あらた名 久坂蓮



 LED電灯にしらじらと照らされた鏡のまえで、たたずむ肉体、前髪やこめかみの頭髪をクリップで後方に固定し、横じわのめだつ額をむきだしにした青くまのある面だち、わたしを構成する外郭を客観的にみつめようとすると、恐ろしいほどの羞恥にかられ、一刻もはやくその姿をかき消してしまわなければならないとおもう。顔全体を透明な化粧下地でむらなく覆い、うえからシュウ ウエムラのファンデーションをかさねる。頬や顎、鼻のさきに点状に配してから、水をふくませたスポンジでやさしく叩くようにし、うすくのばしてゆく。指のはらで慎重に塗っても、目のしたのメイクがよれてしまう。くまがなかなか消えないのでリキッドコンシーラーで隠そうとすると、余計に毛羽だつ。どうしたら直せるのかわからないし気にしすぎているのかもしれないが、一度気になるとなかなか考えが頭から離れない。メイクアップ後の保湿用化粧水スプレーを吹きかけてみて、少しましになったと言いきかせる。


 コンシーラーは顎やくちびるの周りにもつかう。処理しても残ってしまうひげそり跡を完全に無くしたい。ルースパウダー、アイブロウパウダー、ノーズシャドウ、シェーディング、チーク、薄づきのリップティント。何重にもなった被膜がわたしをようやく安心させる。晒されていないという感覚、ここにいるのは自分ではなく誰か別の存在なのだという感覚があれば、降りそそぐまなざしに生のまま傷つけられることもない。マスクを着用するといっそう。くちもとまで入念に化粧した意味がないし、厚塗りにすると崩れやすくなるのに、しないと落ちつかないのでしてしまう。ヘアアイロンで髪型をととのえ、水筒や必要なものをかばんにつめて家をでる。


 自転車で駅につくころにはヘアセットも乱れる。改札内のトイレで確かめなければとおもいながら窓口にはいり、定期券の購入用紙を書く。昨日までで期限がきれてしまっていた。更新もできるが、五〇〇円余計に支払って毎回新規でつくる。戸籍の名前を変更するためには、性同一性障害の診断書があったとしても最低一年以上は変更したい名前を日常生活で使っている証明が必要だと、インターネットに載っていた。診断書がなければそれ以上。わたしはまだ診断をうけていない。Xジェンダー。海外ではよくノンバイナリーと呼称される。男でも女でもない、あるいは男でも女でもある、その中間、もしくは日によって時間によって男であったり女であったりする、主にこれら四つのうちいずれかの性自認をもつ人々をさししめす総称は、ゲイセクシャルやレズビアン、トランスジェンダー女性、トランスジェンダー男性にくらべてまだ認知が低いし、男でも女でもないというあいまいさはなかなか世間に受けいれられがたいものかもしれない。わたしは自分を男でも女でもないと感じている。認識して生きやすくなった。自分のこころをカテゴライズできる場所があって、同じように感じているひとがほかにもいるという安堵があった。けれどもこうした安堵はほんとうならわたしの好まないものだ。言葉にされなくても、たったひとりでも自分をつらぬける人間であったらよかったのに。

 性自認を他人に認めてもらいたいともおもわない。ただ名前は変えたい。極論をいうと名前自体なくしてしまいたいがそれがむずかしいのなら、漢字一文字の、性別のしがらみをともなわない中性的な名前がほしかった。


 LGBT向けのマッチングアプリはいくつがあったが、ゲイセクシャルやバイセクシャルの男性向けアプリは性自認が男性である利用者ばかりで、トランスジェンダーのアカウントは少なかった。くわえて、長期の交際をのぞむよりは、性交を目的とした登録が多くかんじられた。

 たとえば身体的性別が男性であっても性自認が女性で、恋愛対象も女性である場合、当事者は男性としてではなく女性のこころで同性を愛しているから、トランスジェンダーであると同時にレズビアンでもある。わたしは恋愛面では男性に惹かれる傾向がある。


《K》と直接会うのは今日が二度目だ。おたがいにアプリ上のハンドルネームで呼びあっているので、本名は定かでない。文字でのチャットや通話を二か月ほどつづけて、先週はじめて対面した。事前に見せられていた相手の顔写真と実際に会った時の顔立ちとが別人にしか見えなかった経験をこれまで何度かしていたが、《K》の印象は写真とさほど変わらなかった。脱色した前髪がひとみの半分くらいを隠していて、わらうと八重歯がくちびるから覗く。今日は複合施設内で映画をみて買い物をする。そのあとの予定は特に決めていない。プラトニックな恋愛を望んでも叶わないことばかりだったから、電車に揺られるあいだ、今夜ともすればするかもしれないかれとのセックスを想像した。


 改札外の柱にもたれたKに歩み寄ると、かれのくちから改名申請を待つわたしの新しい名前がまばゆく発される。





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