僕らよ、いつか楽園であれ

ソルトコ

Prologue

「未解析者は、Edenが許容できるギリギリの多様性なんだよ」

 だから誇っていいわけ、と彼女は続け、ポータブル・ホバーバイクの整備に戻った。小型ジェット機が二台並ぶ整備室に、その言葉は時間を掛けて響き渡った。


 セントラルタワーの真上には、昼の月に追い縋るようにして青黒い球体が浮かんでいる。

 演算月という俗称で愛される衛星もどきは、Edenのメインサーバだ。人類を幸福にする方法を四六時中考え続けているグロテスクな多次元機械。晴天に霞んで浮かぶそれは、本物の月より二回りくらい大きく見える。誰しも生まれて一度くらいは、月の直径を知って驚くだろう。Edenは直径十キロであの大きさなのに、と。

 遠近法の初級教材は、生まれたときから見続けて飽き飽きしている景色だ。それなのに何故改めて眺めているのかといえば簡単で、私が入寮初日だからだった。別に、不安だからとか、寂しいだとか、そういうわけじゃない。見慣れた景色は心を落ち着かせるのかもしれないけれど、演算月に宥められても落ち着くよりは腹が立つ。

 自室で休む気にも、課題に取り組む気にもなれず、ふらふらと歩いて見つけたこの場所の居心地は意外と悪くなかった。椅子で殴れば割れそうな、壁一面のガラス窓なんかは特に良い。シンプルな補正コーティングの内装から、雑多に補正された都市を一望できるのも魅力的だ。

 共用の休憩スペースらしいが誰もいない。というよりここに来てから誰の姿も見かけない。恐らくは弾かれているのだろう。私は他人の話し声をBGMにして安らげるような人間ではない。もしかしたら隣に誰かが座っているかもしれないが、見えなければいないのと同じことだ。

 頬杖をつき直して景色を眺める。網膜に映る都市群が、脳に焼きつくことなく素通りしていく。

 昨日は、私の十三歳の誕生日だった。

 未解析者だということが確定した日だった。

 未解析者とは、幸せになれない人間のことだ。私がそうだと知ったとき、いつもは優しい兄が無表情を見せた。Edenは兄の失態を弾かなかった。

 兄は、おめでとう、と言いかけたのだ。

 多分。

 ともかく確定した瞬間、私はこの未解析者寮に入ることを推奨された。推奨。前時代においてはポジティブな意味だったそうだが、現代の推奨とは命令を柔らかく言い換えただけに過ぎない。もちろん、逆らう権利は存在する。逆らうとどうなるのかは不透明だけれど。

 未解析者は、十八歳になるまでに解析済にならない場合は仮想送りにされる。Edenの存在しない世界に行く。水槽に浮かぶ脳になる。そこはEden成立前の前時代かもしれないし、恐竜が闊歩する原始時代かもしれないし、剣と魔法のファンタジーの世界かもしれないが、とにかくその人が幸せになれる世界だ。私もいずれはそこに行く。そこで生まれ直す。あの世も来世も、今やシステムに組み込まれた現実の一部になっている。

 多分、兄は、自分が幸福になることが許せなかったのだろう。Edenで生きるには相応しくない性質だった。そう思い込んでいた。私はそうは思わない。遺伝子レベルで極悪人だろうと、堂々と幸せになっていい。Edenとはそういうシステムだ。

 人類の0.001%は未解析者なのだという。毎年生まれる人間はきっかり一千万人。単純に計算して、その内の百人は未解析者だ。そう考えれば大して珍しくもないように思える。

 私は別に、幸せになりたいわけじゃない。

 私が幸せになれる世界が、ここ以外に存在したって別にいいけれど、生まれ直してまで行きたいとも思わない。Edenに文句は尽きないが、そこまで憎んでいるわけではない。

 ピコン、と通知音が鳴って、私は窓から机に視線をずらした。

 視界右下に、四角い情報窓がポップしている。兄からのメッセージだろうと予想していたが、そこには全く予想外の警告文が表示されていた。

「は?」

 思わず声が出る程度には、飲み下すのに時間が必要だった。

『自室に無許可の来訪者がいる』

 そんなことがありえるのか?

 そんなこともあると、Edenはそう言っていた。


 意味は分かるが実際に使ったことのない言葉というのはたくさんあって、無許可もその一つだった。Edenには、人間のための法がない。Edenのための基底理念だけが存在する。不都合なものは予め排除される現代に、不法侵入なんて起こりようがない。ここが未解析者寮だからか。未解析者寮ではあらゆる予想外が起きる、なんて説明は聞かされていない。

 私の人生に必要なイベントであれば起きるだろう。でも。

 これが?

 まさか。

 私のソファに、知らない女の子が眠っていた。下腹部に置いた手にはちょうど日差しが差し込んでいて、それはそれは気持ちよさそうな寝顔は赤い影に包まれている。

 眠っている人間を見たのは、これが初めてのことだった。耳を済ませれば呼吸音が聞こえる。それに合わせて、彼女の標準以上の胸が上下に動いている。

 よくよく見れば、彼女の髪はピンク色だった。奇抜にもほどがあるが、彼女の真っ白な肌によく似合っていた。好ましい外見ではあった。

 しかし。

 しかし、ここは私の部屋だ。念のために位置情報を確かめるが間違いない。

 指をスライドさせて彼女を指定すると、プロフィールが表示される。キコ・カンナヅキ、満十三歳、未解析者。

 同い年だ。略歴を流し見れば、ゼロ歳からこの寮にいるらしいことが分かった。

「キコさん、起きてください」

 眠った人を見たこともなければ起こし方も知らないので、とりあえずそう声をかけてみる。

 呼吸音が止まって、んん、と声が漏れた。

 しかしその目は開かなかった。

「起きてください!」

「んん……」

「キコさん!」

「んー、何?」

 眠そうに目を擦りながら、ようやく彼女が目を開けた。その目は瞳孔まで真っ赤だった。

「え、誰?」

「それはこっちの台詞です。なんですか貴方。なんでこんなところで寝てるんですか」

 彼女は、真っ赤な目をぱちぱちさせてから答えた。

「ドアが開いてたから」

 そんな馬鹿な、と部屋の設定を起動すると、入室制限は掛かっていなかった。出入り自由というわけだ。いやだからって、他人の部屋に勝手に入るのはどう考えても非推奨だ。無許可とかいう言葉を出すくらいだ、Edenもそこは同意見だろう。

「ここは私の部屋ですよ」

「そうなんだ。良い部屋だね」

「良い部屋だね、じゃないですよ! 不法侵入ですよ!」

「フホーシンニュー?」

 キコがさくっと検索する仕草――顔の上で片手を動かす――を見せて、ああ不法侵入ねと声を漏らす。

「ひょっとして本好き? 前時代モノなら私もたまに読むよ」

 それはちょっとそわそわするが、本題はそこではない。

「とにかく! ここは私の部屋なので出て行ってください。弾かれる前に!」

 というか、どうしてEdenがこの不審者を補正し弾いてないのか今更ながら疑問に思う。思うが、見えているのであれば仕方がないので出て行ってほしい。いることを知っているのに姿だけ見えないなんて居心地が悪いにもほどがある。

 キコは、んー、と要領を得ない返事をしてから、ふっと顔を上げた。

「君、アンドロイドでしょ」

「はあ? 違いますよ!」

 ふうん、と彼女は鼻を鳴らすと、突然、私の両頬を引っ張り始めた。

「痛……いった! やめてください!」

 もげそうなくらい引っ張られているが、抵抗の仕方もよく分からず、上げた両手が宙を彷徨う。

「伸びが悪いなーせっかく機械なのに」

 かちんときた、とはこのことだろう。初めっから頭にはきているがその発言は許せない。

 私は空中で揺れる両手で彼女の肩をがっしり掴み、その白い額に狙いを定めた。

「機械じゃ、ないです!」

 己の頭を振り下ろす。

 ごちん、と頭蓋に衝撃が響く。

「いっ…………た!」

 彼女は悲鳴を上げ、両手を離して自らの額を押さえた。私は肩を掴んだまま、ふんと鼻息を鳴らす。思ったより自分の額も痛いが、そこは強がっておく。

「アンドロイドがこんなことしますか?」

「……しない……いやするかも」

「しないですよ! 基底理念に反します。被虐趣味でもあるんですか貴方は」

「ないけど!」

 え、じゃあ、と彼女は赤目をぱちぱちさせる。

「ホントに人間?」

「そう言ってるじゃないですか」

 彼女は額を押さえながら、ぽかんと口を開けて私を見た。日差しの元で、睫毛と瞳がきらきらしている。

「私が見える寮生に初めて会った」

「……初めて?」

 絶句。Edenは、相性の悪い人間は徹底的に弾く。生まれてから死ぬまで、好きな人間とだけ関わって生きていけるように。だが全くとは。仮想人格だけで事足りる人間は多くても、自覚している人間はそういない。

「え、なんて名前? エヴァ・ロイドね。私はキコ、キコ・カンナヅキ」

 他者の存在を必要としない人間とは、勝手に人の部屋で寝るような人間なのかもしれない。いや、単にこの寮にいないだけで、世界中を探せばいくらでもいるとは思うが。

「えー、私と相性良い人間なんていないと思ってた。なんで見えんのか知らないけど、ともかくよろしく!」

 前時代風挨拶である握手のポーズをとる彼女を私は無視する。

「とりあえずソファから降りてください」

「えー、もうちょっと寝たいんだけど」

 彼女は自分の肩を掴む私の両手に邪魔そうな視線を送った。思わず私は叫ぶ。

「自分の部屋で寝てください! というか何で寝るんですか!」

「今日は昼寝日和なんだよ」

調律機カプセル以外での睡眠は非推奨ですよ!」

「別に禁止じゃないし? 君も寝てみたら分かるって!」

 彼女が部屋設定をちょいちょいと弄ると、ソファはダブルベッドくらいに拡張された。拡張に押されてバランスを崩し、彼女に倒れ込むような体勢になる。そんな私を、彼女はケラケラ笑って押し退ける。

 生成されたてのソファはひんやりしていて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、悪くないなと思わなくもない。一瞬だけなら目を閉じてやってもいいかなと、閉じてみた目が再び開くまでにかかった時間は忘れたことにしてほしい。


 今になっても、このイベントが必要だったとは思えない。彼女は私がいなくてもEdenから旅立っただろうし、私は彼女がいなくても殺される運命だった。

 ただ、こうして時折思い出すくらいには、何らかの慰みになっていることは確かだった。彼女と過ごした時間は三年とちょっとだったけれど、まあ、そう、悪くはなかった。兄と過ごした時間は幸福度合いの割に然程思い出さない辺り、何らかの意味はあるのだろう。

 これは、私が保持する記録のほんの一部である。メモリーセーバー代わりの、精巧な夢のようなものだ。

 それは私の最期を再生する。私は今、これから殺される私を見下ろしている。

 これから殺される私に、眼鏡を掛けた女の子が馬乗りになっている。

 女の子は一心不乱にナイフを振り下ろしている。女の子は悲鳴をあげていて、私はちょっと安心している。感情の発露は大切なことだ。彼女は彼女なりの論理で、私を殺す必要があったのだろう。女の子の名前はサナ・アマヤといったが、私がそれを知るのは死んだ後の話だ。

 首から胸から血を噴き出して、血みどろの私は淡く微笑んでいる。サナは何度もナイフを振り下ろす。必死になって返り血にまみれて、そのスピードが遅くなって、最後の一撃を鎖骨辺りに突き刺してようやく止まった。悲鳴は荒い吐息に変わっていて、開けた口に返り血が伝うのも構わずに彼女は肩で息をしていた。

 そうやって、私は死んだ。

 調整素子が働かなかったのは、私がそう命じていたからに過ぎない。不幸な事故ということで、私は死んだ。殺された。

 それで記録は終わる。だからこれ以上は私の妄想かもしれないし、真実記録に残る彼女の本当の言葉かも分からない。

 死んで動かないはずの私が、私に視線を送る。

 あどけなさを残した十五歳で死んだ私は、別段驚いている様子もなく、いつまで見てるんだとうんざりしているような、言ってしまえば普段通りのじっとりした目つきで、血みどろのまま私を見上げた。

 私は私に問う。もう幾度となく訊いた質問を、私は何度だって繰り返す。

「幸せでしたか?」

 血みどろの彼女が、困惑したように眉を下げて沈黙した。それは思考のための沈黙ではなく、例えるなら、「僕は幸せになってもいいの」という子どもの問いに答えるような、分かり切った答えに最上級の繊細さが要求されるような、そういう類の沈黙だった。

 子ども相手なら愛を持って抱きしめるなり微笑むなりして真摯に答えるべきだが、私は私を特に愛してはいないし、別に愛されたくもない。

 だからだろう。真面目に考えるのも馬鹿らしくなった彼女は鼻で嗤う。

「Edenの基底理念は、人類の幸福ですよ」

 全く、何を分かりきったことを訊くのかと。

 その言葉を最期に、彼女は動かなくなる。私は踵を返す意味で、目を覚ます。

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