第10話 オアシスとネズミ

「少し休めたかい?」

「うん。もう足もふらふらしない。オアシスの水のおかげかな」


 ユイはソックスのすそをひっぱり、水色の模様が描かれたお気に入りの白いスニーカーを履いた。

 顔に疲れが出ていたユイに、ペン太がしばらくの休憩を提案したのだ。

 ユイは感触を確かめるように、つま先をとんとんと白い地面に当てる。きめ細かい粉雪のような砂が周囲に舞って、小さなくぼみができた。


「ほんと、いい場所だね。静かすぎてちょっと怖いけど」


 ユイが両手を組み、オアシスにさし込む光の方向に向けて、ゆっくりとのびをした。

 ペン太がユイを見つめる。


「下に進むほど危険だから、無理についてこなくていいんだよ」

「こんなにおもしろい冒険を途中でやめられるわけないでしょ。あっ、危険があるのはもちろんわかってるよ。ちゃんと気をつけるから」

「ユイはそういうと思ったよ」


 ペン太が肩をすくめた。

 と、その時だ。

 暗がりから、ネズミに似た生き物がオアシスに入ってきた。数は三匹。全員がユイの足首ほどの、ただでさえ小さい動物だが、一番後ろの一匹は握りこぶしほどしかない。長くやわらかそうなひげを探るように動かしながら、ゆっくりと水場に近づいた。

 ペン太が大きく一歩踏み出し、砂が音を立てた。ネズミに似た動物の動きが見事にぴたりと止まる。


「あっ、気づいた?」

「枝切りネズミは鼻も耳もいいからね。こっちが風下だから気づいてなかったみたいだけど、音にはすぐ――おっ、話し声を聞いてさらに警戒したね」


 枝切りネズミが、うしろ足で立ち上がり、背伸びをするような体勢になった。

 ユイの位置から見れば、右から順に大中小と灰色のネズミが並んでいる。


「かわいい……」


 三匹の小さな目はじっとペン太とユイの方向をうかがっている。ユイはうれしくなって片手を振った。


「あんまり目はよくないから、見えてないよ」


 水を差すペン太の言葉に少しむっとしたユイは、「じゃあ、どうしてペン太は足を鳴らしたの?」と責めるように言った。


「それはね――」


 ペン太は思わせぶりに言葉を切り、リュックから二つ折りにした中質紙を取りだした。

 ユイは「どうするの?」と首をかしげた。


「はいどうぞ」

「私に?」

「ちがうよ。枝切りネズミに、それを振ってみせてやって」


 ペン太は意味深な表情で笑う。ユイは言われたとおりに振った。

 なんと、三匹のネズミがささっと動いて一メートルほど近づいて止まった。


「……えっ?」


 あっけにとられるユイに「もう一度」とペン太の声がかかる。

 ユイは再び紙を振った。折り目が開き、バサバサと乾いた音が静かなオアシスに鳴り響いた。ネズミたちの動きが目に見えて活発になる。


「もっと、もっと」

「こ、こう?」


 ペン太にうながされるまま、ユイは何度も大きく振った。

 とうとう、ネズミたちはユイのスニーカーに触れそうな位置にまでじりじりと近寄った。

 ペン太が「あげてみて」と紙を指さした。

 ユイが慎重にしゃがみ、おそるおそるネズミの鼻先に近づけた。


「あっ、くわえた!」

「枝切りネズミも大好物なんだよ。警戒心は強いのに、食べ物にはとっても弱いんだよ」


 ユイの大きな声に驚いたのか、最初にくわえた一番大きなネズミが、さっと走りだした。二匹があとを追い、そのまま暗がりに消える――

 そう思った。

 しかし、途中で止まった先頭のネズミは、背中を向けたまま、首を回した。

 黒い二つの瞳がつぶらに輝き、いきいきしている。ネズミたちは何かを思いだしたように方向を変えた。

 ユイの方だ。にじにじと音を立てずに慎重に近づいてくる。


「ペン太、戻ってきたよ」


 嬉しさではずんだ声をあげた。

 ネズミたちが足下にやってきた。

 そして――逆立ちを始めた。細く短い前足をユイの方に出し、顔を地面につけて、短い尾のついたお尻を持ち上げた。


「え、え――なんでなんで?」


 とまどったユイだが、なんとなくネズミの言いたいことが伝わってきて、自然と笑顔が浮かぶ。


「貴重なご飯をくれたことにお礼をしてるんだ。枝切りネズミだって、図書界の生き物だからね。かしこいんだよ」


 ペン太が「よく知ってるだろ」と言わんばかりに胸をそらせた。

 そんな自慢げなペンギンの姿がおかしくて、ユイがくすりと忍び笑いをもらした時だ。一番小さなネズミが体重を支え切れずに、ころんと音が出るようなこけかたでひっくり返った。

 ユイはあわてて両手ですくいあげようと手をのばしたが、ネズミはすぐに立ち上がり、ぱっとその場から離れてしまう。


「さわられるのはダメなんだ……」


 ユイはがっくりとうなだれた。

 ペン太が「まあまあ」と肩を叩いてなぐさめる。離れていくネズミたちに平たい手を振って言った。


「今日は特別だからな。ユイに感謝してくれよ」

「私?」


 思いもよらない言葉に、ユイがペン太に顔を向けた。


「ユイが落ちたおかげで、オアシスを見つけたんだ。ムササビネットに渡した中質紙は補充できたから、あまった一枚は枝切りネズミにあげたんだ。彼らもオアシスを渡り歩いて、少ない紙を探す生き物だからね。あんなにきれいな状態の紙はめずらしいから、きっとうれしかったと思うよ」


 ペン太はしみじみ言った。


「それに枝切りネズミはオアシスの管理者でもあるからね」

「管理者?」

「ほら、あれを見て」


 どういうこと、と口にしかけたユイの前に、ペン太の手がのばされた。

 その先で、三匹のネズミが身軽な動きで、薄緑色の木によじ登っていた。

 まっすぐな木でも登れるんだ、と驚いたユイは、ネズミたちが枝をがりがりと削り始めたのを見てあんぐりと口をあけた。

 三匹が力を合わせ、同じ枝の一か所に、上下左右と次々に歯を立てていく。

 みるみる細くなった枝が、ぽきりと折れて白い大地に落ちた。


「枝切りってそういう意味だったんだ……」

「あれはむやみに切り落としてるんじゃないんだよ。上から降ってくる光がどの枝にも当たるように計算して、重なった枝や古くなって役にたたない枝だけを切っちゃうんだ」

「……どうしてそんなことを?」


 ユイは不思議に思った。

 ネズミがなぜそんなことをするのか分からなかった。


「育てるためさ」


 考え込んだユイに、ペン太はさも当然だろというように言った。


「枝切りネズミにとったら少ないごちそうなんだ。見つけた紙はもちろん食べちゃうけど、次に来るときまでに育つよう管理してるんだよ」

「すごい……」


 ユイは心の底から感心し、目を真ん丸にした。

 ペン太が「クァァ」と笑う。


「だから、かしこいネズミなんだよ。実はぼくも昔、彼らに助けられたくらいなんだ」


 ペン太はそう言って、近くの木に寄ると、幹を手で叩いた。

 バケツを小突いたような中が空っぽの軽い音だった。


「ぼくもはらぺこで図書界をうろうろしてた時があったんだけど、そういう時にかぎって、いくら探しても紙は見つからなかった。ちょうど、その時にネズミの群れにあってね――」

「ペン太も紙を食べるの!?」

「ユイ……驚くところはそこじゃないって」

「あっ、ご、ごめん」


 しおしおと小さくなったユイに、ペン太は苦笑いした。

 クァッ、と人間のせきばらいに近い声を一度出し、仕切り直すように言った。


「ネズミは鼻と耳が特別いいって知ってたから、後ろをずっとついて回ったんだ。そしたら、ほんの少したって、オアシスに出てね……そこに運よく三枚の紙が育っていたんだ」


 ペン太が視線を斜め上にあげた。思い出しているのだろう。


「それで?」

「もう、乱闘さ。ネズミは三十匹はいたかな。ぼく対ネズミの戦いだった。でも、ぼくは負けずに一枚手にいれたんだ」


 ペン太が誇らしげに胸をはる。しかしユイの表情は冷たい。


「それって、ネズミたちの食べ物をとったってこと?」


 ジト目でにらんだユイにペン太があたふたする。

 平たい手をばたつかせ、必死の様子で大声をあげた。


「違う! 競争で手に入れたんだ。本当だ。相手は三十匹もいたんだぞ! 一枚手に入れるだけでも死に物ぐるいで――」

「わかった、わかったって! ペン太がすごかったんだよね」


 詰め寄るペン太を、ユイは両手で押し返した。

 かなり重い。身長が低いのに、すごい圧力だ。


「分かってくれたか」


 ペン太が満足そうにうなずく。

 小さく聞こえた鳴き声に二人は振り向いた。枝切りの作業を終えたのか、一本の木の枝に並んだネズミたちが、「キィ、キィ」とか細い声をあげていた。


「お前たちも元気でな。またどっかで!」


 ペン太が返事をした。

 言葉がわかるのだろう。ユイはうらやましさでじっとペン太の横顔を見つめた。


「なんて言ってるの?」

「ぼくも枝切りネズミの言葉は片言しかわからない。でも、『ありがとう』って三匹全員が言ってることはわかる」

「……ねえ、図書界の動物の言葉って勉強したらわかる?」


 ユイは流ちょうに動物の言葉を話す自分を想像して嬉しくなった。


「さあ、どうだろう? でも、雰囲気というか、なんとなくってくらいならわかるようになるんじゃないかな。練習すればできるんだろ? ぼくの折り紙みたいにさ。ユイが望むなら、厳しい先生が教えようか?」


 ペン太がからかうように言った。

 ユイがむぅっとほっぺたをふくらませる。


「そんないじわる言うペン太にはもう教えて――ってどうしたの? なんか言われた?」


 言い返そうとしたユイは、ペン太が不愉快そうに瞳を曲げたことに気づいた。


「あいつら、最後になんて言ったと思う?」


 ペン太は心外だとばかりに肩をすくめた。


「なんて言ったの?」

「『見習いのペンギンさんも、その人に紙を分けてもらえるといいね』……だと」


 ペン太が目を細めてユイを見上げ、「まるでぼくがお荷物のように言うんだ」とため息をついた。


「こんなに優秀な図書ペンギンになんて言い草だ。いや待てよ……なぜ枝切りネズミにぼくが見習いだとわかるんだ? 見た目に違いなんてないはずなのに……いや、気づいてないだけで、あるのか? 頭の毛色が変わるとか、くちばしがグレートになるとか」


 うんうん悩む表情は真剣そのものだ。

 ペン太は腕組みっぽいポーズをとった。わずかに長さが足りない短い腕を胸の前でクロスさせている。人間の真似だろうか。


「ユイの方が保護者に見えただと……なぜだ!?」


 微妙なポーズで悲し気な顔で叫んだペン太を見て、ユイは耐えきれずにふき出した。

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