おいしい怪物料理のすすめ
稲荷崎 蛇子
part 1
目の前に、巨大な蜂が現れた。
その蜂、大きさにして私の頭よりも更に大きい。
耳障りで人の警戒心を煽るような羽音を響かせ、特有のホバリング飛行で空中に静止している。私の手のひら程もある複眼が何を映しているのか知るよしもないが、その攻撃意思が私に向けられている事だけはよくわかった。
何故ならば、その人間をも刺殺しうるだろう針が、平常時は収納されているお尻の針が、私の目の前でにゅるりと露出しているのだから。
「だめです」
私は手に持っていたフライパンを掲げて、顔を守るようにフライパンの影に隠れた。
もしも攻撃して来ようものなら、叩いて撃ち落としてやる。とは思うが、攻撃なんて本当にされてしまったら、きっと成す術もなく、あっけなく死んでしまう自分の姿が安易に予想できる。
なので私にできる事と言えば。
「だめだめ、だめです。本当に、勘弁して下さい。やめて下さい」
人語を解する可能性がないだろうと知りつつ、ぺこぺこと下手にお願いしてみる事しか、私にはできない。
「いや、本当に、何ていうかですね、私は近くの村からやってきた田舎娘でありまして、そのつまりは、この道を通りたいだけなのです」
懇願してみるのだが、蜂はゆらゆら揺れて、ぶぶぶと羽音を立てるばかりで、私に対して何かしらの反応を見せる様子はない。これは、本当に、本当の本当にこんな所で死んでしまうかも知れない。
だがそもそもにして私がこの蜂に遭遇してしまったのは、実は偶然でも何でもないのである。前々から、あの森に一人で入ってはいけないと忠告されていたのだ。
だから何かしらの危険がある事は予想できていたのだ。
しかし、まさかこんな攻撃的な怪物が真正面から出てくるとは思っていなかった。
私の装備は、背中に大型のお鍋が一つと、腰に調理用の包丁が数本用意してあるばかりで、正直何かに襲われても対処できない。
後は調味料と、野宿するための用意。それと路銀がいくらか入った鞄を持っているだけなのだ。
けもの道を通らずに、人の手が入った道を通れば、危険な怪物はおろか、熊や狼にだって会う事もないだろうとタカをくくっていたのだが、まさか巨大な虫が出てくるとは思ってもみなかった。
「あぁ……これは見逃してくれない感じですか?」
父と母は、何でもないごくごく普通の農民だった。
というか、付近の家は全てそうだった。田畑を耕し、毎日を大した娯楽もない生活に捧げている。
だから私は、そこから逃げ出したのだ。
昨晩、欠けた月の薄暗さに便乗して、家にある調理器具と、前々から用意しておいた旅道具一式。それと貯めておいたお金を路銀として持ち、家をこっそりと抜け出した。
きっと今頃は私の残した置手紙を読んでいる頃だろう。大陸の中心にある王都へ行く。それだけしか私は書いて来なかったが、それだけで充分だろう。
何とも親不孝な私だが、私はあの村で一生を終える事など到底できない。
私には、夢があるのだ。それも、あの村にいてはその夢を追う事すらできない夢が。だから私は村を出たのだ。
私が抜け出してから既に数時間が経過しており、今は朝日が昇っている。
今日の早朝、この時間に、この森を抜けた所で街へ向かう馬車が出る事になっているのを私は知っている。私はその馬車に乗って、まず街へ行くのだ。そこで少し路銀を稼いだら、また次の街へ。そうやっていずれ王都へと辿り着く。
と、言うつもりだったのだが。まさか森を抜ける段階で死んでしまうとは。
あぁ、私の野望はかくも無残に、始まる前から朝靄と共に散ってしまうのである。
「だめです! それ以上近寄ると、戦います!」
さっとフライパンを構える。が、蜂は相変わらず何を考えているのかわからない。
蜂蜜を使った調理方法や料理なら心得があるのだが、蜂そのものとなるとどうして良いやらわからない。
「く……! 自由のために、いざ……!」
蜂が突進しようとしているのが、素人目にも明らかだった。
私はすれ違いざま、フライパンをその腹部に叩き込むべく、覚悟を決める。
腰も引けているし、足も震えているので、はたから見ればさぞ滑稽だろう。
「たぁー!」
しかして。私は気合の掛け声と共に、目をぎゅっと閉じてフライパンを振ったのだが、虚しくも私の一撃は空を切った。
同時に、ざくり、と何かの突き刺さる音が聞こえる。
「あー」
やられてしまった。私は死んでしまった。
なんて、私が思ったのも束の間。私の体に痛みはない。おそるおそる目を開けてみると、刺されたのは蜂の方だった。
「あー、大丈夫?」
何が起きたのか、と混乱した私がわかったのは、誰かが助けてくれたという事と、それによって蜂の脅威が去った、という事だった。
私の目の前では、背の高い女性が細いナイフを両手に持ち、蜂の背中を貫通してクロスさせるようにナイフを突き立てていた。察するに、背後から近づいて一瞬で仕留めたのだろう。
蜂は動きを停止し、ぼたりぼたりと体液を流している。
「刺されてない? これに刺されると痛いよ。すっげー痛い。ぼわんぼわんに腫れあがるよ。まぁ、刺さったら毒で腫れるより先に大体死ぬけど」
少し心配そうな表情で女性は私を見ている。長い髪をポニーテールで一本に束ね、スレンダーだが筋肉の乗った体型に、旅慣れた格好をしている。
そして何故か背に大きな斧のような物も背負っている。
この斧のような物、というのは斧なのかどうか自信が持てないからだ。背丈ほどもあるだろう超巨大な戦斧、の斧頭部分だけを背負っている。太い太い柄が手のひら一つ分の長さで飛び出しているが、どう見てもそれでは斧として振りまわせない。
おまけに飾りなのか何なのか、その斧頭にはぼっかりと大きなくぼみがある。くぼみの周囲からは細い金属の管が何本も飛び出しているが、くぼみと管の用途は見当もつかない。
何だかまるで、壊れて穴が空いたため手近な金属類で無理やり補強したような、そんな風に見える。何に使うものなのだろうか。
何にせよ見たこともない斧だが、王都や街へ行けば見る事もあるのかも知れない。しかし本当に、どうやって扱うのだろう。
「あの、助けて頂いてありがとうございました」
一にも二にも、まずは感謝を述べようと私は頭を下げた。
「あぁ、いいって事だよ」
女性は、蜂の体内からナイフを引き抜くと、ぶんぶん振り回して体液を刃から振り払う。そして肩にたすきがけている鞄から布を取り出すと、丁寧に拭いた。
「この蜂、大鷲蜂って言うんだけどさ、あんまり人を襲ったりしないんだよね。何か変な物でも持ってた?」
「いえ……特に心当たりは……」
ナイフを腰にある鞘へと慣れた手つきで納める。ナイフの柄と鞄には、なんだか下手くそな……ではなく、味のある字で、ざらめ、と書いてある。よくよく注視すると、体液を拭いた布にもざらめと刺繍してある。
味のある字のため解読に若干自信がないが、多分そう書いてある。
「蜂蜜とか持ってると襲ってくるんだよね」
「あ、蜂蜜は持ってます……。調味料の袋に少しあります」
「じゃあきっとそれだ。瓶詰めと言っても、服か鞄についたほんの少しを嗅ぎ分けてくるから、気をつけなきゃ」
おそらく持ち物に書いてある事から考えて、ざらめ、と言う名なのだろう。
彼女、ざらめさんは何となく幼さの残る顔立ちで口角を上げ、私について来いと身振り手振り。
「あたしと一緒にいると連中は来ないから、目的地が同じなら一緒に行こうか」
「どこまでですか?」
「森を抜けた所で馬車に乗るんだよ」
これは助かった、と私は内心小躍りして喜ぶ。やはり旅慣れた人と一緒に行動するのが最も安全だろう。
私も行き先が同じだ、と告げるとざらめさんは頷く。そして私たちは並行して歩き出した。
……しかし、何故ざらめさんには巨大蜂が襲って来ないと言えるのだろう。
「あいつら怪虫類はデカイ奴らの臭いにも敏感なんだよ。あたしの鞄には火竜の可燃液が瓶に詰めて入ってるから、あたしの事を竜だと勘違いして寄って来ないんだ」
一瞬、なるほどそうなのか、と納得しかけてから私はそのおかしさに気がつく。
火竜の可燃液を所持しているとはどういう事だろうか。確か火を吹く竜は体内に可燃性のガスや液体を保有していると聞いた事があるが、何故そんなものを。
「あぁ。あたしね、竜族専門の殺し屋なんだよ。いわゆる猟師さんだね。ハンターギルドにも登録してあるから、怪しいもんでも密猟者でもないよ?」
ざらめさんは私の不安を払拭するように言った。
「じゃあ、その可燃液を売りに町まで行くんですか?」
「いんや。これはあたしの私物。売り物じゃないよ。商売道具。耐衝撃ビンを使ってるけど、危ないから興味で触っちゃいやーよ」
かちかちん、とビン同士が当たる音を鞄を揺らして強調。
他人の持ち物に触る気など毛頭ないが、そんなものをどう使ったら道具として扱えるのかはわからない。着火すると爆発したり一瞬で燃え盛ったりするらしいが、猟師の仕事で爆発なんて必要なのだろうか。
「ところで、ざらめさんはどうしてこんな所に? まさか近くに竜がいるんですか……?」
「ざらめって……。別にまぁ良いけど。あたしざらめだし」
「え?」
「いやこっちの話。えーとね、あーとね、竜はこの辺りにいないけど、この辺りに来ると近い内にあたしが竜に会えるんだよ」
「それってどういう事ですか?」
「んあー……説明しづらいなぁ。勘だよ。運命って言っても良いかな。今日あたしがこの辺りを歩いて、それから馬車に乗って移動した後に、丁度竜が出てくるんだ。そんな気がするってだけ」
「はぁ……そうなんですか」
竜専門の猟師、というだけあって、よくわからない独特の考え方である。予言めいた夢のお告げがあった、とでも言われた方がまだ納得できるのだが、完全に勘とは。
「でも今日はどんなに動き回っても竜が出てこないから、あたしと一緒にいても大丈夫だよ。ナイフで刺して死ぬサイズの生き物だったら襲ってきても守ってあげるし。もっと大きい奴は有料ね」
とろんとした眼差しで言う。いや、単に元々この人がタレ目だから気だるそうに感じるのかも知れないが。
「でも、あんたこそなにそれ? なんで鍋? なんで包丁? なんでフライパン?」
私の装備を一つ一つ指でさして、責めるように言う。旅を舐めるな、という言外の意思が伝わってきそうである。だが、これがあって初めて私は夢を追えるのだ。
「実はあの、何ていうか……。その、料理人なんです」
「料理人? あの、鍋とか色々使ってお料理する人?」
「はい。お料理する料理人です」
「ふーん……。料理ねー……。なんでその料理人こそ、こんな所で大鷲蜂に襲われてんの?」
「いや、実はですね。料理本を作りたいんです」
「ほーんー?」
ざらめさんは呆れたような顔をしている。当然と言えば当然だ。何の力もない田舎娘が、鍋とフライパンを持って旅に出たかと思いきや、その理由が本を作りたい、である。
客観的に見れば、フォローのしようもない。私自身でも、ちょっとどうかしてるんじゃないかと思ってしまう。
しかし、私は調味料鞄に入れてある一冊の本を取り出してざらめさんに見せた。
「怪物調理全集、という本が大昔から私の村にありました。旅の商人が置いて行ったそうです」
「そりゃまた変な本があるもんだね。……でもあんたの持ってる本はそう古い物じゃないね」
「はい。この本は怪物調理全集を、私が書き写したものです。原本は虫食いや劣化がひどくて解読するのも一苦労でしたから。中には調理法が載ってない怪物もありましたし」
「それで? その本がつまりどういうわけ?」
「怪物調理全集を、完成させたいんです。本当に全ての怪物を載せつくした、なのに怖くなんかない、おいしそうな本を私は作りたいんです」
「……その本が完成してどうすんの? 途中で死んじゃうよ?」
「完成したら、色んな人にたくさん作って渡すんです。それでもし、怪物は怖いだけじゃなくて、おいしくも食べれるってみんなが思ったら、もしかしたら王様が怪物をやっつける軍隊をいっぱい作ってくれるかも知れません。そしたら、怪物が減って、世の中が平和になるかも知れません。まぁ、怪物側から見たらとんでもない事ですけど」
「あー。どこまでが本心?」
「……実は最初の方だけで後はでっち上げた建前です。確かにそうなったら素敵だとは思いますが、単に私はこの本を完成させたいだけなんです」
「なんで? なんで完成させたいの?」
「それは……きっと、私が食いしん坊だからです。食べた事がないおいしいものを食べる旅なんて、わくわくしませんか?」
「へー……。おいしい物ねー……」
何だか遠くを見るような表情をしている。確かに突拍子もない話をしてしまったが、これはこれで素敵な旅の目的なんじゃないかと私は思ったりもしているのだが、本職の旅人にはふざけて聞こえたのだろう。
しかし、私は忘れない。村の料理自慢を気取って天狗になっていた私が、この怪物調理本のレシピを再現し、食べた時の感動を。
食べた時、今まで私の作ってきた料理は料理なんかでなく、ひどく粗末な物だったのではないかと絶望したものだ。
「……あ、しまった」
と、その時。唐突にざらめさんが声を上げた。
どうしたんですか、なんて問おうと思ったのだが、私は目の前の光景を見て質問するのをやめた。一目瞭然だったのだ。
「ざらめさん……! あれって!」
私は恐怖の悲鳴を押し殺しつつも、頭一つと半分くらい私より大きいざらめさんを見上げた。
「いやぁー……これはどうにも。あんたとりあえず隠れてなよ」
のほほん、とざらめさんは言うが、私の置かれた状況はなかなか笑えない緊急事態だったのだ。
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