エピローグ 皇帝メアリーⅠ世


 四月四日 七時五九分

 ホテル・ベルヴェデーレ

 ロビー


 皇帝選挙当日、柳井は出迎えの車が来ているというのでロビーに降りてきたのだが、ロビーには人だかりが出来ていた。


「柳井皇統男爵閣下でございますね?」

「はい」

「お迎えに参上仕りました」


 近衛兵が一個分隊、出迎えに来ていたのだ。一般的なシティホテルの車寄せには、宮内省差し回しの公用車が停車している。それも一般的に政治家などが用いるハルフォード・エクエスではなく、上位モデルセダンのハルフォード・モナルカだった。


「……仰々しすぎるのでは」

「柳井皇統男爵閣下に対し、非礼のない適切な様式と心得ております」


 近衛軍曹長の階級章をつけた長身の下士官に言われ、柳井は観念したようにその場をあとにした。


「……他の皇統にも、このような出迎えが?」

「大部分の皇統の方々は、自家用車で宮殿に向かわれました。宮内大臣曰く、男爵閣下は放っておくと歩いて宮殿に来そうだということでしたので、安全確保のためでもあります」


 曹長に言われ、流石に柳井は苦笑いを浮かべた。


 音もなく滑るように発進したセダンの中で、柳井は人々の列と、その向かう先を眺めていた。


「皇帝選挙は約半世紀ぶり。皆、宮殿まで押しかけようというのか」


 この時点で、まだライヒェンバッハ宮殿は修復作業が完了しておらず、特に激戦を繰り広げた玄関ホール付近は急ピッチで作業が進められている。そのため、人々の列は離宮のラゲストロミア宮殿へと向かっていた。




 八時二〇分

 ラゲストロミア離宮

 玄関ホール


 高い天井にシャンデリア、壁面や柱には細かな彫刻が施されたネオ・インペリアリズム様式の宮殿だが、その大半は建築用プリンタによる積層成形技術が用いられており、見た目ほどの価値はない。それでも、これは地球帝国という、全人類の統一政体を演出するために必要な造作ぞうさくの一つだった。


「柳井皇統男爵閣下、こちらへ」


 すでに宮殿には近衛兵や宮内省の侍従職達が入って、次々と現れる皇統を控室へと案内していた。柳井も案内されるがままにラゲストロミア宮殿の中を連れられていく。



 八時二三分

 朝顔の間


「こちらでお待ちくださいませ」


 柳井が案内されたのは離宮にいくつかある式典用の部屋の一つだった。ラゲストロミア宮殿は実用一点張りの事務スペースと、居住スペース、そして式典用スペースが厳密に分けられており、式典用スペースは玄関ホール同様、見た目だけは煌びやかに整えられていた。


「やあ、柳井参謀総長閣下」

「これは……アレティーノ男爵、こちらでしたか」


 葬儀委員を務めた経緯から、すっかり顔なじみになっていたアレティーノ皇統男爵と握手した柳井は、進められるままソファに腰を下ろした。部屋の中には他にも二〇人ほどの皇統がいた。


「しかし、この半月ほどは目が回りそうでしたね。まさかこんなことになるとは」

「……抗議、と受け取ってよろしいので?」

「まさか。スリリングな光景を目の当たりに出来て感謝したいほどです。何せ私の帝都別邸は、ライヒェンバッハ宮殿のエクヴィルツ門の前にあるので」


 ライヒェンバッハ宮殿には三つの門があり、それぞれ南にある正門がブライトナー門、西門がパウムガルトナー門、東門がエクヴィルツ門と名付けられている。いずれも帝都宮殿設計に携わった建築家に由来している。


 意外なことだが、ライヒェンバッハ宮殿に隣接する建物は官公庁だけでなく、皇統や資産家が持つ邸宅ということも少なくなかった。


「それはまた。さぞ劇的な光景でしょうね……」

「おや? 柳井男爵ではありませんか?」


 柳井に声を掛けたのは、やはり侍従職に案内されてこの部屋に通されたラザール・ルブルトン皇統子爵。柳井が総督として着任した第二三九宙域の開拓惑星の一つ、マルセールⅤの開拓担当、惑星開拓庁東部整備局開拓部長だ。


「これはルブルトン子爵。アレティーノ男爵、こちらラザール・ルブルトン皇統子爵閣下です」

「これはまた、お初にお目に掛かります――」


 しばし初対面同士の自己紹介などを挟んで、話題は皇帝選挙についてのものに変わる。


「まあ、そこまで悩むことはない。何せ候補者の半分が永田文書による告発で資格を失ってしまった。出馬するのはギムレット公爵、ヴィシーニャ侯爵だけだ」

「ヴィシーニャ侯爵の出馬は、信任投票にさせない為のポーズでしょう。出馬する皇統も我々と同じく一票を持つ。恐らくヴィシーニャ侯もギムレット公に入れるのではないかな?」


 ルブルトン子爵とアレティーノ男爵が話す内容は、周囲のテーブルで聞こえてくる内容と概ね一致していた。


「しかしライヒェンバッハ宮殿に比べて、離宮は手狭です。全員収まるものでしょうか?」

「皇統と言っても、帝国軍人だったり、老齢で帝都まで来るのが億劫な方はすでに事前投票していますから」


 ある意味、態々皇帝選挙当日に宮殿まで参内して投票する人間は変わり者とも言えた。


 そこからさらに一時間ほど経過した頃、紫色の詰襟制服に身を包んだ侍従職が朝顔の間に現れた。


「皆様、皇帝選挙の時間と相成りました。この度はまことに異例の事ながら離宮にて投票を行なうため、投票会場の都合もあり、数回に分けての投票を行ないます」


 柳井が記録映像などで見た皇帝選挙は、宮殿の最も広い向日葵の間を用いて一度に投票を済ませる形式を取っていた。しかし、今回ラゲストロミア宮殿を用いるに辺り、尤も大きな部屋を用いても現在集まった皇統を一度に集められる部屋が無い。


 そこで、数回に分けた投票という、帝国で皇帝選挙が制度化されてから初めての形式を試みていた。


「ラザール・ルブルトン皇統子爵閣下、柳井義久皇統男爵閣下――」

「おや、先を越されましたか。それでは、悔い無き投票を」


 アレティーノ男爵はそう言うと、コーヒーを片手に新聞に目を通し始めた。

 最終的に部屋に居た三分の一ほど、一〇人の皇統が呼び出され、侍従職が先導して投票会場となるひのきの間へと向かった。



 一〇時一二分

 檜の間


 檜の間に集められたのは一〇〇人程度の皇統だった。


「では、これより皇帝選挙を執り行います」


 皇帝選挙は立会人が複数選出され、皇統が投票を終えるまで不自然な行動を取っていないか監視することになっているが、かなり儀礼的なものになっている。


 今回、立ち会い人は先帝に仕えた最後の宮内大臣、ヴァルナフスカヤと文化教育大臣の朱学偉しゅがくいに加えて保健厚生大臣のネストリ・ヒュッティネン、帝国国教会ウィーン大主教であるミラ・ルイジマナが立ち会い人を務めることになった。彼女達は永田文書で告発されていなかった。


「では、各々方、これより投票前の宣誓を行なっていただきます。私の後に続いて、宣誓してください」


 柳井は侍従職が配った宣誓文の用紙に目を落とした。


「私は、地球帝国の皇統として、神聖なる皇帝の選出に参加し、皇帝の候補者に対して、公正かつ誠実に投票することを誓うと共に、選出された皇帝に対して、絶対的な忠誠と服従を誓います。また皇帝の権威と地球帝国の栄光を、いかなる犠牲も厭わずに守り、この宣誓に背いた場合、国民の裁きを受けることを誓います」


 帝国皇帝を選ぶのは皇統貴族だが、皇帝の地位は帝国臣民の信託により認められるものである。それがこの宣誓文に表されていた。


「それでは、これより投票を開始します。前列の方より、投票用紙へ記入し、投票箱へお願いします」


 ヴァルナフスカヤ大臣の説明に、案外味気ないものだなと柳井は感じた。しかし帝国の選挙は投票所の汎用端末、もしくは個人端末からの投票が一般的であり、手書きの投票用紙など用いるのはそれはそれで格式と呼んでも差し支えないのかもしれない、などと取り留めのないことを考えつつ、投票までの時間を待った。


 次々と投票を済ませていく皇統達を眺めていた柳井だったが、ようやく自分の番が来たことに気付いて立ち上がる。


「あちらで記入をお願いします」


 侍従に渡された筆記具は、今や伝統的筆記具となっている鉛筆だった。合成紙に含まれた結着剤に特定波長のレーザーを当てて印字するレーザーペンが一般的なものだが、今でも天然木に黒鉛を填め込んだ鉛筆などが使用されているのかと驚いていた。


 投票用紙は樹脂なのか天然紙なのか合成紙なのか分からない不思議な感触だと柳井は気付いた。皇帝選挙用にしか生産されていない特殊な紙だと聞かされるのは、このあと実に半世紀以上を経てのことになるが、当然柳井はそのことを知らない。


 記入する台は木製のもので、三方を囲うように目隠しの衝立が立てられている。開いていた台につくと、正面に紙が貼られていた。


 メアリー・フォン・ヴィオーラ・ギムレット、アブダラ・ムスタファ・ヴィシーニャ・アル=ムバラクの名が並べられており、そのどちらかを皇帝として推戴する。この投票は無記名だから、柳井がヴィシーニャ侯爵の名を書いたとしてもギムレット公爵には気付かれないだろう。ただ、そんな他愛の無い遊びは別の機会にすべきと考え、公爵の名を投票用紙に記した。


「投票用紙はこちらへお願いします」


 侍従が促す先には、立ち会い人の三名が座る椅子と、その前に小さな箱が置かれていた。どこに入れても同じなのだろうが、柳井は宮内大臣の前の箱に入れた。


「お疲れさまでした」


 何か言われるのかと身構えた柳井だったが、宮内大臣は一言しか発しなかった。宮内大臣以外の立ち会い人も同様の対応だったので、これがしきたりかと納得した柳井は、侍従の案内で投票会場を後にした。



 一〇時五〇分

 紫陽花の間


 他の皇統は他の皇統で違う部屋に通されたようだが、柳井だけは別の部屋に通された。他でもない、ギムレット公爵の控室だ。


「あー、やっと話し相手が出来たわね。暇でしかたなかったのよ。面会どころか通信も禁止とはね」


 公爵は軍服のマントとジャケットを脱ぎ捨て、ソファに横たわって読書をしていたようだ。それも古典文学の類いの古書で、帝都中央図書館の印字がされている。


「シェイクスピアもヴィクトル・ユゴーも太宰治も、こんなときじゃなきゃ読まないわね」


 読書などするギムレット公爵など想像していなかった柳井は、やや驚いた顔をしていた。


「投票が終わるまで、他の皇統には会えないそうで……いいのですか? 私を呼び寄せて」

「皇統典範読んでないの? アレは投票前の皇統に対する規程でしょ」

「まあ、それはそうですが」

「今頃ヴィシーニャ侯の部屋にも何人か入ってるでしょうよ。律儀な人ね、ヴィシーニャ侯も」

「まだ、ヴィシーニャ侯が勝つ可能性はありますが?」

「私が負けるって言うの?」


 きょとんとした顔をしたギムレット公爵に、柳井は両手を挙げた。


「冗談です。殿下が勝利なさること、疑いようがありません」

「まあいいけど……それにしても、あなた普段のスーツで着たの?」

「このあとは私の出番はないでしょ?」

「そんなわけないでしょ、まったく……」


 公爵が手元の端末で何事か話すと、数分もしないうちにスーツケースを抱えた近衛兵が現れた。


「柳井閣下、これをお召しください」


 近衛兵がスーツケースから取り出したのは、上等なモーニングコートだった。


「私からの退職祝いよ」

「これはまた……普段のスーツなら一〇着は買えそうな……」

「あなた、スーツしか着ないんだから多少はいいもの買いなさいよ……早く着替えてらっしゃい」


 紫陽花の間には衣装室として小部屋が附属している。それだけでも柳井の社宅程度はあった。


 柳井がスラックスやシャツを着替え、コートを羽織ると自動的にサイズ調整がなされる。繊維に織り込まれたアジャスターが着用者の体型を検知しているのだが、これは高価格帯の礼服ではごく一般的なものだった。


「うん、様になってるわね」


 満足げな公爵だったが、そこへもう一人の来客が訪れた。


「まったく、帝都宮殿をボロボロにしたおかげで投票に時間が掛かって仕方ないぞ、メアリー」


 オデット・ド・ピヴォワーヌ・アンプルダン伯爵が、ようやく投票を終えて紫陽花の間を訪れたのだ。柳井は手元の時計を確認したが、丁度一一時〇〇分のことだった。


「文句なら参謀総長閣下によろしく」

「ともかく、あとは開票を待つだけだ。昼には出るかな?」


 侍従が持ってきたコーヒーを飲みながら、柳井達はその時を待った。柳井の腕時計がちょうど一二時を指した頃、紫陽花の間の扉が控えめにノックされた。


「どうぞ」


 部屋に入ってきたのは、ヴァルナフスカヤ宮内大臣と立ち会い人を務めた文化教育大臣、保健厚生大臣、そしてウィーン大主教だ。柳井とピヴォワーヌ伯爵は立ち上がって部屋の隅に下がる。


「失礼いたします……皇帝選挙、投開票が完了いたしました。投票総数、合わせて一二七七票のうち、ギムレット公爵殿下が一一四九票を獲得されました。よって、公爵殿下が次代皇帝として選定されたことをご報告いたします」

「わかった……では、仮初めの宮殿に我が旗を掲げるがいい」


 ギムレット公爵はテーブルの上に置いていたケースから、分厚い上質な布で作られた皇統旗を取り出した。皇統の内、領邦領主、近衛軍司令長官のみに与えられる識別旗だ。


「ははっ……」


 宮内大臣らが下がると、続いてヴィシーニャ侯爵が入ってきた。


「おめでとうございます、ギムレット公爵」

「ありがとう、侯爵。気を遣ってくれて」


 叛乱を起こしてマルティフローラ大公を追い落とした後の皇帝選挙で、事実上信任投票ではあったが、そうなるとマルティフローラ大公国など、今回出馬できなかった領主が治めていた領邦国民は猜疑心を抱く。そうならないためにも、対抗馬は必要だった。国論、世論を納得させる心遣いにギムレット公爵は素直に礼を言ったのだが、とうの侯爵は意味が分からない、とばかりに首を傾げた。


「なんのことでしょう? 私はあなたほどではありませんが、帝国を上手く動かせると自負したからこそ、選挙に打って出たのです」


 これを見ていた柳井は、ヴィシーニャ侯爵流の照れ隠しだと考えたが、その真意を知る者はとうの侯爵自身だけだった。


 その時、宮殿の外から大きな歓声が沸き上がった。宮殿のバルコニーで典礼長官がギムレット公爵の当選を公布したのだ。


「さあ、バルコニーにいくわよ。宣誓の儀を済ませましょう」


 ギムレット公爵は軍服のジャケットとマントを羽織り、颯爽と紫陽花の間を出て行った。


「我々もですか?」

「証人として三名の皇統が随伴というのがしきたりだそうだ。ヴィシーニャ侯爵も頼めるか? 領邦領主二名に彼女の信頼する盟友となれば、不足は無いだろう」

「わかりました」


 ピヴォワーヌ伯爵とヴィシーニャ侯爵に続いて、柳井も紫陽花の間を出た。



 一二時〇六分

 バルコニー


 バルコニーからは宮殿前庭から門を超えて歩道、道路を越えた反対側の歩道、ともかく見える範囲に皇帝即位の瞬間を見ようと臣民が押し掛けているのが見えた。ギムレット公爵がバルコニーに姿を現すと、歓声が響き渡る。


「では、ギムレット公爵と証人の方はこちらへ」


 マリオン・オードリー典礼長官が帝国憲法典を持って立っている横に、宮内大臣と選挙立会人も控えていた。このような式典を取り仕切るのは典礼庁長官の仕事だった。


「臣民の皆様ご静粛に願います。これより宣誓の儀を執り行う」


 オードリー長官の宣言が発せられる。ある程度群衆が静まるのを待ってから、典礼長官はギムレット公爵に憲法典を差し出した。


「では、憲法典に手を」


 帝国建国後に制定された宣誓の儀の始まりは、憲法典、つまり重厚な装丁の書物に帝国憲法をまとめたものへ手を触れるところからだ。


「メアリー・フォン・ヴィオーラ・ギムレットにこれから誓いを立てていただきます。証人の方々は、疑義があれば申し立ててください」


 恐らく彼女の名が生きている間に敬称無しで発せられる最後の機会だった。柳井は証人として、緊張した面持ちでその場に立っていた。


「あなたは帝国憲法に則り、皇帝として帝国臣民の幸福と平和を守ることを誓いますか?」

「誓います」

「あなたは皇帝として帝国の発展に尽力し、命を賭けることを誓いますか?」

「誓います」

「最後に問います。あなたは帝国憲法に背いたとき、臣民の裁きを受けることを誓いますか?」

「誓います」


 典礼長官が証人を一瞥するが、柳井、ピヴォワーヌ伯爵、ヴィシーニャ侯爵の三人は無言を貫く。これもしきたりである。


「臣民の皆様、今、宣誓が終わり、新たな皇帝メアリーⅠ世陛下が即位なさった。歓呼の声で迎えられよ!」


 典礼長官の言葉と共に、群衆の歓呼の声が響き渡る。帝都中で皇帝万歳の声が満ち、ラゲストロミア宮殿を揺るがすほどだった。


「すごいものだ……」


 柳井は小さな声で呟いた。ビリビリとした圧力さえ感じる大音声に、座乗艦に艦砲を喰らってもコーヒーを飲んで涼しい顔をしていた男が震えていたのだ。


「陛下、臣民にお言葉を賜われれば幸いです」


 典礼長官の言葉遣いも、すでに皇帝へ向けたものへと切り替えられた。柳井はそれを見て、今後は最高敬語を使わねば不敬罪にでも問われるのだろうかと考えていた。


「歓呼の声に、私は今、打ち震えている」


 バルコニーに設けられた演台に向かって、ギムレット公爵、いやメアリーⅠ世が皇帝として最初の言葉を発した。それはごく小さい声で、詩的で、普段の彼女の物言いを考えればか細く、ともすれば群衆の歓呼やどよめきに掻き消されそうなものだった。群衆が驚きや疑問に、徐々に静まりかえる。


「私はまず、臣民に謝罪せねばならない。皇統同士で無用な混乱を引き起こし、帝都を火の海にする一歩手前まで行ってしまった。航行の安全、通信の安全、経済の安全、これらを脅かし、戦いを引き起こした。また、戦いの最中、帰らぬ命を産み出し、誰かの父を、母を、子供を、孫を、恋人を、友人達を永遠に奪ってしまった……」


 悲しみを帯びた言葉に、歓呼の声も、どよめきも収まり、帝都が凍結したように静まりかえった。


「私の生涯は、これら帰らぬ命への贖罪にも費やされるであろう。無論、それで済むとは考えていない。私の行いを憎むものが必ずやいるはずだ。私は彼らに討たれるやも知れない……それを咎めるつもりも無い。私はその時、従容しょうようと裁きを受け入れるであろう」


 かつて謝罪や自らが復讐の結果死ぬことになるかもしれない、などと宣誓の儀で告げた皇帝はいなかった。柳井もその片棒を担いだ張本人としての覚悟を固める決意を新たにした。


「しかし、どうか私に、もう少し時間を頂きたい」


 メアリーⅠ世は両手を空に掲げ、祈るように組んだ。


「私はここに集う臣民諸君、いや、人類すべてに誓約をした!」


 メアリーⅠ世は両手を広げ、辺りを見渡す。ここからメアリーⅠ世の声には熱が帯びていく。


「私は生涯掛けて誓約に基づき、帝国の発展、臣民の幸福のため、この命をなげうつことを宣言した。今しばらく、この頼りない皇帝に力を貸して欲しい!」


 あのメアリー・フォン・ヴィオーラ・ギムレットが請うている、と柳井は驚きに満ちた目で、ウィーン臣民数十万、いや、帝国臣民一兆人に語りかける皇帝の背中を見つめていた。群衆の歓呼はさらに巨大になり、大気を震わせた。


「帝国は、これからも発展する! 本国、領邦、自治共和国、辺境惑星連合とて例外ではない! 我々すべての人類は平和を希求し、繁栄を希求し続けてきた! 国父アーサー=メリディアンⅠ世の精神は今も我々に息づいている!」


 国父の名が出ると、群衆の歓呼の声はいよいよ最高潮に達していた。


「私、メアリーⅠ世は人類すべての守護者としてこの高邁こうまいな理想を掲げ、実現させるためのあらゆる努力を惜しまない! 皇帝は臣民の命を喰らうバケモノでは無く、臣民の幸福を実現するしもべであらねばならない!」


 演説は終わりに近付いていた。


「私、メアリーⅠ世は臣民の僕として、平和で、幸福で、繁栄した帝国を築き、またあるときは臣民の盾となり剣となることを改めてここに宣言し、誓約するものである!」


 後の世で臣民の僕宣言と言われる演説が終わった。メアリーⅠ世に向けて皇帝万歳の歓呼が向けられたが、誰かが皇帝賛歌を歌い出したのか、しばらくするとウィーンを包み込むような合唱になった。これは拡声器もなしで帝都近郊のウィーナー・ノイシュタットまで聞こえたという。


 メアリーⅠ世はしばらくの間バルコニーから帝国臣民の歓呼に応え続けていた。



 一三時五〇分

 雛菊ひなぎくの間


 先ほどの宣誓の儀はあくまで臣民に対して皇帝即位を知らせるセレモニーであり、法的拘束力をもつ皇帝即位は、改めて雛菊の間で今、メアリーⅠ世が記入している皇帝即位宣言書が政府に手渡されてからのことになる。ラゲストロミア宮殿における皇帝執務室である雛菊の間で、政府の代理人として宮内大臣が、やや緊張した面持ちで宣言書を受け取った。


「これで宣誓の儀が終わりました。おめでとうございます、陛下」

「ありがとう、ヴァルナフスカヤ。しかし、まだまだ問題が山積みね」


 即位しても、少なくともごく近しい重臣の前ではメアリーⅠ世の言葉遣いなどは特段変化は無かったという。その端緒がすでに見えていた。


 ヴァルナフスカヤ大臣らが退室したあと、メアリーⅠ世はようやくといったふうに溜息を吐いた。


「しばらくしたら総選挙……新政権がどうなるやら」

「そうですね……ついにここまで来てしまいましたか」


 柳井は緊張した面持ちで、雛菊の間から見える帝都を眺めていた。別段人間としてのメアリーⅠ世がギムレット公爵時代と変ったわけでは無いが、いくら神経が単分子ワイヤーをより合わせた極太のケーブルで出来ているような柳井でも、緊張を隠すのには苦労していた。


「あなた達のおかげでもあるわ。ありがとう、義久、オデット」

「勿体ないお言葉賜り恐悦至極に存じます……!」


 皇帝に頭を下げられては、臣下としてはたまらない。柳井にもその程度の常識は備わっていた


「皇帝に頭を下げさせたと、君が退位するまで誰にも言えないのが辛いな、メアリー」


 ピヴォワーヌ伯爵は平素と変らない。彼女はあくまで帝国の領邦の領主であり、皇帝としても無碍に扱えない程度には高位の存在だ。


「これでまずは第一歩。やるべきことは山積みだけれど……ともかく、あとはこのあとの祝宴を乗り切れば、まずは一休みしたい気分だわ」


 重厚なマホガニー製の机に突っ伏した皇帝は、傍目には年相応の女性にしか見えない。


「しかし、戴冠式はいつになさるのです?」

「ああ、儀式儀式……まだあったわね、そんな式典」


 戴冠式は大がかりな式典で、帝国では通常、先帝崩御の喪が明ける頃に行なうのが通例だった。宣誓の儀と異なり、こちらはより宗教的儀式としての側面が大きく、主導するのは典礼庁でなく帝国国教会となる。


「まあ、それまでにケリを付けてもらわなきゃならないものが多すぎるわ。政府の永田文書の告発に基づく解散についても控えてることだし……」

「では、しばらくは私の出番はなさそうですね。当面お暇をいただけませんか?」


 柳井は人生においてほぼ初めて、自らの意思で休暇を願い出た。大抵の場合は溜まりに溜まった休暇を消化するようにと人事部門などに請われてのことだった。


「あら、皇帝がこれから忙しくなると言うのに、臣下が有給申請だなんて暢気なものね」

「陛下が私に何をお命じになるかは、微力非才の身にて計りかねますが、その前に総督職としての役目も果たしておきたいのです」


 柳井は今も第二三九宙域総督としての地位は失っていない。先帝バルタザールⅢ世の御世に任命された親任官であり、命令権を持たない名誉職ではあるが、柳井には宙域総督として開拓や行政を監督する義務があった。


「なるほどね。ま、中央官僚との丁々発止の前に骨休め、ってとこね。いいでしょう。一ヶ月くらいでいいかしら?」

「陛下さえよろしければ何年でも」

「冗談。一ヶ月よ。また連絡するから……それと、祝宴の儀には付き合ってくれるんでしょ?」


 祝宴の儀は、即位した皇帝のお披露目でもある。皇帝選挙に参加した皇統や政府高官、経済界の重鎮が出席するものだ。


「わかりました。精々宮殿調理部の料理で舌を楽しませていただきましょう」

「段々調子が出てきたわね。やっぱり義久はそうでなくっちゃ」


 このあと、宮殿檜の間にて行なわれた祝宴の儀に参加した柳井は、日付が変わる頃にはすでに機上の人となり、一時の休息に入った。


 無論、それはこれから山のように降り積もる仕事を処理するための準備期間でもあったが、ともかく、国防大学を出てから軍人として過ごし、会社員として民間軍事企業に転職して中間管理職になり、いつの間にやら皇統男爵となった柳井の人生において、初めて大きな空白が出来たのは事実である。


 この先の柳井の人生がどうなるのか、どうしようというのか。辺境イステール自治共和国へと向かう船の中で、柳井は少しだけそのことを考えたのだが、相手がメアリーⅠ世では考えても無駄だと考えて、しばしの眠りについた。


 柳井の行く先。それを知る者は皇帝メアリーⅠ世をおいて他にはいないのであった。


《アスファレス・セキュリティ業務日誌・完》

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