テーマ『森へ行く』

森の仲間たち 大滝のぐれ



 運動公園横の森近くの分譲地に家を建て移り住んだのは、いずれ僕たち夫婦に産まれるだろう子供を思ってのことだった。だがそうするにあたり仕事は変更せざるを得ず、僕は通いやすく家族の時間が取りやすそうな会社へ転職し、妻は結婚する前から務めていた物流会社を辞めた。お金は大丈夫だから、落ち着いて仕事探して。僕の言葉に、妻は笑ってうなずいた。


 だが、引っ越して四ヶ月ほどがたった今でも、彼女が新たな就職先を見つけてくる気配はなかった。それどころか、面接やハローワークなどにも足を運ばず、お菓子作りに没頭するようになった。果物を忍ばせたケーキ、ココアや紅茶葉を混ぜ込んだクッキーやスコーン、きちんと卵黄をハケで塗ったアップルパイ。慣れない職場での業務や人間関係に頭を悩ませつつ帰宅した僕を迎え入れるのは、甘くてやわらかく、一度身を預けたら二度と立ちあがれなくなるようなそんな香りだった。


「またお菓子作ってたの」

「うん。久しぶりに始めてみたらはまっちゃって。ああ、材料費は私の自腹だから。家計費からは出してない」

「わかってるよ」

 大きく広げたクッキー生地らしきものに抜き型を押しつける妻の後ろ姿を眺めつつリビングへ向かう。足元に散乱している製菓材料たちを踏まないよう気をつけながら歩くと、床が思いのほか大きな音を立てた。

 ソファーの上に畳んで置かれた衣服をどかして座る場所を確保しつつ、食卓に置かれたお菓子たちに目を向ける。くるみ入りのマフィンやしゃれた容器に入ったプリンやババロアがその上を彩っていた。いくらなんでも作り過ぎではないだろうか。


 これ焼いたらご飯やるから待ってて。台所から飛んだ声にあいまいな返事をしながら、焼き目がしっかりとついたマフィンを選んで手を伸ばす。ひとつぐらいもらってもいいだろう。取引先とのトラブルがあり、今日は昼食をとり損ねていた。


「だめ」


 気がつくと、妻が彫像のように固まった状態でこちらを見ていた。

「いいじゃんひとつくらい」

「今はだめ。絶対に」

 オーブンが乱暴に閉じられる。僕は慌てて手を引っ込めた。なに怒ってんだよ、こっちだって疲れてるし腹減ったのに。重たく湿った言葉を胸の中で転がす。その後、ふたりで揃ってベッドに入るまで、僕たちが言葉をかわすことはなかった。



 いつの間にか隣から妻が消えていることに気づき、僕は一時間も寝ないうちに目を覚ました。寝室から出て階下に降りようとした瞬間、大きな紙袋をたくさん抱えた妻が廊下を通ったのが見えた。

 そのまま玄関から外に出た彼女をこっそりと尾行する。乱立する我が家と似たつくりの家にはどれも明かりがついておらず、頭上で輝く月がやけに輝いて見えた。ほんのりとお菓子のにおいをまとい、妻はスキップ混じりに歩いている。月明かりや街灯を覆い隠すように、真っ黒な木々たちが視界の端に増えていく。どうやら、彼女はそのまま森に入るつもりらしい。おい、なにをしてる。そう呼び止めたくなったのをぐっとこらえ、一拍おいて後に続く。枝や葉っぱが寝巻越しに存在を主張してくるのをわずらわしく思いながら後をつけていると、とつぜん現れた光に目がくらんだ。おそるおそる目を開ける。ちょっとした広場のような空間に、タヌキやリス、モモンガやクマといった動物たちが輪になって集まっていた。


「後をつけてきたんだね」


 その中心にいた妻が、毛皮たちの間から進み出て僕の前へやってきた。広場に下げられた電灯の光が彼女にまとわりつく闇を雑に切り取っているせいで、なにか別の生きものように見える。枯葉と土の感触が手に伝わる。僕は腰を抜かしていた。

「こ、これは、な」

「私、前の仕事も、住んでたアパートも町も好きだったの」


 森の動物たちが少しずつ近づいてくる。その口や手には、先ほど我が家の食卓を彩っていたお菓子があった。


「でも、我慢してたの。人生を送るために。自分を責めたりもした。でも、疲れちゃったし気づいちゃったの。もう我慢すること、ないんだって」

 皆、元を正せば仲間なんだから。彼女がそう言うのと、手に持った袋の中身が宙にぶちまけられるのはほぼ同時だった。その瞬間、電灯の外から大量の獣たちが飛び出してきた。皆、あふれたお菓子に我先にとむらがり、それをむさぼり始める。ふわふわとしたどこか現実味のない香気が、湿ったすっぱい臭気に蹂躙されていく。目の前でマフィンカップに鼻先を突っ込むキツネを眺める。その首には、肉に食い込むほどにきつくネクタイが締められていた。


 もう、いいよ。あなたもそうだよね。妻の声がどこからか聞こえてきた瞬間、僕は自分の視界が急に広くなるのを感じた。キツネの横に落ちていた洋梨のタルトにかぶりつくと、よだれがだらだらと出て爪と肉球を濡らした。妻の姿は見えない。声も聞こえない。もう、森の仲間に混ざったのだろうか。でも、そうしたら誰がお菓子を作るんだよ?







 

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