テーマ『育てる』

半天使 久坂蓮



 くちから糸がでるといいだしたので、いよいよだとおもった。血の気のうせた顔で二階から茶の間におりてきた娘は、口上をおえるとそのままえずきはじめた。連れだって便所にゆく。着座部分に手をついてうずくまり、排水管へとつながる水たまりにむかって嘔吐する彼女の背中をさする。全身のこわばりと痙攣が手のひらをとおしてつたわり、たちのぼる異臭が鼻をついた。消化途中の煮びたしやら麻婆豆腐やらがひとしきり食道を逆流して排出され、トイレットペーパーでくちびるをぬぐっても不快感はきえないらしく、やがて親ゆびとひとさしゆびでくちの端についたなにかをつまむようにして顔からひきはなすと、たしかに半透明の糸のようなものが照明にきらめく。眉間にしわをよせてつばを呑みこんでも、ひっきりなしに繰りだされてゆくようだった。

 おかあさん、という涙声を制し、くゆり、学校でならったでしょう、なんでもないことなのよ、とつたえる。成長とともにかならず起こることなのだから。言葉とはうらはらに声の調子ははやくなる。

 おかあさんにも同じことがあったかという質問に一瞬たじろぎ、だれにでも起こることだとわたしは強調した。


 宿直からかえってきた夫にくゆりのことをはなすと、

 そうか、それで、いまは。

 保冷枕を頭に敷いてねむっているとわたしはこたえる。

 もうじき支えになる家具に糸を張って前蛹になる、嘔吐はたんに気持わるさからくるものではなく、未消化の食物をからだに残さないために、あらかじめ変態時の機構としてそなわったものであるから心配することはないとかれは講じる。夫は大学病院の「羽翼科」につとめている。こうした説明もそらんじられるほどくりかえしてきたのだろう。

 はじめてのことで緊張しただろ。《擬鳥類型翼》とは勝手が違っているから。

 くゆりが旦那とおなじ《擬昆虫類鱗翅目型》の翼をもつだろうことは、生まれたときに彼女の背部に羽根がなかった時点でわかっていた。《擬鳥類型翼》が遺伝した子どものばあい、出生時からちいさな羽翼をそなえているものだが、《擬昆虫類型翼》が遺伝した子どもはごく一部をのぞき、第二次性徴期に変態するまで羽根を所有しない。遺伝しやすい擬動物類型翼があるのか、隔世遺伝もするのか、模様も遺伝するのか、等々、翼にかんしてははっきりとした結論がでていない項目がやまほどあるらしかった。


 寝息をたてはじめた娘のそばで、一睡もできず夫を待っていたものだから疲労がたまっていたが、休学届を書くためにくゆりが通う中学におもむく。日傘をささげもって翼をひろげ、気流にのる。制服姿の男子学生三人組がそばをかすめ、談笑しながらいきおいよく滑空と上昇をくりかえしてとおざかってゆく。とてもじゃないがあんなにスピードをだして飛翔することはできない。みたところフクロウや鷲といった猛禽の擬翼だろう。

 くゆりのような変態前の「ハネナシ」は同級生たちから疎まれることがおおい。補助翼をつけなければ「一〇〇メートル旋回飛行」をはじめとする一部の体育の科目に参加できないし、欠陥があるというだけで弱い立場とみなされてしまう。中学二年生になっても変態を迎えていないくゆりを、担任も心配していたらしい。

 ああ、よかった。ようやくですか。おめでとうございます。

 礼をいい頭をさげると、翼のことでは私も苦労しました、と返される。   

 ペンギン目は翼があっても一生涯飛べませんから。お母様はたしかミズナギドリ目の擬翼でしょう。近縁であってもまさに天と地の差がありますね。

 細やかな毛の密集する、水中生活に特化した翼を教員はしきりに動かしてみせたが、椅子のうえから肢体は一ミリも浮きあがらなかった。


 帰宅して部屋をのぞくと、ひらいたドアからはいりこむ光のもと、あしをそろえて衣装箪笥のまえにたたずむくゆりの姿をぼんやりと認めた。声をかけようとしてやめた。近づいてこわごわ肩にふれようとしたとき、そっとしておいたほうがいいと背後で夫の声がした。

 万が一はがれおちてしまったら、羽化にてまどるかもしれない。

 わたしは伸ばしかけていた腕をひっこめ、暗闇に慣れてきた眼で娘を観察した。まぶたをひらいたままうつむく彼女のくちからは昨晩同様にほそい糸がたれ、それが胴体とクローゼットとを一緒くたに巻きつけている。不断にもれる呼吸のおとがなければ、死んでいるのと見わけがつかないとおもった。

 三日後にくゆりは脱皮をした。頭髪と皮膚が脱ぎっぱなしの衣類かなにかのように床にほうりだされていて、箪笥には黄緑いろをした紡錘形の蛹がはりついていた。このなかでくゆりだったものはいったんどろどろに融解し、ゆっくりと組成を転じてふたたび殻をやぶる。そのときあらわれる少女を、腹のなかにいた娘と同じものとして扱える自信がなかった。そしていままでだって娘を完全に理解できたことはなかったと考えて、わたしはますます不安になった。






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