吹き替え字幕 大滝のぐれ
目の前に座る女がなにか喋っている。間に置かれた机の上にはスパイスのふりかけられたポテトやレアぎみに焼かれた牛フィレ肉、シーザーサラダなどがある。閉じた口内で舌を動かしながら、料理たちの味を思い返す。前菜のブルスケッタがちょっと湿気をはらんでいたこと。ポテトを食べながら「『バル』とか名乗ってしまうような店にありがちな味だな」と思ったこと。名物料理だけあって肉はそれなりにおいしかったこと。そういったことは思い出せるのに、向かい側でグラスを傾けている女が先ほどまで、いや、今このときもなんの話をしているのかまったくわからない。記憶がぷっつりと途切れている。
「えへへ、久しぶりに会ったよねえ、ほんと」
レタスの切れ端が箸でつままれる。ボウルの底にたまっていたゆで卵の黄身がレタスに付着し、糸を引きながら粘っこく光った。
「うん、そうだね。コロナのせいでなかなか会えなかったしね。まあ、今も本当は控えたほうがいいんだろうけど」
状況やシチュエーションを考えている間に、僕の口は勝手に言葉を吐き出していた。自分の意志や頭で組み立てたものではないのに、それは外界へ放たれた瞬間になんとなくこの場の雰囲気にぴったりとはまるものに変わっていく。
「いやあ、まあそうなんだけどねえ、でもずっと怯えてたら外にも出れないって思うのねリカは」
「仕事にも行かなくちゃだしね」
「そーそー。だいたいおかしいと思わない? どうしてジジイババアのせいでリカたちが不自由な思いをしなくちゃならないの。まじくそ」
レタスを咀嚼するときに口元へ手を添えるしぐさ。不自然に吊り上がった語尾。一人称。冷めて固くなってきた肉を噛みながら、ああこいつぶん殴りてえなと思った。でも、きっとそれは許されない。驚きといらだちを抱えながらも、僕の口は思ってもいない言葉をなおも繰り出し続けている。
「なにかお飲みになりますか」
そこで、グラスが空になっていることに気づいた店員がやってきた。どうしようかななどとつぶやき、ドリンクメニューに視線を落とす。彼女かな友人かな、それとももっと別の、奇妙でただれた関係かな。注文を薦める文句の裏に隠れていた声がメニューの上に積もっていくような気がした。
「あ、じゃあリカも。ストロベリー、ふぃず? お願いしまあす」
あごにひとさし指を当てた彼女がそう口にする。思わず舌打ちをしてしまいそうになったがぐっとこらえる。こらえられなかった。咳ばらいをしてなんとかごまかす。盗み見た店員の眉がぴくっと動いたのが見えた。女は特になんの反応もしめさない。じゃあレゲエパンチで、と告げると店員は足早に去っていった。
ねえねえ。女が前のめりになり、耳元へ顔を近づけてきた。
「あの人、マスクしてないなんてありえなくない。飲食店だよお、飲食店。しかも見た感じ店長っぽいのに」
急いで後ろを振り返るが、彼はすでに厨房へ姿を消した後だった。そうだったっけでもあり得ないねと同調しつつも、僕は自分たちが座っている場所の遥か奥、客のおじさんとアルバイトらしき若い女性の会話のほうに集中していた。え、いつから働いてるの。三ヶ月前くらいからですね。名前なんていうの。飯田です。次の出勤とかいつ。明日とかですかね。かわいいねえ。どうも。会話が途切れた一瞬のすきに、彼女は小皿を手にこちらへ引き返してきた。かすかな風と靴が床を打ち鳴らす音が背に届く。
その後、僕たちは他愛のない話をしながら食事をし、彼女がちびちびと飲んでいたストロベリーフィズが空になったタイミングで店を出ることにした。おいしかったー。おいしかったよね? 僕は頷きを返す。五杯ほど飲んだはずなのに、酔った気はまったくしない。
「あ、いいよ割り勘で。この前誕生日でプレゼントもらっちゃったし」
桃色の革財布を開き、彼女はもたもたと紙幣を取り出す。けっきょく端数は僕が支払った。ありがとうございました。控えめな声で言いながら、店員の顔をちらりと見やる。右耳に引っ掛けられたマスクがゆらゆらと揺れている。店長さん、あの子呼んでよ。アルコールでよれよれになった声をあげながらおじさんがレジにやってきた。彼もマスクを装着していない。
店を出ると冷えた空気がコートの隙間から入り込んできた。身ぶるいしながら、店の前の石段で靴ひもを結び直す女に声をかける。
「ねえ」
「なに、どうしたの」
「その財布、普通の革製だったよね」
「そうだよ。御徒町の革小物屋さんのやつだもん。かわいいよねえ」
「人工皮革なのかもしれないよ。めっちゃ精巧な。店員が嘘ついてるだけかもよ」
「なにそれ。そんなわけないじゃん。本物は本物だよ」
暗闇で女が僕の言葉をせせら笑った。さ、行こ。ミントブルーのネイルが施された指が、僕のてのひらを捉える。それをぎゅっと握り返す。手を振り払ってみたい。どうなるのだろう。
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