キコは、新たに生成した黒い立方体、もといポータブル・ホバーバイクをポケットに入れて立ち上がった。複製品だから時間は掛からないとは聞いていたが、それにしたって一瞬だった。空はまだ青い。

「そんじゃ、絶対外に出ないでね。地下と二階は行ってもいいけど、置いてあるモンには触んないで。危ないから」

「本当に行くのかい?」

「まあ、バイク置いてくるだけね。遅くても夜には戻るから」

 キコはトウマと視線を合わせないようにしていた。Edenはキコの気持ちを代弁しない。トウマにできるのは推測することだけだ。

「キコ」

「何?」

「僕は、エヴァから君の名前を聞いたことがないんだ」

忘れてる弾かれてるかも、ってのは分かってるよ。そもそも見えないだろうしね」

 彼女の背中にかける言葉を、トウマはそれ以上持たなかった。ボディスーツにジャンパーという変わらない出で立ちで、彼女はドアノブに手を掛ける。

「その情報窓弄れば飲み物は生成できるから」

「ああ」

 机上に置かれた生首の上には、メニュー一覧のような情報窓が浮かんでいる。操作方法は練習済みだ。必要ないとは言ったのだが。

「もっかい言っとくけど、絶対ここから出ないでね?」

「分かってるよ」

 苦笑交じりにトウマが言うと、キコはようやく扉を開けて、足を外に出した。

「絶対だからね!」

 一瞬振り返ってそう叫ぶと、キコは逃げるように部屋を出ていった。バタンと扉が閉まる。間もなく、ホバーバイクのキィィインという起動音がトウマの耳に届く。

 今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 無理矢理にでもついていけばよかったと思っても手遅れだった。

 静かになった部屋で、トウマはぼんやりと情報窓を眺めてみる。コーヒーは勿論、各種ジュース、炭酸水にカクテル、緑茶にマテ茶により取り見取りだ。しかし、どうにも飲む気がしない。そもそも、これだけで暇を潰せるわけがない。

 部屋の片づけをしようにも勝手に触るわけにはいかない、地下でも見るだけ見にいくか、考える内に、トウマの頭は机に沈んでいた。

 これが疲労なのかもしれない、とトウマはビジー状態の頭でぼんやり考える。偽窓から差し込む日光は健全で暖かい。腕を少しずらすと、机のひんやりした感覚がトウマの緊張を解いた。

 トウマの呼吸が寝息に変わるまで、そう時間は掛からなかった。


 遠く、音が鳴っていた。

 トントン、という軽い音は、次第に激しく、大きくなっていく。しかし、未だ微睡みに沈むトウマを引き上げるには僅かばかり足りなかった。

 音が止んだ。

 浮上しかけたトウマの意識が再び沈み始めたとき、ガシャァアン、と音がしてトウマの頭が跳ね起きた。

 寝ぼけ頭を巡らせる。積み上がったスクラップの山が雪崩を起こしていた。露出した壁には丸い穴が空いていて、その穴はじわじわと広がって止まり、やがて縮小に転じていく。

 状況についていけないトウマの背後で、今度は扉が開く音がした。

「ああキコ、突然あれが崩れたんだけど……」

 ぼんやりする頭で振り返ると、そこにいたのは彼女ではなかった。

 扉に空いた穴から手を突っ込んで、内部のノブを捻って侵入してきたのは、標準以上の体格をした黒ずくめの男だった。

 何もできずにいるトウマを見つけると、男は鋭い碧眼でトウマを見下ろした。

「トウマ・シラハナか」

「貴方は……?」

 男は無表情のままその問いに答えた。

「お前を助けに来た者だ」

「助けに?」

 徐々に覚醒する頭に比例して、トウマの目が見開かれる。ここは見つからないんじゃなかったのか、と文句を言う相手は残念ながら存在しない。

 まだ助けられるわけにはいかなかった。トウマがいなくなっては彼女が困ってしまう。

「キコ・カンナヅキはどこにいる?」

「わ……分からない」

 咄嗟にそれだけ言った。

 空気が重くのしかかるようだった。

 そんなトウマを見て、男は短い溜息を吐き、それから緩やかに口角を上げた。

「勘違いしてるようだが、俺はお前たちを無理矢理連れて行くつもりはない」

 男の急激な変化に、トウマはぱちぱちと数度瞬いた。

「帰りたくないんだろ?」

 そういうわけでもないのだが、トウマは一応頷いた。男は微笑んだ。

「なら、ここでお前に会ったことは忘れよう」

 Edenはトウマの期待以上に柔軟なのかもしれない。トウマは肩の力を抜いた。

「ただ、キコには個人的な用があってな。いつ頃戻ってくるか分かるか?」

 そのくらいなら教えてもいいか、とトウマは考えた。男の漂わせる気配は大半の一般市民とそう変わりはないものだった。

 とはいえ、服から覗く男の手はキコと同じ素材で覆われていて、恐らくはキコと同じ力を持っていると思われた。力では勝てない。

「……夜にはって言ってましたけど」

 緊張のせいか、標準語と口語が混ざる。対する男はリラックスした様子で首を傾げると、それなら、と呟いた。

「戻るまで待たせてもらおう。構わないか?」

「えっ」

 拒絶の表情には気づいているはずだが、男は返事を待たずにトウマの対面に座り、懐から短い棒のようなものを取り出した。

 呆気にとられるトウマの目の前で悠々と口に咥えて先端を弾くと、黒い煙が立ち昇った。

「それ、煙草ですか?」

「そうだ。害はないが」

 西暦二千年代まで存在していた嗜好品だ。現代にも残っていたとは。

「よく生成が許可されましたね?」

 トウマの警戒心を好奇心が上書きしていく。フィクションでしか見たことのない一品だった。

「非推奨だがな。吸ってみるか?」

「いいんですか」

 男が差し出した銀のシガレットケースに目を輝かせつつ、整然と並ぶ黒い紙巻をそろそろと一本手に取った。

「息を吸いながら先端を弾くんだ」

 見よう見まねで指に挟むと口に運び、吸いながら人差し指で先端を弾くと火が点いた。

 煙を喫んだ瞬間に、トウマは思い切り咳き込んだ。

「ゲッホ! 何、ごほっ」

 手元から火を点けたばかりの煙草が零れ落ち、机の上でじりじりと短くなっていった。

「大丈夫か?」

「…………よく喫えますね?」

 信じられないほど不味い、味覚がどうかしているのではとは勿論言えないが、遺伝子異常を疑ってしまうほどとにかく不味かった。鼻に残る臭いは消えず、舌をざらつかせるような痛みすらあった。

 男は軽く笑いながら、黒い煙を吐き出した。男が吐く煙はトウマまで届かず、机の中ほどでターンして空気に溶け混ざる。

「不味いものが欲しくてな」

 この不味さを知覚しているのか。トウマは眉を顰めた。

「何故です?」

「お前が食事を愛好する理由と同じだ」

 そんなことまで知っているのか。いや、この男はもしやオンラインなのでは。リアルタイムでトウマの情報を引き出しながら話しているとなれば、ここはEdenに見つかったも同然であり、キコが戻ってくるのはまずいような気もする。

 とはいえ、本当に見つかっているならなるようにしかならない。ならないので、トウマはトウマの思うままに動けばいい。

「貴方は、キコさんに何の用があるんですか?」

 男は、そこで初めて逡巡した様子を見せた。見せたように、トウマは感じた。

「装置を見繕ってもらいたいんだ」

「……装置? 何の」

「どうせ記憶処理される。俺のことはあまり気にするな」

「いや、そういう問題じゃないですよ。貴方は何者なんですか?」

 カフェに現れたあの女性に近しい業種なのだろうが、Edenではなくキコにわざわざどんな装置を頼むというのか。

 男は煙を吐き出して、それで顔を隠しながら視線を流した。

「一応は外世界探査員ということになっている」

「外世界探査員?」

 聞き慣れない単語だった。トウマが知らなかったことに、男は煙の隙間から意外そうに眉を上げた。

「聞いてないのか?」

 キコの言葉を信じるならば、この世界にはそう遠くないところに果てがあるらしい。その向こうの話だろうか。

「この世界が時空間的に閉じていることは聞きましたけど」

「ああ。過去に限れば、その外側に出ることができる。そこで生存者を救出するのが探査員の仕事だ。ほとんどいないがな」

 男は短くなった煙草を机に押し付けた。それが自動的に分解されないことに気づくと、代わりに自分の手のひらに押しつけて吸収させた。

「それで貴方は、どんな装置を頼むつもりなんですか?」

 男の視線が空中で止まったが、やがて再びトウマに戻った。

「多世界収束を引き起こす装置だ」

「はい?」

「外世界ではその手段が見つからなかった。俺はEdenに致命傷を与えてやりたいんだ」

 まるでくだらないコメディ映画の感想を話すかのように男は言った。

「本気で言っているんですか?」

「ああ。Edenはもう終わっていい。人類は十分幸福になった」

「何故です。五百年後にはどちらにせよ滅ぶんですよ」

「知ってるのか。だからだ、俺は五百年も待つつもりはない」

 その口調はあくまで軽い。男はシガレットケースから再び煙草を取り出して火を点けた。

「どうしてですか」

「人類を滅ぼしたいわけじゃない。多世界収束によって隔壁が崩壊すれば、Edenは誰であれ仮想送りにせざるを得ない。それが一番だと思わないか?」

「分からなくはないですけど、僕はキコの話を聞いて考えが変わったんです」

 正直に言えば、まだキコよりもこの男の意見の方が共感できたが、それを認めるのは躊躇われた。

「あいつは何をしようとしているんだ?」

「隔壁の緩和ですよ。彼女は未来に行きたいんです」

「まだ宇宙の果てに行きたいのか……」

「彼女は真剣でしたよ」

 咄嗟に反論するトウマにも男は動じなかった。

「馬鹿にしてるわけじゃない。しかし、そうか……」

 男は片手で口元に触れ、机の縁を睨むようにした。

 つられるようにトウマも考え込み、時計の針が規則正しく回る音が鼓膜から意識下を経て深層意識に沈むような静寂の後、先にトウマが口を開けた。

「……仮想送りにならなくても、誰もが幸福ですよ」

「仕事というだけだ」

「仕事? Edenが望んだと?」

「望まなければ俺はここにいない」

 全ての事柄には幸福的な意味がある。トウマのそんな常識はついさっき崩れたばかりだった。

「……なら、僕がここにいるのは、Edenが望んだからですか?」

「心底から不幸になっていないなら、基底理念には反してないだろうな」

 ただ事実を告げるように、あくまで冷酷さを排した声で男は言った。

 偽窓から差す日光は、熔けるような赤に変わっていた。

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