part 20
ざらめさんは女性にしても男性にしても身長が高い。戦士向けの体格をしている。
しかしながら、目の前に現れたその竜はざらめさんの二倍から三倍の高さに首をもたげていた。
地に足をつけた衝撃だけで転んでしまいそうな錯覚を引き起こす、圧倒的な重量と質量。そして秘める力の破壊力。漆黒の鱗は降り注ぐ陽光の全てを吸収するようで、両翼を広げれば天をも覆う夜の帳となる。
一息で私の命を消滅させる、破壊という概念が姿をもって顕現せしめたそれは、文字通りのバケモノだ。
「ざ、ざらめさん……」
仁王立ちに立って腕を組んだざらめさんは動かない。
その黒い竜が体を揺らすだけで起きる風に髪を吹かれ、時折混じる翼を動かした突風に負けないように足を踏ん張り、それでもその瞳は眼前の竜を見つめていた。
背の斧を構えるどころか、組んだ腕を解く素振りすら見せないざらめさん。私は彼女の名を呼ぶが、その声は風に掻き消える。もちろん、声が届いた所で何の意味もない事は明白だ。きっと、逃げ出した所で無駄だろう。
もう逃げられはしない。あとはこの竜の気分ひとつで私の生命は終わりを告げる。
「あぁ……」
神に祈る事すら許さない眼光が私とざらめさんを見下ろしている。見上げる事しかできず、圧倒的な存在に私が両膝を地に落とす。黒竜が息を吸い込み、天に向けて咆哮を上げた。
その時。
「え、え、えぇ!」
世界が闇に沈んだ。
漆黒の鱗は吸い込む陽光を失い、咆哮は途中で掻き消された。というのも、太陽が突如として隠されてしまったのだ。
何が起きたか上空を見上げれば、私とざらめさん。それから黒竜の更に上空に、黒竜の更に数倍はあろうかという竜が翼を広げて滞空していたのだ。
その竜は真っ赤に燃えるような鱗を持ち、己こそを太陽であると言わんばかりに堂々とした咆哮を響かせた。
現れた存在に黒竜は素早く対応し、その赤い竜に向けて飛翔。喉元に喰らいつくべく赤竜に襲い掛かった。
しかして、赤竜は一つ大きく息を吸い込むと、黒竜を睨み付ける。そして、
ごぉっ!
空が燃えたようだった。
空に蓋でもするように、赤竜の尖った口から火炎が吐き出された。黒竜はそれを正面から浴び、たまらずひるむ。そしてその隙を見逃す事なく、赤竜はその首に噛みつき、抑え込む。
二頭の竜は絡み合って地上に落下し、黒竜が地面に叩きつけられる。落下した激しい衝撃に大地が揺れ、空気が振動する。
そして勝敗はその一撃で決着したのか、黒竜は勝てない事を悟ったらしい。一際大きく咆哮を上げると、翼を広げ空に舞い上がり、そのままどこかへ飛んで行ってしまった。
「縄張りへの侵入……いや、侵略か」
ざらめさんはまだ腕を組んで仁王立ちの体勢だった。
「お前が新しくここを縄張りにするのか? 残念だったな」
ざらめさんは、ゆるゆると腕を外す。そして背の斧に手をかけた。
「ここに来たのが運の尽きだ。ここにいる竜は、竜を殺し慣れてるぞ」
無表情の口元にうっすらと笑みが広がり、口角が上がるのを私は見た。
「こい。ぶっころしてやる」
呼応するように赤竜の咆哮が轟き、陽光を受けた赤い鱗は鮮やかに燃え上がった。
天を揺らす轟音が地に降り注ぐが、しかしそれは赤竜にとって単なる咆哮に過ぎなかった。
天を覆う両翼。大地を切り裂く爪牙。世に生を受けたありとあらゆる者を蹂躙せしめる死の権化が、私のすぐ目の前には存在していた。
「あ、わ、わ、わわわわ……」
あの黒竜を撃退するだけの竜である。混乱した私は咄嗟にお鍋に隠れようとしたのだが、私の大鍋はネーテの馬車に置いてきたままである。
ざらめさんを助けた後は、身軽に逃げようと大鍋は捨てるつもりで置いてきてしまったのだ。
「わわわ……」
隠れる物がないので、私は仕方なしに馬車の裏側で頭を抱える事にした。
その咆哮によって腰が抜けてしまったので、這って進むしかなく、護送馬車の四角い影にお尻まで引っ込めるのには時間がかかってしまった。
「わわわわ……」
あたふたと両手を頭の上に乗せて、影からそっと様子を伺う。一頭と一人は互いに対峙したまま、動こうとしない。もっとも、赤竜だけは空中で翼を上下させてホバリングしているので、厳密には動いているのだが。
しかしそれでも、まだ距離を詰めようとはしてこない。
「……シオン。そのままそこにいなよ。大丈夫。守るよ」
強風に負けないよう、斧に手をかけたまま大きめの声で言われる。そして背から斧を、ぶぅんと勢いよく振り回した。遠心力を利用しなければ構える事もできない重量があるらしい。そしてその短すぎる柄を両手で握り、刃を正面に向ける。
巨大な斧頭は正眼に構えるだけでも筋肉に多大な負荷がかかっているのが見てわかる。少なくとも、振り回すのは無理だろう。いわば巨大な鉄塊なのだから、人間が自在に振り回せる代物ではない。構えたり、向きを定めたりするのが限界だろう。むしろあれを構えて立っていられるだけでも大したものだ。
「だ、大丈夫なんですか……?」
赤竜の双眸が上空からこちらを睨み付けていた。
金属光沢すら放つ、見るからに頑強な鱗で全身を覆い、大きさにふさわしい巨大で鋭い歯を口の中いっぱいに並べ。
翼と角を持つトカゲ、とでも言うべき姿をしている。だがトカゲのようなとは言え、その大きさはつま先から鼻先までで、戸建ての家一軒よりも更に大きかった。護送馬車を引く馬でさえ、踏み潰してしまえる程の巨体である。
あれだけの重量と質量を持つ存在がどうやって飛んでいるのか、天を覆う翼を見ても納得できるものではない。
ざらめさんの持つ斧が強力だとは聞いているし、あれだけの鉄塊に刃を乗せて力任せに叩きつければ、どんな怪物も両断できそうだとは思う。
しかして、目の前の赤竜の大きさと重さは生物の規模ではない。
例えば誰かが城壁を越えようとした時に、その誰かは登るか迂回するかを考えるだろう。まさか正面から破壊して進もうなどとは思わない。
赤竜は人間にとってそのようなものだと言えるだろう。戦う対象とすら思えない程の巨体と質量を持っているのだ。
巨大な生物として認識できた黒竜は現実感のある恐怖を伴ったが、それをも上回る赤竜は、ある種の絶望をも感じさせた。
しかし。
「おいお前。死ぬ前に昔の話を教えてやる」
ざらめさんは何ひとつ恐れてなどいなかった。
「ずーっと昔。竜害に困った奴が、竜を殺せるくらい強い人間を作ろうとした事があったんだ」
その声は人語を解さない赤竜に届いてはいないだろう。しかし、言葉は続けられる。
「そして、竜の血液を人体に取り入れて、竜と同じくらい強い人間を作る計画が出来上がった」
ざらめさんは赤竜から目を逸らさない。
「何人も死んで、その結果生き残ったのは数人だけ。でも、結局その肉体は竜に近づく事もなく、人間のままだった」
離れて見るその横顔からは、口元の笑み以外に何の感情も読み取れなかった。
「残ったのは竜に対する異常なまでの嫌悪感だけだったよ」
あの日、月を見ながらざらめさんは、自分だけが逃げのび生き残ったと言っていたような気がする。
私は今、竜のはためく風音で何を言っているのか半分程度しか聞き取れなかったが、何の話をしているかくらいは理解できていた。
「来ないなら行くぞ。殺してやる」
斧を体に固定するように片手で持ち直すと、肩にたすき掛けた鞄から、可燃液の詰まった瓶を残った片手で取り出した。
言葉と動きに反応するように赤竜は再び咆哮を上げる。周囲に響き渡るその大怪音は、大気を裂くように全ての生き物を委縮させた。
体の奥底まで振動が響き、数瞬遅れて震えがのぼれば、びりりと脳が痺れるようでさえあった。しかし、ざらめさんだけは慌てる事もなく冷静な眼差しで赤竜を見据えている。
そして、竜と人の殺し合いが始まった。
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