第6話 if

  どうしようもないことがこの世にはあると小さい頃から知っていた。知っていたはずだった。


 けどそれを今、ちゃんと俺は実感させられた。


「どういうことですか」


 処理出来ない頭の中かろうじて、これだけは目の前にいる人物に問うことができた。


「さっき言った通りよ、あの子と別れてほしいの」


 目の前にいる人物、彼女の師は微動だにもせず、鋭い目で俺を見てもう一度同じ言葉を口にした。






 ーー遡る程、2時間前。俺のケータイに見知らぬ番号から着信が入っていた。折り返し掛けると、彼女から聞いたことのある名前の人物からだった。


 会って話がしたいと言われたため、こうして小さな喫茶店で仕事終わりに会っているのだが、初っ端からこんな事を言われると訳がわからない。


 それに初対面なのだ、いくら彼女から名を聞いたことがあると言っても自己紹介すべきではないのかとは思う。けど写真家などのアーティストには当てはまらない常識なのかもしれない。もっとも、彼女の師は世界的有名というのもあるが。


「……意味が分かりません。彼女と俺は良好な関係ですし、彼女がもし、別れたいと思っているのなら自分の口でいうと思います」


「申し訳ない、簡潔に言い過ぎたね。説明するよ」


 彼女の師は派手な水色の髪をクルクルと指で巻きながら話す。


「というかまず私のこと知ってる?」


 電話しといて、今更のことを尋ねてくる。


「知ってますよ、てか、知らないで会いにくる馬鹿なんていないですよ」


 俺は怒りより呆れがくる。


 きっとこの人のほうが年上だと思うけど、社交性は俺のほうが上だ。


「彼女が通う専門学校で短期間だけ特別講師してて、彼女の才能を見込んで弟子のように教えてる世界的有名な写真家ってことぐらい」


「大体間違いない」


と普通に返してくる辺り、それだけ自分の才能を信用しているのだと俺は感じた。


「君の言う通り、私は彼女に才能を感じてる。私は彼女を買っているんだよ」


 その言葉を聞いたら満面の笑みで喜ぶ彼女の姿が浮かんでくる。


「…だけどね」


 彼女の師はクルクル髪を巻いてた手を止め、節目がちに瞳をコーヒーカップに移す。


「君は彼女と付き合ってもう何年目?」


「はい⁉」


 想像の斜め上が来て驚き、腑抜けた声が出てしまった。


「…3年とちょっとです」


「いいお付き合いをしてないと3年も続かないよね、うーん」


 コーヒーの香りを堪能してるらしく語尾に擬音語がついてきた。


「なら、君は知ってるよね。彼女の夢をーー」


「ーー知ってますよ、『瞳に映るすべてをそのまま写して、たくさんの人が同じ世界を見ているような写真を世に出したい』って夢」


 最初、彼女から聞いたときはあまりにも抽象的で疑問符が俺の頭に浮かぶばかりだった。


 彼女の写真を見るようになって、彼女と過ごし始めてようやく、言いたいニュアンスは分かった。

同じものを見て、一緒に感動したり、怒ったり泣いたり、そういうのを共感すること。

それがいかに大事で、尊いことなのか。


 普通なら子どもの頃に知ることを俺は彼女に教わった。いや、彼女に会わなければ一生知らずに生きていたと言っても過言ではない。

 だから、彼女の夢を俺は心から応援してる。


「そうそれ。じゃあさ、君は、彼女が今スランプだって事は知ってる?」


「えっ…」


 放たれた言葉は初耳だった。


「やっぱり知らなかったか」


「彼女から作品を見せてもらったり、撮影に同行したりすることは何度かありますけど、人間関係以外の悩み事は聞いたことないです…」


「だろうね、聡い子だから」


 その後に続く言葉が俺はわかった。聡い子だから、会話も考えてるということ。


 芸術的な事は全くのド素人なので俺よりも頼れる人が専門学校には沢山いるだろう。から、仕方ない。


 けど、今回仕方ないで済むなら彼女の師がわざわざ出てくるわけない。


「彼女のスランプは俺が原因ってことですか?」


「まぁ、そうであってそうでないってとこかな」


 なんて嫌な言い回しだ。この人は人の神経を逆なでするのが上手いのかもしれない。


「芸術には感性が豊かであるべきってよく聞くでしょ」


「えぇまぁ」


 話が色々混在している気がする。


「彼女がぶつかってる壁はそれ」


 彼女の師はコーヒーを一口啜った。そして俺をしっかり見て、笑った。


「ハッハッ、君は彼女から聞くように本当、鈍いんだね」


 「⁉」


 あって間もない人に言われるなんて心外だ。つい、眉間にシワができる。


「会話の順序もちゃんとできない人に言われたくないです」


「あっはっは、失敬失敬」と楽しそうな声で答えてくるので嫌味も伝わらない。


「まぁ、言いたいことはさ、君といる限り彼女のぶつかってる壁は超えられない。彼女の夢は叶わないということ。

だから別れてほしい」


 急にどストレートで鳩尾にやってきた。黒い渦が胸の中に広がっていく。心臓が掴まれたかのように苦しくなる。


「…どうして、叶わないって決めつけれるんですか」


 それしか、言葉にさせてもらえなかった。


 俺はゴクリと喉を鳴らす。さっき、鈍いと言われたが確実に解る。次来る言葉がすべて答えに繋がる理由だと、頭が警戒反応を示している。


「なんでって彼女の作品は圧倒的に経験不足なのさ、感情表現の面において。

もっと専門的に言うと彼女の写真からようの感情を表現するのは素晴らしいのに、いんの感情を表現するのはまるでできてない」


 確かに彼女の写真からは和む気持ちや心が暖かくなる。それがこの人の言うようの表現だとすれば、悲しみや孤独といったいんの表現を彼女の写真から感じた事はなかった。


「それは経験しないと得られるものじゃないって君が一番知ってるでしょ」


 核心をついてくる辺り、俺のことは一通り調べて知っているのだろう。


 家族や親という愛情を知らずに育った俺は孤独と叶わないものへの羨ましさ、哀しみ、憎しみを知ってる。この陰の感情を理解してくれた人もいたがそれは所詮、上っ面でしかない。どれだけ解ろうと涙ぐんでくれたとしても、こればかりは体験して初めて本当の意味を知るに当たる。


「……彼女が俺と一緒でも得れるとは、考えられないって言うんですか」


「無理だよ、よっぽどない限りは。

 だって、惚れた女にそんな思いさせたい男なんていないでしょ」


 自分の放った言葉が矢のように返ってくる。


 どんな物好きが自分と同じ哀しみを味合わせたいと言うのか、むしろ逆だ。自分が知っているからこそ、幸せにしてあげたいと思うのだ。


「私だって彼女には幸せになってほしいよ。でもね、どうしようもないことだってあるんだよ」


 彼女の師はきっと天秤にかけた。それが伝わってくる。


 恐らく未来にかけたのだろう。


 新しい誰かに出逢って幸せになるかもしれないと…。


 どうしようもないことがこの世にはある。


 頭は理解しても、心は正直で、これがどうしようもないことで片付けてしまえない。


「私はね、彼女にこの先どれだけ恨まれてもいいって思ってる」


 それはこの人が揺るぎない覚悟の上だと、表面だけの師ではないと物語っていた。


「……少し考えさせてください」


 今の誠心誠意で答えるのはこれが限界だった。




 何も考えたくない、それが本音で、どうやって家まで帰って来たのか俺は思い出せない。


 玄関に入って早々、その場に突っ伏した。ひんやりとした床にどこか安心を覚える。


 考えても考えてもどれも正しいから決断出来ないでいるとスーツのポケットのケータイがバイブで受信を知らせてきた。のそのそとポケットから取り出す。


 通知は2つ来たようで、一つは渦中の人物である彼女からメールが、もう一つは会社の上司から電話だった。


 電話ということは緊急のことかもしれない。とりあえず出るといつもの野太い声が電話越しで聞こえる。


「すまない、今電話大丈夫か?勤務終わりに連絡する用事ができてしまった…」


「お疲れ様です。そこまで気にしなくてもいいですよ。もう家に着いてますし」


「そうか、ならよかった。実は新しい企画依頼が来たんだが海外進出のイベント企画なんだ。基本はいつも通りなんだが、最終調整で1〜2週間ほど海外出張があるから、お前に頼みたいんだが出来るか?」


 海外出張できる人間となるとやはり独身にスポットが当たる。部署のメンバーで独身なのは俺と新人後輩しかいない。


「そんな大事な案件俺でいいんですか?」


 心配になって尋ねると耳元で大きく声を張った。


「お前だからいいんだよ。それに独身はあまりいないしな」


「分かりました。俺で良ければ精一杯頑張ります」


「あぁよろしくな」


 それが合図で電話を切った。


 「うわぁ〜」


 大きな仕事を任された事に俺はつい噛み締める。こんなとき、一番に話したいのはメールをくれた彼女だった。


 彼女のメールを開くと写真が添付されていた。赤いポートタワーに青い空と海が映っていた。そのきらめく青さと印象的な赤に目を奪われる。


 ただただ美しいなと思った。


 あの人が言った言葉が何度も、何度も頭の中で反芻される。 


 瞳が潤って、視界がぼやけていく。


 一生をかけた夢を持つ彼女。幸せと代償だとしても、それを奪えやしない。


 苦々しく溢れてくる感情は留まることなく、どうしようもない衝動に駆られる。


 これが、そういう定めだとしたら。それでも、もし、もし彼女の一生の夢が叶うなら……。


 それが、答えだった。


 冷え切った玄関で、着信をかけてきたあの見知らぬ番号に俺はもう一度かけ直した。

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