残り77日
「そういえば、あなた、私のこと何て呼んでた?」
「柏木花蓮だけど。なんか文句あるかよ」
今日はあいにくの雨だったので、いつもの屋上ではなく、最上階の空室の中で飯を食っていた。隣の校舎は下から上まで昼も教室が埋まっているが、ここは授業で使う部屋がほとんどなので昼間は誰も使わない空白の部屋だ。とはいえ、理科室等で飯を食うのも食欲が無くなりそうだから家庭科室で食べることにした。
そして窓から覗く外の天気だが、もはや雨というより嵐と言っていいほどに天気が荒れていた。そのため、教室は薄暗い。そして俺らみたいな昼に家庭科室を使用する学生の身を守るためか、電気は職員室からブレーカーを落とされている。恐らく過去に勝手に家庭科室で電気を使って何かしたやつがいるのだろう。とんだ迷惑である。よって、部屋を明るくするという行為は諦めるしかない。
そんな雨音しか聞こえない中、唐突に柏木花蓮が口を開けたのだ。
「アリよ、大アリよ、なんでフルネームなの? 意味分かんない。むしろ長くて言いにくいでしょ」
「柏木花蓮に限らず、数人以外は皆んなフルネームで呼ぶ。お前こそ俺の名前を一度も呼んだことねえだろ」
「そ、そうだけど……」
いまさら気づいたが、俺らはお互いに自己紹介もしないまま、こんな変な関係になっていた。俺としては別に今のままでもいいくらいどうでもいいのだが、あっちは不満があるらしい。
「はぁ。じゃあ、花蓮って呼ぶわ」
「いきなり下の名で呼び捨て!?」
食べていたウィンナーを俺に飛ばしてくる勢いで咳き込む。そんなにビックリすることかよ。ほら、咳き込みすぎて顔が真っ赤になってやがる。静かに俺のお茶を差し出してやることにした。
「あー、めんどくせ。お前も俺をアゲハって呼んでいいから。それで解決だろ」
彼女は酔っ払いが酒を飲むみたいにお茶を喉に一気に押し流す。それで少し落ち着いたのか「そーいや貴方の下の名前って何だっけ」と呟きながら考えていた。
そんな呼び方にこだわる必要があるのか。
「分かったわ。ア、アゲハ……」
こちらを向かず雨の音で掻き消されそうな声で呟いた。そんなに恥ずかしいなら呼ばなければいいのに。
「もしかしてお前って、処女?」
「は、ばっ、バッカじゃないの!?!??」
彼女のすぐ横にあった調理用のフライパンが綺麗な弧を描きながら飛んでくる。コンマ数秒の判断で俺は側にあったまな板で応戦した。
「あぶねーなおい!! ビックリするだろ」
「それはコッチのセリフよ!!! 女の子にそんな質問したら次からは命がないと思いなさい!!!!!」
威嚇する猫みたいに息を荒くして彼女はコチラを睨む。正直、死ぬなら死ぬでいいけれど景兄に天国で再び殺されそうなので大人しく従うことにしよう。
「じゃあ何であんな噂が流れるんだよ」
「あぁ……そうね、あな……アゲハには教えておくわ。もう無関係じゃなくなったし」
それから花蓮は過去のトラウマを話してくれた。
遡ること10年前、彼女の両親は離婚したらしい。単刀直入に言うが原因は父親の浮気。母親に不満があったのか、その新しい女性が魅力的だったのか理由は知らない。だが一つ言えることは褒められた行為ではないということだ。その行為に母親は呆れを覚え、同時に愛も無くした母親は離婚届をだし、娘――花蓮は私が引き取ると言って家を出て行った。
この時点で問題はあるが、さらに彼女に不幸が訪れたのは母親が新しい男と付き合い初めてからだ。
初めは優しい男性だったらしい。母親にはもちろん、花蓮にも親しく接してくれたようだ。父親から裏切られたこともあり、花蓮はその新しい彼氏を初めは信じられなかったらしい。しかし、その男性のひたむきな姿勢に徐々に花蓮も心を許していった。
だが事件が起きた。それは母親と彼氏が付き合って半年――花蓮が中学2年生の頃だ。もうその時には半同棲していて、たまたま母親が家を空けて花蓮と二人きりになった。そこで彼氏は信じられないことを言う。
「――黙ってたら痛いことはしないから」
今までの優しい男性はそこにおらず、ただの獣が自分の欲に身を任せた暴力を振るってきた。あまりの態度の豹変ぶりに吐き気が襲いながらも必死に彼女は逃げる。
鳴り響く悲鳴。転げ落ちる家具と食器。耳を塞ぎたくなる怒号。杭を打ち込まれたかのように抑えられた両手首。無理やり引き裂かれた布っきれ。もう全てを諦めようとした瞬間。
――すみません、配達便でーす。
突然の来客から動揺した彼のスキを付いて、外に飛び出して難を逃れたそうだ。
この騒ぎはもちろん近所の方に知れ渡るが、しかし悲惨な事件ということもあり協同して学校等には秘密にしようとしてくれたのだ。そんな近所の中に三島美香がいたそうで、だが子供故に曖昧に誤魔化された結果、変な伝わり方をしてあのような結果になってしまったという。
「いくら間違った事とはいえ、あの子が一度広めると収集がつかなくなりそうじゃない? だから満足するまで大人しく従っていたの。まさかあそこまで頭が悪い子だとは思わなかったけれど」
「そうか、話してくれてありがとな」
こんな重たい話をわざわざしてくれたことに感謝する。別に話したから何かあるというわけでもないが、腹を割って話してくれたことに嬉しく思った。
「……なんだよ」
話も終わったことだし、教室に戻る準備でもしようと片付けをしていたら、彼女が俺の方を見て何か言いたげな顔をしていた。
「同情、しないのね。可愛そうとか、辛かったねとか、言われると思っていたけれど」
その言葉に、俺は素直な気持ちで応える。
「そんな言葉、もう飽きるくらい聞いてるだろ。俺は実際に体験したわけでもないし、女でもないから気持ちがわからんしな。だったら俺は何でも無いような話のように聞くだけだ。そっちのほうが花蓮も気が楽だと思ったんだけど」
「ま、まあそうね。そのほうが確かに楽だわ。ありがと」
自分の中にしまい込んでいた負の記憶を吐き出せてスッキリしたのか、薄暗い教室の中からでも薄っすらと明るい笑顔が見えた。
「それは良かった。お前はそう笑った方が可愛いからな」
その直後、窓の外から教室が震えるほどの大きな雷鳴が轟いた。その眩い雷光で照らされた花蓮の横顔は……なぜか朱く染まっていた。
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