テーマ『令和の若者』
ていねいなくらし 大滝のぐれ
右耳に押し当てた受話器はそのままに、ぼくは空いた左手をすぐ隣にあるザリガニが入った水槽の中に突っ込んだ。ぬるくて淀んだ水が皮膚を包んでいくのを感じながら、そこに潜んでいるであろう生物を探る。
「知ってのとおり、今はこんな状況じゃないですかあ。ですから、まずはどこか内定を手に入れることが重要だと思うんですよ。そうすれば、選択肢も増えますしね」
「そもそも内定がひとつも出ない場合はどうすればいいんですかね」
「死ぬしかないんじゃないですかね」
捕まえた。水槽の隅に追い込んだザリガニが、尻尾を伸び縮みさせて必死に逃げようとしているのがわかる。水がちゃぽちゃぽと激しく揺れているが、それが遂げられることはない。抵抗のつもりか、彼ははさみを突き立ててきた。鈍い痛みが突き抜けたが、体へ吸収されたそれはすぐに曖昧なものへ変わる。なめくさっている。もっとちゃんとしてほしい。どうせやるなら本気で、逃げることを達成するためだけじゃなく、自らへ不利益を与えてきたやつに対し死を与えるぐらいの覚悟を持って臨んでほしいものだ。
職業安定所の職員はすでに死んだほうがいいですよとしか言わなくなっていたので、ぼくは電話を切って服を脱ぎ始めた。そのままお風呂場へ向かい、水で満たされた浴槽へ飛び込む。鼻をつまみ仰向けになると、水面に漂うアヒルのおもちゃの黄色い腹がぼやけた視界の中で揺れているのが見えた。
それを眺めてぼんやりとしていると、口を閉じようとしても勝手に息が漏れるようになり、つられて肉体が酸素を渇望して震え出した。銀色の泡が体内から失われていく感覚に身をゆだねようとしたそのとき、ぼくは強い力で透き通った死から引き上げられた。赤黒くてとげとげした甲殻が、浴室の照明を受けて輝く。
「買い物行ってきてよ」
ぼくと同じくらいの背丈になったザリガニの行動に文句を言う間もなく、タオルと着替えが投げ込まれる。浴槽から出て髪の水気を取りながら、はさみで掴まれた右腕を見る。先ほどのものとは比較にならないほどに大きくて濃いあざがそこにある。しかし、見た目の仰々しさとは裏腹に、出血などはしていなかった。
「ほらはやく」
彼が振り回すはさみが的確にぼくをすり抜けていく。それに追い立てられるようにして外に出て、マンションの近くのスーパーを目指す。鉛玉。白い羽がついた矢。ロケット弾。あらゆるものが民家の窓やすれ違う車などから絶え間なく飛来してくる。だが、わざと外しているのか狙いが適当で、肝心のぼくに当たることはない。その代わりに、流れ弾はどんどんお互いの家や生活空間を破壊していった。家から焼け出された中年夫婦が、恨みのこもった目でぼくだけをにらんでいる。ザリガニのはさみ以下だなと思った。
なんとかスーパーにたどり着くと、渡された服のポケットに入っていたメモの通りに商品をかごに入れていった。どれもがぼくの手持ちでは到底買えないものだったが、ザリガニの財布を渡されていたので問題なかった。そうでもなければ触る機会すらないであろうそれらの手触りや質感をゆっくりと確かめ、買い物客から突き出されては当たる直前で引っ込められるフランベルジュや日本刀をすり抜けながらレジへ向かう。傷一つなく五体満足のままでいるぼくを見て、前に並んでいるおばさんが眉をひそめた。
「近頃の若者は恥ずかしくないのかな。そんなぺらっぺらの服と無個性な身なりでも平気で」
彼女から繰り出される鎖鎌の連撃がかすりもしていないのを感じながら、レジ横に積まれた高級レストラン味のガムをかごに入れる。メモにはなかったが、これぐらいならザリガニもお駄賃として許してくれていた。過去にブランド服味や終身雇用味、海外豪遊味などを買ったことがあり、気に入っていた。
「あのザリガニと暮らしてるんですよねかわいそう助けてあげたい本当におつらいと思います」
レジに立った労働者女性型ロボットが、平坦な声でぼくのことを励ましてくれる。財布から抜き取ったお金を彼女の口に突っ込み、足早にスーパーを出る。家に戻る道を先ほどと同じような目にあいながら歩いていると、がれきと化したマンションと巨大化したザリガニが目に入った。いたぞ、飼い主だ。捕まえろ。お前のせいで。マンションの住人たちが、ぼくをあれよあれよという前に捕縛し、ザリガニの前に突き出す。ぶどうのように黒々とした彼の目がこちらを向いた。
「死んだほうがいいよ。いけにえになれ。ほらはやく」
幾重にも重なった声と投げつけられる武器たちが、拘束されたぼくと破壊の限りをつくすザリガニを彩っていく。そうだよ、ぼくは死んだほうがいいんだよ。声を張り上げて同意してやっているのに、のこぎりも機関砲も核爆弾もぼくを殺してくれない。町はどんどん肉塊と悲しみの山に変貌していく。死んでくれればいいのに。町の人が祈る。ぼくも祈る。祈らされている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます