第43話-① 帝国宰相府


 六月一〇日

 一三時〇三分

 ライヒェンバッハ宮殿

 一般職員用食堂


 柳井が宮殿の住人となって、すでに一ヶ月が経とうとしていた。この間に柳井は宰相府の開設準備を行いつつ、関係各省庁に対して皇帝の政策構想を伝達したり、それに伴う省庁再編の可能性を示唆したり、既に精力的に動いていた。


 官僚組織は一度決まったことを実行し、継続するのは得意でも、新しく何かを始めるのには大変な労力が必要になる。これは帝国に限らず古来より変わらない宿痾しゅくあだった。柳井に期待された立場はそれらへの催促、皇帝流に言えばケツを叩きまくることであった。


 そんな彼の昼食は、当然ながら時間が掛からず、安く、手軽に腹を満たせるものに集中する。


「宰相閣下、お部屋までお届けしますが……」

「蕎麦一杯を出前させるのも気が引けてしまって……」


 柳井の故郷である極東管区日本地区をはじめ、帝国本国では蕎麦の実を使ったメニューというものは多い。柳井が好むのはやはり故郷でも味わえる麺類としての蕎麦であり、宮殿の職員用食堂でも廉価なメニューとして知られる。


「宰相閣下! そんな立ち食いだなんて。我々はもう食事を終えましたので、こちらをお使いください」

「ああいや、もう食べ終わるから……」


 ライヒェンバッハ宮殿の一般職員が使う食堂は、手ごろな価格で食事が出来るので柳井としては重宝すると考えていたが、既に柳井の顔は全ての宮殿内スタッフに知れている。それらの情報が週刊誌などのメディアに流れ、普段の服装と出自からサラリーマン宰相という異名が柳井に付くのに一ヶ月を要しなかった。


 本来なら陰口に近いのだが、爵位以外の出自が庶民であり、前職がサラリーマンなのは事実だと柳井は全く気にしないどころか、各所でのスピーチでは自ら取り入れてしまっていた。柳井自身への周囲の反応も、彼自身がややシニカルなことを除けば年齢相応の落ち着きと表面上一般的な倫理観を備えており、好意的に見られていた。


 昼食時は職員でごった返す食堂には、立食用の簡易テーブルも多い。地味なスーツ姿で目立たないと柳井は考えていたが、むしろ侍従の濃紺詰襟制服や、近衛兵の煌びやかな軍服姿の入り混じる食堂内では逆に目立った。早寝早飯は軍人の心得だが、文官として帝国最上位とも言える地位の人間がやることではない。


(やはり部屋で食うことにするか?)


 自分の利便性を重視していては、周辺の人間を萎縮させてしまうかもしれない、と今更ながら柳井は考えていた。ともかく柳井という男は皇統としてある程度持つべき、自分の地位と爵位に比するある種の傲慢さが欠片もないのが問題と言えば問題だった。


 蕎麦を啜りながら、はたして皇統貴族の模範的な昼食とは何なのかと考えていた。



 一三時五〇分

 樫の間


「そりゃあ、義久が悪いわ」

「はあ」

「気の抜けた返事ねえ」


 臣下としては異例とも言える砕けた関係というのがメアリーⅠ世と宰相柳井の関係だが、大抵の人間が見ればあまりに緊張感がないものだから唖然とすることだろう。


「多少は貴族趣味も身につけてくれないと困るわ」

「努力はしましょう」

「いくらなんでも立ち食い蕎麦はちょっと……」


 ジブリールⅠ世は帝位にある間に三人の宰相を任命したことで知られているが、第一代宰相のグエン・シー・タモン、第三代ヨアンナ・キムの二人は爵位を持たない官僚だった。彼らの日常は宮廷史にもあまり記載が無いが、柳井ほど庶民じみてはいないと皇帝は考えていた。


「それよりも、あなた思っていたよりもケチね。ラーメンとかカレーとか、蕎麦とかハンバーガーとかばかり食べてるそうじゃない。学生じゃないんだから……」


 柳井は年齢の割にスマートな体型を維持していたが、これは民間軍事企業の常務という過酷な管理職生活が為せる業だった。健康診断でも特に所見が無いということもあってか、柳井は食生活をあまり気にしていない。


「俸給はこの前提示したとおりの額よ。これでサラリーマン時代と同じ食事しかしてないと、私があなたの俸給ケチってるみたいじゃない」


 柳井の俸給は年間四五〇〇万帝国クレジットと定められていた。これは帝国特別職給与規程に基づく総理大臣のものとほぼ同程度である。また、柳井のような一般市民からの登用者に宰相のような権威をもつ職を与えても、暮らしぶりが改善されなければ帝国の沽券に関わるからこそ、この高給だった。


 さらに、柳井の場合はこれ以外に宮廷機密費から一〇〇〇万帝国クレジットが政務予算、その他交通費などが五〇〇万帝国クレジット充てられており、不足する場合は任意の額を宮廷費から引き出せることになっていた。無論、よほどの重要機密事項以外の用途は公開される。


吝嗇家りんしょくかと言ってくだされば幸いですが」

「同じでしょ、いやもっと酷いわよ、それ。祝儀不祝儀の金くらいちゃんと出すのよ」


 なお、柳井のように皇帝直属の臣下ともなると、皇帝の名代として高位の皇統や官僚、政治家の冠婚葬祭に出席することもある。先述の政務予算が任意に宮廷費から支出できるようになっているのも、祝儀不祝儀の支出も考えてのことである。


「今日は夕食を共になさい。貴族のなんたるかってやつをたたき込んであげる」

「はっ、身に余る光栄です」

「思ってもないことをいうと上滑りするわよ」



 一九時一〇分

 紫檀したんの間


 紫檀の間は皇帝の食事を行なうための部屋で、政府高官などを招いての会食なども執り行われる。


 皇帝に家族がいれば共に食事をとることもあるが、皇帝の父親であるアルツール・ギムレットは爵位継承権を放棄して東部軍管区辺境の開拓に従事しており、母コーディリアも同行。夫婦仲は良好。


 兄のヘルマン・フォン・ギムレットは祖父であり現パイ=スリーヴァ=バムブーク侯爵オスカーの補佐、また次代侯爵として領邦経営の一角を担っている。


 そして妹であるマチルダはヴィオーラ公国領主代理として領邦にいるとなれば、宮殿には皇帝の肉親が誰も居ない。盟友であるピヴォワーヌ伯爵オデットが時折帝都を訪れた際に同席する程度だ。なお、ピヴォワーヌ伯爵と皇帝はそれぞれ末弟と末妹が夫婦であることから義姉妹ぎしまいであり、従姉妹いとこの関係でもある。


 ともかく、皇帝は普段、給仕の者を除けば一人で食事を取ることになる。そこでメアリーⅠ世は時折柳井や宮殿の侍従などを招いた夕食会を開いていた。この日皇帝に陪席したのは帝国宰相の柳井、侍従長のチェンバレン、宰相付侍従のジェラフスカヤ、バヤール、ハーゼンバイン、侍従武官長のアレクサンドラ・ベイカー近衛中将だ。


「そういえば、上司としてこの宰相閣下はどうかしら? 宰相付の皆の感想を聞いてみたいのだけれど」

「陛下、あまりに直截ちょくせつでございます」


 侍従長が食事を口に運びながらやんわりと諫めたが、先帝バルタザールⅢ世も間近で見ていた彼女をして、メアリーⅠ世は皇帝という枠にはまらない人物だ、と考えていた。


「宰相閣下の案件処理能力は素晴らしいものがありますが、せめてコーヒーくらいは我々に入れさせてほしいのですが……いつの間にかインスタントコーヒーとポットとマグカップをお部屋に置かれていたので……」


 ジェラフスカヤがやや責めるような目線を柳井に送った。


「帝国軍と民間軍事企業を経ているせいか、組織運営の合理化についてかなりのご見識をお持ちで勉強になります。ただ、食堂で立ち食い蕎麦は控えていただければと……」


 ハーゼンバインは平然と食事を続ける柳井に笑みを向けた。悪感情は特になかった。


「陛下の懐刀というのは納得でございます。ただ、お一人で官庁街に出かけられると皇宮警察や近衛にも連絡をやらねばならないので、私だけでも連れていただければ……」


 バヤールは三人の宰相付侍従の仲では唯一の男性。そして力自慢でもある。彼は万が一の場合の身辺警護について不安を口にした。


 三人の宰相付侍従は口々にオブラートに包まず、ありのままの表現をした。ただ、柳井の実務能力そのものへの疑問や批判は出なかったので、柳井としては安堵していた。


「侍従長、あなたホントにいい目をしているわね。柳井の下に付けるならこういうタイプが一番なのよ」

「畏れ入ります」

「三人には、私が控えめと言うことが伝わっていて嬉しく思うよ」


 柳井も白身魚のムニエルを食べながら、結局宮廷に出仕してもこういう役回りかと苦笑いを浮かべていた。


「柳井は昔からそうなのよ。参謀長副官だっていうのに公用車も使わずにバイクでフラフラ歩いてフラフラと」


 侍従武官長として同席していたアレクサンドラ・ベイカー近衛中将が茶化すように笑う。


「あなた達も慣れないタイプの上司で大変だと思うけど、悪い人間ではないの。少なくとも職務に忠実だし。ぼやきが多いけど。昔からそうだった」

「そりゃあ隣にキミみたいなタイプがいればな、アリー」

「何ですって? そりゃあこっちの台詞よ義久。大体ねえあなた昔の事を――」

「ああはいはいあなた達、宮廷まで来て痴話喧嘩はやめてちょうだい。宮廷史に書き残すわよ」

「侍従長、我々はこういう時に笑って良いのでしょうか」


 ジェラフスカヤが戸惑いを隠せない表情で侍従長に問うたが、とうの侍従長も戸惑いを隠せていない。


「いいのではないかな。恐らく、帝国史上類を見ないお方なのだろう、当代皇帝と宰相閣下は」


 侍従長はそう言うと、給仕の者にワインの追加を頼んだ。この日の夕食会は日付が変わる直前まで続いた。



 六月一一日

 〇九時四三分

 ライヒェンバッハ宮殿

 黄檗の間


「お久しぶりです、宇佐美さん。ルブルトン子爵も遠路すみません。ロベール君も忙しいのに済まなかった」

「伯爵閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう」

「閣下、お呼びいただきありがとうございます」

「宰相閣下にお目通りできて光栄です」


 柳井が呼び出したのは、イステール自治共和国行政庁のカミーユ・ロベール主任、東部整備局のラザール・ルブルトン皇統子爵、それに第二三九宙域のゲフェングニス342収容所惑星で収容所監理官をしていた宇佐美芳生うさみよしおだ。


 ロベール主任は第二三九宙域における柳井の補佐役で、現地に常駐できない柳井に変わって惑星ガーディナを中心とするイステール自治共和国を含む情勢レポートや各政庁などの報告をとりまとめて柳井と政庁のパイプ役を務めている。


 ルブルトン子爵は惑星開拓庁東部整備局開拓部長として、イステール自治共和国領内の惑星マルセールⅤとズベリニッジⅤの開拓を管轄している。柳井の皇統社交界の情報は彼を経由して得られるものも多い。


 宇佐美芳生はゲフェングニス342の放棄、疎開計画の際に柳井の補佐を務めたことで知己を得ていた。極めて慇懃な態度が特徴で、宮内省の侍従でも中々居ないタイプの礼儀作法を事も無げに披露する。実務能力も高い。現在は内務省警保局監査官室付となっている。


「すでに資料は読んでもらったと思いますが、私は帝国宰相の地位を恒久的な制度として帝国統治体制に組み込むために、宰相府を開設します。これの長として、すでに内務省からシェルメルホルン皇統伯爵を充てる手筈を整えました」

「ほぅ、シェルメルホルン伯ですか。彼女のお父上とは何度かお会いしたことがありますが、ご息女もなかなかの才媛だとか」


 皇統社会についての知識なら、柳井よりルブルトン子爵のほうが詳しかった。


「で、本題なのですが……まず宇佐美さん、あなたには宰相府総務局長を頼みたい」

「是非もありません。宰相閣下のご命令に従うのみ。しかし私でよろしいのですか?」


 宇佐美自身は自分の能力など他の官僚と大差ないと考えていたが、それは過小評価だった。柳井に現在必要なのは武勇でも権謀術数でもなく、地味で地道な事務処理能力の高い人間だったからだ。


「シェルメルホルン伯爵だけでは手が回らない部分を補佐してもらいたいのです」

「畏まりました」

「ルブルトン子爵には、宰相府辺境開発局局長として、ロベール君にはその下でイステール自治共和国と、第二三九宙域全域の監理を任せたい。また、いずれ陛下は領邦を増やすと仰せだ。第二三九宙域はそのモデルケースになる。その下準備を、今から進めておきたい。これならイステール政庁や東部開拓局も文句は言えないでしょう」


 ここで明らかにされた新領邦建国計画は長期的な計画だった。辺境開発局とは名付けたものの、これは新領邦建国計画が正式に発布されるまでのカモフラージュのようなものだった。


「この年で局長とは。宰相閣下も中々人使いが荒い。まあ、イステール周辺なら我々のほうが詳しい。ロベール主任、頼むぞ」

「はいっ!」


 ルブルトン子爵もロベール主任も乗り気だった。柳井としては安堵した様子で微笑んだ。


「まあ、細かい話も諸々ありますが、コーヒーブレイクとしましょうか――」

「宰相閣下、お待たせいたしました」


 タイミングを見計らったようにコーヒーカップを人数分持ってきたジェラフスカヤの顔を見て、いつもの癖で自分でインスタントコーヒーを淹れようとしていた柳井は、ソファに座り直していた。


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