第5話 変化
一夜開け安田は朝早くに家を出た。
昨夜、家に帰ってから気がついたことがある。
それはドアに着いていた血が擦った痕をそのままにしていたことだ。
もし、誰かがそれを不審がりドアを開けてしまってはとんでもないことになる。
そう思うととても寝てなんていられなかった。
昨日もそうだが、安田は自身の意外な面に気がついた。
それは朝日の美しさが胸に響くことだった。
騒音としか思っていなかった登校する小学生達の声さえ、笑顔で見ることができた。
朝の特有の爽やかな雰囲気に安らぎを感じる自分が新鮮だ。
いつだったか、まだこんな気持ちを忘れていない自分を記憶の中で探してみる。
ずっと忘れていた、今日から頑張って働くぞとスーツに身を包み家を出たあの日を思い出した。
まだ、俺はやり直せるのかもしれない。
失っていた心のカケラがふと見つかった気がする。
祭儀場に着くとロビーの牧野が安田をみつけ、昨日のように少し驚いた。
「お、おはようございます」
昨日といい今日といい、珍しいことが続くものだ、そんな風に言いたげな目だ。
「お、おう」
安田は軽く手をあげ、ロビーを抜けようとしたが、そこで足を止めた。
「あ、牧野ちゃん」
安田に呼び止められ牧野は一瞬、体を硬らせた。
また卑猥な冗談でも言うか、悪態でも付くのだろうと思ったのだ。
「雑巾と、バケツねえかな」
「えっ」
「いや、だから、雑巾とバケツだよ」
牧野は少し黙った後で言った。
「何を、するんですか」
安田は少し吹き出した。
「何って、掃除に決まってるだろう。
雑巾とバケツ持って風呂は入らねえよ」
牧野は露骨に驚いた。
「掃除、するんですか」
「いけねえのかよ」
「いえ、そう言う訳じゃないですけど」
「何だよ、あるのか無いのかどっちだよ」
「備品室にあります。
私、持ってきましょうか」
「いいよ、俺が行く」
牧野はポカンとした顔で安田の背を眺めていた。
備品室から掃除用具を取り、安置室に入る。
昨夜よりも冷静に見ると血の跡はやはり目立っていた。
よく絞った雑巾でさっと拭いてやると血の跡はすぐに消えた。
念のため持ってきた洗剤は必要ないようだ。
誰かに見られる前で良かった、これで一安心だろう。
だが、不自然に四号機のドアだけ拭いたのが気になってくる。
言われてみれば、程度の汚れがどうにも気になって仕方ない。
いや、慎重になって悪いことなんて無い。
誰かに見られる可能性はゼロにした方が良いに決まっている。
もう一度、雑巾をよく絞り気になる部分を拭くことにした。
これでも俺は支配人なんだ。
たまには支配人らしいことをしよう。
そうして掃除をしていると背後から足音が響いてきた。
この足音は伊藤だ。
安田は雑巾をバケツにひっかけ、伊藤を出迎えた。
「おはようございます」
部屋に入ってきた伊藤はバケツと雑巾を見て牧野と同じように驚いた。
「掃除ですか」
安田は頭をかきながら言った。
「ええ、たまには、掃除でもと思いまして」
伊藤は分りやすく嬉しそうに笑った。
「ピカピカですね、素晴らしい」
はっと気がつき、安田は伊藤と四号機の間に立った。
以前、空っぽの冷蔵庫の電源を入れたままだった時がある。
ネームプレートが掛かっていないのにランプが付いているのを見た伊藤にそれを指摘されたのだ。
また電源を入れたままだ、と叱られるぐらいならまだ良い。
もしドアを開けられたらとんでもないことになる。
そう考え、四号機のランプが見えないように立ち位置を変えたのだ。
そこでふっと思い出した。
ポケットの中には今晩、飲みに使おうと思っていた五万円が入っている。
浩平からもらったあぶく銭だし、せっかくだし、本当は嫌だがそれを取り出して伊藤に差し出した。
「あの、館長、これ」
伊藤はそれに更に驚き、受け取ろうとはしなかった。
「でも、先日待ってくれと」
「へへっ、パチンコで勝った金ですから」
そう笑うと伊藤もつられて笑った。
「パチンコなんか行ってるのか、ってのは無しにしてくださいね」
二人は笑い合い、伊藤はその五万円を受け取り懐に納めた。
「何かあったのですか」
伊藤は途端に真面目な顔をして安田に聞いた。
「えっ」
急な質問に不自然なほどに声が上擦った。
冷静に考えればそんなはずはないのに、背後の死体が頭に浮かぶ。
その僅か一瞬で安田は多くのことを考えた。
もし四号機の死体がバレているならどう言うべきか。
間違えて三号機にかけるネームプレートを間違えただけだ。
伊藤がいない時に急遽、来た遺体で記録をつけていなかった。
いや、どれも不自然だろう。
ドクドクと鼓動が高鳴った。
「昨日も今日も、朝から来ていますし。
こうして掃除まで自主的にやっている。
何か思うところがあるのかなと思いましてね」
「あ、ああ、そういうことですか」
安堵と共に、大きなため息が漏れた。
伊藤は少し不思議そうな顔をしたが、あまり気に留めなかったようだ。
「俺も、後がねえですから。
少しは真面目にやらないとなって、思いまして」
勿論、口から出まかせだ。
だが伊藤はとても嬉しそうに微笑んだ。
「大変、素晴らしい」
伊藤はうんうんと頷き、先ほど受け取った五万円を取り出すとそれを安田の手に握らせた。
「えっ、なんですか」
「皆には内緒ですよ。
安田さんは古株ですからね。
私からの心付けということで」
「いや、だ、ダメですよ。
これは返済ですから」
「今日、確かに五万円を返してもらいましたよ。
もう一度言います、それは私からの心付けです」
そう笑う伊藤に、安田の手と心は震えた。
込み上げるものを堪えつつ安田は深く深く頭を下げた。
「掃除の途中でしたね、では続けてください」
伊藤は安田の頭を上げさせると軽快な足取りで安置室を出て行った。
冷蔵庫が低く唸る、静かな安置室の中。
安田は何とも言えない気持ちに包まれていた。
俺はいつからこんなに腐っていたのだろう。
どうして世界に唾を吐き続けていたのだろう。
少しのことで世界はこんなに自分を認めてくれる。
だんだんと失った心の欠片が埋まっていくようだった。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。
浩平に渡されたあのスマホだ、ディスプレイには非通知の文字。
なんだか落ち着かない、そわそわとしてしまう。
一度、二度、大きく深呼吸をして息を整えた。
そしてゆっくりと通話のボタンにタッチした。
「も、もしもし」
「さっさと出ろよてめえ」
電話の向こう側、浩平は部屋中に響きそうな大声で安田に怒鳴りつけた。
「す、すみません、人がいたもので」
「ちっ」
浩平はだいぶ酔っているようだ。
いや、もしかしたら何かの薬物かもしれない。
「安田、今日の夜に待ってろ」
「今夜ですか」
「おう、今夜だ」
「どこで、ですか」
「てめえの職場に決まってんだろうが」
「は、はい、わかりました」
あえて時間は聞かなかった。
どうせまた怒鳴られるに決まっている。
「その、あれを取りにくるんですか」
「てめえに関係ねえだろうが、何も知らねえだろお前は」
「あ、はい、そうですね」
返事の途中で浩平は電話を切ってしまった。
「なんだよ馬鹿野郎」
浩平のあまりの態度に少し苛立った。
いや、相手はヤクザだ。
まともな受け答えなんて期待してはいけない。
ポケットにスマホをしまい、いつもの椅子に腰かけた。
そして考えた。
俺は変われるのかもしれない。
今夜、浩平が死体を取りにきたらそれで終わりだ。
そうしたらまた真面目に働いてみよう。
最初はきっと嫌な目で見られるだろうが、それは自業自得だ。
そうしてまた信頼を積み重ねていけば失った心を取り戻せるかもしれない。
取り戻せるのならばそうしたい。
永く腐った日々を過ごしていたが、こんなきっかけ一つで心は変化した。
四号機のドアをみつめ、ぽつりと言う。
「お前の死が、こんな形で俺の役に立つなんてな」
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