或阿呆の古事記伝

清文 博止

第1話 覇気のない男

 平行雄は、ここ数週間にわたってアパートに籠り、古事記に関する研究論文を数えきれないほど読みこんでいた。アパートを出るときと言えば、アパートの敷地内に置かれた自動販売機で飲み物を買うときと、最寄りのコンビニで保存のきく食糧を大量に買い込むときだけだった。本来、彼は真面目さとはかけ離れた人間である。こんなに一つのことに対して集中して取り組むのは、生まれて初めてのことだった。しかし、その本来の自分と今の自分との違いに思いを馳せる間もないほど、目の前の「古事記」という研究対象に魅了されていた。


 平行雄は覇気のない男だ。彼は鹿児島にある国立大学の教育学部の四年生で、国語教育を専攻している。しかし、彼は正式に教師になるつもりもないし、国語という教科に特段興味があるわけでもない。ただ、高校生の時にいよいよ進学先を決めなければならないという時になって、偏差値の表の中から、自分の成績と合致していて、家から近い大学と学部を選んだのである。

 彼の喫緊の課題は、卒業論文に取り掛かることであった。彼は卒業後の進路を決めなかった。教師になりたいという願望は、微塵もなかった。しばらく臨時で働いて、貯金して、気の向くままに旅行をしようというのが、大まかな進路であった。そういう東西南北しか書かれていないような大雑把な方位磁石で、自分の今後の方針を決めるところが彼にはあった。やる気はないが、変化は好んだ。

 とはいえ、大学を卒業することに関しては必死だった。これ以上、無駄に高額な学費を払うつもりは毛頭ない。大学の教員の講義など、彼にとって苦痛以外の何物でもなかった。「毒薬は口に苦し」である。

 卒業のための単位はおおよそ取り終えていた。後は卒業論文を提出しさえすれば卒業要件を満たすことになっていた。卒業論文を書くという行為は、無駄な労力を心底憎む彼にとって、非常に気が進まないものだった。屈辱的ともいえるものであった。しかし、それ以上に大学に無駄に金を払うことは屈辱的だった。無論その学費は彼の両親が払っているものだが、それにしても、半年に一度三十万近い金額を払わされているという事実を意識する度に、はらわたが煮えくり返る思いがした。これら二つの屈辱を天秤にかけ、彼は渋々卒論を書くことを決意したのである。

 手始めに、卒論のテーマを決めなくてはならなかった。そこで、テーマを誰かに決めさせることにした。

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