第19話 野宿再び

 食事の後、スレインはルカに訊ねた。


「これからどうするんだ?」


 しかし、ルカは静かにオリビアの手を握り、彼女の顔を見続けるだけで、返事をしようとしなかった。


「おい、聞いているのか」


 もう一度問いかけると、ルカは不快感丸出しな表情でスレインを見返した。


「うるさいな、さっきから。僕は忙しいんだ。静かにしていてくれ」


「そういうわけにもいかないだろ。一刻も早くドラゴンを倒さないと、お前は王様になれないし、俺も借金が返せない」


「わかっている、そんなことくらい。でもいちいち次どうするかなんて僕に訊くな。それを考えるのが君の役割だろ」


 だったら、この旅におけるルカの役割とは何だろうか? と思わなくもなかったが、スレインは口にせずにおいた。


 地図を広げて、現状の確認を始めた。ドラゴンが居座るという山までもう大きな街は存在せず、山の近くに小さな砦があるだけだ。他の街に寄り道して傭兵を集めたいところだが、これ以上時間をかけたくないのが本音だった。借金返済の期限は迫っているし、何よりルカたちとこれ以上長く旅をしていたら精神的な負担に耐えられなくなりそうだ。であれば山の麓の砦で兵士を貸してもらうよう頼むしかないだろう。


 スレインはルカに言った。


「じゃあ、この砦に向かうが問題あるか?」


「勝手にしろ」


 とだけルカは答えると、再びオリビアと二人だけの世界に帰って行ってしまった。



 砦を目指して馬車を出発させると、しばらくしてオリビアが悲鳴を上げた。


「きゃあ! お助けください、ルカ様」


 震えるオリビアの肩を抱き、ルカは緊張した声で訊ねた。


「どうした、オリビア。なにがあった?」


「へ、変なものがわたくしの周りに」


「変なもの? おっ、なんだ」ルカが顔の前で手を振り払った。「これは……、羽虫か」


「いっぱい居ますね。ああ、なんておぞましい」


 ジルも不快な顔を浮かべ、オリビアの周りを飛び交う羽虫を必死に追い払った。


「爺や、この虫ども何とかならんのか?」


「そう言われましても……」アルフレッドはおろおろするばかりだった。


「こんなの、とても耐えられませんわ」


 オリビアが泣き始めたのを見て、ルカは彼女の背中を優しくさすりつつ、スレインに向かって怒鳴りつけた。


「おい漆黒。どうなっているんだ、この虫どもは」


 スレインは前方を見たまま答えた。「ここら一帯は湿地帯で、虫が大量に発生しているようだな。我慢してくれ」


「我慢だと……、うわっ、虫が口に入った。ぺっぺっ! ああ気持ち悪い。早急に何とかしろ」


「しかたないだろ。ここが砦への最短経路なんだから。お前だって早く屋根のある場所に行きたいだろ」


「そ、それは……」


 ルカの威勢が削がれた。しかしその時、ジルが一際大きな叫び声を上げた。


「ああ、お嬢様。お気を確かに! この老婆やの手をしっかりとお握りください」


 気を失いかけているオリビアの姿に、ルカは「なんてことだ!」と悲鳴を上げ、スレインに向かって大声で叫んだ。


「今すぐ引き返せ! これ以上オリビアになにかあったら、問答無用で君を縛り首にするからな!」


 さすがのスレインもこのような阿鼻叫喚の中、強行突破する気にはなれなかった。やむなく、湿地帯を大きく迂回する経路に変更した。


 しかし、最短経路を進んでいれば夜には砦に到着できる予定だったのに、迂回したせいで野宿を余儀なくされた。すると問題は、朝に食料を使い果たしてしまったということだ。


「ルカ様。さすがにわたくし、もう空腹で耐えられませんわ……」


 焚き火の前で、オリビアがぐったりと倒れるのを見て、ジルが慌てふためいた。


「お嬢様、気をしっかりお持ちになってください……。ああ、でも老婆やももう限界です」


「ジルさん」アルフレッドがジルの腕を優しく掴んだ。「大丈夫です、わしがついておりますから……。死ぬ時は一緒です」


「……だから、言っただろ」


 げっそりとした彼らの顔へ、スレインは冷たい眼差しを向けた。


「随分と他人事みたいに言いやがって」ルカの腹の虫が盛大に鳴った。「君だって飯を一杯食っただろうに」


「まあな。でも俺はこういう状況に慣れてるから。安心しろ、辛いだろうが一日くらい食わなくても人間生きていける」


「スレインさんの仰るとおりです」微笑を浮かべたハルトマンが同意した。


「いいや。僕たちは君らよりずっと繊細な体をしているんだ。一食たりとも抜いたら死んでしまう。見てみろ、オリビアの苦しみよう。心が痛まないのか?」


 オリビアはジルの腕に抱かれ、今にも天に召されそうな表情を浮かべていた。


「そんなこと言われても、どうしろって言うんだ。食料はないんだぞ」


「魚でも鳥でも何でもいいから、調達してこい」


「無茶言うな。日が暮れてからの狩猟なんて危険すぎる」


「だったらどうしてこんなところで野宿する。一刻も早く砦に向かえ!」


「叫ぶな、余計腹が減るぞ。そもそも本当は今日中に砦に着くはずだったんだ。なのに、遠回りしろと言ったのはルカだ」


 ルカはプルプルと頬を震わせるだけで何も言わなかった。この状況、日頃の自分勝手な振る舞いに対して罰が当たったのだ、スレインは久しぶりに愉快な気分になった。


「紅茶は残ってるから、今夜はそれで我慢してくれ」


「くそっ」苛立つルカは腹いせとばかりに、足元にあった石を拾うと森の中へ向かっておもいっきり投げつけた。石はきれいな放物線を描いて野営地を囲む木々の中へ消えていった。その直後、「ぐおおおおおっ!」と、恐ろしい獣の鳴き声が聞こえた。その場にいた全員が一斉に顔を上げた。


「なっ、何だ?」


 スレインは立ち上がり身構えた。と同時に、木々の間から巨大な熊が姿を現した。熊の片目から血が流れていた。ルカの投げた石が運悪く当たってしまったようだ。


 熊は二本の後ろ足で立ち上がると、鋭利な牙を見せつけ、もう一度威嚇するような鳴き声を上げた。


「ひっ、ひぇぇぇ」


 ルカが一目散に背中を向けて逃げ出し、続いてオリビアとアルフレッドとジルも走り出した。火事場の馬鹿力というのだろうか、彼らの足は空腹とは思えないほど速かった。しかし、怒り狂った熊の足はそれ以上に速かった。


 前足の大きな爪が彼らに迫る直前、剣を抜いたスレインは熊の前に躍り出て、一閃のうちに切り伏せた。どすんと大きな音を立てて熊の巨体が倒れた。


「お見事です!」


 少し離れたところから、ハルトマンが盛大な拍手を送った。


「いきなり現れたから、俺も一瞬焦った。にしてもハルトマン、お前は逃げなかったな。大した度胸だ」


「いえ」顔にびっしり汗をかいたハルトマンは首を振った。「あまりの恐ろしさに腰が抜けて動けなかっただけです」


「あっ、そう……」スレインは馬車の影でブルブルと震えるルカたちへ視線を向けた。「もう大丈夫だぞ」


「や、やったのか、本当に?」


 顔面蒼白なルカが、ゆっくりと這い出てきた。


「ああ。でも、熊でそんなに怖がってて大丈夫か。俺たち今からドラゴンのところへ行くんだぞ。この前遭遇したグリフィンに比べても脅威度はずっと低いし」


「なっ、なに? 僕が怖がってるだって」息絶えた熊を見下ろしながらルカは引きつった笑みを浮かべた。「ば、馬鹿言っちゃいけないよ。ぼ、僕は逃げたんじゃない、馬車に弓を取りに行ったんだ。君が邪魔をしなければ、僕の矢がこいつの眉間を貫いていたさ」


「まあ、ルカ様。なんて逞しいのかしら。ますます惚れましたわ」


 オリビアが法悦の表情でルカの顔を見上げた。どんな脳内変換が行われれば、恋人をも差し置いて逃げ出したルカのことをそこまで美化できるのだろうか。スレインは大いに理解に苦しんだ。


「とにかく。これで今夜の食事の問題は解決しましたな」


 と言いながら、ジルとアルフレッドが包丁を持って熊の方へ歩いていく。


 案外この二人が一番しぶといのかもしれない。

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