歌碑

 それこそ、初めのうちは金曜の夜には最終の新幹線で宏樹は瑞貴のもとへと帰ってきた。玄関で軽く抱き合いお互いの体のぬくもりを確かめ合う。髪のにおい、背中の広さを感じて幸せな気持ちを寄せ集めた。

 もっと何か言うことはないのだろうか。言いたいが言えない。

「夕食はどうしているの?」

「基本はどこも安くておいしいから、困らないんだ」

 缶ビールを飲みながら、瑞貴が作ったつくねを食べて笑っている。

「なんだか、楽しそうね」

「東京とは全く雰囲気が違うからねえ、目新しいだけだよ」」

「だって、このつくねは大阪にないよ。一番おいしい。家が一番だ」

 涙がこみ上げた。堪えて笑うふりをした。キッチンにいき冷蔵庫を開けてもう一本ビールを取ると袖で涙を慌てて押さえた。



 だが、一年もすれば宏樹は先月も帰って来ない。もう六月が終わろうとしている。窓の外から雨音が聞こえる。

 なぜ? と聞けばいいのだろうか。それとも聞かないほうがいいのだろうか。瑞貴は仕事が忙しいのだろうと思い込むことで今日も仕事に向かう。たくさんの仕事が山積しているくせに、瑞貴は集中できていない。それは結婚して三年が過ぎようとしているが宏樹はここにいないからだろうか。心が和紙を掴んだようにがさがさとざわつく。


 瑞貴は表紙のデザイナー黒川氏との打ち合わせのために、府中に行った。メールでやり取りできるが、どうしても会って話をする必要があった。筆者の意向を直接話をしてその場でデザインを煮詰める必要があったからだ。

 瑞貴は府中で迷子になり緑の木々の中を歩いていると神社の中に佇む石碑を見つけて立ち止まった。


「武蔵野の草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は 寄りにしも」万葉の歌碑を見つけた。


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