鉄腕

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鉄腕

潮風がふと香る。メイングラウンドを囲む赤茶けたフェンス沿いを歩き、室内練習場へ入ると、それまであった初夏の熱気と喧騒が消える。対照的に、室内練習場では筋力トレーニングをする選手たちの短い吐息があり、たまに吹き込む風が首筋に浮いた汗を冷やした。


菊川は投球練習をしている一角に立ち寄る。それに気がついて、ブルペン捕手に球を投げ込んでいた伊那大成がちらと視線を寄越す。緊張の混じった表情だったが、投球練習はやめず、それまでと同じテンポで高い捕球音が続く。


そばにはすでに古瀬監督がおり、近づいた菊川に気付くとゆったりと口を開く。古瀬監督は野球部の指導者とは思えないほどのふくよかな体型で、髪の毛も白い。菊川と古瀬監督は10年以上の付き合いがあるが、その10年前から監督の姿は変わりなかった。


「伊那くんは調子上げてきてるね」


菊川は応える。


「肘の状態もこの数ヶ月いいですし、怪我する前より球速自体は出てますよ」


伊那大成は今年、大学の2年に上がった選手だった。今でこそこうやって投げられているが、1年目の秋口に肘を怪我してしばらく投げられない時期があった。怪我をしていたその間、理学療法士として治療やリハビリに付き合っていたのが菊川だった。菊川自身この大学の野球部出身で、理学療法士として病院に勤務するかたわら、こうして練習の手伝いをしている。


伊那が投球フォームに入る。セットポジションからゆっくりと足を上げ、沈み込むように踏み込んで、上からきれいに投げ込む。投げ終わった後も体が流れることなく視線はキャッチャーの方を向いていた。

フォームが安定したなと、菊川は思う。


「どっしりしたよね」


そのことは監督にも伝わっているようだった。菊川はうなずいて、


「コントロールも、球の重たさも、あと怪我のしにくさという点でも良くなっていると思います。明日、伊那は投げるんですよね」

「その予定だね。こないだの紅白戦ではすごく良かったけど、対外試合もうまく行くといいよね」

「そうですね」


明日の試合が最終テストになることは本人もわかっているだろう。そしてそこで良い成績が残せれば、リーグ戦でも出場の機会が得られることになる。


菊川と伊那が目標にしてきたのはそこだった。


怪我を治し、実戦復帰し、公式のリーグ戦で勝利する——。


そのためにできることはしてきたつもりだ。


「俺は、明日も伊那はうまくやると思ってます」

「......菊川くんは、いいコーチだね」

「え? いや俺は俺の仕事をしただけです」

「僕は君みたいにしてやれなかったからね。伊那くんみたいなタイプは、誰かに信じてもらいたいだろうから」

「......そんなことないです」


古瀬監督の涼しげな視線にすっと心が冷えるが、本人はそのまま正面に向き直る。


「伊那くん、そろそろ投球切り上げようかあ!」


監督が声をかけ、伊那は徐々に緩いボールを投げ始める。それから監督からいくつかのコメントをもらう。監督はぽん、と伊那の背中を叩き、野外指導のためにゆっくりと室内練習場を後にする。それを見送った伊那が、今度は菊川に声をかけにくる。


「リュウ、おれどうだった?」

「タメ口で聞くなよ」


わざとだったのだろう。菊川が呆れた声を出してやると、伊那は破顔した。今年二十歳になる男だが、もともと童顔だからか、笑うと驚くほど幼く見える。白い歯もそれに拍車をかけている。


「感心してたよ、監督。明日もこの調子でいい球投げて欲しいってさ」

「うっすうっす。絶対に抑えますよ」

「まあ気楽にやれば大丈夫だよ、伊那、今まで本当に頑張ってきたし」

「いやほんとおれの努力だよね〜」

「調子乗んなよコラ」


怒ったふりをして、伊那の頭を両腕で抱え込む。短い髪の毛のなかに指を入れてかき混ぜてやると、髪の毛はしっとりと湿っていた。やわらかい耳に指先が触れる。彼の耳たぶにはピアスの跡が残っている。


全く反省していない様子の伊那は、わざとらしく悲鳴を上げて菊川の腕から逃げ出した。チームメイトのところに戻るのかと思ったが、走りながら振り返ると「リュウ、今日待っててよ」と言い残した。


***


菊川は大学を2年で中退したのち、理学療法士の専門学校に夜間で入り直し、卒業後は津田沼にある習志野第一病院のリハビリ科で働いていた。習志野第一病院を選んだのは、その最寄り駅が京成本線の通る京成津田沼で、京成本線は彼が大学生時代に使っていて馴染みのある路線だったからだ。就職と合わせて京成津田沼駅から少し東に行った鷺沼台というところに引越しもした。伊那と出会ったのはその頃で、伊那は肘を痛めて病院に通っていた。もちろん最初は単なる患者と施術者の関係だったが、住んでいる場所が近所であったり、家庭環境に似通ったところがあったり、また菊川が伊那と同じ野球経験者かつ投手であったことから、なつかれるようになった。その後、菊川は大学野球部から練習の手伝いを頼まれるようになり、また伊那も自宅から通える、野球部のある大学にスポーツ推薦で進学することになった。それがいまふたりが活動する大学だった。


***


練習は17時過ぎに切り上げになった。


普段であればその後、居残りで各自トレーニングをするのだが、明日の登板を控えた伊那は個人練習をすることなく上がるようだった。そして、グラウンドの前で待っていた菊川を見つけて「じゃあ行こう!」と元気に声をあげる。


グラウンドの前から出ているバスで最寄りの籾実駅まで行き、京成大久保で降りる。さらに10分強、京成津田沼方面へ向けて歩く。


そうして到着したのは、地元のスーパー銭湯。


これは一種の儀式のようなもので、伊那が高校生だった頃から、何か大きな試合や節目の直前には、ふたりでこの銭湯に浸かりにきていた。ひとり800円の入場料と館内での飲食代は完全に菊川もちなのだが、「プロになったときの出世払い」という名目で毎度おごりを強制されている。伊那はそのことに対して感謝するどころか、


「つまりおれはリュウにここの代金を払うために頑張っているとも言えるわけよ」


などと偉そうに言ってみせさえする。


ふたりは並んで風呂に入り、風呂から上がったのちは丁寧なストレッチ、そして館内のご飯屋に場所を移して験担ぎのカツ丼を食べる。食べ終えたあとは少しだらだらとして、伊那が「スーパー銭湯って超・銭湯ってことだよね、なんか面白くない?」と言っているのに曖昧な返事を返し、それからなんとなくの雰囲気で帰り支度が始まる。


「じゃ、今日は早く寝ろよ」


と、伊那の実家があるアパートの前で別れたのは19時ごろ。伊那のアパートに電気がつくのを確認してから菊川はそこを後にする。伊那はシングルマザーの家庭に育っており、母親はまだこの時間も働いている。


菊川もこのまま直接家に帰ろうと思ったが、常備している酒が切れていることに気がついた。コンビニへ行くには市役所のある通りか駅前まで出ることになる。酒の他にも買いたいものがある気がしたので、駅前の東武ストアまで買い物にいく。


結局、東武ストアでは酒の他、つまみや食料品も買い込んだ。それらを片手に下げて、自宅までの十分ほどを歩いて帰る。道中の駐輪場には『自転車盗難注意』の横断幕がはためいていて、役所の近くでは議員たちのぱりっとしたスーツ姿のポスターが貼られている。京成津田沼駅の周辺は、JR総武線と京成本線、京成千葉線の三本が東西に伸びており、街を歩けば陸橋などの人工的な高低差にぶつかることになる。

この街に視線を遮るような山並みはない。ただ、その地平線の向こうに海を感じさせるような潮風が吹いていて、町中のあらゆる金属を錆びさせていた。自転車も、ポスターの掲示板も、陸橋の手すりも。


電灯の灯りはじめた道を歩いて自分のアパートに到着すると、思ってもいない客がいた。姉の弥生だった。


「何しに来たの」

「おつかれ。あんたも東武ストア行ったんだ」


見ると、東武ストアの買い物袋を下げている。彼女はもうすでに家庭を持っており、住んでいるのも都内のはずだ。なぜ習志野くんだりまでやってきているのか菊川には理解できなかったが、にこにこと笑顔で玄関前に佇んでいる。


「家、あげてあげないよ」

「なんでさ」

「散らかってるから」

「じゃあ外でいいよ」

「試合近いから無理」

「ちょっと」


突き放した言い方で部屋に引っ込む。大きな音を立てて扉が閉まり、罪悪感が広がった。


買ってきたばかりの発泡酒のプルタブを起こし、そのまま飲み始める。並行して、購入したつまみを温め、その待ち時間に彼は押し入れのなかに入っていたグローブを取り出す。

子供用のグローブには菊川龍弥と刺繍が入っている。クタクタの投手用グローブだった。これを父親から渡されたときのことは、まだありありと思い出すことができる。父が酒の匂いを漂わせて寝室に入ってきた日。身構えたが、父の手にはグローブが握られていて、それが菊川へのプレゼントだった。へそくり使って買ったから、母さんには内緒な、という声は大きすぎて、隣の部屋で母が呆れ返っているのが想像できた。それを含めて、嬉しかった。


もう捨ててしまおう、と思うが、それを掴んだ右肩は上がりきらない。


電子レンジが終わる。グローブを押し入れに戻し、次の発泡酒に手を伸ばす。


***


翌日の試合は大学のグラウンドを使っての、社会人チームとの試合だった。試合開始前に伊那の顔を見に行くと、さすがの伊那も少し緊張した顔をしていた。ただ菊川が「顔が硬いな、出世払いできそうか?」と聞くと、目を見開いて寄り目にし、舌を突き出してばかみたいな表情を作った。


今日の試合は野手はほぼ固定、投手については3回ごとに交代という方式をとっているようだった。大学側の先発は3年の投手だったが、早々に打ち込まれ2回途中から繰り上げる形で伊那がマウンドに上がった。伊那が登板するまで菊川は気が気ではなかったが、実際に投げ始めると伊那の球は社会人チームを相手に切り結んだ。登板直後のランナーを背負った場面ではゴロを打たせてダブルプレーをとり、その後は三振でピンチを切り抜けた。その後もそつのない投球だった。一度ピンチを招いたシーンもあったが、菊川が「笑っていけ!」と声を上げると、軽く口元を緩めた後にギアを上げたように打者を打ち取った。当初予定していた3回を越え、6回までを投げ終えると、伊那はマウンドを降りた。非の打ち所のない投球だった。


伊那の投球を全て見終えると、菊川は安堵からなのか急に便所に行きたくなった。そこでまた、姉から呼び止められた。


「うんこしに行くところなんだけど」


そのまま男子トイレへ入ろうとしたが、姉は彼の手をとると、


「父さん本当にもう最期だよ」


と言う。


「......それで?」

「それでじゃないよ。来なよ」

「なんで? 俺にはもう関係ないんだけど」

「いつまで怒ってんの。もう10年だよ。父さんだって反省して治療したの知ってるでしょ。良い加減、許しな」


その外野からの物言いに、菊川はかちんとくる。


「良い加減って何? なんでお前が勝手に終わらせるわけ?」

「じゃあいつ許すの? もうこれが最後だって言ってんの。父さんにとってじゃないよ、あんたにとっての最後なんだよ」

「うるせえわけわかんねえさっさとしね」


トイレへと逃げ込む。「ちょっともう!」と背後から声が追いかける。


個室に入り、その場でうずくまる。力任せに便座を閉じる。荒い、菊川自身の吐息が反響して聞こえた。


***


トイレから戻ると、すでに試合は終わっていた。初回の失点が響いて試合には負けてしまっていたが、それでも伊那個人にとっては意味合いの大きい試合だっただろう。


実際、菊川が突っ立っているところに伊那は近寄ってきて「出世払い、待っとけよ」と冗談を言っていた。


昼食を挟んで午後には練習があった。菊川はそれも手伝った。全ての練習が終わり、学生コーチを含めたスタッフは監督室で次回の公式戦について話し合いの席を持った。そこで、伊那は正式にリーグ戦での先発投手に指名された。


その後、個人的に監督と会話をして、監督室を出るとすでにあたりは暗くなっていた。室内練習場も、グラウンドも暗く、選手はみな帰ったようだった。監督から「それじゃ、戸締りお願いしても良い?」とお願いされる。


菊川は、くらいくらいグラウンドの中を周り、ひとつひとつの鍵に間違いがないか確かめていった。そしてすべての鍵を確かめた。開いたままになったものがないように、ひとりで、しっかりと閉じていった。


そうしながら、菊川は昔の記憶を思い出していった。「母さんには内緒だぞ」と言う大きな声や、キャッチボールに付き合ってくれる大きな身体。応援席には常に父の姿があり、ピンチのとき姿を探せば「笑っていけ」という声がする。彼の投球内容を記したノートは、神経質そうな細かい字で書き付けられている。野球をやっているときの父は笑顔が多く、頼りになって、安心できた。


鍵を締め切り、守衛室に鍵束を返しにいく。そして正面から出ようとすると、ぽこ、ぽこ、と音がした。


伊那だった。伊那が壁に向かって球を投げていた。


「遅かったじゃん。クールダウン付き合ってよ」


言われた通り付き合う。ただ、それが口実であることは察せた。


帰りがけ、内緒だぞと前置きし、次回のリーグ戦の先発に伊那が内定したと伝えた。


「まじで? ほんとう? いぃやったああぁ」


伊那はめちゃくちゃに喜んでいた。


「ほんとうに、ほんとうにありがとう、リュウ、ほんとうにありがとう、おれ頑張るよ」

「ありがとうって、俺は何にもしてないよ」

「ううんそんなことないよ。おれ一人じゃ絶対にダメだった。リュウがいてくれたからなんだよ、おれ、高校の頃も、大学一年のときも、本当にやさぐれてたし、おれ何か頑張るなんて無理なんだって思ってたんだよ、だっておれ、だって」

「わかってる、わかってる」

「心ぼそかったんだ」


伊那の家は、10年前の不況で父親が自殺していた。当時の伊那はまだ10才で、父親の死を受け止めるには幼すぎた。伊那はひとりっ子で、伊那の母親に頼れる親族もいなかったため、家庭を支えるために母が働きに出ると伊那は家にひとり取り残されることになった。彼はが、野球だけは続けていた。


菊川自身も両親が離婚している。父親のいない環境で育ったものとして、伊那の気持ちはよくわかった。


伊那は泣き始めていた。


「おれ、父さんいなかったから、それに母さんはおれのために仕事してくれたし、誰にも頼れなくて、だから、つらかったんだ」

「知ってる知ってる、全部知ってる」

「リュウがいてくれて、ほんとうによかったんだ、おれにとって、リュウは、父さんだったから」

「そうだよな」


菊川は伊那の身体を抱きしめてやった。ほんとうの父親であればそうするのであろうことをしてやった。彼がして欲しかった、彼に必要なことを、伊那にしてやった。


「おれ、リュウの昔の投球見たよ、凄かったよ。めちゃくちゃ良い球だったよ。誰も打ててなかった。ほんものの投手だよ、リュウは」

「そうか」

「おれには分かるよ、おれにとってリュウは目標だよ」


それらの言葉を聞きながら、自然と腕に力がこもる。かつての自分のことを思い出した。同じようなことを、自分は父に言ったものだった。


本当に伊那は自分に似ている。何も知らないことも似ている。


そして自分は、かつての父に似てきているように思った。


「リュウのこと本当に尊敬してる」


菊川の手が伊那の腕を強く握った。伊那が何も気がついていない顔で菊川を見上げる。力を込めると「あ」と伊那の口から声が漏れ、顔がわずかに歪む。骨の軋む感覚が、ありありと腕の中に再現される。


この腕を折れば、俺の惨めさも幾分かマシになる。


それで良いんだと頭の中で、どこかで思う。


「リュウ、リュウ」

「あ......すまん」


伊那に腕をとられ、菊川は我に返る。そして恐ろしくなった。伊那に背を向けると、そのまま菊川は立ち去った。


***


逃げ帰りながら、菊川は自分がみっともなかった。感じた怒りを抑えることができなかった。すべてがなかったことになれば良いのに、という気持ちでいっぱいだった。


腕がひねられ、そして折れる瞬間の感覚がいまでも腕に残っている。


その、折れた感覚は、菊川自身の右腕だった。10年前、彼の腕は、失業して酒に溺れていた父親によって折られていた。すでに一年生エースとして名を売っていた菊川だったが、その怪我をきっかけに投げることができなくなり、野球部はおろか大学すら辞めていた。


怒りは、決して消えることはない。


それは、彼の道を刈り取ったことへの怒りであり、自分の目の前からいなくなったことへの怒りであり、父親らしいことをしてくれなかったことへの怒りだった。日常のあらゆるところに父への怒りは潜んでいた。靴を履くたび、箸を持つたび、風呂に入るたび、何かしらの怒りが蘇った。


なぜ消えないんだろうと思った。消えてくれれば、すべて水に流せれば、なんて幸せなんだろうと思う。許せと自分に告げる自分と、許すなと自分に告げる自分がいた。すべてが嘘だったなら、すべて無かったことになれば良いのに、と思った。それはもう祈りみたいなものだった。


彼が大学で野球を始めた頃、海を越えた先で大きな銀行の倒産があり、その余波は日本をも包み込んでいた。当時、父はすでに母と離婚し一人で暮らしていた。菊川が心配になり会いに行くと、父の家には発泡酒の空き缶が壁づたいに整然と並べられていた。


それを指して、父は、俺はまだ大丈夫だと言った。空き缶を並べられているうちは。けれどこれは、酒への依存を規則正しい飲酒の習慣と言い換えてみせる、アルコール中毒者の滑稽だった。


酒への依存をやめて、まともに働き始めはじめていたと聞いていた。ただ、この不況でまた逆戻りになってしまったことは簡単に察せた。酒に依存した父の姿を見るのは辛く、立ち直ってくれと願ったが喧嘩になり、そして父は、菊川の腕を力任せに捻じ上げた。


それで、菊川龍弥の選手生命は終わった。


その後も父は空き缶の積み上げを忘れなかったらしい。菊川は大学を辞め、不況の中職を探して働き始めた。父親のようにならないために、仕事で金をため、奨学金も借り、理学療法士の専門学校に入った。必死に勉強し、成績優秀で卒業し、習志野で職を得た。


気がつけば10年が経っていた。


***


その後2年間の伊那の活躍はめざましいものだった。大学野球部は東都リーグの二部優勝を決め、入れ替え戦でも勝利し、一部リーグに上がった。そこでも勢いは衰えず、一部リーグの優勝争いに最後まで絡み続けた。


その年の暮れに、伊那はチームメイトとともにプロ球団からのドラフト指名を受けた。伊那はもちろんそれを受け入れた。本当は地元のチームに行きたいと言っていたが、その代わり伊那を獲得したのは大阪にあるチームで、そのまま伊那とは別れることになった。


乗り慣れた京成線ではない、JR津田沼駅のホームまで、菊川は伊那を見送りにきた。伊那はリュックを一つ背負ったきりで、他の荷物はすでに引越し業者に頼んで送ってあるという。伊那の母は今日も仕事だったが、ただ、その合間を縫って品川の駅で落ち合うとのことだった。


「大阪ってやっぱみんな関西弁喋んのかな? 標準語喋ったらシメられる? 関西弁、喋らな、いかんのか?」


伊那は相変わらずの能天気ぶりだった。


「エセ関西弁が一番まずいらしいからやめとけ」

「あかんのか?」

「ダメダメ」

「リュウさあ、寂しい?」

「多少ね」

「出世払いで新幹線代出してあげるから試合見に来てよ」

「どうだか」

「ううん、大丈夫、もうおれが奢る方だから、頼ってよ」


駅の自動放送が流れて、しばらくすると黄色い車体がやってくる。

そうか、伊那はこの電車に乗って、遠い街まで行くのか。菊川は今更ながらに気が付く。


「またね」


伊那が電車に乗り込む。扉が閉まる。伊那が手を振り、電車がゆっくりと走り始める。伊那が遠のき、菊川の足が自然と動く。


すがるように追いかけていた。


「頑張れよ、お前は俺の誇りだよ、」


遠くなる。


「お前なら、」


伊那はもう、菊川の方を向いていない。


「俺がいなくても、ここじゃないどこかでも、ちゃんとやっていけるよ!」


地平線の果てに電車が消えていく。菊川は膝に手を当てそれを見送った。

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