第9話 〜冷やして、凍らせて〜


 ようやく、この章から、人類の近代文明の恩恵による方法に踏み込みます。

 人工的に低温を作ることは、高温を作ることに比べてはるかに技術的難易度が高いのです。


 そもそも冷蔵の起源を考えれば、最初は鍾乳洞や風穴などの洞窟のひんやりした環境を利用することでした。これは、洋の東西を問わず行われています。

 日本では江戸中期の野菜や漬物の保存の記録が残っていますし、フランスではロックフォール・シュル・スールゾン村にある洞窟でアオカビをつけられ熟成されるロックフォールチーズが有名です。


 横道にそれますが、このアオカビの学名は、Penicillium roqueforti といいますが、アオカビでペニシリン、地名のロックフォールからと理解しやすく覚えやすい命名になっています。案外、学名はイメージに反して解りやすいものも多いのです。Penicillium camamberti といえば、カマンベールチーズに生えているカビの名前です。もう一つ例をあげましょう。

 Citrus unshiu と Citrus hassaku です。これらの植物が何か、もうお判りですね。


 話を戻しましょう。当たり前のことですが洞窟は運べませんから、その恩恵に与かるために、石造りの保冷庫や穴を掘っての氷室ひむろを作るようになりました。そこまで大掛かりでなくとも、つい最近までカゴに入れたスイカやキュウリを井戸の中に吊り下げて冷やす風景は、日本中どこでも見られたものです。

 地温は、極端に深く掘れば上がりますが、5mほどであれば年間を通して15℃から20℃以下で安定しています。冷蔵庫の4℃前後に比べれば高いものの、暑い季節には十分に冷たく感じたことでしょう。


 とはいえ、製氷できる温度ではありませんから、夏に氷を得られるのは氷室を持てる一部の人のみでしたし、その管理も冬にできた氷や雪を埋める、草をかぶせるといったことしかできませんから、衛生的には不安が残るものでした。江戸期には、砂糖と白玉を入れた冷水を売り歩く商売が成立していましたが、氷水まではさすがに無理ですし、一番暑いお昼過ぎにはぬるま湯状態だったようです。

 ですから、そのような、おそらくは雑菌だらけになってしまったを飲んだ年配の方が体調を崩すことがあり、「年寄りの冷や水」という言葉が生まれたのでしょう。


 このような状態ですと、夏の氷は極めて貴重品ですから、魚を氷に詰めて運送するということは不可能です。江戸時代、将軍家に加賀藩が氷を献上する際に、日本海の鯛を一緒に運んだ記録があるようですが、5日かけて運んだその鮮度はどのようなものだったでしょうか。

 一方で、江戸では大掛かりな生簀が用意されており、夏季は朝夕2回のセリを行うことで新鮮な魚の供給をしていました。保存はできないと割り切っていたともいえるでしょう。


 一方で、ヨーロッパの王宮では化学的な「吸熱反応」を利用し、アイスクリームが作られていました。吸熱反応とは、「負」の「反応熱」を持つ化学反応です。具体的には、アルプスの雪に「硝酸カリウム」を混ぜ、吸熱反応で温度が下がった中で卵黄、生クリームや砂糖を攪拌してアイスクリームとしていました。


 ただ、この方法は混ぜた→温度が下がった、で終わってしまいますから、持続的な冷却は不可能でした。持続的に温度を下げ続けるためには、「気化圧縮型」の冷却装置の実用化が必要でした。これは、今の冷蔵庫にもエアコンにも使われている主流の方法です。


 「気体」の状態の「冷媒」をコンプレッサで「圧縮」して「凝縮」させ「液体」にし、その時に生じた「凝縮熱」を室外の「放熱器」で放熱します。液体になった冷媒は、庫内、室内に運ばれ、そこの「蒸発器」で体積が増やされることで「気化」し、「気化熱」を周囲から奪います。気化した冷媒は再びコンプレッサで液体になり、放熱をするというサイクルで動くのです。エアコンの室外機には、たくさんのフィンがついていますが、これは放熱を効率よく行うためです。


 コンプレッサの動力は、今は電気とモーターが使われていますが、昔は風車やエンジンも使われました。

 なお、この方法により、最初の実用的といわれる冷蔵庫ができたのは、1856年のオーストラリアでのことでした。その後の現代の、生産地から流通を経て家庭に至るまでの「コールドチェーン」の充実は、みなさんも実感されているでしょう。


 低温環境下では、殺菌はできませんが菌の活動と、食材の自身が持つ酵素による自己融解が抑えられます。人類が能動的に冷やすということができるようになって、初めて食品の種類を問わず、また、加塩や加熱加工をしないままの食材保存が可能になったのです。


 最後に、なぜ低温によって菌の活動と食材の自身が持つ酵素による自己融解の抑制がされるのでしょうか。

 生命の活動とは、生体内の化学変化といってよいのですが、その化学変化はタンパク質からできている「酵素」による「触媒」の機能によって起きているのです。

 例を挙げると、中学校の理科で学習するとおり、胃の中で食べた食品中のタンパク質は消化酵素のペプシンにより分解されます。この働きはペプシンによってタンパク質の分子が切り分けられるのですが、ペプシン自体はこの作用の影響を受けません。したがって、同じ酵素が次から次へと異なるタンパク質の分子に取り付いて、切り分けるという作用を繰り返し続けるのです。このような特徴から、酵素は「触媒」のとしての特徴を持つと言われるのです。そして、この働きは、最適な温度と最適なpHによって最大限に高まります。


 この「最適温度」は、基本的にはその生物の体温となります。また、ペプシンの場合、胃という強酸性の環境で働く酵素ですから、pH2前後が「最適pH」です。

 そして、この生体が死亡すると胃壁を保護する働きはなくなりますが、消化酵素は触媒ですから、作用の力を失うことなく機械的にタンパク質の分解を続けます。胃の内容物を消化し、ついには胃自体も消化し、さらに止まることなく分解を続けるのです。これが自己融解の一つのメカニズムです。


 温度が下げられることで、「最適温度」から外れていくにつれて酵素の働きは弱くなっていきますから、自己融解を抑えることができます。

 腐敗を起こす菌も、生命活動は同じく酵素によるものですから、その「最適温度」から外れることで活動を抑えることができるのです。


 なお、酵素はタンパク質ですから、温度を下げてもその構造が壊れることはありませんが、上げることで変性を起こすのは他のタンパク質と同じです。そして、変性した後はその機能を失います。これが「失活」なのです。


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 ※ 日露戦争の日本海海戦で、日本の聯合艦隊はロシアのバルチック艦隊に大勝しました。

 その時の日本の軍艦の購入費用としての外貨は、生糸の生産・輸出によるものでした。


 この生糸の生産にパスツールと風穴、冷蔵装置が大きく関わっています。

 パスツールの時代のフランスでは、カイコガの微粒子病が原因で養蚕業が壊滅状態に陥っていました。そのため、日本の徳川家茂からナポレオン三世に蚕の卵が贈られ、その一部はパスツールにも分け与えられました。パスツールは微粒子病の原因を突き止めましたが、フランスの養蚕業は復活しませんでした。


 そこで、ヨーロッパの国々では、生糸の輸入が必要となったのです。そして、当時最高品質の生糸を生産していたのは日本でした。世界遺産になっている「富岡製糸場と絹産業遺産群」もこのような需要があって作られたものです。

 生糸の増産をする際に問題となったのは、餌となるクワはあるのに、1年に1度しか蚕を飼うことができないということでした。そこで、カイコガの卵を温度の低い風穴に運び、「孵化」を遅らせて1年間の飼育回数を増やしたのです。その後、冷蔵庫でも風穴と同じ効果が得られること、「塩酸」を使用した強制的な孵化が可能になったことで、日本中で高度に管理された「年間多回飼育」がされるようになりました。


 発展途上国から先進国の仲間入りをするのはとても大変なことで、世界史を通じてほとんど例がありません。これはある意味当たり前のことで、食糧生産が余りある状態になって初めて教育と工業への投資ができるのです。したがって、「先進国=工業国」とのイメージがありますが、先進国とは食糧生産が余りある状態になれる農業国なのです。


 自然環境が厳しく、自国民のために食料輸入をせねばならない国は教育と工業への投資が難しく、先進国になりにくいのです。

 現在の日本の経済的食料自給率が低いのは、贅沢品の輸入が多いためであり、国民のカロリーを賄う農業の自給力とその結果のカロリーベースの食料自給率は決して低くありません。日本の農業は新たな1億円プレーヤーを輩出していますし、可能性としても低いとは言えないと感じています。逆に、食料自給率が100%といいながら、自国での生産物のみの貧しい食事をせざるを得ない国もたくさんあるのが現実であり、自給率という数字のみに目を向けるのは不適切です。


 例を挙げるのであれば、高級フランスワイン「ロマネ・コンティ」を一本買うお金で、どれほどの量の標準価格米が買えるでしょうか、ということなのです。ロマネ・コンティを買える経済力が、見かけの食料自給率を下げているのです。

 日本は、先進国への仲間入りを成し遂げた例外的な国であり、その原動力が絹産業だったわけですから、その施設群が世界遺産になるのも当然のことでしょう。

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