第2話 ブレイトン邸
応接室に現れたオスカー・ブレイトンは、彼の顔色と同じくらい青い室内ガウンを着ていた。スレインはソファーから立ち上がり、彼に向かってお辞儀した。
「お会いできて光栄です、ブレイトン子爵」
オスカーは苦笑いを浮かべた。「よしてくれ、そんな堅苦しい挨拶は。私と君の仲じゃないか」
「そう言ってくれると、助かるよ」
スレインは安堵した。今から切り出す話の返答にも期待ができそうだった。
「でも、本当に久しぶりだな、友よ。こうして顔を合わせるのは何時ぶりだ?」
「五年くらいかな。俺の両親の葬儀の時以来だ」
「そうだった。あの時はいろいろ大変だった……」
一瞬、暗い表情を浮かべたオスカーだったが、すぐに顔を上げ明るい声で言った。
「さっ、いつまでもぼさっと立っていないで、再会を喜ぼうじゃないか」
オスカーが手を二度叩くと、すぐに執事が現れた。ソファーに座ったオスカーとスレインの前にグラスを置き、赤黒い色をしたワインを注ぐと、再び音も立てずに去っていった。
オスカーはグラスを持ち上げた。「では、古き友人と、我らがかつての学舎、王立士官学校に乾杯」
オスカーに続いてスレインもワインを飲んだ。その直後、口の中で何かが激しく暴れるような感覚がして、目を見張った。
「……なんだこれ、ただのワインじゃないな」
オスカーは子供っぽい笑みを浮かべた。「さすが、よくわかったな。海の向こうから取り寄せた、まだこの国にはほとんど出回っていない珍しいワインだが、今度私が経営する商会で売り出すことになったんだ」
「確かに、飲んだことない味だ。でも正直美味いかって訊かれると……」
「味なんて二の次さ。珍しければ上流階級の連中は我先にと手に入れようとするからな」
「なるほど。君の商売が順調そうで良かった」
「そうでもないさ。いつも父上と一緒に頭を悩ませている。一つの失敗が命取りになりかねないからね」
「でもそのおかげで、今やブレイトン商会の名前を見ない街はないぞ」
オスカーは頬をほころばせた。「そういうスレインだって、最近よく噂を聞くようになったぞ。黒い長髪をなびかせ、風のように山賊や怪物を退治する凄腕の傭兵、関係者の間じゃ『疾告の剣士』なんて言われているほどだって」
「やめてくれ。その呼び名は気に入っていないんだ」スレインは顔をしかめた。「この髪の色のせいで、士官学校の時、どれだけ苦労したことか」
疾風のようにすぐさま任務完了の報告が届く、ということから疾告の剣士などと呼ばれることがあるが、もともとはスレインの髪の色である漆黒から来ている。この国に黒髪は少なく、大抵はブロンドかブラウンだ。庶民の間では物珍しいくらいの扱いであっても、異物は受け入れられないという風習が強い貴族階級では差別の対象となっていて、多くの貴族の子息が通っていた士官学校でもそれは顕著だった。
「髪の色だけが原因じゃないだろ。上級生や上流貴族相手でも毅然とした態度を示して、退かなかったからな、君は。しかも、そんな奴が首席候補となれば尚更だ」
「あいつらの言うことはいつも理不尽だから反対してただけだ。俺は正しいと思ったことをしただけだ」
「君はそういう人だよ。それに君のご両親も。だからいつも苦労してた。でも私は君に感謝している。こんな病弱な私のことを助けてくれたのはスレイン、君だけだった」オスカーは優しく微笑んだ。
「当然のことをしただけさ。ただ、そもそもそんな体で士官学校に入るってこと自体大丈夫か、と思ってはいたけどな」
「父上の意向だ。貴族たるもの武器の一つも持てずにどうする、なんて言われてしまったからな。結局、実技はからっきしだったけど、座学で得た知識は今も役にたっているから、無駄ではなかったと思う。君の方は実技の腕が生きているようだが」
「これしか、俺には残されていないからな」スレインは傍に置いた黒剣を一瞥した。
「とにかく、昔も今も君には世話になりっぱなしだ。私の商会の荷物だって何度も護ってもらったようだし。もし困ったことがあったらいつでも私に相談してくれ。出来る限り力になろう」
「そうか……」スレインは姿勢を正すと、オスカーの目をじっと見据えた。「実は、折り入って相談があるんだ」
「もちろん、遠慮なく言ってくれ」
「金を貸してほしい」
オスカーは無言で数度瞬きをすると、突然ソファーから立ち上がり、スレインに背を向けて応接室を出て行こうとした。
「まっ、待ってくれ。オスカー!」スレインは慌てて席を立ち、旧友の腕にすがりついた。「一刻も早く金を工面しないといけないんだ」
オスカーは屋敷の奥へ向かって叫んだ。「おい、客人のお帰りだ!」
「つれないぞオスカー。今さっき力になってくれるって言ったばかりじゃないか」
子爵は足を止めて、しがみつく傭兵を困惑した表情で見下ろした。
「確かに言ったが、金の貸し借りだけは話が別だ。私はこれ以上友人を失いたくない」
「頼む、そこをなんとか。でないと俺の人生は破滅だ」
「君がそこまで言うなんて。一体、何があったんだ……」
どうやら、話だけは聞く気になってくれたようだ。スレインは事の顛末をオスカーに語り始めた。
少し前、スレインの元に一つの依頼が持ち込まれた。依頼主は隣国のとある街の商人ギルドの長。彼の街のすぐ近くの山にウェアウルフという怪物の群れが住み着き、商隊を襲うようになったので退治してほしいというものだった。久しぶりの大がかりな仕事で、報酬も良い。スレインは張り切って準備を進めていたが、決行直前に突然のキャンセルを言い渡された。しかし怪物を退治しなければ被害は増してしまう。疑問に思ったスレインはギルド長に理由を訊ねたが、ただ必要がなくなったと答えるばかりではっきりしない。ならばと、独断で山に入ったもののウェアウルフはおろか狼一匹見つけ出すことはできなかった。結局、スレインのもとには準備に要した借金だけが取り残されてしまったのだった……。
「おいおい、なんだそれは?」スレインの話を聞き終えたオスカーは呆れた表情を浮かべた。「そのギルド長に準備にかかった費用を請求すればいいだろ」
スレインは苦虫を潰したような表情を浮かべた。「それが、全額成功報酬っていう契約で……」
「あー、なるほど」オスカーはすべてを理解した様子で頷いた。「スレイン、準備で用意したものは全部そのギルドに加盟した店で用意したんだろ」
スレインは驚いて、オスカーを見返した。「……よくわかったな」
「それ完全に詐欺だな。規模の小さな傭兵集団に仕事を依頼する一方で、準備品を自分たちの店で買わせて、最後は難癖つけて報酬を払わないってやつだ。立場の弱い傭兵たちは泣き寝入りするしかない。最近流行ってるらしいぞ」
「なんだって! あのたぬき親父。俺を騙したのか!」
スレインが歯軋りする様を見て、オスカーは「はーっ」とため息をつきながら首を振った。
「その騙されやすい性格は士官学校の頃から変わらないな。人が良いことの裏返しではあるんだろうけど。でももう少し人を疑うことも覚えろ。そんなんだから、ご両親の遺産だって親戚連中にむしり取られるんだ」
「くっ……」
スレインは当時の悔しさを思い出して、奥歯を噛み締めた。ボルト家は小規模ながら歴史ある貴族であり、両親が亡くなった時、本来であればスレインがその地位と遺産を引き継ぐはずだった。しかし親戚連中の策略に嵌まり、根こそぎ奪われてしまったのだ。スレインのもとに残されたのは、ボルト家に代々伝わる黒剣とその他わずかな骨董品のみ。スレインは先祖の剣を持って傭兵として身を立てていくより他になかった。しかし、今回のことで、両親の形見の品々はすべて質屋に抑えられ、このままでは商売道具である黒剣も手放さざるをえない。それは生きること、更には家族の思い出と貴族だった時の誇りを捨てることに等しく、スレインにとっては耐えがたいものだった。
オスカーは言った。「君の境遇はわかった。辛いだろうが、でも申し訳ないが金だけは貸せない」
「これだけ頼んでもか? 友だと言ってくれたのに」
「友人だからこそだ。代わりと言ってはなんだが、仕事ならいくつか紹介してあげることもできる」
「ありがとう、でもあまり時間がなくてね」
スレインは席を立つと、ブレイトン邸を後にした。
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