贅沢  大滝のぐれ




 栄養バランスを考えた食材たちを用いて自炊することが、しっかり八時間睡眠をとることが、健康に良い。ああそうかよ、なんにもわかってねえんだな。俺たちのこと。そんなこと言ってるやつらは皆殺しだな。はいそうですかって実現できたら苦労しねえよ。

 ぶつぶつ呟きながら、フライパンの中のキャベツとにんじんへ向けて合わせ調味料を投入する。変なおじさんの絵がケースに描かれているこれを入れるだけで、だいたいの料理がそれなりの味になるため長宝していた。しかし、成分表の上に印字された「料理がすごいことになります。責任はとりません」という注意書きは気になっていた。SNSとかで商品名とその文言を検索しても、皆がみんな最初のうちは疑問を覚えるが、その後は特に問題がないしおいしいので使い続けるという感じで、まったく『すごいこと』の事例が出てこない。でも、わざわざ会社に問い合わせて「すごいことってなんですか?」と質問する気は起きない。おおかた超おいしくなりますとかいったことの比喩なんだろうから。こっちはそんなことを気にするほどの余裕も気力もない。


 今日だって、本当は自炊なんてするつもりなんてなかった。ほぼ毎日終電の三本手前くらいの電車に乗って1Kの部屋に帰りつき、湯を沸かすぐらいしか能のない極小キッチンと使い込まれたユニットバスを横目にベッドに倒れ込み、翌朝脂臭いまま目を覚まし、急いでシャワーを浴びたり着替えたりして再び仕事へ赴く。そんな日々を変えたかった。だから先週、一念発起して食材をいくつか買い込み、自炊をすることにしたのだが、なにかと理由をつけてやらずにおり、そのほとんどを腐らせてしまった。目の前で炒められている野菜は、その数少ない生き残りだ。


 完成した湯気の立つ野菜炒めを、フライパンのまま部屋の中心にあるちゃぶ台へ運ぶ。吸い殻が詰まったコーヒー缶やいつ飲んだのか不明な飲みかけのペットボトル、中途半端に封を開けたままの漫画用原稿用紙をまとめてどかし、そのスペースに鍋敷きの代わりに数か月前の漫画雑誌を敷いて置く。汚いワンルームに、油によっててらてらと輝く野菜たちが彩りを添えた。余計にむなしさがつのり、早く食べてしまおうと菜箸をそこにうずめようとする。


「ああ、早く妻と子供たちに会いたいな」


 幽霊という単語が脳を瞬時に埋めつくす。度重なる残業と生活苦でついに頭がおかしくなったのかしらねーと自分に言い聞かせ、震える箸でゆっくりとキャベツをつまみあげる。

「ようやくだ。ようやく、食べてもらえるんだ。長かったなあ苦しかったなあ。やっと、家に帰れる」

 だが、たしかに声は聞こえてきていた。しかも、フライパンの中から。え? え? と呟きながら野菜をかきわけるが、声を発しそうな幽霊や小人といった存在は見当たらない。なに、やだ、こわいと俺が無様な声をあげている間にも、彼はいかに自分がこの時を待っていたのか、妻は趣味の書道とギターを続けているのだろうか、娘は行きたいと言っていた芸術系の専門学校で幸せに勉強しているのだろうか、また三人で食卓を囲みたい、あのときがどれほど幸せだったのか、などということについて語り続けていた。どうやら、こちらのことは認識していないらしい。

 長い時間をかけ、俺は声が野菜炒め自体から聞こえてきていることに気づく。すごいことってこういうことかよ。驚きと気味の悪さを覚えつつ、おそるおそる野菜炒めを口へ運ぶ。


 彼の話は、昔家族で旅行に行ったときの話に変わっていた。ピクニックをしたこと、温泉に入り過ぎて妻が湯あたりを起こしたこと、夜に満点の星空を眺めながら、娘が「将来は画家になるの!」と宣言したこと。そのきらめく思い出や幸せな話の数々が、俺の中の古い部分に接続されていく。そういえば、俺は漫画家になりたかったんだった。子供のころはよく公言していたな。あのころは、人も無機物も動物も空気も星空も、すべてが俺に明るい言葉をかけてくれていた。いつからだろう。それが消えてしまったのは。切れかけた部屋の蛍光灯が、ぺかぺかと間抜けに点滅する。


「なんで野菜炒めのほうが幸せなんだよ」


 自分の声に、自分で身震いがした。日に焼けて色あせた畳を踏みしめ立ち上がり、フライパンをゆっくりと掴む。着たくもないしわだらけのスーツ。姿見に映るゴミ屋敷同然の部屋と、暗く沈んだ自分の顔。雑多に積まれた単行本や漫画雑誌。それらすべてが視界を滑っていく。野菜炒めはなおも自分の幸福を無自覚に吐き散らしている。俺はそれを聞きながら、湿っぽくて生臭いキッチンの隅へと歩いていく。ああそうかよ、なんにもわかってねえんだな。排水溝の暗がりやシンクにこびりついた水垢と目が合う。足元には、たくさんの取るに足らないものを満載したごみ袋が転がっている。フライパンをゆっくりと傾ける。色鮮やかな幸せが、笑いながら滑り落ちていく。




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