part 19
馬車の進む音が石畳を踏む音ではなく、地面の土そのものを踏む音に変わった。
街の門を抜け、とうとう北門の外側に出たのだ。車輪が時折、石ころを踏んで巻き上げ、小さい石を道の外へ跳ね飛ばす。その度にガクンと揺れる車内で、ネーテは不快そうに外を眺めていた。
「こんなに世界が広がっているのは初めて見るし、なかなか悪くない風景だとは思うけど……。この揺れはちょっとね。そう思わない?」
「そうですね……。私もほとんど馬車に乗った事がないので、最近乗るまで知りませんでした」
適当な話をしながら、私も外を眺める。
私がクーダッケの街にやって来た道は街の西側だったようで、西門から先には森が広がっていた。しかし北門からは平野が続き、どこまでも短い草と、それに覆われた小さくなだらかな丘が乱立していた。
丘の間を縫うように、人が行き交う内に自然とできた道が続いている。馬車は緑の海を滑るように、軽快に進んでいた。
そして、それは突然起きた。
「ちょっと! どうしたの?」
最初に気が付いたのはネーテである。何が起こったのか、それは考えるまでもない。もう北門が遠くに見える頃だろうかという時に、馬車が停止したのである。
どうやら御者が馬の手綱から手を放し、居眠りを始めたように見えた。馬は唐突に御者の首がカクンと下がったので、異変を感じて脚を止めたらしい。
「ちょっと……。ねぇ、ちょっと! 起きなさい! 何をしているの!」
苛立ったように怒声をあげるネーテ。仕事中に居眠りなど、と雇い主としては腹が立ったらしい。
だが私は御者さんが解雇されてしまう事までは望んでいないので、まぁまぁと取り成しながら御者の様子を見てくると言って馬車から降りる。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」
声をかけながら小走りで駆け寄ると、御者は驚いたような表情のまま硬直していた。目がカッと開き、小刻みに震えながら自分の手を見つめている様子だ。
突如として体が動かなくなったので、何が起きているのか自分でもわからないのだろう。
だから私は素早く御者台に上ると、その耳元で囁く。
「しばらくしたら手足は動きますから。どうぞ落ち着いて。死んだりしないので、そこは安心して下さい」
私が何を言っているのかわからない、という表情だが、私はその懐に液体の入った小瓶を滑り込ませた。
「手足が動くようになっても、頭の方はまだボンヤリしたままだと思います。そんな状態では危ないので、体を動かせるようになったら飲んで下さい。解毒剤です」
そして何か言おうとしている表情に、ぺこんと頭を下げてから御者台を降りる。
ネーテの馬車に一度向かうと、私はとりあえず状況を説明。
「どうにも具合が悪いそうで、薬を渡しておきました。少し休んだら大丈夫らしいので、ネーテは馬車で待ってて下さい。私は護衛の兵士さんに伝えてきますね」
「そう……? ありがとうシオン」
どことなく納得のいかないような表情だったが、世話係の女性が隣にいる手前、騒がずにおとなしく頷いている。
私はネーテの馬車と連結された護送馬車に向かうと、その箱型の馬車の前半分にある扉を軽くノック。筋骨隆々のたくましい兵士が、何事かと顔を覗かせた。
「ネーテ嬢のお友達のシオンです。御者さんが具合を悪くしたそうで、少しの間だけ休憩をとります。それをお伝えしに来ました」
告げると、納得したように首を縦に振っている。突然止まったので、領主を狙う輩が襲撃をかけたのかと心配になったそうだ。馬車の奥に座る二人の兵士は、腰の剣を既に抜いていた。
私のノックを聞いて何者かと警戒したのだろう。
「それはもうご安心を。こんな広い、見通しの良い場所で襲撃なんてありませんよ。街もすぐそこですし。それに、こんなに強そうな方々がいるんです。誰も襲おうだなんて、そんな恐ろしい事を考えたりしませんよ」
えぇ、それはもう。と語気を強めると、強そうなと言われた事が嬉しかったのか、若干だけ態度が軟化したのがわかった。
襲撃ではないと知って安心もしたのだろう。私は懐から布で包んだバタークッキーを取り出して、さぁどうぞと手渡す。
「昼食の時間は過ぎてしまっていますが、午後の休憩に何もなくては手持無沙汰でしょうし、お一つどうぞ」
礼を言った兵士は私から受け取ると、奥の仲間にも渡しに一度引っ込む。そのタイミングで私も滑り込むように侵入した。
おいおいここはお嬢さんの来る所じゃあ、などと言うので、私は近くにあった空いている椅子に腰かける。
「いえいえ、私は料理人ですから。私の作った食べ物の感想を、食べている様子を、この目と耳で知っておきたいのです。ついでに、こうした本格的な武器を見るのは初めてなので、ちょっとだけ見学したいと思いまして」
私は馬車の壁に吊り下げてある短剣や長剣、その他様々な雑多な品々に視線を泳がせた。
変わり者だな、などと言われながらも、クッキーをかじった兵士は甘くておいしいと褒めてくれる。たかだか一枚二枚のクッキーは、大柄の男性の前ではものの数秒で消えてしまった。
「みなさん、ずいぶん体が大きいので、足りなかったらどうしようかと思いました」
いやいやこんな数枚で満足してはいないぞ、という表情に向けて言う。
その表情が、コマ送りのように徐々に青ざめて変化していく様子を私は見守った。
ぶるぶる、がくがくと、小刻みに痙攣する手を不思議そうに、不安そうに見つめている。私を見ていない辺り、我が身の変調の原因がわからないようだ。
「ひとつだけ、訂正します。さっきは誰も襲撃をかけたりしないと言いました。確かに、まともな……例えば、盗賊や山賊の類では襲撃をかけないでしょう。皆さんとっても強そうですし、そんな恐ろしい事をしては大けがをしてしまうに決まっています」
私は椅子に腰かけたまま続ける。
「なので、襲撃なんてやるのは私くらいなものです」
内心、上手く行かなかったら、と考えていたのだが、ここまでくれば問題ない。私の胸中は平静だった。
叫び声の一つも上げる事なく床に頭から落ちる三人の兵の姿を見ながら、アルコさんとの会話が思い起こされた。
「料理人としての矜持……」
薄暗い中で呟いた私を、アルコさんはその時困ったような目で見ていたのだが、私はもっと別の事を考えていた。
それは、果たしてそんな物が私にあるのか、という疑問である。
正直、食事に毒を盛るというのも死なない程度ならば、私としては何の問題もない事だった。
料理人としての矜持がどうと、考えた事もなかったのだ。
何か勘違いされていたのだが、私は料理人を名乗っているものの、私の行動理由や目的は料理を作る事そのものではないのである。ましてや、食べてくれる人がおいしいと言ってくれる、というのは確かに嬉しいが、それだけのために料理を作るのではない。大切な事ではあるが、それとこれとはまた別である。
料理とはあくまで手段に過ぎない。
私が何故、危険な一人旅に出たのかも、無茶な奪還作戦を行うのかも、それは単純明快なたった一つの理由に基づくもの。
全ては、私がおいしい物を食べるため。
「なので」
私は完全に意識を失っている兵士を見下ろしながら、椅子から立ち上がる。
「他の料理人の方はどうなのか知りませんけど」
そして兵士の懐をまさぐる。一人目は違ったが、二人目の懐にそれはあった。
「おいしい物を食べるためなら、私は手段を考慮しません」
では、あしからず。とだけ聞こえていないのだろうが挨拶だけした私は馬車から降りた。
まだネーテの馬車から降りて数分しか経っていない。不審に思ってネーテがこちらを見に来る事はないだろう。
私が奪取したのは、馬車の鍵である。これがないと、護衛馬車の頑丈な扉が開かないのだ。箱のような護衛馬車の、その後背部は太い金属によって鍵がしてあるため、鍵がないと開けられない。鍵の奪取は必要不可欠だった。
そのために先ほど私が渡したクッキーはダメ押しの一手。
即座に昏倒させるだけの魔水液の混ざる特別品だ。本当は御者と同様に最初の一枚で倒れて欲しかったし、そうしてくれたなら昏倒させる必要まではなかったのだが、やはり体の大きさによって個人差があるらしい。
昏倒して意識を失ってくれた方が懐の鍵を奪いやすいので、結果的にはこれで良かったのだが。
何はともあれ、と私は護送馬車の鍵を開ける。まさか護衛につく兵士がここ以外の鍵を懐に忍ばせているわけもなく、鍵はすんなりと鍵穴と合致した。
ガチ、と少しばかり硬質な金属音を発しつつも、観音開きの扉が開く。
「おまたせしました」
開けると、中では既にざらめさんが例の巨大な斧を抱え、所持品の入った鞄と二本のナイフを携えて待っていた。
どうやら所持していた物もまとめて同じ馬車で運ぶつもりだったらしい。おそらく一つも欠ける事なく全ての所持品を取り返す事ができていた。
「うん。ありがとう」
手枷はない。木製の手枷だったので、事は簡単だった。どうやら暗号は伝わっていたらしい。
出発前に、私がざらめさんに渡したクッキーの中には、クッキーに埋められる程度の糸ノコが入っていたのだ。片手に収まるサイズではあったが、ざらめさんはそれを上手く使って手枷を切断する事に成功していた。
間違って食べて飲み込んでしまわないよう伝えるために、アルコさんが材料をただで提供してくれた、などと言ってみたが正解だったらしい。
あの人が何の得もないのに、そんな事をするわけがないのだ。そしてそれに続けた言葉。
「それでは、ここから走っていける範囲にはアルコさんが来てるはずです。行きましょう」
多少強引だったが、アルコさんが絶対言わなさそうな言葉によって、そのアルコさんが逃亡に手を貸してくれる事を伝えたつもりだった。
無理してまで伝える意味はないのだが、あくまで逃亡の算段があるのだと伝えたかったのだ。知っているのと知らないのでは、気持ちの持ちようも違うだろうし、何より次の段階への移行が滑らかに行える。
逃亡方法がないと思ったざらめさんが、手枷を外した時点で強引に暴れ出したりするのを避けたかった意味もある。
「にしても、どうやったの? 鍵とか兵士さんが持っていただろうし、そもそも……」
「ふっふっふ、料理人としての矜持など最初から持っていない私にかかれば、この程度は難しくないのですよ。まぁ……矜持すら持たないなら料理人じゃなくて、今後は別の名乗りを考えた方が良いかも知れませんけど」
「……あんた何か変わった?」
「いえいえ。私は何も変わっていませんよ。それよりも、ざらめさんが戻ってきてくれて何よりです。さぁ! 一緒に逃げて、そしておいしい怪物を捕まえて下さい! おいしい料理を作りますから、一緒に食べましょう!」
意気揚々と私とざらめさんは馬車を降りた。
ネーテはまだこちらに気が付いていない。頃合いを見てアルコさんが来る手筈なのだが、この見通しの良い草原では馬車で尾行する事はできないと判断したのだろう。相当な距離をとっているらしく、未だ見えない。
「んー……アルコさん、まだ来ませんね……」
「うん。もしかすると来ないんじゃない? 来ない時の事も考えなきゃ」
「えぇ! まさか。あの人が裏切るなんてそんな……。そんな……。……いや、いくらか握らされたら簡単に裏切ってしまいそうですけど……」
「それに、あたしを連れて逃げても得とかないし」
「な、なに言ってるんですか! ちゃんと事前に、昨夜の内に説明しましたよ。ざらめさんがいないと怪物を捕まえる人がいないので、おいしい怪物料理を食べられないんですよ、って」
「……それってアルコにとって得なのかな……」
「え、そんなまさか……」
一陣の風が吹き抜けた。
「それより、どうしてそんなに平然としていられるんですか? アルコさんが来ないなら、それはそれで急いで逃げましょうよ」
「えぇ? だって、あたしほら、竜殺せるし。兵士って竜より弱いじゃん? たぶん、斧があったら人間の兵士には負けないし。ネーテとかいう女の子も、あたしの敵じゃない」
「そんな力こそ全てみたいな暴力前提の発想はやめて下さい」
そして一陣の風が吹き抜けた。
「それにしてもアルコさん、来ませんねぇ……」
「………」
強さを増した風がひとつ、吹き抜けて行った。
「あ」
「来ました?」
突風が、私の頬を叩くように吹き付けた。
「アルコじゃないけどね」
「えぇ? じゃあ誰が?」
突風が再び顔を打つ。
「ほら、来たよ」
ごう、ごう。と、突風が私の髪を巻き上げる。
その度に風を起こすような、ごうごうという音が頭上から聞こえた。私は馬車越しに振り返り、草原の草が波打つような様を見て、そしてそれから、頭上を見上げた。
「シオーン!」
馬車の向こう側で、ネーテが私を呼んでいた。世話係の女性は火事場の馬鹿力とでも言うべきか、暴れるネーテを担ぎ上げて馬車から降りると、凄まじい勢いで走り出す。
「放しなさい! シオンを助けないと! シオーン! あなたも……」
逃げてー! とおそらく最後に言いたかったのだろう。口の形から私は半別できたのだが、その声は掻き消された。頭上から響き渡る轟音によって。
「白黒のアイツじゃないのは残念だけど……。やっと来たか。やろう、ぶっころしてやる」
ざらめさんの視線が射抜くように、それを見上げた。
私が見上げた頭上では、それはそれは大きい、最近巷で話題である竜が、翼を広げて咆哮していた。
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