第43話-④ 帝国宰相府
七月二日〇八時三九分
「……」
ウィーンは比較的年間平均気温が低い都市で、柳井の生家がある日本地区に比べれば幾分過ごしやすい。それでも夏の日差しは強烈で、楡の間から見える宮殿の中庭も朝日に照らされてギラギラと輝いているようだった。
朝食を済ませた柳井は少し早めに楡の間に入り、ニュースの確認に勤しんでいた。昨日出立した皇帝一行はすでにマルティフローラ大公国に達し、今日はリンデンバウム伯国に訪問したあと、ヴィシーニャ公国、コノフェール侯国、ヴィオーラ公国、パイ=スリーヴァ=バムブーク侯国、それに東部軍管区首都星ロージントンを経由し、東部辺境巡視の後ピヴォワーヌ伯国を巡るルートだ。
一週間という旅程を考えればかなりの強行軍であり、じっくりと巡る場合はまた戸別に訪問することになるだろう、と柳井は考えていた。
「おはようございます、宰相閣下」
「ああ、おはようハーゼンバイン。まだ早いぞ」
「U&Vで美味しそうなクッキーが出てまして、おひとつどうです?」
「もらおう。コーヒーでも淹れてもらえるか?」
「もちろんです」
ハーゼンバインは甘いものに目がない。特に新商品については必ず購入しているという。柳井は普段酒のつまみくらいでしか菓子をの類いを買わないので、新鮮な気分になる。ゆるいウェーブの掛かった髪と垂れ目も相まって、宰相府と楡の間のムードメーカーでもある。
「どうぞ」
「ありがとう。うん、美味いな。このナッツがゴロゴロとしているのが、また……」
「そうですよね! これが市販品だって言うんだから、よく作ってますよねえ」
などと雑談していると、再び楡の間のドアが開かれた。
「おはようございます、宰相閣下」
「おはようジェラフスカヤ。今日は確か半休だったな」
「ええ、申し訳ありません」
「いや、お子さんのことだから。気にせず行ってくるといい」
こう見えて一児の母であるジェラフスカヤ。子供の授業参観があるということで午後休を取っている。官僚としても中々ハードワークをこなしてきたはずだが、その当たりと折り合いを付けながら子育てというのも大変なのだな、と柳井は感心していた。
「宰相閣下、おはようございます」
「おはようバヤール。あの後まだ走っていたのか?」
「ええ。閣下も距離を伸ばしてみては?」
体力作りが趣味のバヤール。柳井もさすがに運動不足を解消しようと、彼の早朝宮殿内ランニングに付き合ってはいるが、二キロほど走った程度だ。ユベールは倍は走っているから、足腰含めて出来が違う。一度自宅に戻って着替えてきたバヤールは、疲れも見せず清々しい笑みを浮かべていた。
「まあ、考えておこう」
三人の侍従が揃って、コーヒーを飲みつつ他愛もない雑談をしていると、宰相府の業務も始まる。隣室の
〇九時〇四分
楡の間
「おはよう」
「おはようございます、宰相閣下。平常通りです」
シェルメルホルン事務総長の報告はいつも簡潔だった。
「月初の決裁関連もまだ来ているが、昨日ほどの量ではないか」
「はい。また宰相閣下にはこちらの特異案件をお願いします」
トレイに乗せられた瀟洒な封筒の山を見て、柳井は苦笑いを浮かべた。
「わかった。今日中に目を通す。こちらは頼む、事務総長」
「はっ」
「ああ、それと――」
数点の確認事項と軽い立ち話を挟み、柳井は楡の間へと戻っていった。
〇九時一五分
楡の間
「閣下、上院議長と下院議長が表敬訪問だそうですが」
戻ってきたそばからジェラフスカヤの報告を聞いて、柳井は首を傾げた。
「何? この前陛下に拝謁していたではないか……陛下の留守を狙ってきているな。わざわざ私にあって何を聞き出したいのやら」
「陛下の本音を知る男。巷では宰相閣下をそう評しているようです」
「まったく。陛下の本音など分かってたまるか。恐ろしいことだ」
柳井は首を振ったが、実際問題としてメアリーⅠ世の真意を知るのは柳井とピヴォワーヌ伯オデットの二人しかいないと言われている。
「わかった。適当な部屋に通してくれ」
その後、両院議長だけではなく、最高裁判所長官、各省大臣、議会の各政党の幹事長や委員長、財界のトップ、各省次官級なども相次いで来訪。分刻みの申請は昼過ぎまで続くのだった。
「メアリーⅠ世は怖がられてるのかな」
「はっ?」
ちょうど楡の間に来ていたシェルメルホルン事務総長は、柳井の言葉に反応して振り向いた。
「いや、私のような元サラリーマンならともかく、海千山千の政治家や経済人までもが、わざわざ陛下の留守を狙って……一度拝謁したにもかかわらずわざわざだ。どういうつもりかな? まさか私の買収でも企んでいるのか?」
「違うと思いますね。ともかく陛下の真意を探りたいのでしょう。陛下はそういうまどろっこしいやり方を何よりも嫌うでしょうから」
直情径行が服を着て歩いている。そう評されるメアリーⅠ世の性格を一番理解している柳井は、事務総長の言葉に頷いたが、同時に顔を
「聞けばいいではないか」
「まあ、そこは陛下と宰相閣下の関係のようにはいかないのでしょう。普通の人間なら、陛下の前で旧友と痴話喧嘩したり、陛下に皮肉など言いませんよ」
「ご忠告痛み入るよ」
「そういうところですよ、閣下」
ジェラフスカヤの言葉に、柳井は苦笑を浮かべた。
柳井は殊更自分が有能とは思っていなかったが、メアリーⅠ世の理解度では帝国内でも随一。せっかく皇帝がやる気を出して国政改革を志すなら、その意志をソフトな形で伝えるのも帝国宰相の役割と考え、午後も続いた来訪者の波を裁きつつ、自分の仕事も進めた。
一六時四九分
木蓮の間
「ジブリールⅠ世以来の大鉈ですな」
帝国議会で現在最大勢力を保持する帝国民主党の総裁は、現首相のカルロス・ムワイだが、今回柳井が会談を申し込んだのは幹事長のマルケス・デ・ヤン・ロドリゲスだ。彼とは柳井も幾度か会合の席を設けており、現政権との重要なパイプを構築していた。
ロドリゲスが驚いたのは、省庁統廃合と整理についての構想を柳井に聞かされたからだ。
「はい。これを成し遂げるには多くの方々のご協力と、長い年月を必要とするでしょう。私は陛下より過分なる地位を頂きましたが、私が叫んだところで、議会の皆様方にご了承を得られなくては何もなし得ぬ身です。どうぞ、ご協力を賜れれば幸いです」
面と向かって不満を表明するものは居ないとはいえ、柳井としてはなかなか手応えのある会合になったと考えた。そもそも帝国議会というのは皇帝の鶴の一声でいつでも結論がひっくり返される、という疑心暗鬼をうっすらと生じた状態で運営されている。無論彼らは自分達の国家の仕組みを理解も納得もしているが、メアリーⅠ世という極めて能動的な皇帝の出現に一種の警戒心を抱いていても無理からぬことではあった。なにしろ先帝バルタザールⅢ世の場合は、マルティフローラ大公の専横を許すまでの間はほとんど介入しなかった。その疑念を解きほぐす糸口は見つけられた、と感じたからだ。
「ロドリゲス先生には議会で帝国官公庁の改革について、議論を活性化していただきたいのです」
柳井の言葉に、ロドリゲスは意外そうな顔をして、ソーサーにカップを置いた。
「官公庁をスリム化して財政支出を減らすと?」
「いえ、今時小さい政府なんて流行りませんよ。かつて存在した国家群では、幾度かそういった試みは行なわれてきましたが、結局民間負担の増大だけが残ってきた。国がやるべきことは国がやるべきです」
「そうですな。拡大すべきは拡大し、効率化を図るという方が正確でしょうか? 実は今度定期の党首討論会が行なわれるんです。その場でこれがテーマになるように、各党にも話を通してみましょう」
七月三日〇九時三二分
皇帝廟
「……なんともまあ、いつ見ても荘厳ではあるな」
初代皇帝アーサー=メリディアンⅠ世から先帝バルタザールⅢ世までの遺灰が埋葬される皇帝廟は、石造りの荘厳な建物だ。帝国皇帝は定期的に皇帝廟を参るのも公務の一つとされており、初代皇帝の命日である八月三日は毎年宮中儀式として皇帝廟に訪れるが、そのほか、毎月三日に一度は訪れ、皇帝自ら献花するのが慣例となっている。また、皇帝不在の場合は名代が墓参するのが通例だった。
これも、皇帝と帝国というシステムの権威付けのためには必要不可欠な儀式だった。
「大主教、お待たせしました」
ミラ・ルジイマナは帝国国教会の事実上のトップであるウィーン大主教を務める小柄な女性だ。大主教就任から二〇年を経て、先帝崩御後に行なわれた大主教改選も事実上の白紙委任で続投している。
「いえいえ宰相閣下もお忙しい身と聞きます。二つに分裂しても足りないとか」
「五つくらいに分裂できればいいのですが……早速ですが、月例の拝礼を行ないに」
「はい、どうぞこちらへ」
アーサー=メリディアンⅠ世は帝国という人類統治システムを作る際、歴代皇帝を神格化し、国教会で
そういういきさつもあり、些か過剰とも言えるほど皇帝廟は荘厳な造りとされている。比較的合理的な造りの宮殿などと異なり、薄暗く、迷路のようになっている。しかしながら皇帝廟は誰でも参拝することが出来るもので、観光客や一部の皇帝至上主義者――極右と言い換えてもいい――の一段が柳井とすれ違うこともある。
物珍しさに写真に収めるもの、歓呼の叫びを上げるもの――やはり極右――などに好奇の目を向けられつつ、皇帝ならもっと上手く対応するのだろうか、と柳井は声を掛けられ軽く手を上げる都度に考えていた。
「こちらが、埋葬室です」
円形の部屋は直径一〇〇メートル、高さ三〇メートルを超える広大な空間で、その中央部へ向けて四方から通路が延びる。皇帝の墓は台座と等身大の像がセットになったもので、高さは三メートルほど。地球帝国の規模を考えれば、皇帝の墓としては小さなものだ。
「宰相閣下は、ひょっとして皇帝廟は初めて参られるのですか?」
「幼年学校の修学旅行で連れてこられて以来でしょうか。あの頃はまったくこういうものに興味関心がありませんでしたが」
いささか罰当たりともいえる柳井の発言だったが、ルジイマナ大主教は微笑みながら頷いた。
「そういうものでしょう。大人になるに従って帝国というシステムに馴染んでしまうと、自然に皇帝廟も神聖なものに見えるものです。子供の方がそういう意味では真理が見えているのかも」
大主教の座にある者の言葉にしては些かこれも罰当たりともいえたが、国教会そのものが旧来の宗教の権威を削いで統一政体を作る際の障害にならないようにするための、いわば当て馬に過ぎなかった。
それが現在帝国の国教となりおおせたのは、国教会は厳しい制限を課さない緩い教義であり、冠婚葬祭等、式典のための形式に過ぎないこととも無関係ではない。人は易きに流れるもので、生活の全てを雁字搦めにするような旧宗教を疎んじるまでに一〇〇年もかからなかったのだ。
かつてのように服装や食事を制限されることもない国教会は、宗教というものをそこまで重視しない人間にとっては必要十分な存在だった。
「しかし、これで墓は一三。スペースはまだまだ大分空いてますね」
「国父メリディアンⅠ世は、この間が一杯になる程度まで帝国が存続してくれればいいと考えていたようですね。墓の大きさが変わらなければ、二〇〇代程度は詰められるかと」
「二〇〇代……果たしてそれまで人類が文明を維持できているのやら」
「どうでしょうね。私としては、生きている間くらいは平穏であってほしいと願っております」
「生きている間だけでも、ですか。生きている人間が皆、そう思って最善を尽くすのです。あまり自分のことばかり考えても先細りますがね」
「それもそうです。さて閣下はお忙しい身。手早く済ませましょう」
大主教は国教会で定められた祈りの文句を
一〇時一三分
近衛軍司令部
地下通路
「なるほど、宮殿とはここで繋がっていたのか」
柳井は赤い絨毯が敷かれるには無骨な通路の壁を見やり、階段を降りていた。
「はっ、万が一の時はこちらから皇帝陛下や宰相閣下、宮殿スタッフは避難していただく手筈となっております」
柳井に説明したのは、近衛軍補給参謀長のレズリー・カートライト少将だった。彼は近衛本隊の出撃に際し、帝都に居残りを命じられた居留守部隊の統括を命じられている。
「使われないことを祈っています」
「それは無論ですな」
近衛軍司令長官は現在メアリーⅠ世が兼務しており、近衛参謀長は柳井の古い同僚アレクサンドラ・ベイカー近衛軍中将が侍従武官長と兼任で務めている。これは帝国史上でも珍しいことではなく、メアリーⅠ世が公爵に叙爵され司令長官に任じられるまでは、先帝バルタザールⅢ世が同様に兼務していた。そもそも、近衛軍が実戦に出ることはほぼないと言ってもいい。
「こちらが近衛軍の地下発令所でございます。軌道上からの砲爆撃に耐えうるよう設計されており、同様の設備が国防省の地下にも設けられております」
広大な空間は幾重ものモニターやコンソールが所狭しと並んでいるが、柳井が立っているのはそこからワンフロア分かさ上げされた司令長官席の置かれたフロアだった。司令長官席の横には、さらに豪華な装飾が施された皇帝用の席もある。
「なるほど……本土決戦も想定ですか」
「まあ、昔の名残というものです。宮殿司令室が使えないような状況になった時点で、帝国は終わりでしょう。大佐、宰相閣下がお越しだ、現在の状況を」
「はっ、近衛大佐、ライアン・ミルザハーニーであります」
ミルザハーニー大佐は国防大学を出てから近衛一筋の生え抜きで、柳井とほぼ同い年の中年女性だった。
「現在近衛本軍はピヴォワーヌ伯国の訪問を終えて、東部辺境を航行中。ようやく折り返しです」
「そうか。陛下にお変わりはないだろうか」
「はっ、お元気と、武官長より報告が」
「ヒマで死にかけている、ということもないなら何より。帝都残置の部隊も問題ないですね?」
「無論です。練成も進んでおります」
「しかし、皇帝自ら艦隊を率いて出撃とは。今は平時ですからいいとしても、戦時となれば……」
カートライト少将の懸念は柳井も抱いていたものだった。
「極めて不敬な物言いになりますが、陛下もそこまで猪突されるとは思えません。それに辺境の戦闘ならば第一二艦隊他、東部軍管区が対処できましょう」
ミルザハーニー大佐の言うことはもっともだと柳井は理解していたが、不安を払拭するほどのものではない。
「だといいのですが。あの陛下のことです。自分で賊徒迎撃に出られると言っても不思議ではありません」
「……近衛の方でも、陛下が前線に出ることを前提とした作戦を検討しておくべきでしょうか?」
「そうですね。ミルザハーニー大佐、カートライト少将、恐らく同じ事を武官長も考えているでしょう。検討だけは進めておいてください」
「はっ」
このほか、各所の視察を含め、柳井は皇帝不在時の代理人としての仕事もそつなくこなしていく。宰相府の稼働開始は宮内省の負担軽減にもつながり、皇統貴族の監理、特にその財政面での監視体制を必要十分にすることや、埋もれていた人材発掘などの業務に割く人員が増え、今後の皇統貴族社会の有効活用という皇帝の考えに則したものとなっていった。
一週間後、皇帝は満足しきった顔で宮殿の門をくぐり、疲労困憊していた柳井の姿を笑ったという。
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