第44話-① 宰相閣下の外遊
帝国暦五九〇年八月一〇日〇九時四八分
ライヒェンバッハ宮殿
「たまには出かけてきなさいな、あなた」
「はっ?」
突然の皇帝の言葉に、柳井は何のことか検討が付かず、口を半開きにしていた。
「宰相府、随分順調に回ってるみたいじゃない。たまには骨休めに行ってきなさいよ」
「休暇をくださると?」
柳井は珍しく笑みを浮かべて、皇帝に一礼した。休暇が楽しみなのではない。柳井は皇帝が何を考えているのか思考しているのだった。
「そんなに私が優しく見える?」
「いいえ。何か用事をお申し付けになると」
「あなたのそういうとこ好きよ。マルティフローラ大公国に寄って、リーヌス殿下の様子を見てきて欲しいの」
リーヌス・フォン・マルティフローラ・ノルトハウゼン。前大公の忘れ形見で、現在一歳と二ヶ月。まだ何事か一人で行なう歳ではないので、この場合は後見人と領邦政府の様子を見てこいということになる。
「なるほど……しかし以前の行幸でお会いになったのでは?」
「儀礼的なものよ。それに皇帝が大公の養育に介入するのはあまりよろしくないのよ」
「そういうものですか……まあ、最終的に後見人を選出したのも私ですからね。一度ヴァイトリング皇統子爵ともゆっくり話をしたいと思っていましたし」
アウレリヤ・カーヤ・フォン・ヴァイトリング皇統子爵は、宰相府事務総長のシェルメルホルン皇統伯爵の紹介で柳井の知己を得た人物だ。
傑物、といって差し支えない行政能力、経済センスで東部軍管区の経済成長を順調に成し遂げた才女でもある。
「よろしく。あとあなたの愛して止まない第二三九宙域にも視察をしておきなさい。たまに顔出ししとかないと、皆忘れちゃうわよ、あなたのこと」
「分かりました。できるだけ早く戻ります」
「宰相府があるんだからゆっくりしてきなさいな。一ヶ月ほど留守でも構わないわよ?」
「それをやると、私の机が合成紙の山で埋もれてしまうので」
柳井の苦笑いに、皇帝は臣下の相変わらずのワーカーホリックぶりを笑った。
八月一二日二一時三四分
超空間内
近衛重戦艦インペラトール・メリディアンⅡ
艦橋
種々の業務引継やら準備を終えた柳井が、マルティフローラ大公国へと向かったのは二日後の八月一二日。随員はジェラフスカヤ、バヤール、ハーゼンバインの三人の宰相付侍従だ。
「宰相閣下、マルティフローラ大公国首都星までは一二時間ほどの航程です。お休みになられては? 私も当直士官に後は任せますから」
すでに艦は超空間に潜り、一路マルティフローラ大公国首都星シュンボルムへと向かっている。艦長のパウラ・ブロックマイアー近衛大佐の言葉に、柳井は司令官席から立ち上がった。
「ああ、いつもの部屋だな?」
「はい、いつもの部屋です。その前に酒でもいかがですか? シュンボルムで良いのが手に入りまして」
柳井は近衛重戦艦インペラトール・メリディアンⅡを度々借りて移動していた。民間船を使うことも許可されていたが、どのみち護衛艦を付けねばならず、だったら最初からある程度の戦闘力を持つ近衛艦で移動する方が手っ取り早いというものだった。
なお、ジェラフスカヤ達からは、この移動方法について口には出さないが不評である。近衛艦として、また重戦艦として居住環境はかなり良いはずだが、そこは柳井のように人生の大半を軍艦の中で過ごしている人間とは異なる感覚なのだろう、と柳井は納得しておいた。
すでに彼女らはあてがわれた部屋で休息しており、柳井も自室に戻り次第、遠隔で出来る仕事を済ませてから寝るつもりだった。
二一時四二分
艦長室
艦長室に入ると、艦長は戸棚の中から精微な装飾が施されたウイスキーの瓶を取り出した。
「私のスーツなら六着は買えそうだな」
「そこまで高い物ではないですよ。ただ、味は一級品です」
帝国領内の長時間潜行中は、大抵の帝国軍艦では飲酒が許可されている。アルコール解毒剤のある現在、もし緊急事態が生じても一服すれば問題ないというのもその判断の一つである。
「では帝国の弥栄を祈って」
艦長がそう言うと、柳井もグラスを掲げた。
「しかし宰相閣下は何もあのような狭い部屋でなくても」
近衛艦、特に戦艦クラスにはいつ何時皇統や皇帝が乗艦するか分からないので、その格式に見合う部屋も用意されていたが、柳井はいつも平参謀クラスが使う個室を希望していた。艦長室よりも大分狭いものなので、申し訳なさを覚えた艦長はこうして柳井を自室に招いて酒を振る舞うのである。
「広すぎる部屋は落ち着かないんだ。宮殿の部屋なんて私一人で一戸建てに住むようなものだ。落ち着くより先に広すぎて不安になる」
「職業病ですな。広場恐怖症なんてのも精神医学の業界ではあるといいますが」
天井高もそこまで高くない艦内空間は、慣れない人間には圧迫感があるという。しかし柳井にとっては手を伸ばせど届かない高い天井の方がよほど落ち着かない。柳井は軍艦内の生活に適応しすぎていた。
「恐怖とまではいかないんだが。日常生活を送るなら、立って半畳寝て一畳、天下取っても二合半などと言うではないか」
「東洋のコトワザでしたか。まあ、軍艦暮らしが長い人は皆同じようなことを言いますよ。足るを知るものは富むとも言いますが」
「老子だな。富めばいいのだが……」
ブロックマイアー艦長は、柳井のぼやきにクスクスと笑った。
「閣下に富んでいただかなくては、我々も夢がありませんよ。何せ帝国史上、閣下ほどの出世をした方は珍しいでしょうから」
八月一三日一〇時三九分
マルティフローラ大公国
首都星シュンボルム
領邦首相公邸
応接室
「ようこそお出でくださいました、宰相閣下」
「こちらこそご挨拶が遅れまして、ご無礼を。キルピヴァーラ侯爵」
キルピヴァーラ皇統侯爵家はマルティフローラ大公国では名の知れた有力貴族の筆頭で、マティアスはその当主だった。彼は大公国でも有数の鉱山惑星開発企業グループの会長を務めた後、政界進出。現在は前大公と共謀したために辞任した前首相の後を引き継いで、領邦首相を務めている。
「大公国は閣下に感謝せねばならぬ立場です。リーヌス様の養育のことまで気に掛けていただいたのです。我々領邦政府も、信頼回復に全力を挙げて尽くす所存と、陛下には改めてお伝え願いたい」
マルティフローラ大公国は元々三二一年のクラウスの乱以降、ノルトハウゼン家が大公家を相続し、領邦中の領邦、帝国の屋台骨と言われるまでの成長を続けていた。領主の支持率も概ね八割台で安定し、政治的にもかなり盤石な体制を構築していたのだが、永田文書による混乱はそれらを一夜にして瓦解させた。柳井が考えていたよりも文書に記された内容が、領邦市民にはショッキングだったのだろう。大公と大公政府の支持率は、大公が自裁の栄誉を賜るその日の時点では領邦とも二割を割り込み、大規模なデモ活動も発生。
皇帝が配慮した大公の遺体返還については好評だったと言うが、それでも棺を乗せた車列に投石やペイント弾を投げつけるものまで現れて騒然となったという。
しかし、その後リーヌス・フォン・マルティフローラの大公位継承については概ね支持されており、後見人が東部軍管区の能吏ということも相まって成人すれば大公国は安泰だという声も多い。これを決定した皇帝と宰相への評価も高いということで、柳井は安堵していた。
「そういえば、ヴァイトリング子爵とはお会いになりましたか? 今日、ちょうど来ているはずですが――」
キルピヴァーラ首相の言葉と共に、応接室の扉が開かれた。
「宰相閣下、お初にお目に掛かります。アウレリヤ・カーヤ・フォン・ヴァイトリング皇統子爵でございます」
「実際にお会いするのは初めてですね。柳井です」
ヴァイトリング子爵は女性としては骨太な印象を与える体格で、さすが子育てと東部軍管区の成長を両立させてきた女傑、と柳井は感心していた。
その最中、乳母が乳児を連れて応接室に入ってきた。
「失礼いたします。大公殿下でございます」
「じーじ!」
「おお、殿下、今日もご立派でいらっしゃいますなあ」
じーじ――祖父の幼児語だ――と呼ばれたキルピヴァーラ首相は相好を崩して、乳母に床へ降ろされた大公が歩み寄ってきたのを抱き上げた。
「じーじ! ばーば!」
「はい殿下。ばーばはこちらに」
帝国最大の領邦の領主が、幼児語で首相と後見人を呼ぶ姿などなかなか見られないな、などと柳井は興味深げに見守っていた。
「殿下はお元気なようで。言葉も話されるし、もう一人で歩いているとは」
「子供は一日ごとに成長するものでございます。この位の年頃の子供はそういうものと」
乳母の説明に、柳井はそういうものなのかと感心した。なにせ柳井自身は子供が居ないので、その辺りのことはほとんど感覚として掴めていない。
「大公殿下、こちら、宰相閣下ですよ、ご挨拶は?」
「あー? あっか……かっか!」
「おお……! 殿下はご聡明であらせられる」
少し屈んで、抱き上げられたリーヌスと目線を合わせた柳井は、以前、リーヌスが六ヶ月のころ、大公の腕に抱かれたこの乳児と会ったときのことを思いだしていた。
「この子にとって、私は親の仇です。いずれこの子に討たれるとしても、私は後悔いたしません」
「閣下、それは……!」
さすがにキルピヴァーラ首相が慌てた様子だったが、柳井は別段気にするでもなく、リーヌスのぷくぷくとした手を優しく撫でた。
「ヴァイトリング子爵、あなたにはご面倒をおかけするが、どうかリーヌス殿下には嘘偽りなく、様々なことを教えてやってください。キルピヴァーラ首相も、政府の運営はお任せいたします。大公国は帝国の屋台骨。陛下も心配されておりますが、大丈夫だろうとお伝えできそうです」
柳井がそう言うと、ヴァイトリング子爵とキルピヴァーラ首相は安心したように顔を見合わせた。リーヌスはその間も、キルピヴァーラのネクタイを引っ張って遊んでいた。
柳井にとってこれは序の口。本題はこのあとの政府閣僚との会談にあった。大公と後見人のヴァイトリング子爵が退室した後、柳井とキルピヴァーラ首相は場所を首相執務室へと移した。
一一時一二分
首相執務室
「先の政権で閣僚の半数が検挙、ですか」
首相と共に先の動乱後の検挙状況を聞いていた柳井は、苦虫をかみつぶしたような顔で報告書に目を通していた。
「これは官僚機構の立て直しも急務ですね」
ジェラフスカヤも同じ物を見て溜息交じりに言った。
「一番痛いのは財務省です。幹部の半分が関与していたのです」
マクスウェル法務大臣が事務官のメモを見てそう言った。
「覚悟はしていたがすさまじい状態ですね。パイ=スリーヴァ=バムブーク候国の領邦政府に支援を依頼されては?」
ハーゼンバインの言葉に柳井は頷いた。
「これでは来年度予算案までに体制が固まりませんね。首相、いかがです?」
「是非もありません。こちらも早急に組織の立て直しを行ないます」
大公国の政府組織は大きいが、あまりに前大公と近すぎた。まだ実害が出ていないとはいえ、これは後々になって影響が出てくるものだ。
柳井はそう気を引き締めて、時折大公国の様子も報告するように、とキルピヴァーラ首相に依頼した。
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