいい」
サナは窓から離れてソファにぼふんと座った。先客であったクッションを乱雑に持ち上げ、力任せに抱き締める。
「シラハナ先生と、何かありましたか?」
「分かんない。先生の方に、何かがあったのかもしれない」
エヴァは先客が置かれていた空席に、ゆっくり腰かけた。
「何か、ですか?」
「うん……」
「明日は休みだと、言わなかったからですか?」
彼女はクッションに顔を埋めた。どうやら違うらしい。推奨行動の候補が頭に流れる。
「何か、見たんですか?」
そう問いかけた理由は自分でも把握できない。
サナは、クッションに乗せた頭をもぞもぞとこちらに向けた。
「朝、ピンクの人が見えたって言ったでしょ」
「ええ」
「あの後もね、一瞬ちらっと見えたの。でもなんか、先生みたいな人抱えてて、連れ去られちゃったんじゃないかって……」
「それは、大変なことですね……」
素早く脳裏に情報が過ぎるが、そんな事実は確認されていない。トウマ・シラハナは明日の休暇で紀元前資料館へ行く予定であり、現在は自宅で前時代フィクション『東京侍』を鑑賞中だった。浪人となった元侍がひょんなことから千年後の未来にタイムスリップしてしまう――そんな情報はどうでもいい。
「一応、Edenは無事だと言っていますが……」
「なら、今先生呼んだらアンドロイドが来ちゃうのかな」
「試してみますか?」
突然、サナの身体がびくりと跳ねた。頭がぐるりと窓へ向く。そこには赤みを増した空がある。それだけだ。
「どうかしました?」
「……ピンクの人」
サナは頬を赤くして、クッションを抱きしめながら視線を窓から壁へと移動していった。
「迎えに来てくれたの?」
「サナ?」
「エヴァ、エヴァは見えないの」
彼女の輝く瞳がエヴァの顔を見上げた。その困惑した表情で、サナは察したらしかった。
と、サナはまた壁へ視線を投げた。
「うん。そう、この人がエヴァ。エヴァ、知り合いなの?」
「誰と話しているんですか?」
「あ……エヴァは補正が掛かってるから見えないんだって」
サナは補正を切ってもらうために一芝居打っているのかもしれない、という推測が浮かぶ。丁度いい機会ということか。エヴァが意識すると、情報窓が表示された。
「それじゃあ、切らないといけないですね」
「切ってくれるの?」
「もちろんですよ」
注意文を流し読んで、承諾のボタンを押した。
パッと、
景色が切り替わった。
部屋に、風が吹き込んでいた。風の出入り口に視線を巡らし、エヴァは眉を顰めた。
窓が、粉々に割れている。
散らばった破片がフローリングへ分解されながら、窓はじわじわと復元されている。
「あー、バレた? いや、トウマに頼まれてさ……」
部屋の中心で、ピンク髪の女性が頭を掻きながら立っていた。
エヴァは思わず立ち上がっていた。
「誰ですか?」
そう言うと、女性は衝撃を受けたような、酷く悲しそうな顔を隠すように歪んだ笑顔を形作った。
「覚えてないかー! 知り合いなんだけどな。まあ、うん、普通そうだよね。あはは……」
後頭部をかしかし掻きながら、女性はサナに目を遣った。
「君がサナ?」
サナがこくりと頷くと、彼女はサナの前に跪き、ポケットから取り出した何かをサナの手に握らせた。
「これに乗って、セントラルタワーから離れるように真っ直ぐ進んでごらん。君が知りたくないことを、知ってしまうことができるかもしれない」
「なに、これ……?」
「彼女から離れてください」
「空飛ぶバイク。体重移動で動かせるから、すぐ乗りこなせるよ」
エヴァに遮られる前に彼女はひょいと立ち上がり、窓へと身体を向けた。窓はほとんど修復され切っている。
「じゃあね、邪魔してごめん」
「待ってください。シラハナさんは今、何をしているんですか?」
訊くつもりのなかった台詞が口から出ていた。
「トウマはEdenの外にいるよ」
「外?」
彼女は窓に五本指を置いた。その手は黒い素材で覆われている。
「知りたいなら、君も来てみれば? そのバイク、二人乗りできるから」
「何なんですか貴方は」
「私は、キコ・カンナヅキ。オフラインの未解析者。君の友達だよ」
ガシャン、と、彼女が指を置いた場所から罅が入り、窓ガラスは砕け散った。
「サナ」
彼女は一度だけ振り返って、サナを見た。
「世界は意外と広いし、Edenはそこまで非道じゃないし、大丈夫だよ。君が何者でも」
そう言って、彼女は窓から飛び降りた。
慌てて窓辺からその先を追うと、彼女は壁を駆け下っていて、やがて下層の路地に紛れて見えなくなった。
「あ……」
声を上げるサナを振り返ると、掌の上には小さな黒い立方体があって、その上に情報窓のようなこれまた小さな青い画面が表示されていた。
「ポータブル・ホバーバイク……体重移動で運転楽々……」
サナの隣に戻って覗き込むと、それはどうやら説明書らしかった。「さあ、ボタンを押してみよう!」の一文で締められている。
「押してもいい?」
駄目とは、とてもではないが言えなかった。
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