守宮  久坂蓮




 玄関の錠前に鍵がさしこまれる音であたしは眼をさましました。いつのまにかうたたねをしていたようでした。いそいであたしは床を這い、冷蔵庫と壁とのすきまにもぐりこみます。電気機器の側面からもれる熱がからだをあたためてくれるため、冬場はたいていここで過ごしているのです。散らかっているけれど、どうぞ、とUの声がしました。つづいて、お邪魔します、という声。あたしは気になって顔だけをのぞかせ、酒精をふくんで締まりのない顔をしたUと、見おぼえのない女とを交互にながめました。


 Uの暮らす共同住宅の237号室に棲みはじめて、おおよそ二年がたちました。もともとあたしはこのマンションの裏手にある、住民専用の庭でうまれました。夏の兆しはじめをかんじる陽気でした。一階のベランダの下に母がうみつけた卵は六つで、あたしはいちばんさいごに殻をやぶったようでした。ひとあしさきに孵化した兄姉たちはすでにすがたをくらましていて、地面にはかれらが脱ぎすてた古い表皮だけが残されていました。あたしたちの種族は子育てや家族単位の生活といったものはおこなわないのです。雨樋をよじのぼって、開けはなしにされた窓から室内に侵入するのは容易なことでした。


 当時のUは就活中の学生で、テーブルには書きさしのエントリーシートが常時おかれていました。内定がなかなかもらえないらしく、面接以外の日は大学の就職支援センターに通いつめたり、友人に愚痴の電話をかけたりしていました。労働により賃金を獲得しなければ、住む場所も食料も享受できないのがかれらのかわった習性で、あたしのようにだれかの家を間借りするにはいちように体積がおおきすぎるのです。通信関係の会社に就職がきまってからUは喫煙をやめ、あたしはニコチンのにおいから解放されて住みよくなった環境をよろこびました。

 人間は昔からあたしたちを家の守り神として崇めていたそうです。入浴中のUがつけたままにしたテレビに、祖先のおもだちが映しだされ、解説者がそう述べるのをきいてあたしはたいへん誇らしいおもいでした。これまでもあたしは部屋をおとずれた蜘蛛やハエのたぐいをたべて過ごしていたのですが、いっそう捕食に精をだすようになりました。


 Uの血の味を知ったのもそのころです。本格的な夏が到来し、Uは夜中にからだのあちこちをかきむしって起きてくることが多くなりました。あたしはしばしば尻尾を箪笥のうらにしまいそびれてひやひやしました。注意ぶかく観察しているとかれの太ももやすねに蚊がとりつき、管状の針をさして表面から血を吸っていたのでした。吸血された箇所は赤くふくらみ、Uは周辺を爪でひっかき、かゆみどめのくすりを塗っていました。全身に毛がはえた褐色の小昆虫が腹部を鮮紅色の体液でみたし、琺瑯の洗面台にとまったのを見計らってあたしはおそいかかりました。ざらついた脚が食道をひっかきながら胃へとおちてゆきます。消化液によってとけた蚊の身のうちからUの血液はにじみ、あたしはその味の虜になりました。


 女は鼻や顎といった顔の起伏が全体的になだらかで、のっぺりとした印象をあたえました。キッチンをはさみ冷蔵庫の正面におかれたソファベッドにふたりはならんで腰かけました。いつもならフローリングの床をうめつくすほど散乱している衣服やらゲーム機やらは、昨夜のうちにクローゼットにしまわれ、シンクがいっぱいになるまで放置されていた食器類もあまさず戸棚にならべられています。きれいな部屋だと女が感想をもらしましたが、あたしからしてみればかえって不自然で、女が来るのをあらかじめ知っていたかのようです。なにか飲むかとたずねて立ちあがろうとしたUを女は制しました。しばらく無言でながめていた液晶ディスプレイを消して、かれらがめくれあがったくちびるを重ねあわせはじめたのをみてあたしは泣きたいような気持をおぼえました。女にむかってUは好意を表明し、女もその言葉にうなずき、かれの首にうでをからめました。


 どうしてUはあたしに一度も好きだといってくれないのでしょう。そもそも、あたしの存在を認識しているのでしょうか。この想像はますますあたしを悲しくさせます。あたしはかれの二年間の努力も、肉体をめぐる血液の味さえ知っていて、ちかづく外敵をいつだって排してきたのです。漫画を読みながら下着姿で寝ころがるだらしないすがたも、自慰のようすも見たことのないだろう女が、Uを愛しているというのはあまりにそらぞらしくきこえ、悔しくて仕方がありませんでした。

 女の視線がUの肩ごしにあたしをとらえました。Uは彼女がまとうペールピンクのブラウスのボタンをはずそうと躍起になっていました。女はあたしにむかって勝ち誇った笑みをうかべ、先端でふたてにわかれた、紫いろのながい舌をだらりと垂らしてみせました。

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