第9話 逮捕
「おはようございます」
安田がロビーを通ると牧野は笑顔で挨拶をした。
安置室に入り、一息ついていると伊藤が来て今日の入出のメモを渡した。
「今日もお願いしますね」
伊藤は笑顔で部屋を出て行った。
タカシが腕を切りに来てからもう一週間が経つ。
あれからスマホが鳴ることも無い。
突然に奴らが来ることもない。
不気味な静かさだが、この期間が安田には大きな転機となっていた。
不安で仕方なく、誰よりも朝早くに祭儀場にやってきて、誰よりも遅く帰る。
相変わらず安置室では居眠りや競馬の予想をしていたが、それでも時間はまだ余る。
暇つぶしにと自ら求めた簡単な雑用や事務仕事をするうちに周りの評価は変わっていった。
どうやら、伊藤も牧野も皆に話しているようだ。
「安田さんは生まれ変わった」
これまでゴミを見る目で安田を見ていた職員達も一人、また一人と挨拶をしてくれるようになってきた。
そうなると不思議なもので、ヨレヨレのジャージでウロウロしていた自分が恥ずかしくなってくる。
カッターシャツを買うのも何年ぶりだろうか。
パリッとしたカッターシャツに袖を通すと次はこの無精髭が気になってくる。
そして髭を剃るとボサボサの髪が気になってくる。
元来、こうした完璧主義に近い性格の安田は凝りだすととことん凝る。
それが昔、若い頃の自分の心に重くのしかかり、永らく腐った日々を過ごしてしまったのだが、
今はそうではない。
多くの経験、加齢と共に心は強く、図太くなってきた。
今ならば心を壊すことなく、死者に向き合い慈しむことができるかもしれない。
自身の中、そんな変化に少し戸惑う程にこの一週間で安田の心は動いていた。
「安田さん」
昼を過ぎた頃、伊藤が安田に声をかけた。
ちゃんと仕事をしていると足音に気がつくこともない。
サボっている負い目が無くなれば人は堂々とできるのだ。
「あ、伊藤さん、どうしました」
伊藤は安田の机の上、並べられた書類の束を見ていつもの笑顔を見せた。
「そう言えば、ここの管理者になる前。
安田さんは事務もしていましたね」
安田は高校の頃、簡単な簿記の資格を取っていた。
それをここの事務方で発揮していた時期がある。
「そんな時期もありましたね」
「どうです、事務方に戻りませんか」
伊藤の提案にただ驚いた。
「え、いや、俺がですか」
「ここ数日の安田さんは本当に素晴らしい。
皆も噂していますよ、あの人は別人になったなんて」
「お恥ずかしい、本当に、永く腐っていてすみませんでした」
「そんなことは良いんです。
せっかくそうした能力があるのですから、事務の方に移りましょう」
すぐに返事はできなかった。
「でも、みんな認めてくれませんよ」
「認めるとは」
「俺がどれだけ皆に迷惑かけてきたか。
それが少し頑張っただけで復帰したら、きっと良い顔はされませんよ」
半分は本心で、もう半分は誤魔化しだ。
今、ここの管理者で無くなる訳にはいかないのだ。
「機会は私が作りますから。
皆が認めてくれるまで頑張りましょうよ」
伊藤の優しさが胸に響いた。
すぐにでも答えたかった。
だが、そうはいかない。
この招かざる客達が出ていくまではここにいるしかないのだ。
「伊藤さん、もう少しだけ時間をください。
まだ俺は皆に合わせる顔がありません。
もう少し、もう少しだけここで頑張って、もし許されるなら、戻してほしいです」
伊藤はそっと安田の肩を叩き、あの笑顔を見せた。
「わかりました、待っていますね」
そうして部屋を出て行く伊藤に安田は頭を下げていた。
ただただ、心の中に溢れる感謝とこれまでの恥を噛みしめながら、いつまでもその頭を下げ続けた。
やがて頭を上げると次第に怒りがこみ上げてきた。
こんな邪魔な死体が無ければ即答できたのに。
いや、こんな死体達のおかげでこうして生まれ変わるきっかけになったのだ。
何とも、複雑な気持ちになる。
ポケットの中、鳴らないスマホを手にした。
早く鳴れ、早く鳴れ。
ヤクザからの電話を心待ちにする、何とも滑稽だ。
次に浩平が来たら強く言おう。
殴られても構わない、金を返せと言うなら借金を増やしてでも返してやる。
もう、お前達とは関わらないと言ってやるんだ。
そして更に三日が過ぎた。
この日も22時過ぎまであれこれと時間を潰し、そろそろ帰ろうと祭儀場を出た。
「安田さん」
暗闇の中、聞き覚えのある声に振り返るとタカシがいた。
辺りを気にし、何度もキョロキョロとしながらゆっくり安田に近づいてきた。
「タカシか、どうしたんだこんな所で」
タカシは言いにくそうに、ボソッと呟いた。
「浩平さん、パクられました」
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