混沌とした砂漠を、三つの機影が過ぎていった。

 ノヴァ・ロイドは空を仰ぐ。漆黒の機体が自動でズームされ、視界にデータが表示される。一千メートル上空をEdenへ向かって飛んでいく、偵察用のありふれた機体。三機はノヴァに目もくれず、隔壁へ真っ直ぐ突っ込んでいった。

『御心配なさらず。ステルスは十全に稼働していますよ』

 ズームアウトしたノヴァの目の前に、幼い頃の妹が、天使のような微笑みを湛えて浮かんでいた。

 違う。

 妹そっくりの天使は、妹では――エヴァではない。ただの認知プラグイン。銃弾を受けた際に痛いと感じるのではなく、可憐な少女に『痛そうですね』と指摘させる悪趣味なシステム。妹が死んでから頼んだ覚えもないのに配布されたそれは、ノヴァがいくら要求しても消えることがない。

 そうだ、妹は死んだ。五年前、隣室の未解析者に滅多刺しにされて。

 仮にも楽園で殺人が起きるはずはない。起きたとしても、わざわざノヴァに知らせないで仮想人格にすり替えれば済む話だ。それをしないということはつまり、ノヴァ・ロイドという人間を幸福にするためには、妹を失わせる必要があるとEdenは考えたということだ。

 ノヴァがEdenを信じていない最大の理由がこれである。ノヴァ・ロイドは解析済ノーマルだ。つまり現状は幸福だ。そういうことになっている。

 そんな馬鹿な話があるだろうか?

『Edenが信用なりませんか?』

「ああ」

 六歳の妹の姿をした幻覚――そいつは自らELエルと名乗っている――は、こてんと首を傾けた。二つ結びがさらりと揺れる。調整素子による安心安全な幻は、恩恵よりストレスの方が大きい。

『用心深いのですね。ご安心ください、どちらにせよ、あれらは隔壁を超えることはできませんし、捕捉されても迎撃できるだけの能力を我々は備えていますので』

「俺がそんなことを心配していると本気で思っているのか?」

『はい。ですので、ご安心ください』

 ELがふわりと笑う。妹はそんな風に笑わない。俺にそんな表情は見せない。一度だって。

 ノヴァは手持ちのシガレットケースから煙草を取り出すと、ELが渋い顔でそれを睨んだ。

『そのフレーバーの愛好者、もう世界で兄さん一人ですよ』

「もう一人はどうした」

『先日仮想送りになりました。兄さんもいかがですか?』

「兄さんと呼ぶな。不味くなる」

 ELから目を逸らし、細長いそれを口に咥えて人差し指で先端を弾くと火が点いた。じっくり肺まで取り込んでから吐き出すと、いかにも害がありますといわんばかりの黒い煙が風に踊る。もちろん、そんな素敵な物質は一切含まれていない。紙巻き煙草風の、ただの悪趣味な嗜好品だ。

『元々不味いじゃないですか』

 不貞腐れるELを無視して、不味い煙を堪能する。不快と苦痛の味は、今や絶滅寸前だった。

 ELはつまらなそうに、空中で頬杖をつきながら煙の先端を摘まもうとしていたが、突如身体を起こしてある一点を見据えた。

『中規模収束予兆を観測。次元組成、技術レベル共に解析可能。ポイントします』

 ノヴァの前方三キロ、怪獣の背骨のように砂に埋もれる他世界兵器の残骸から、空気を震わせるような漣が立った。

 はあ、と黒い溜息。

「まだ喫い始めたばかりなんだが」

『新しく点ければいいじゃないですか。シガレットケースは常に満杯ですよ』

「少しは休ませてくれ」

『何言ってるんですか。仕事中ですよ』

「仕事か……」

 ノヴァの肩書は外世界探査員だ。Edenは前時代の人間を収容するために、西暦3108年の5月7日以前の地球にアンドロイドを送り出している。そのアンドロイドの中で、ノヴァは唯一の人間だった。もう一人の人間は、二年前にテロリストごっこに転職してからは会っていない。

『収束完了まで推定20秒』

 前時代であるから、多世界収束は頻発する。そも、多世界収束を防ぐ手段など存在しない。

『10秒』

 収束が起きても何の変化も起きないこともあれば、化け物じみた未知の生命体が現れることもある。並行世界が無限にある以上、可能性も無限大だ。

 脅威が現れれば排除する、人間が出現すれば保護する。

 建前上は、そういうことになっている。

『3、2、1……収束完了』

 引き込まれるような不自然な空気の流れと共に、ノヴァの視界はガラスコップを通したように歪んだ。

『自立駆動型の兵器ですね』

 コップが割れるように晴れた視界の中心に、角のような砲身を携えたブラックドッグ似の機械が現れた。ズームアウトすれば、それがざっと五千体以上の群れをなしてこちらに向かってくるのが分かった。

 贔屓目に慢心を加味しても、こちらの技術レベルを上回っているとは思えない。

「Edenへの対抗手段を持っている可能性は?」

 一応聞いてみると、ELはにこりと笑顔を返した。

『皆無と言っていいかと』

 黒煙を溜息交じりに吐き出して、まだ長い紙巻を地面に落とすと代わりに手のひらから銃型の分解装置を生成した。煙草は地面に着地する前に白砂となって風に舞い、ELはノヴァを導くべく頭の内側へ引っ込んだ。

「保護対象がいる可能性は?」

『7%です』

「高いな」

『兵器に偽装したシェルターが混じっている可能性も否定できません』

 それなら少しは友好的な態度を見せてほしいものだと、向けられた砲身の群れに溜息を吐く。黒煙の名残が消えるより早く、ノヴァは装置の引き金を絞った。

 鼓膜を劈く高音。

 三キロを一瞬で飛びぬけた不可視の弾丸が、機械犬の群れに穴を空けて吹き飛ばした。動揺も見せずに突進する群れに、ノヴァは何度も引き金を引く。風船が破裂するように、パーツの残骸が弾け飛ぶ。ノヴァに向かって飛んでくる熱線も光線も、装置によって分解されれば塵にもならない。

 その内、分解を免れた熱線がノヴァのいる地点を蒸発させた。しかし、既にそこには誰もいない。

 ノヴァの身体は空高く宙を舞っている。太陽を背に向けられた銃口を、彼らは捉えてすらいない。

 黒壁に辿り着くかここで分解されるか、どちらがマシなんだろうなと他人事のように考える。

『小規模収束予兆を二件観測。10キロ以上離れてますから、無視して問題ないかと』

 今日の厄災は控えめな方だ。予兆もなく起きた収束に腕を持っていかれることもない。


 ジャンクパーツの山を踏みつけて、外装を保つブラックドッグの腹をスーツに覆われた手で抉じ開けた。

 そこには基盤が密集するばかりで、保護対象が入る余地など見当たらない。頭から出てきたELが先回りして言い訳を展開した。

『内部スキャンが間に合わなかったんです』

 そんなことはノヴァにも分かっている。ELはノヴァの身体機能の一部なのだから、ELが知っていることはノヴァも知っている。認知プロセスに会話を挟んでいるといえば聞こえはいいが、要は自分の分身と話しているようなものだ。食い違いはELなりのジョークだろう。吐き気がする。

「探査妨害機能がEdenを上回っていたとでも?」

『数が多かったんですよ。│兄さんの分析機能だけではちょっと足りなかったんです』

「一機に絞れなかったのか」

『絞ろうとしたら兄さんが壊すんですもん』

 ノヴァは基盤に目ぼしい技術が見当たらないことを確認して、内臓を晒すそれの横腹に座り込んだ。

 これが元の世界でどのような役割を与えられていたのか、感傷に浸るような精神は持ち合わせていなかった。

 多世界収束。無数に存在する平行世界がなんらかの不運でバッティングすること。

 観測不能であるから成り立っていたものを観測すれば、世界はどちらかに確定せざるを得ない。

 タイムワープの開発と同時期に発生するようになったらしいこの厄災は、原因が別世界にあることもあって止めようがないというのがEdenの見解だ。純粋な自然災害である場合もあれば、わざわざ収束を起こす馬鹿も多い。

 目線の先には隔壁があった。

 視界に収まり切らないほどの暗黒が、白い大地を途中ですとんと切り落としたかのようにそびえている。視界を拡大すれば、暗黒の前で立ち往生する混沌がぎっしりと圧縮されているのが見える。隔壁付近は時空が引き延ばされているため、例え壁を破る手段を持っていても行使することは叶わない。ブラックホールに落ちるようなもの。それがセントラルタワーを中心に展開してEdenと人類を頑なに守り続けている。

 ノヴァは、あれを破る手段を探していた。

 Edenに致命傷を与える方法を、他世界に見出そうとしていた。都市内では、Edenを欺く術がない。

『収束予兆を観測しましたが、遠いですね』

 ノヴァが持つ破滅的な欲求にはそのための適性があった。

 Edenが言ったことを思い出す。


 何もかも終わらせてしまいたいなら、どうかご自由に。

 理性が貴方を踏み留まらせるなら、これはEdenからの依頼だとお考え下さい。

 我々は貴方の幸せを願っています。貴方の望みのままに、好きなように生きてください。


 仮想送りにされたのかと訝しんだこともある。しかし、それでは妹がいない理由に説明がつかない。

 俯くノヴァの脳裏に、喧しい通知音が響いた。

『ミオ・クロサキからですね』

 言われなくても分かっている。許可した覚えもないのに回線が開き、冷たい声が頭に響いた。

『緊急よ』

「知らん単語だな」

『冗談を言ってる場合じゃないわ。キコが市民一人を拉致して逃げたのよ』

 ピンク髪が記憶に浮かんだ。テロごっこに転職した後輩は、事あるごとに都市で問題を起こしている。今度は人質か、程度の感想しか浮かばない。

「Edenは何をしていたんだ?」

『市民がたまたま補正を切っていたのよ。それで補助が間に合わなかった』

「未解析者か」

『いいえ、解析済よ。ただ無補正の世界を体験してみたかっただけみたい』

 拉致された市民とやらの情報がポップした。トウマ・シラハナ、解析済、職はカウンセラー、趣味は軽食と前時代フィクション全般。どこにでもいる一般市民だ。ノヴァはつまらなそうに流し見て、懐からシガレットケースを取り出した。

『とにかく、彼を救出しなくてはならないわ。都市外で動ける人間は貴方だけなのよ』

「放っておけば向こうから連絡を取ってくるだろう」

『そうなれば手遅れだって言ってるのよ』

 ノヴァは煙草に火を点けてから、元後輩を思い出した。このフレーバーがどれだけ不味くてイカレているかを散々喚いていたが、だからいいんだと言えば以降は怪訝な視線を投げるに留まっていた。

「あれは人を傷つけられるほど強くない」

『人質の心配はしてないわ。私はEdenの心配をしているの』

 ノヴァはELと視線を交わした。ELはやれやれと言った風にわざとらしく肩を竦めてみせた。

「可変素材を再起動させればすぐに見つかる」

『提案はしているのだけど』

 受理されないと。だろうな、と内心でひとりごちる。それはつまり、Edenにとって市民の拉致などその程度の問題だということだ。

「またお前の独断か……」

『ええ、そうよ。けれどEdenは止めなかったわ』

 ノヴァは内心で舌打ちする。緊急でもなんでもない。

「トウマ・シラハナとやらは自分の意思で出ていったんじゃないのか?」

『外を見て帰りたくなったのに帰れなくなっているのかもしれないでしょう?』

「俺が探しても見つかるとは思えんがな」

 巡回機械に引っかかっていないのだ。人間一人が増えたところで何になる。

『とにかく、お願いね』

 話を聞く気はないようだった。黒煙がくすんだ空へと流れていった。

「……本人が戻りたくないと言ったらどうする」

『言わされている可能性もあるわ。無理やりにでも連れ戻して』

 即答するミオにも聞こえるように溜息を吐いてやるが、撤回する気はないようだった。

「キコはどうする?」

『任せるわ』

「最低だな」

 ノヴァはうんざりしながら通信を切った。

 俺に任せるという言い方の、悪辣な回りくどさには反吐が出る。Edenに弾かれないような言葉を使っているが、要するにミオは、Edenに助け出される前に二人をさっさと殺してこいと言いたいのだ。あれはあれで、Edenから何かを頼まれているらしい。

 拒否はできる。しかし、ノヴァはそうしない人間だった。

 血が。

 両掌にべっとりとついた血が。

 可変建材の無垢な床に、真っ赤な血が広がっている。そこに転がる人体が二つ、胸から血を吹き出して硬直している。

 死体は両親だったものだ。だが、彼らは実在したのだろうか。

 ひっくり返った食パンに、血が染み込んでいく。両親は食事愛好家で、特に朝食を摂るのが好きだった。朝、家族で食卓を囲みながらニュースを見る……四人掛けテーブルの空席に両親は気づいていない……。

 ノヴァは瞬きをしてそれを追い払う。俯くノヴァを、ELが笑顔で覗き込んでいた。

『Edenは両名を連れ戻すことを推奨しています』

「そうか」

『ですが、貴方の望むままに行動すべきです。無理は禁物ですよ、兄さん』

「その呼び方はやめろ。お前は学習しないのか?」

『嫌よ嫌よも好きのうち、という古語をご存じですか?』

 その天使のような微笑みに、ノヴァは吐きそうになった。Edenはやはり、俺を理解できないらしい。そうだ。これを幸福だなんて呼ばせるものか。

 妹が死んだあの日から、もうずっと、吐きそうで仕方がないというのに。

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