食肉とおおかみ 大滝のぐれ
家からあふれるほどの大量のおおかみと暮らしている。別に不便を感じたことはない。人間のような発達した脳があるからこその高度な嫌がらせや人格否定をしてこないこともよかった。適当にカットした牛や鶏とかの死肉と、ボトルから皿にあけたエビアンを毎日用意しておくだけで彼らは問題なく生存し、セックスをして繁殖までした。
でも、わたしが知っている意味での食事をどうもおおかみたちは必要としていないようだった。用意した肉もくちゃくちゃとガムのように噛むだけで飲み込まず、そのへんに吐き出して終わりだった。最初のうちは食べなきゃ死ぬのではと思って忠告していたが、わたしの心配よりもおおかみたちはネットフリックスに夢中で、なにより死ぬことがなかったので放っておくようになった。ただ飲み水は必要だったらしく、用意せずにいたら怒られたことがある。困るんだよね、用意してくれないとさあ。あ、あとね、エビアンじゃないとじんましんが出るんだよね。他のおおかみよりもどことなく毛並みや牙が立派なリーダーっぽいおおかみが流暢な日本語でそう申したててきたのを、よく覚えている。
そんな生活もはや二年が経とうとしていた。そういえばもう鶏肉がないから帰りに買ってこないと、キロ単位で、と思いながら職場の休憩室に向かうと、すでに同僚と上司が混ざり合ってふたつほどの塊を形成していた。室内にはすでにそのブロック肉の間にしか座れるスペースがなかった。すみませんすみませんと唱えながら上司たちを押しのけ、パイプ椅子に腰を下ろす。営業部の鈴木さんと資材管理部の花山さんの脂が事務服全体に付着して、黒々としたしみになっている。手拭き用のアルコールシートでは歯が立たない。替えの服がもう一セットあるから、それに着替え、昼休みのうちにクリーニング屋に持っていくしかない。でもそれではお弁当を食べる時間がない。残念なことにおおかみと違うわたしには栄養摂取の機会が必要で、おこたれば最悪死んでしまう。
お弁当をかき込みながら会社近くのクリーニング店に向かうしかないなと思い、急いで休憩室を後にする。肉塊の間をまた通り抜けなければならず、今度は総務部の鍋守さんの脂が服に着いた。嫌悪の叫びを必死に押し殺すわたしを見て、ぐずぐずに混ざり合った同僚と上司たちの塊が大便と古い脂のにおいを放ちながら震え、つるんとした表面に無数の人間の顔を表示した。温泉にでも入った後のように、その顔はでろでろに緩んでいる。
もう十数度目の来店となるわたしを見て、初老のクリーニング店の店主はとても嫌そうな顔をした。人の脂がまたついたんです、ほらここにべったりと。あなた人間でしょ、なにがそんなに問題なんですか。幾度となく聞いた言葉を受け流し、わたしはなかば叩きつけるようにして服をカウンターの上に置いた。じゃあ、お願いします! こんなくだらない問答で貴重な昼休みを浪費するのは嫌だった。足早に店を後にしようとする。
あのですねお客さん、いつもどうぶつの毛、つけて歩いてるでしょ朝とか夕方とか。あれのほうがだんぜんおかしいよ。それに臭いんだよあんた。生肉とエビアンのにおいが店中に立ちこめるから、迷惑してるんだよ。
店主の恨みがましい声がわたしの背に絡みつく。が、透明な自動ドアが閉まると言葉はあっさり断絶した。鼻に手首やわきを近づけてみる。特に嫌なにおいはしない。人の脂のほうがよっぽどだ。
その後、適当に仕事をこなすと問題なく退勤の時間がやってきた。わたしは肉と高い水のにおいがする毛だらけのコートとブラウスなどを身にまとって、業務スーパーで大量の鶏肉と自分のための食事を購入して家に帰った。三和土からリビングまでみっちり詰まった愛おしいおおかみたちをなでながら、わたしはパソコンラックに向かった。そこではおおかみたちがかわるがわる『ファイト・クラブ』を見てうなり声をあげていた。お、帰ったね。うん、ただいま。リーダーに声をかけられ、わたしはお昼を回ってから初の笑みを浮かべた。
その場で抱えていた生肉の封を開け、適当にいろんな方向へちぎって投げる。あちこちで水気の多い咀嚼音が響き、部屋の空白を埋めていく。
「ねえ、おおかみって人間だったりする」
「そんなわけないだろ」
リーダーが噛み砕いたマルチョウを吐き出し、完璧な発音で口にする。手の中の死肉をつまみあげ、口に運ぶ。やはり、えさという感覚が強く、わたしは反射的にそれを吐き出してしまう。生まれたうすピンクの軌跡を強く意識する間もないまま、他のおおかみの口が目にも止まらぬ速さでそれをかっさらっていく。他人の唾液がついたものなのに、おおかみは特に気にしていないようだった。
口内でひとつの塊になっていくわたしとおおかみの分泌物と生肉を想像し、少しだけ笑う。家からあふれるほどの大量のおおかみと暮らしている。別に不便を感じたことは、ないのに。
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