第12話 本はうたう

「うわあ、すごい場所!」


 ユイは感動して大声をあげた。

 見渡す限り岩の大地が続いている。

 雲一つない透き通った青空の下で、強い日差しが降り注ぐ。

 てっぺんを真横に切りそろえられたような岸壁があちこちで背比べをしている。茶色や黄土色、白に近い断層がミルフィーユのように何層も何層も重なりあい、教科書で見た地層の写真を思い起こさせた。

 真夏並みの暑さの中で、強く乾いた風が顔と手足を撫でた。嗅いだことのない植物の匂いがした。

 ユイはでこぼこした地面で足首をひねらないよう注意しながら、ペン太の横を通り抜けて、切り立った崖に近づいた。


「落ちるなよ」


 注意するペン太の声が背後から聞こえた。

 おそるおそる下をのぞきこむと、とても深い谷があった。吹き上がる強烈な風に髪がばさばさとなびいた。

 壁面には色々な大きさの岩がとび出し、至る所で縦や横に長い影ができている。細かい穴のあいた岩肌や、つるりとした表面の場所など様々だ。

 一番下まで何十、いや何百メートルだろうか。底には川が走っているが、距離が遠すぎて曲がりくねる白い線にしか見えない。

 目もくらみそうな高さに、ユイのお尻から背中へぞわぞわとしたものが駆けあがった。


「ユイ、あぶないよ」


 ペン太が見かねた顔で手を引いた。いつの間にか、頭がだいぶん前に傾いていたらしい。

 ユイが「ありがと」とお礼を言って振り返る。


「ペン太、ここってどこなの?」

「グランドキャニオンだよ」


 ペン太が岩を器用に避けながら、ユイの手を引いて崖を離れる。

 説明口調で言った。


「アメリカ、アリゾナ州にある大峡谷さ。底を走るコロラド川を挟んで、北の崖がノースリム、南がサウスリムと呼ばれてる。高さはおおよそ千二百メートル。『地球のひび』とも言われるんだ」

「へえ、さすがよく知ってるね」

「当然さ! 図書ペンギン司書を目指しているからね」


 ペン太がぐいっと胸をつき出した。黒い瞳がうれしくてたまらないときらきら輝いている。


「ところで、さっきからどうして上をちらちら見てるの?」


 ユイは気になっていたことを尋ねた。

 ペン太の顔がとたんに真面目なものに変わる。


「ん? ひねくれ者でなければ、そろそろかなあって思ってね」

「そろそろ?」


 ユイはペン太の視線を追うように顔をあげた。「おっ、来た」とペン太がぴょんと跳ねた。

 透き通った青い空が、塗り替わるように白く変化した。まるで白い絵の具をべたぬりした、濃淡のない絵のようだ。


「何が……起こるの」


 ユイは視線を空に固定したまま、あぜんとした顔でつぶやいた。

 すると、上空がびりびりと震え、どこからともなく大人の女性の透き通った声が響き渡った。

 


”テゾーロ博士は、その場の光景に圧倒された。しかし、すぐに目的を思い出し、博士にとっての宝を探し始めた”



「な……に?」

「物語が始まったんだ」

「物語?」


 弾んだ声で答えたペン太にユイが聞き返した。


「言っただろ? ここは本の世界だよ。場所はユイの世界に本当にあるグランドキャニオンだけど、本物じゃない。あくまで本に書かれている内容をもとにして作り上げられたイメージの世界なのさ」

「じゃあ、ここは現実じゃないの? 岩とか植物も?」

「そのとおり」ペン太がうなずく。

「ぼくらがこの世界に入って時間がたったから、本が物語を聞かせようとしているんだ。それがさっきの空から聞こえた声の正体だよ」


 ユイは目を丸くする。

 あわてて空を見上げると、同じ声が降ってきた。



”目当ての宝は見つからなかった。事前情報ではあちこちにいると聞いていたが、運が悪いのか、なかなか見つからない”



「おっ、場所が移動したね」

「……ほんとだ」


 そこは数秒前にユイが立っていた崖の上ではなかった。似た景色だが、確かに記憶とは違う。


「ユイはやっぱり運がいいよ。物語を進めてくれるかどうかは本の気分次第なんだ。気まぐれなやつがすごく多くてね。見習いになったころはよく困ったもんだ」


 ユイが首をかしげる。

 説明不足だと思ったのか、ペン太が言葉を足した。


「試験の一つに、『最初から最後まで物語の世界に居座ること』っていうのがあったんだ。でも本の中に入るだけじゃダメなんだよ。へそ曲がりな本もいて、ずうっと無視されて全然物語が進まないってパターンもあるんだよ」


 ペン太が思い出すように苦笑いする。


「それで、どうなったの? あきらめて外に出たの」

「ううん……歌を聞かせたんだ」

「歌を?」


 ユイがぐっと身を乗り出した。

 ペン太が「下手だから歌わないぞ」と先に断り、

「どうしようかってなやんでいた時に、たまたま図書ペンギンの学校で習う歌を口ずさんだんだ。そこからだよ……なぜか一気に物語が進んだ」

 と、うれしそうに言った。


「本って、感情みたいなものがあるんだ……」


 ペン太が「あたりまえだろ」と笑う。


「読まれてうれしいと思うのは本を書いた著者だけじゃない。生み出された本だってそう思うにきまってるじゃないか。だからぼくらは本を追いかけるんだ」


 景色を変えるグランドキャニオンを黒い瞳がながめている。

 ユイは胸がつまった。

 図書委員になってから、図書室のことは何でも知っていると思っている。自分が当番の日以外に誰がカウンターに座っているのかも知っているし、よく本を借りにくる二年生の双子の女の子も知っている。

 でも、肝心の本についてはどうだろうか。新しく入った本ばかりを図書委員の特権とばかりに一番に手に取り、背表紙をテープで補修された本や本棚のすみっこでひっそり眠る本は一度も開いたことはない。

 考えてみれば、タイトルすら記憶にない。

 がくぜんとするユイに気づかない様子で、ペン太が言った。


「あの時、ぼくが入った本は気づいてたんだ。ああ、こいつは試験に合格したいだけのバカなやつだ。本に興味なんてないんだ――ってね」


 グランドキャニオンが夕日に包まれようとしていた。

 ペン太が手ごろな大きさの岩の上にぴょんと飛び乗り、さらに遠くに目をこらした。


「そんなぼくが口にした歌の歌詞はどんなものだと思う?」


 ペン太は答えを待たずに言った。


「『ぼくらはみんな本が好き、だれに読まれなくてもぼくが読む』……ってね。途中はこんな歌詞なんだ。はっきり言えば、その時のぼくは歌に気持ちなんて全然込めてなかったんだけどね……」


 ペン太が再び地面に飛び降り、変わりゆく景色を眺める、

 空が遠くから濃紺に染まり始めた。そこはまるで満点の星空を映し出す鏡のようだ。

 夕日と闇がせめぎあい、どんどん夜が広がった。


「でも、本は言葉だけでもうれしかったんだろう。試験の本当の意味がその時わかったんだ。本だって、読み手を選びたいわけだよ」


 ペン太が「クァァ」と辺りに笑い声を響かせた。

 周囲が完全にまっくらに変わりかけた。と、空が再び白く光った。

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