part 2

 ここは丁度森のはずれである。

目の前のそこは開けた場所で、獣道とは違い、人の手で作った道だ。街道からほんの少し外れていて、月に一度だけ村などに行商人が来るのに使うような、馬車がすれ違えるくらいの、そんな道だ。


私はこの道の、この場所に止まる馬車を目当てにここまで来たわけだが、どういうわけかその馬車は、道の真ん中で止められていた。止まっていたのではなく、止められていた。

御者の男性は恐怖に顔を引きつらせ、馬は脅えきっている。それもそのはず、馬車の眼前には巨大な猪がいたのだ。


「あれはさ、えーと……なんかこう……ちゃんとした名前はあるんだけど忘れちゃった。とにかくデカい猪」


 そんな事は見ればわかる。今にも馬ごと御者を踏み潰してしまいそうだ。

大きさはそれこそ馬車と同じか、それ以上に巨大だ。体重は大人が十人もいれば同じくらいだろうか。その体格を支える強靭な足腰と、その脚力から繰り出される必殺の突進がいつ繰り出されてもおかしくない。


黒々とした体毛の中からにょっきりと飛び出した牙は、今までどれだけの獲物を貫いてきたのだろうか。


「あいつ目が悪いからさ。隠れてれば見つからないよ。でも匂いには気が付くから、ここら辺にいると死んじゃうよ」


 ざらめさんはそんな事を言うと、のんびりと、足元の草花をさくさく踏みしめながら歩を進めた。


「ちょ、あの……! 大丈夫なんですか……!」


 私の足は一歩も前に進まなかったが、それでも声をかける。しかし、


「なにが?」


 と聞かれれば、一体何と言えば良いのだろう。

あんな巨大猪を相手にどうするつもりなのか、とか。御者をどう助けるつもりなのか、とか。あとは、あんなのを相手に何をするつもりなのか、とか。そんな事を知りたくて問うたはずなのに、あっけらかんと、何がと言われてしまえば私は何も言えない。


ざらめさんにとって、目の前の猪は脅威として数えられていないのだろうか。あるいは、実はざらめさんは頭が本格的にどうにかしてしまっている人なのだろうか。


「その……あの猪、どうにかできるんですか?」


 御者を救って逃げる事ができるのか、という意味で訊ねたつもりだった。


「そりゃまぁ……。あたし竜殺すし。猪の方が竜より弱いし」

「いやそんな簡単な話では……」


確かに、竜族を専門に殺すという人が猪に勝てないのも妙な話に聞こえるかも知れない。しかし、私だって小さな子供でもあるまい。


竜というのは大勢の騎士や戦士、それか統率され洗練された狩人の一団が、全員の総攻撃をもって初めて渡り合える破格の存在だという事は常識として理解している。


空を飛び、火を吐き、その爪牙で大地を削るような、正真正銘の怪物を倒すというのは並大抵の事ではない。ざらめさんも猟師を名乗るくらいだから、きっとどこかの竜を専門とした組合に所属しているのだろう。いやしかし、だからと言ってこの巨大な猪を一人で相手にするのとは話が違う。

竜と戦うのとは違って、連携攻撃をとる相手がいないのだ。いや本当に、何故ざらめさんはあの巨大猪と戦うという発想が生まれるのか。


「無茶ですよ、いくら何でも、せめて御者さんを助けたらすぐに……」

「無茶じゃないよ。あれは殺す。だって道を塞いでる。あたしたちが通れない」

「ざらめさん!」


 ずんずんと行ってしまうざらめさんを追う事は私にはできなかった。

代わりに背の高い草花の影で鍋をカメの甲羅代わりに丸まる。そしてフライパンを頭の上に乗せた。


「そうしてなよ。それが安全だから」


あぁ、きっとあの人は死んでしまうかも知れない。せめて私だけは助かりますよう。ざらめさんが負わせた傷で、猪が逃げ帰りますよう。

 などと、薄情な祈りを捧げる私。しかし、ざらめさんの足音は迷いのない様子で馬車に向かっていく。固く目を閉じて、膝から徐々に上ってくる悪寒に耐えながら、私は今まで自分が旅を甘く見ていた事を早々に後悔し始めていた。

 遠くでざらめさんの声が聞こえる。


「ほらー、どいてー! あっち行ってー!」


 御者の震えるような悲鳴。次いで、恐怖に駆られた馬の鳴き声。


「あっちで丸まってるお鍋と一緒に隠れてなよ。あの牙とか頭突きとか、当たったら死んじゃうから早く逃げてよ」


 ばたばたと足音が聞こえる。そして、息使いも荒い御者の男性は、私の隣……いや、私の影に隠れるように、私の背後へとうずくまった。


「冗談じゃねぇな、あぁ、冗談じゃねぇ」


 開口一番で文句を言う。


「あのデカい姉ちゃんも強そうだが、あっちの猪は姉ちゃんの二倍三倍だ。死にたがりには付き合えねぇよ」

「その死にたがりに助けられたんじゃないんですか?」


 ざらめさんが猪の睨みに割って入らなければ、確実にどうにかなっていたにも関わらず、ともすればこの御者の言い方はどうなのだ。などと、隠れているくせに私はムっと言い返した。


「何言ってんだ。自分が死んでまで人を助ける奴はバカだよ。死にたがりが誰かが死ぬのを代わってやったからって、俺ぁ感謝なんかしねぇぞ」


 服装や持ち物からして、御者は通行人を運ぶために馬車を引くだけでなく、商人としても働いているらしい。

その持っている商売道具だろう手荷物を、ぎゅっと胸に抱え直した。


「おいこら、逃げるんだよ。丸まるならもっと遠い所で丸くなろうぜ」


 御者……というよりも、商品だか商売道具だかを大事に抱えている所からして、商人が本業なのだろう。その商人は、私の手を引っ張る。


「でも、私ざらめさんを置いて……」

「置いて逃げるんだよ!」


 そしてこの男、迷いがない。見ず知らずの女性を犠牲に逃げ延びる事に、微塵の罪悪感も抱いていないようだ。


「来ねぇなら俺だけ逃げるからな、死んでも恨んで化けるなよ! じゃあな!」


 それだけ言うと、ざらめさんを見捨てるか否か、もたもたと判断に迷う私を置いて走り出してしまった。商人というのは、みんなこうなのだろうか。

 さて。商人は逃げ、ざらめさんは未だ猪と睨み合っている。いや、正確には睨んでいるのは猪だけで、ざらめさんは持ち前のたれ目でとろんと猪を眺めているだけだが。


とにもかくにも、私はどうするべきだろうか。と、私は一瞬悩む。このまま丸くなっているべきか、商人のように逃げるべきか。


私はやっぱり、丸くなってフライパンを頭に乗せたまま考えるのだが、もしかしたら走り出した私を見て、逃げる者を追う興奮で猪がこちらに向かってくるかも知れない。そう思うと、私は逃げる所か立つ事すらできないのだった。


「あ、ねぇ……」


 その時、目を閉じて震えている私に、ざらめさんの声が聞こえた。


「大きいのは有料って言ったけど、あんた料理人だったよね。後で頼みがあるんだ」


 同時に、猪は雄叫びをあげた。ごぉぉ……と大地を揺るがすような、隠れているこっちまで飛び跳ねてしまいそうな。殺意満天の雄叫びだった。


「ひぃえぇ……!」


 悲鳴を上げて小さくなって、背中のお鍋にお尻まで引っ込めると、私は土下座でもするような体勢で丸まった。


ざらめさんが逃げてくるような足音は聞こえないが、本気で正面からぶつかる気なのだろうか。


「せーの!」


 ぐぉぉ……と、まだ続く遠吠えにも似た猪の叫びに混じって、ざらめさんの声が聞こえた。


「おらぁ!」


 そして。唐突に、猪の雄叫びを遥かに凌駕する爆音が辺りの森に木霊した。


伏せている私にはその時何が起こったのかまるでわからなかったが、猪の鳴き声が可愛く思えるほどのその音は、どこかで聴いた事がある気がした。


幼い頃に、一度だけ村の近くを竜が飛び回るという恐ろしい出来事があったのだ。その時竜は一つ大きく吠えただけで去ってしまったが、その竜の鳴き声、叫びは今でも胸の奥に刻まれている。人を人とも思わない、弱者をその一息で消滅させる絶対強者の雄叫び。その竜の咆哮に、今私の耳に聴こえた爆音はそっくりだった。


天地を揺らすような轟音は耳を通って私の脳を揺らし、くらりときた体勢を地面に突っ伏しながら戻した時。私はようやく顔を上げた。何が起こったのか確かめようと顔を上げたのだが、状況は既に終わっていた。


「えっと……あ、やっべ技名言ってなかった」


 道の真ん中では、巨大な猪がその巨体を支えきれずに崩れ落ちていたのだ。


何がどうなったらそうなるのか、まるで私にはわからないのだが、猪の頭は額からばっくりと割られていて、顎まで裂けているかのような深い傷跡が残っている。明らかに即死だ。

そしてざらめさんは怪虫を殺した時のナイフなどではなく、私がずっと気になっていた例の、巨大かつ短すぎて使えないはずの斧を持っていた。斧の斧頭と刃には猪の血液が滴っている。

何故か斧頭から飛び出した金属管からは、ぶすぶすと黒煙が筋となって立ち上っている。


「技名……技名……あとポーズな……」


 ざらめさんは斧の短すぎる柄をしっかり両手で持って、猪に向けたまま何事か呟いて、それから右手を左肩にささっと伸ばして謎のポーズ。


「必殺! キャラメルストライク!」


どばーん! というのはざらめさんが口で出した効果音だった。

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