第一章 新暦1000年
一
瞼に光を感じてから数分もすれば、いつものアラームが聞こえてくる。
『新暦1000年4月24日、調律終了。ただいまの時刻は午前9時10分、推奨起床時刻です』
トウマ・シラハナは、アラームをきっちり聞き終えてから目を開けた。同時に調律機の蓋が開き、調律液の琥珀色の水面から煌めく日差しが降り注ぐ。
『おはようございます。本日は午後13時より仕事の予定が入っています』
アナウンスを聞き流しつつ、トウマは調律機から起き上がった。液体は極上の毛布のようにするりとトウマから離れ、キッチンへ向かう主人を見送った。
調理台には、黒い液体が揺れるコーヒーサーバーと、温められたカップが置かれていた。Edenはトウマに合わせて毎朝の飲み物を用意している。日によっては粉砕前の豆が置いてあったり、カップにコーヒーが入った状態だったりする。
トウマはそれに何を思うこともなく、自分でカップにコーヒーを注いだ。
『本日のニュースです』
カウンター越しのダイニングテーブルの上で、動画が流れ始めた。情報窓と同じ拡張現実であるそれをすぐ目の前に表示しないのはトウマの好みである。
コーヒーを持ち、テーブルにつく。
豊かな香りを堪能してから一口啜り、トウマは満足気な笑顔を浮かべた。
『前年度の出生比率が公開されました。ランダム配合が63%、希望者配合が37%と、ほぼ横ばいです』
「ん」
トウマはふと気づいたように口を開いた。
「新生児の内、遺伝的未解析者は何人?」
『ゼロ名です』
「ゼロ? 意図的に遺伝子を弾いた?」
『いいえ。偶然だと思われます』
「珍しい……」
最低でも年間十人は、遺伝的に未解析者である人間が生まれる。未解析者はEden内で幸福になれない人間のことだが、Edenに馴染めないというよりは、未知の世界に行きたいという者がほとんどだ。未解析者になる原因は、大抵が前時代の知識に触れたことに起因している。
「そういうこともあるか」
ならば前時代の知識を封印すればいいじゃないかといえば、それはそれで自殺者が急増するなどの問題が起きたため、段階的に学ばせるということで現在は落ち着いている。
トウマは舌に馴染む温度になったコーヒーを啜る。コーヒーにしたって、日常的に飲んでいる人間は未解析者に匹敵するくらい少ない。しかし、今やこれがないと一日が始まらない、といえば大袈裟だが、ともかく前時代というのは混沌としていて魅力的なものなのだ。
無論、厄災は抜きにして。
「厄災といえば、今日公開だっけ」
『スペース・ロウニン2ですね。はい。十番台劇場にて上映中です』
仕事まではまだ時間がある。
「見にいこうかな。上映時間的にもちょうどいいしね」
『畏まりました。七分後に十四番劇場にて上映されます。そちらでよろしいですか?』
「もちろん」
トウマはコーヒーを飲み干して机に置いた。役目を終えたコーヒーカップは溶ける氷の早送り映像のように底からに崩れ、やがて吸収された。
それを見届けずに立ち上がる。首筋を隠すくらいの長髪も、何の面白みもない標準服もそのままに、トウマはEdenに宣言する。
「十四番劇場に移動」
『承認しました。テレポートを開始します。三、二……』
一、と同時にトウマの視界が切り替わる。
瞬きをすれば、そこは劇場の中だった。
トウマの席は中央よりやや後ろ側で、疎らに座る客が見渡せる。
足元には空が映っていて、トウマはまるで落下するような錯覚を覚えた。新作映画のコマーシャルらしい。雲が晴れると眼下には島が見えた。
スペース・ロウニンは三次元映画だ。このタイプでは、観客は座席に座っているだけで手軽に臨場感を味わえる。仮想空間でゾンビから逃げているときの、激しい呼吸による肺の痛みや足に絡みつくような泥濘の感覚はお呼びじゃないが、2D映画のような、自分が存在しない世界で繰り広げられる悲喜劇を見る気分でもないときはこれに限る。
ふと、トウマは自分の後ろ髪に触れた。きっちり結ばれていたので、後で結び直さなければと思った。
劇場から出て、トウマは思わず息を吐いた。前作よりもスリルが増していた。目の前を切っ先が通り過ぎたときは一瞬死んだかと思ったほどだった。
この興奮を抱えたまま自宅に戻る気にはなれなかった。劇場の外は広場になっていて、中央に飾られたモニュメントに目を向ければ視覚に情報窓がポップするが、トウマが興味を示さずに通り過ぎればタイトルも製作者も解説も何事もなかったかのように消え、トウマは情報窓が表示されていたことすら意識していない。
広場に繋がるように大通りが真っ直ぐ伸びていて、様々な商店が軒を連ねていた。すれ違う人々は思い思いの目的地に向けて歩いている。都市の姿は世界のどこだろうとそう変わりはない。その内の何パーセントが
予定時間まではまだ間があった。トウマの足が当てもなく大通りに差し掛かったところで、ピコン、と通知音と共に情報窓がポップした。
『エヴァ・ロイドからメッセージです』
調整素子を介して頭に音声が届いた。トウマは立ち止まって、ポップした画面に目を向ける。
『サナが今朝から不安定で、私一人では厳しいので早めに来てください』
通りの真ん中で立ち止まったトウマを、まるでそこには元からそういう銅像があったかのように、人の流れは極めて自然に二手に分かれて通り過ぎていった。トウマはそれを意識することなく、予定外の事態に顔を曇らせることもなく、返事を声に出した。
「分かった。すぐ行く」
返信は問題なく受理され、画面がその旨を表示して消えた。それは速やかにトウマの調整素子を介してメインサーバへ届き、メインサーバを介して同僚の調整素子へ、調整素子から脳細胞へ、一連の作業はタイムラグもなくスムーズに処理された。
ふとトウマは思い出して、自分の髪を縛る紐を解いて結び直した。
トウマの仕事場では、Edenに任せるより不格好である方が望ましい。不格好になるように
「第十三未解析者寮に移動」
『承認しました。テレポートを開始します。三、二……』
一、と同時に視界がぶれ、切り替わる。
その隙間に垣間見える虚空が、トウマは嫌いではない。
瞬きをすると、トウマは廊下の形をした、両端が壁になっている長方形の空間に立っていた。目の前には唯一の出入り口であるドアがあって、リビングに通じている磨りガラスから中の様子は伺えない。西暦2000年代の内装は彼女の好みだった。
トウマはまず自らの装いを確認した。Tシャツにジーンズに薄手のコート。これも西暦2000年代のファッションらしい。標準服よりやや動き辛いが、トウマが気にすると掻き消えた。調整素子は十分に稼働している。
確認作業を終えると、見計らったかのようにドアが開き、短い白髪の女性が顔を出した。見慣れたはずの仏頂面は何度見ても真新しい。
「お待ちしてました」
「ああエヴァ、大丈夫かい?」
「私は大丈夫で……」
彼女が言い終える前に、彼女の後頭部に何かが投げつけられた。当たる直前に崩壊したので何が投げられたのかは分からないが、投げた相手は明白だ。
「幸せになんかなりたくない!」
部屋の奥から悲惨な声が聞こえる。エヴァは表情一つ変えずに振り向き、再度顔面に飛んできた何かを避けもせずに淡々と言った。
「サナ、物を投げるのはやめてください」
「嫌だ! 私は悪い子なんだ!」
「悪い子でも構いませんが、それは貴方のお気に入りでしょう」
「うるさいうるさい!」
トウマはエヴァの肩に手を置いた。
「交代しよう」
「お願いします」
彼女に代わってリビングに入ると途端に何かが飛んできた。それはトウマに当たる前に可変素材の白い粒子と化して分解した。一瞬捉えた視界を思い返すに、どうも文庫本を投げつけたらしかった。
Edenから事前情報は提示されていない。トウマはトウマが思いつく言葉を駆使して、彼女と会話する必要があった。
「おはようサナ。何か、嫌なことでもあった?」
壁際に置かれたソファの上で、眼鏡を掛けた黒髪の女の子が膝を抱えてじっとトウマを睨み上げている。
彼女、サナ・アマヤは未解析者だ。
彼女は来月で十八歳を迎える。通例であれば、そこで未解析者は仮想送りになる。Edenの存在しない世界へ行くのだ。が、彼女はそれを頑なに拒み続けている。それはまあ個人の思想はそれぞれではあるが、問題は、彼女はそんな自分を受け入れられるほど強くはないということだった。
彼女の担当になって一ヶ月になる。
トウマの仕事は、彼女のような未解析者のメンタルケアをすることだった。
それはもう散々暴れたのだろう、部屋には物がほとんど残っていなかった。サナのお気に入りが詰まった本棚も、ローテーブルも、寝室へ繋がるはずの扉があった場所さえ、ビニルクロス風の壁紙に埋め立てられている。危険物はそれがなんであれEdenに存在することを許されない。ソファだけが残る四角い部屋に、一面窓だけが変わらぬ陽光を注いでいた。
サナの手元にはまだ数冊の本があったが、彼女はそれを折り目がつきそうなほど握り締めて歯を剥いていた。
「本が傷んでしまうよ」
サナは激しく息を吐いて、数ページをぐしゃりと握り潰したが、それをトウマに投げつけることはしなかった。代わりに、押し殺すような吐息に混じって震える声が響く。
「傷んでもすぐ新しいのが造られるじゃない」
可変素材の利点を、彼女はまるで最大の欠点であるかのように言い放った。都市に存在するものは、人間も含め、全て
彼女はそれが嫌なのだという。
トウマは一先ずコミュニケーションが通じたことに安堵して、サナに同意するように肩を落としてみせた。
「確かにね。……でも、大事にしていればずっと同じ物だよ。その方が良くない?」
トウマは一転して微笑みながら、サナの返答をじっと待った。サナは歯ぎしりをしながら、眼鏡越しにトウマを睨みつけている。眼鏡なんか掛けたくないと言いながら、頑なにそれを掛けている。
「サナは、仮想送りが嫌なんだよね。幸せになりたくないから」
唸り声を上げながら、サナは僅かに頷いた。
幸せになりたくないからって人に当たってはいけない、という前時代の倫理は通用しない。理不尽に物を投げつけられることを望むような人間だけがここに存在できるのだ。どれだけ喚いても暴れても、Edenの前では善行である。
そうだなあ、と呟きつつ、トウマはフローリング風の床に直接腰を下ろした。椅子を生成する行動は非推奨だと、無意識下で情報が送られている。
「幸せだって、押しつけられたらたまったもんじゃないよね」
そう言いつつ、トウマは彼女の思想を興味深いと思えど共感はできていない。なんとかしてやりたいとは思うが、今や全世界が楽園と化したこの状況で、不幸になるのは不可能といってもいい。苦痛が快楽になる、というわけでもない。苦痛を苦痛のまま味わいたい、とにかく幸せになりたくない。
それができないなら死んでしまいたい。
「死刑にしてって、Edenに言ってよ」
サナは、喉奥から絞り出すようにトウマに言った。死刑という単語は彼女が好んで使う古語だった。幸福的に死を望むならばそれは叶えられるが、サナの場合はそうもいかない。トウマは話題を変えてみることにした。
「サナ、宇宙飛行士を目指すのはどうだろう? Edenの範囲外だ。何が起こるか分からないし、何だってできる」
「なりたいから、なりたくない。私は幸せになっちゃいけないんだ」
「うーん、そんなことないと思うけどなあ」
しかし、サナは膝に頭を埋めて黙り込んでしまった。
トウマは頭を掻きつつ、ひとまず落ち着いたことに安堵する。と思いきや、再び歯ぎしりが激しくなる。
「仮想送りになりたくない……」
「大丈夫だよ。なりたくない人はならない。それはEdenも保障してる」
「なんでEdenは私を見捨てないの……人だって殺したのに……」
彼女がエヴァを刺した件については、トウマも知っている。しかしこのご時世、人間は不死みたいなものだ。どんな怪我をしようと、体内に紐づいた調整素子が立ち所に治してしまう。だから自殺もできない。
「サナは、どうしても幸せになりたくない?」
「幸せになる権利がない」
「そんなことないさ。どうしてそう思うの?」
どうしてなのか、肝心なこの部分は要領を得ない。とにかく嫌だということしか分からない。
サナは、闇の中に怪物を見出すときの目でトウマを見据えた。
「なんで先生は、自分が幸せになることを受け入れられるの……?」
トウマとしては、受け入れられない理由の方が分からない。
「考えたことがなかったなあ。どうしてなんだろう?」
サナは答えず、不意に、握り締めていた文庫本を開いてくしゃくしゃのページを捲り始めた。呆気に取られるトウマなど、初めから存在しなかったかのように。
ともあれサナが落ち着いたこともあり、今日は撤退することにした。リビングを出ればエヴァが待っていて、心なしか小声で話しかけてくる。見かけは前時代でも素材は最新なので、叫んでもサナには聞こえないだろうが気分の問題なのだろう。
「お疲れ様です」
「そっちこそ。何があったの?」
「分かりません。朝、中々起きてこないので起こしにいったら錯乱して……」
サナは調律機を使わず、ベッドに横たわって眠っている。それが関係しているのかもしれない。
もしかしたら、と、エヴァがふと顔を上げた。
「昨日、寝る前に彼女が呟いてたんです」
「なんて?」
「『エヴァも補正を切ればいいのに』って」
「……も、って、サナは補正を切ってるのか? というかそんなことできるの?」
エヴァは、自身の前に起動した情報窓をトウマへ向けた。
サナの画像と略歴を記したプロフィール。
その最下部に、見覚えのない欄があった。特記事項に『調整素子による補正を拒絶している』と表示されている。
「そんなことできるのか……?」
「できるからこそ、Edenは公開したくなかったんだと思います。どう考えても非推奨ですからね」
それはそうだろう。調整素子による補正を切るというのがどういうことか。怪我や病気が瞬時に治らないという単純な話ではない。むしろ、Edenによって種としての強化を施された人類にとって、そんな機能はオマケに過ぎない。本命は、名前の通り調整にある。
Edenは、人類が健やかに暮らせるように、あらゆる体感を補正している。階段で躓かないように、言葉の行き違いがないように、過剰な痛みがないように、うるさい音は気にならないように、嫌いなものは意識しないように。
生まれたときからあるそれを失くせばどうなるか、想像もできない。
「恐らく、普通の人は補正を切るという発想すらできないことが、耐え難くなったのかもしれません」
「成程ね……」
しかし、とトウマは思う。今現在、サナのおかげというべきか、トウマたちその発想に辿り着いている。これが弾かれていないということは、やっても構わない、あるいはやるべきだということにならないだろうか。
「分かった。僕が様子を見て試してみるよ」
「本気ですか?」
「サナがやってるんだし、そうすれば打ち解けてくれるかもしれない」
エヴァはちょっと困ったように眉尻を下げた。止めるべきか、Edenに問い合わせるべきか、サナに相談してみるか、彼女の大まかな思考がトウマに流れるが、そう時間を経ずにいつもの仏頂面に戻る。
「……気をつけてくださいね。伝えておいて難ですが」
彼女は、基本的にいつもしかめ面をしている。笑うこともあるが少ない。今もそうだ。
「ありがとう。そっちこそ、無理しないようにね」
誰かを心配することは、このご時世にはほとんどない。トウマが前時代フィクションから引っ張り出した語彙は、定期的にやり取りされるお陰で彼女との間においてのみ復活を遂げている。
「ありがとうございます。無理ができたらいいくらいなんですが……」
そこで突然、トウマの背後の扉がバンと開いた。つんのめるトウマと瞬きをするエヴァの手を、細い両手が引っ張った。
「来て! 人が飛んでるの!」
「ええ?」
リビングに引きずり込まれると、サナは手を離して一面窓に張り付いた。窓からは密集して生える都市の向こうにはセントラルタワーとメインサーバが遠く見えるだけで、人の姿など何処にもない。
「ほら! あの人誰? 何に乗ってるの?」
「どこですか?」
三人並んで窓に張りつくが、どれだけ見渡しても何もない。サナの部屋は高層にあるため、地上を歩く人すら元々見えないというのに、空を飛ぶ人とは。
「髪の毛がピンクで……あ、見えなくなっちゃった」
「……作業用アンドロイドにしては派手な見た目ですね」
「何だろう、見えないってことは弾かれたんだろうけど……」
トウマはサナの顔色を見て、静かに目を見開いた。これまでに見たことがないほど、その目は宝物を見つけたときのようにきらきらと輝いている。
「二人には見えないんだ……」
と、呟くその声はどこか嬉しそうだった。エヴァはその隣で情報窓を操作していたが、すぐに諦めたように窓が消えた。
「有意の回答はありませんでした」
「何だったんだろう?」
サナの虚言や幻覚という可能性は否定できないが、それならEdenはそう言うはずだ。
Edenが解答を寄越さない何かを見たサナは、トウマが思い描く幸福な彼女に最も近いようにも思えた。
夏の気配を吹き飛ばすような涼しい風が通りを吹いて、視界が安定した。
人通りも少ない路地裏で、知らなければ意識することもなさそうな木製風のドアがトウマの入店を待っていた。『喫茶トシナイ・営業中』と直に印字されたプレートが、扉の中ほどにぶら下がっている。
直接店内に転送されないのは店主の数多い拘りの一つだ。だからトウマは、ドアノブを捻って手動でドアを開けた。
カランコロンとベルが鳴った。
コーヒーの香りと温かい湿気がふわりとトウマを歓迎した。
「ああトウマさん、いらっしゃいませ」
ベルで気づいたのか、あるいは来店を予告されていたのか、整った口髭が目を引く店主がにこやかにトウマを出迎えた。標準体型よ肥満した身体は仮想上のオシャレではなく現実に太っている。拘りである。
「ご注文はいつも通りで?」
「はい、ああいや、それと……」
「パンケーキなどおすすめですよ。最近リニューアルしたんです」
トウマが軽食を求めていることを検知したEdenが店主に助言したことをトウマは察知した。トウマは甘過ぎるものが好みではないが、Edenが言うなら間違いはない。
「なら、それを一つ」
そう言って微笑み返して、トウマはカウンター席に腰かけた。店主もまた微笑んで、店の奥に引っ込んでいく。そこで可変素材から生成されるのは完成品ではなく、完成品の元となる材料だった。材料を混ぜ合わせたり、火で焼いたり、盛りつけたりといった作業を店主自らが行うのだ。当然それなりの時間がかかるが、それも含めてトウマは気に入っていた。
トウマの他には常連客が一人だけ、カウンターの端でコーヒーを啜っていた。大盛況というわけではないが、トウマのような食事愛好家には根強い人気がある店だった。
さて、とトウマは一息つくと、ポップし続けている情報窓に目を向けた。プレパラートのような長方形には簡潔な一文が載っている。
『調整素子による補正機能を無効化しますか? 取消/承諾』
トウマの要求に応えてあっけないほど簡単に表示されたそれは、保留を続けるトウマの視覚にさりげなく浮かび続けている。わざわざ要求しないと表示されないのだから非推奨事項ではあるのだろうが、重大事項というわけでもないらしい。禁止事項――そんなものが存在するなら――であれば、トウマの記憶から抹消されるに違いないので、こうして自覚ができているというなら問題はないのだろう。
調整素子によって、都市と人間は一体化した。
人類の幸福のために最適化された世界。それを阻むものは、埃だろうが記憶だろうが時間だろうが排除される。
……ということになってはいるが、トウマとしては、Edenは結構柔軟なのではないかと思っている。食事をする必要はないのにカフェの存在を認めているし、どれだけ不幸でも十八歳までは仮想送りにはしないし、拒否するならば認められる。そもそも、生まれた時点で仮想送りにすればいい話なのに、それをしない。
だからこそ、余計に彼女の歪さが際立つ。
サナは、何を恐れているのだろう。何が嫌なんだろう。その頑なな自己否定は何が由来なのだろう。それが理解できないのは、トウマが
トウマは顎を撫でさする。ともかく、そんな相手を理解する一手段が、目の前に提示されているのだ。示されたのなら何にせよ試すべきだろう。
「お待たせしました」
顔を上げると、カウンターテーブルにいつものブルーマウンテンがことりと置かれた。砂糖もミルクも入っていない黒い水面から、淑やかな湯気が立ち昇る。
「ああ、どうも……」
そういえば、店主の了承は得るべきだろうかとトウマはふと思いついた。非推奨事項を口に出すことは問題かもしれないが、まあ、問題なら弾かれるだろう。
だが先を越したのは店主だった。
「シラハナさん、それはいつでも大丈夫ですからね」
「え?」
店主が、人差し指でちょいちょいとトウマの手前を指し示した。そこにはちょうどプレパラートみたいな情報窓があって、トウマは見えていたのかと静かに驚く。経験があるんだろうかと、奥に引っ込む店主の背中をまじまじと追ってしまう。
後で話を訊いてみようと決意して、深呼吸。
情報窓に向き直り、承諾のボタンに指を伸ばす。
ポン、と澄んだ電子音がして、情報窓がすっと閉じた。
ぞわり。
途端、悪寒が背筋を駆け上った。
身体が動かない。
動かし方が分からない。背後に気配がする。
でも首が動かない。瞬きは。
キーン。
と、耳鳴りが響く。
頭の内側で響いている。
視界の端に透明な埃がちらついている。
店内は、変わらず静かだった。かちかちと、アナログ時計の針の音。かち、かち、かち。秒針。一定のリズム。かち、かち、かち、か、ちか、ちか、ち。あれ?
空気が肌に触れている。寒くもなくぬるくもない。いつの間にか床を見ている。磨き上げられた木目の隙間も完璧に磨き上げられている。調整素子があらゆる汚れを吸収するので、埃が積もる余地もない。
トウマは、息を吐こうとして失敗する。
落ち着け。落ち着いている。ゆっくり、ゆっくりと、トウマは均一な空気を肺に入れた。空気の塊が鼻腔を広げ、喉を過ぎて追えなくなる。肺が少し膨らんで、元に戻る。
数回繰り返すと、自然な呼吸の感覚が掴めてきた。静寂は気になるし、空気には手触りがあったし、椅子に接着する太腿にはぞわぞわした違和感があったが、概ね問題はなかった。ゆっくり背後を確認しても、そこには店主お気に入りの風景画が飾られているだけだった。
はあ、と自然な溜息が出せた。サナはこれで日常を過ごしているのかと思うと感嘆の念が沸き上がる。しかし肝心の、彼女が意図するところは分からない。Edenはよくできたシステムだということしか、今のところは思えない。明日彼女に会うまで維持すれば、何かが掴めるのかもしれない。この状態で日常を送る必要がある。
調整素子の偉大さを感じながら、改めて、目の前で揺れる黒い液体に向き直る。天井が映りこんでいる。水面が輝いている。少し震える手でカップを持ち上げると、香ばしく力強い香りが鼻をくすぐった。
舐めるように恐る恐る、一口舌に乗せてみる。
苦い。
苦いな。
首を傾げてもう一口。今度は苦みの奥にフルーティな風味が広がるが、それでもやはり苦みが勝った。コーヒーは苦い飲み物だ。しかし、こんなに苦かっただろうか。調整素子によって、過度な苦みは弾かれていたのかもしれない。
これはこれで美味しいけどと、トウマは徐々に調子を取り戻しながらちびちびとコーヒーを味わった。
甘味が欲しくなるな、とトウマは思った。
思うと同時に、店主が顔を出した。丸々とした朗らかな顔が、トレイを手にやってくる。その上には、赤と白のコントラストが眩しいくらいのパンケーキが乗っている。
「お待たせしました。こちら、春の苺パンケーキです」
バリトンボイスが鼓膜を揺らす。店主はトウマの前に皿を置いて、その横に紙ナプキンを敷きカトラリーを置いた。
「ではごゆっくり」
そう言って、また店主は引っ込んでいった。
訊きたいことがあったことを、いなくなってから思い出した。
気を取り直して、トウマはパンケーキに対峙する。分厚いパンケーキに飾られているのは、ふわふわの生クリームと春苺だった。普段ならまず選択肢には入らないだろうそれが、今は普段以上に輝いて見える。
ナイフを右手に、フォークを左手に、トウマは苺をかき分けて慎重に刃を差し入れた。ふかふかの生地が刃の形に凹んで、盛りつけられたイチゴが一つ皿に落ちる。補正なしだからか、思うように切り分けられない。
どうにか一口分を切り取って、イチゴと生クリームとパンケーキをフォークにまとめて、口に運ぶ。
じゅわり、と甘味が広がる。
しっとりした生クリームに、春苺のさっぱりした甘みと酸味、生地が刺激的な味のクッションとなって、トウマの舌を贅沢に満たした。
溶けていくそれらを名残惜しくも飲み込んで、トウマは堪らずもう一口を切り分けようとした。
そこで、コーヒーが目に入った。
考える前に一口啜ると、思わず笑みが零れた。
「美味しい……」
なんともいえない多幸感。普段は口にしないパンケーキがこれほど美味しく感じるのは、補正なしという非日常のせいか。トウマは本題を忘れたまま、次の一口に取り掛かろうとした。
「いいなー……」
ん、とトウマは手を止めた。
常連客の方から、女性の声がした。イメージと違う声だなと思いつつ、トウマは話しかけながらそちらを向いた。
「美味しいですよ。食べてみては……」
言葉は尻すぼみに霧散した。
そこに、トウマが想像していた常連客の姿はなかった。
成人しているかどうかくらいの女性が、机に肘をついて、眠そうにトウマを眺めながらアイスティーを吸っている。
彼女の髪は、桜みたいに透き通っていた。彼女の目は、苺みたいに真っ赤だった。彼女の身体は、首から爪の先まで真っ黒な素材に覆われていた。
女性はトウマと目が合ったことを認識して、その目がじわじわと驚きに見開かれていった。それはトウマも同じだった。話したことこそないものの、常連客は男性だと、今の今までそう思い込んでいたのだ。しかし相手はどう見ても標準外の女性で、何かと標準外を好むトウマが、意識しないなんてありえなかった。
考えに考えて、トウマは一つの可能性に思い至る。
標準的な男性に見られたい女性、という説。
拡張現実上でオシャレを楽しむ人は多い。その応用で、標準男性のアバターを着ているということも大いにありえる。いや待て、それなら彼女の視界において、今補正を切っている自分は弾かれているべきではないか。
そういえば、サナが見たという人物もピンクの髪がどうとか言っていなかったか。
同一人物なのだろうか。どうやって訊けばいい。貴方は空を自由に飛ぶことができますかとかか。彼女のプロフィールがいつまで経っても表示されないことにトウマは気づいていなかった。
沈黙が流れた。アイスティーの氷が、カランと音を立てた。
「見えてんの?」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げて、トウマは瞬きを一つ。
彼女の口元が、徐々に、笑いを堪えるように歪んでいった。
「なんでだ? 人間だよね? 私が必要なわけでもないだろうし、そもそも今日は何もしてないんだし……」
独り言のように捲し立てる彼女に、トウマは控えめに口を出す。
「実は、補正を切ってるんです」
トウマが返事をしたことに驚いたのか、彼女は口を開けたまま固まり、固まった口で「へえ」と呟いた。
「未解析者?」
「いえ、解析済なんですが、仕事で必要でして……」
「ふうん……」
再びの沈黙が流れる前に、トウマが口を開く。
「ええと、貴方は……」
「アリだな」
「はい?」
「ねえ君、人質になってくんない?」
「はい?」
人質って、あれか。こいつの命が惜しければいくら持って来いとかいう、フィクションでたまに見るあれか。なんだそれは。誰に対しての何のための人質だ。そもそも人質は許可を取ってやるものではない。
聞き間違えかもしれない。確認しようとしたところで、カランコロンと来店者を知らせるベルが鳴った。
誰が来たのか、確認しようと振り返ったトウマの首に彼女の黒い腕が絡みついた。
「な」
ぐ、っと首が締まり、こめかみに硬いものが押しつけられる。
銃口であることを、トウマは確認できない。
「抵抗させればこいつを殺す。君も、怪我したくなかったら動かないで」
前半はEdenに言ったのだろう。トウマは反射的に彼女の腕を引き剥がそうとするがびくともしない。標準以上なんてもんじゃない。補正を考慮しても明らかに力が強い。
「彼を離しなさい」
冷たく、鋭い声が店内に響いた。首を絞められながらも、来店者の姿はしっかり見えた。
腰まである長髪を切り揃えた、標準よりも背が高い女性だった。視覚にプロフィールがポップする。ミオ・クロサキ、年齢以下非公開。何だそれは。
「離しなさい、キコ。いくら貴方でも限度があるわ」
「へえ、ホントにダメなんだ。尚更離すわけにはいかないな」
「今度こそ仮想送りになるわよ」
「やれるもんなら!」
トウマのこめかみから硬さが離れ、視界の端にその正体が現れた。
銃だ、とトウマが直感すると同時、浅い反動が彼女の手からトウマの肩を伝った。
網膜に閃光の残像。
キーン……と、掠れた悲鳴のような高音が尾を引いた。
目を開ければ、弾丸は女性の首を掠めて、長髪を分断するように穴を開けていた。ばらばらと落ちた髪は可変素材の床へ分解されて消えていく。
銃口が再びトウマへ戻され、ピンクの彼女は吐き捨てるように言った。
「君がそこを退かないなら、次はこいつに穴が空くよ」
長髪の女性が目を細めた。
「貴方の望みを叶えるわけにはいかないわ」
「へえ? 解析済の命と引き換えでも?」
一体何が起こっているのか。酸欠で頭がぼんやりする。それ自体が、これがバーチャルでもフィクションでも夢でもないことを示している。トウマは被虐趣味者ではない。Edenでは望むことしか起こらない。
「彼をどうする気?」
「さあ。君がそこを退くんなら死にゃあしないよ」
「キコ、まだ引き返せるわ。どうか彼を解放して」
「そこを退け、無駄に痛い目見たくないでしょ?」
ミオは無表情のまま、彼女に言うべき言葉を探しているようだったが、やがて耐え忍ぶように目を伏せて扉から離れた。
瞬間、トウマの身体が持ち上がった。
「うわっ何、ごほっげほっ」
トウマを抱えた彼女が跳んだ。
着地するように蹴り開けた扉の蝶番が千切れ飛ぶ。バタンと音を立てて倒れた扉の向こうにはセントラルタワーがあった。あることは知っていた。しかし、こんなに圧迫感のあるものだということを、トウマは初めて認識した。
彼女がぐっと膝を曲げ、そこでミオの声が掛かる。
「シラハナさん、どうか落ち着いて。Edenが必ず助けるわ」
トウマの返事は悲鳴になった。
宛らロケットのように跳躍した彼女は、外壁を一蹴りしてセントラルタワーへ。タワーの外周を螺旋状に走りながら高度を上げると、再び外壁を蹴って飛び出した。
強烈な浮遊感と共に見えた景色に息を呑む。
都市を均等に埋め尽くす、巨大な積み木のような建物の白い素体、ベンチで本を読む仕草をする男性、屋上で空気を追いかける子どもたち、アンドロイドと腕を組み歩く女性。トウマが見つけられた人間はそれくらいだった。立体都市を疎らに歩くのは、素体が剥き出しになったアンドロイドばかりだった。
彼女は子どもたちがはしゃぐ屋上のど真ん中に着地すると、その合間を縫うように助走をつけて再び跳んだ。トウマは振り返って目を見開く。誰一人、この異様な状況を認識していない。トウマたちは彼らの世界から弾かれている。
そして、
「あー、こんなこと言うのもあれなんだけど……突然攫っちゃってごめんね?」
トウマは横抱きにされたままポカンと彼女を見上げた。彼女は一瞬だけ顔を下ろしたが、すぐに申し訳なさそうに正面を向いた。
その仕草に、トウマは内心で首を傾げる。人質を取るような人間のイメージ像とはかけ離れていた。
「言うこと聞いてくれたらちゃんと帰すから、さっ」
着地からの跳躍を繰り返す彼女に、トウマはふとサナに近しいものを感じた。それが具体的になんであるかは分からない。ただ。
「君は何者なんだ?」
「私? 私はキコ・カンナヅキ! 何者か、何者かかー……」
「僕は、トウマ・シラハナ。カウンセラーをしてる」
「ふうん。は?」
彼女――キコは、あからさまに怪訝な顔をトウマに向けた。人質に悠長な自己紹介をされればそりゃあ困惑するだろう。ただ。
ただ、彼女はどう見たって未解析者だ。
「君が困っているなら、僕は協力するよ。何をすればいい?」
唖然とするキコは、容赦なく近づく地面に気づいていなかった。代わりに気づいたのはトウマだった。
「うわうわうわキコ!」
「え、あっ、やば」
ギリギリで突き出した右足が蹴ったはずの地面が、ぐにゃりと大きく凹んだ。
「うわー!」
「おっと!」
まるで落とし穴に引っかかったかのような二人が空を見上げれば、出口は塞がれかけている。
「こいつがどうなってもいいわけ!?」
キコが叫ぶと、可変素材の動きの一切が停止した。キコは素早く内壁に取りつき、僅かに開いた隙間から飛び出て再び駆け出した。彼女は笑っていた。
「ははっ! こんなに有効とは思わなかった! 皆の命より個人の命ってわけ?」
「どういうこと?」
「私が演算月を落とすっつったときは是非お願いしますーだったんだよ、Edenはさ!」
そう叫ぶ彼女の顔は生き生きと輝いている。トウマは何事もなかったかのように平らに戻る可変素材を見送りながら、キコの物騒な告白を冷静に処理することに成功した。
「……で、私を助けてくれるんだっけ?」
そう言う彼女の顔はやはりどこか不安気だった。その表情が、やはりサナと重なった。
「もちろん。何をすればいい?」
「話が早くて不気味なんだけど。君ってアンドロイド?」
「人間だよ!」
タン、とキコが跳ねる。
「なんていうか、君を助けたい」
「ホントかよ!」
タンタンタン、と建物の間を軽やかに跳ね、抜けた先の空中回廊を蹴ってさらに先へ。キコは声に出して唸っていたが、やがて吹っ切るように叫んだ。
「まあいいや! じゃあさ、取り敢えずオフラインにしてくれる?」
「オフライン……って」
トウマはその単語を知っていたが、同時に記憶違いだと思い込んだ。オフライン、まだインターネットが世界中に行き渡っていない時代の、古い言葉。トウマの記憶が正しいなら、そんなことできるわけが――システムに残っているはずがない。
「知らない? Edenとの接続を切るってこと。私たちの身体に紐づいた調整素子とサーバとを切り離すってこと!」
「そんなこと、できるのか?」
「できるんだなーこれが。現に私はオフライン!」
そこで、トウマの眼前に情報窓がポップした。
『Edenとの通信を無効にしますか?』
トウマがそうすることを望んだから。要求したから。察知したEdenは愚直に手段を提示する。
補正を切るのとは比べ物にもならない。Edenの庇護から離れることの意味が想像もつかない。トウマは震えを抑えながら、都市を落ちては駆け出す彼女を見上げた。空中回廊が彼女の頭を掠め、立ちはだかる外壁を両足で受け止めて方向転換しながら、彼女はどこかを目指している。セントラルタワーはもう随分小さくなっていた。
「僕らはこれから何処へ行くんだ?」
「都市の外だよ」
「都市の外? ……海とか?」
ふはっ、と吹き出すキコを、トウマは真面目に見上げ続けていた。キコはその真剣さに応えるように、強気な笑顔をトウマに見せた。
「だよね、都市の外っつったらそんくらいだって思うだろうけど、本当は違うんだ。都市って、実はすっごく狭いんだよ」
「狭い?」
「そう。オフラインにしてくれたら、本当の外を見せてあげ――あっとちょい口閉じて」
「え、うわっ、ああああ」
キコが屋上の端から身を投げ出した。長い自由落下に悲鳴が飛び出る。回廊と路地の隙間を縫って、下層の屋上へ激突する寸前で身を翻し、勢いをそのままに長い屋上を駆け抜ける。
落下に暴れたトウマの指が、承諾のボタンに触れていた。
しかし情報窓は反応しない。当然だ。誤操作なんてEdenが許すはずがない。
悩んだのは一瞬だった。トウマは自らの意志で、再びボタンに指を当てた。『再接続の場合はオンライン下の調整素子に触れてください』との注意書きが、トウマが完全に理解するまでの間表示され、それを最後に掻き消えた。
「オフラインにしてくれた?」
「ああ!」
「ありがとう、助かる!」
長い屋上の終端で、彼女は大きく跳躍した。
建物と建物の間の細い路地をすり抜ける。トウマの靴先が壁を擦って、慌てて身体を丸める。
パッ、と路地を抜けた先には、何もなかった。
「え……」
風が吹いた。
砂粒が、トウマの肌を撫でた。
口腔に入り込んだ粒の吐き出し方を知らずに、トウマは砂利ごと唾を飲んだ。
「よっし抜けた!」
それは、トウマのいかなる記憶にも存在しない景色だった。
無限に広がる青空と、彼方まで続く白亜の大地。吹き抜ける風に巻きあがった純白の粒子が、陽光を受けてきらきらと光る。
それがただの白砂漠でないのは、あちこちに生える直方体が証明していた。
ざくっ、と着地した彼女は、立方体の間を再び走り始めた。風化した元都市、というトウマの第一印象を、彼女の言葉が肯定する。
「これ全部、スリープモードの可変素材なんだ。廃墟って知ってる? 住まわせる人間がいなくなったってんで年々広がってんの」
と、彼女は再び跳躍して、元は屋上だったであろう立方体に辿り着くとそこでトウマを降ろした。久しぶりの地面に足がふらついたのを彼女が支えた。
「ああ、ありがとう……」
「君が人間だと思って話すけどさ」
そう返す彼女は、思いのほか真剣な眼差しをしていた。
「私ね、人間って生き物が、ずっと未来まで続いてほしいって思ってるんだ」
唐突に切り出した彼女への適当な相槌は浮かばない。彼女はまるで子どもに言い聞かせるような笑顔を浮かべ、トウマの背後を指差した。
「あれ見て」
振り返ると、そこには都市があった。
中心のセントラルタワーを頂上に据えるように折り重なる、演算月に見下ろされた立体都市。それが、トウマの視界にすっぽり収まっている。都市辺縁と廃墟は立方体と砂のグラデーションになっていて、まるで氷のように、少しずつ少しずつ小さくなっていることが容易に察せられた。
「あそこにいる人間が、今この星で生きてる人間の全部」
「まさか!」
「本当だよ」
振り返れば、彼女は変わらず微笑んでいた。
冗談だろうか、きっとそうだろう。だって、地球の端に行ったことがない人間の方が珍しいのに。
「僕は、ピラミッドを見たことがある。大聖堂とか、再現市場とか、北極に住んでる人と釣りをしたことだって」
殆どの人間と同じように。しかし、彼女は首を横に振った。
「それぜーんぶ仮想空間。君が調律機で寝てる間に見た夢の話」
「夢? そんな曖昧なものじゃなかった」
「そりゃ仮想だからね。分かりやすくいうと、君はちょっとした仮想送りになってたんだよ。仮想送りってのは空間を造るんじゃなくて、脳ミソに信号を入力してるってだけのことだから、そりゃ現実より精巧だよね」
絶句するトウマを見ても、彼女は言葉を止めなかった。
「というか、調律機自体そういう装置だから。調整素子の補給とメンテなら月一で十分。でもそうしないのは、世界がこんなに狭いってことを隠すため」
「なんで……」
「なんでってそりゃ、ショックでしょ。実は世界は滅びかけー地球の裏側なんてありませんーなんて」
そりゃあショックだ。けれど、初めから教えてくれれば、もう少しは冷静に考えられたはずだ。
けれど、Edenはそうしない。
「君はどうして知っているんだ……?」
「私はさ、Edenで生きる適性がなかったんだよ。とびっきりの未解析者だった。Edenは本当の外がどうなってるか私に教えて安心させようとしたけど、するわけないじゃん? んでも仮想送りなんかもっと御免だったし、都市にいると幸せになれ幸せになれってうるっさいから、逃げたってわけ」
「どうして……」
「ん?」
彼女に覚える既視感は、もはや確信に変わっている。
「君と似た考えの子を知っている。何故なんだ? 仮想送りは、何も怖いことじゃないだろう?」
「あー、カウンセラーとか言ってたっけ。嫌いだっ……いやごめん」
「どうしてなんだ? 君は何がしたいんだ?」
「ちょっと他人と話すの久々ってか……何がしたいか? そんなの決まってる!」
キコは黒い指で晴天をビッと指した。まるでサナが彼女を目撃した時のような煌めく目で、彼女はトウマが見えないものを見ていた。
「宇宙の果てに行きたいんだ!」
行けばいいんじゃないか、という言葉をトウマは変換した。
「……行けない理由があるのかい?」
「うん。この空は宇宙に繋がってないからね」
「どういうこと?」
「前時代が多世界収束で滅んだのは知ってるでしょ?」
トウマは頷いた。誰だって知っている。
「Edenは多世界収束から人類を守るために、ある空間内の時間を無限に引き延ばす装置を開発したの。その空間がここ。今は新暦1000年だけど、西暦だと3108年の5月7日。千年前と全く同じ。その時間この空間では多世界収束が起きないんだって」
注釈や補正が一切ない彼女の言葉は理解が難しかった。トウマは拾える言葉を拾って、トウマなりに飲み込む努力をした。
「……それじゃあ、この砂漠にも終わりがあるの?」
「あるある。空も地平線も、隔壁に投影されたただの映像。隔壁の外には行け――なくもないけど、まあ宇宙には行けないよね。でさ」
彼女は両手を合わせてトウマを窺った。
「私はEdenに、人類が未来に行けるようにお願いしたいんだ。私が宇宙に行くために!」
動機と行動がいまいち繋がっていないように思えたが、トウマは一応頷いた。
「それは……いいと思うけど」
正直に言って、彼女の言うことに実感が湧かない。都市の外が砂漠だという事実を処理するだけで、補正のないトウマの脳はいっぱいいっぱいだった。
ふと、サナの顔が頭に過ぎる。
この状況に相応しいのは、トウマではなく彼女ではないか。
「詳しいことはまた説明するから……」
「ねえ、一つ頼みがあるんだけど」
「ん?」
彼女がトウマの頼みを聞く義理はなく、メリットもない。例えトウマが非協力的であっても、彼女の力があればトウマを従わせることなど容易いんだろう。
しかし、そうしないというなら、言ってみる価値はあるのではないか。思い浮かんだことは取り敢えずやってみるべきだ。
「さっき、君と似た考えの子がいるって言っただろ?」
「うん」
「その子を、ここへ連れてこられないかな」
キコは、目線を斜め上に向けた。彼女の頭で思考が巡る。トウマは続けた。
「その子には多分、都市に来る君の姿が見えてたんだ。とても――そう、僕には見えなかったけど、憧れるように見ていた。連れ出さなくても、会ってあげてくれないか」
「あー……それは、まあ、いいけど」
「ありが……!」
「その子、何処にいるか分かる?」
「え? 第十三未解析者……」
そこまで言って、トウマは再び都市を振り仰いだ。林立する直方体の群れ。第十三未解析者寮とは、あの中のどれだ?
セントラルタワーが見えたからそう下層ではないとは思うが、窓が風景を映した偽窓である可能性も今となっては否定できない。
「それがどこにあるか探すところからだね。まそれはできるけど……」
「やってくれるのかい?」
「やれるだけね。でもその子って……」
「うん?」
「いや!」
キコは歯切れの悪さを隠すように、ジャンパーのポケットに勢いよく手を突っ込んだ。
「移動しよ! 話はそれからね!」
ポケットから取り出したのは、手のひらサイズの黒い立方体だった。
「それは?」
「乗り物。君がいたから慌てて逃げたけど、いつもはこれで移動してる」
カチリと親指と人差し指で両面を押してから、ぽんと軽く放り投げた。
その形が見る間に変形した。
立方体から増殖するように生えたパーツが組み変わる。地面に落ちるまでの数瞬で、立方体はタイヤの無いスクーターのようなものになった。重力制御付きらしく、地面から少し浮いている。
「ポータブル・ホバーバイク! 私が造ったんだ」
「君が?」
「そう! まあ、これ作ったときは結構Edenの手借りてたけど」
彼女はそれに跨ってハンドルを握ると、くるりとトウマを振り返った。
「ほら乗って」
「えっと……」
乗り物など、フィクションでしか見たことがない。
「後ろに乗ればいいの?」
「そう、私に掴まって。もっとぎゅっと。私も人乗せて運転すんの久々だから」
恐る恐る彼女の後ろに乗りこんで胴体に手を回す。他の人間と同じように、彼女は柔らかかった。あんな力があるとは思えないくらいに。
「そういえばキコって、すごい運動神経だったけど」
「それはあれ、調整素子にブースト掛けてるのと、あとこのお陰」
彼女は片手をハンドルから離し、その黒い手を握ったり開いたりした。と、手のひらからにょきりと銃が生えた。
「うわ」
「このスーツがいろいろとやってくれんだ」
「君が造ったの?」
「これはEdenだけど! 私も造れる!」
彼女は銃を引っ込めて再度ハンドルを握った。
キイン、と起動音が響いて、バイクがふわりと上昇する。煌めく粒子が舞い上がったのを合図に、バイクは勢いよく発進した。
景色が流れていく。どこまでも続く白亜の地平。揺れの少ない座席との感覚の相違に目が回りそうになる。
これでよかったのか、トウマはふと不安になる。
現状を認識できているなら、正しさはEdenが保障してくれる。幸福のために必要なことだけがEdenに起きる。だがここはEdenの外だ。仮想であればいいという素朴な願いからどうにか目を逸らそうとしていると、前方から声がかかった。
「えーっと、ごめん。君の名前ってなんだっけ」
「トウマ・シラハナ。カウンセラーをしてる」
再度の自己紹介を終えると、キコはうんうん頷いた。
「トウマね。よし。じゃあトウマ、悪いけど飛ばすね」
「え、あの、できればゆっくりだとありがたいんだけど」
「あれ見て」
彼女が指差す先には、黒い四角がいくつか見えた。
黒い四角には脚が生えていた。フィクションで見たことがある
「……えーっと、見つかったってこと?」
「そういうこと!」
がくんとバイクが急降下した。崩れた外壁から廃墟に入り、ジグザグと器用に突っ走る。青い影に包まれた廃墟、積もった砂、巻きあがる粒子。急カーブに重力制御が追いつかない。
食道に、何かがせりあがってきた。
「なんか……気持ち悪い…………」
「目閉じて! 着いたら存分に吐いていいから! 今は我慢して!」
もはや口を開くこともできず、トウマは必死に唾を飲みこんでいた。
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