第5話 このままで
「うーん」
食堂の机で並べた写真を見ながら私は悩んでいた。
「何悩んでんの?どれもいい写真なのに」
ラーメンの乗ったお盆を持った友人が写真をちらっと見て隣の席に座った。
「なんか取りたいものと違うっていうか」
「ふぅーん、あんたの写真って見てて温かい気持ちになるからどれもいい写真だと思うけど」
「あ、ありがとう。でもね、そういうのばっかりじゃない、私の写真って」
友人が褒めてくれたのは素直に嬉しいのに、なんだが手放しでは喜べない。
「もしかして、先生に言われたこと気にしてんの?」
ラーメンをすすりながら友人は先程の授業での事を言い当ててきた。
「…うん」
その授業では感性を活かした写真についての講義だった。
『圧倒的に足りないものがある』と。
自分でも薄々感じていたことだった。私を面倒見てくれてるあの世界的写真家にも似たようなアドバイスを貰ったことがあった。
「感性を活かした写真ってさ、きっと経験や体験が物言う領域の話だよ。そんなのまだ人生経験少ない学生に求めるもんじゃないよ。だから、そんなの言われるなんてよっぽどあんたの実力買ってるって思ってればいいんだよ」
友人は明るく的確なアドバイスで流しておけと言う。確かにそうだが、今回はしっかり向き合わなくちゃいけない気がした。
「この写真とかいいんじゃない?」
私の様子に気付くことなく、友人は広げた写真の中から一枚を指した。
「どれどれ」
私はほっと一息ついて、話に加わった。
昔から私は空気を読むことが上手い方だった。
だからかいつしか本音を隠すのにも慣れてしまった。
誰にならすべてを言えるのかといったら彼ぐらいだ。でも写真のことについては彼に相談しようと思ったことがない。お角違いというのもあるが、自分の夢は自分で答えを見つけ出していかないといけない気が私の中でする。
「うぅーっ」
「どうしたの?」
師である世界的写真家が私の写真を見ながら尋ねてきた。
そういえば、ここはこの人のアトリエだったと思い出しす。撮った写真が溜まったので、学校終わりに見せに来た。
「いや、表現力が足りないのは経験不足だとは分かってるんですけど、なんの経験が足りないのか、ピンとこなくて」
「…賢い君でもわからない事ってあるのかぁ」
師は、どこか遠い目をして言った。
「そんなに賢くないからわからないんです」
「ところでさ、君ならどっちを選ぶ?」
いきなり疑問系から入る会話はこの人特有だ。
「君はパティシェを目指してる子だ。ある幻のケーキのレシピがあるとしよう。そのレシピは君が喉が出るほど欲しがっていたレシピだった。それさえあれば生活や地位まで安泰する。その代わりレシピを知る代わりかけがえのないものを失う。
得て失うか、失わず得もしないか」
「えっ」
究極の2択に私は声を出して驚いた。
出来れば選択したくないのだが、その目が許さないとばかりに捉えて離さない。
「…そうですね、私ならレシピを選びますかね」
「らしくない言い方だね、いつもならはっきり選んでしまうのに」
確かに私らしくない。今の私の悩みが言葉に如実に出ていた。
「正直どっちも選びたくないです。どちらもメリットとデメリットが大きすぎて。それでも選ぶとしたらレシピのほうがいいかなぁと」
「どうして?代償として大切なものを失うのに?」
不思議そうに私に続きを促してくる。
「だって失っても取り戻せばいいだけです。それが本当に大切なものは失ったとしても、それは表面上だけで心はちゃんと覚えてるはずです。大切なものにあったとき、直感する」
「ふっはっはっは‼」
突然大声を上げて師は笑いだした。
「君は聡明だねぇ。取り戻すかぁ、その発想はなかったなぁ」
師は席を外して机の引き出しから何かを取り出して戻ってきた。
「これをあげるよ」
そう言って渡されたのは夜の雨に濡れる紫陽花の写真だった。紫陽花だけが色を持ち、今にも夜に飲み込まれそうだ。
それだけの禍々しさと美しさを感じた。
「すごい写真ですね…」
それしか言葉が出なかった。
「これが君の役に立つ」
私は貰った写真をじーっと見つめた。
師のアトリエを出て、私は帰路に着いた。暗い部屋に電気を灯す。灯りがついても部屋は静寂なままだった。
こういう日には彼の家が恋しくなる。
だが、日常が仕事の彼に約束もなく行くのは迷惑なのでしない。
妥協のように、写真付きメールを送信した。
今日の昼友人と吟味して選んだ一枚の写真にただ一言。
『会いたい』と。
けど、そのメールに返信が来ることはなかった。
そして彼とは音信不通になり、彼の家ももぬけの殻だった。
私には分からないことだらけだった。どうして、なんでと疑問ばかり浮かぶ。
仲が悪くなったとか嫌いになったなんて最後に会った時感じなかった。彼が嘘をつけるタイプじゃないからそれはない。
もし彼の身に何かあれば誰かから何かしら連絡が来るはずだから、それもない。
なら何故、どうして、分からない。
ただ、もう会えない、終わりを告げられたことだけ理解した。
「うぁぁぁぁぁーーー」
暗い部屋で私は声をあげて泣きじゃくった。
泣いても泣いても、気持ちは色褪せることなく、どんどん深く深く重い黒を纏って心の中で大きくなっていく。
この囚われた感情と思い出だけが私を苦しめる。と同時にもう手に入らない消失感もやってくる。
『失ったら取り戻せばいいだけです』
自分の言葉が思い出す。言葉にするほど簡単なことではない。
『これが君の役に立つ』
師が言った言葉が思い起こされる。
あのとき、師がくれた写真を鞄から出した。
やはりその写真は今にも夜に飲み込まれそうだった。
けど初めて見た時の禍々しさではなく哀愁に満ちて見えた。雨が悲しみを代弁しているようだった。
私には足りないものがそこにあった。
「なんで、なんでこんな時になってわかるのっ」
はらはらと落ちる涙が写真に溶けていく。
これほどの悲しみと苦しみを私は経験したことなかった。
嗚咽が寂しい部屋の中で響く。
それでも脳はどこか冷静で、師がどうしてあんなことを聞いてきたのか、彼と音信不通になったのか、繋がらなさそうで繋がりそうな理由を探してる。
探してもそれが答えかを確かめる術は私にはないのに。
窓を叩く強い雨は私を代弁するかのように降り続いた。
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