10

 カラーバーしか映らなくなったテレビを眺めながら、サバの缶詰を食べる。

 ゴミが溜まってきたので、ビニールに纏めて捨てに行く。ゴミ置き場にまた一つ、ビニールの球が増える。もうしばらくの間、俺が増やしてばかりいる。

 頭上で鴉が鳴く。朝靄の立ちこめる街を、歩くことにする。

 腐臭や饐えた臭いが、冷気に乗って何処からかやって来る。たぶん、発生源は一つではない。街全体が、いや世界全体がこの臭いに覆われているに違いない。代謝が止まり、肉が端から腐り始めているのだろう。

 表通りに動くものはない。道の方々に、地面に座り込んだり寝転んだりする人影がある。盛大な宴会が夜を通して行われ、参加者たちが酔い潰れてしまったように見える。靄の中で瞼を閉じた彼らが呼吸をしているかどうか、わざわざ確かめたりはしない。興味もない。誰もが穏やかな顔で眠っている。その事実がただあるだけで充分だ。

 地べたに転がる人々を避けながら道を進んでいくと、靄の向こうから人影が歩いてくるのが見える。女だ。

 彼女もこちらに気付いたらしく、笑みを投げてくる。小首を傾げた拍子に、長い黒髪の奥で耳飾りが煌めく。映画館にいた女。バグってキュビスムの化け物になった女。ロビーのソファーで俺を犯そうとした女。

「久しぶり。元気にしてた?」

 俺は頷く。

「ねえ、いま時間ある? ちょっと良いことしない?」

 鴉が嗤うように鳴きながら、空を横切っていく。

 時間なら配るほどある。あり過ぎてもはや何の価値もないくらいだ。女はその白く細く冷たい手で俺の手首を掴む。歩き出す。牽かれるまま、俺はついていく。


 人一人がようやく通れるような路地を、女はしっかりした足取りで進んでいく。二手に分かれた曲がり角でも躊躇はない。俺には迷路にしか思えない道のりだが、彼女の頭には目的地に至る答えがあるらしい。

 やがて開けた場所に辿り着く。路地裏にこんな空間があることに違和感を覚えるが、この街の権利関係を鑑みればこういう場所が生まれなくもないのかもしれない。

 広場の只中に、古いビルが一棟建っている。四階建て。女はそこへ向かっていく。

 入口の扉は簡単に開く。嵌められた硝子が割れている。紅い絨毯の敷かれた床。正面には階段。電灯が瞬き、時折全てが闇に包まれる。

 女は階段を上り出す。俺たちの足音は、絨毯にすっかり吸い取られる。踊り場で直角に曲がり、更に上がる。扉がある。女はノックもせずに開ける。そこが無人であると彼女は知っている。ここは彼女の領域なのだろう。

 扉を入ると、まず小作りなキッチンがある。それからダイニングテーブル。二人掛けのソファーがあり、それと向かい合ってポータブル・テレビが置かれている。それらを越えた奥にはベッドとスタンドの載ったサイドボード。壁際には鏡台。突き当たりの窓からは陽光が射し込んでいる。

 俺はベッドへと導かれる。女がカーテンを閉めようとするのを止める。女は唇を微笑みで曲げる。

 その唇が、俺の口に接する。温もり。香水のにおい。口腔に侵入してくる柔かな感触が、俺の舌を絡め取る。微かな鼻息。両手に絡みつく冷たい指。俺たちの舌は、溶け合おうとするかのように互いを撫でる。体温の同期作業。

 唇を接続したまま、女は器用に服を脱いでいく。衣擦れの音でそれがわかる。やがて上半身を露わにした彼女は、俺の着衣に手を付ける。片手だけでシャツのボタンを外していく。魔法のような手際だ。開けた胸に、冷たい掌が載せられる。思わず身体が撥ねる。鳥肌が立つ。宥めるように、心臓を撫でるように、女の掌は俺の左胸を這い回る。

 舌が離れる。だが、接続が断たれたわけではない。むしろ安定した通信が確立されている。糸引く唾液を、女は指で拭う。それから、執拗に撫で回していた俺の左胸に顔を沈める。甘噛み。生温かい舌の動き。腹をくすぐる彼女の乳房。息を吐く。声が漏れそうになるのを堪える。

 下腹部を、ズボンの上から押さえ付けられる。抑圧的だったその手は、次第に艶美を帯びていく。ベルトが外され、引きずり出される。形や大きさを探るように弄られた後、掴まれる。抗う術はない。仮にあったとして、抵抗する力は残っていない。されるがまま。女の顔は右の胸へと移動する。肌に当たる温かな吐息。両手の働き。こちらのファイア・ウォールは、着実に解体されつつある。

 頭の奥で、何かが膨らみつつあるのを感じる。それが破裂した時どうなるのかを、俺は知っている。

 女が身体を起こす。一旦、彼女の全てが俺の身体から退く。それでも接続は切れない。衣擦れ。白く輝く裸体が現れる。彫像を思わせるほど白く伸びやかだ。しかし、文化的な美に見惚れるには、今の俺は動物になり過ぎている。頭の奥が膨らみ過ぎている。

 彼女は新たなチャネルで更なる接続を試みてくる。顔の半分を髪で隠しながら、潤んだ瞳を向けてくる。口元には笑み。光る耳飾り。

 こちらの準備も整っている。ゆっくりと、最後にして最大の接続が成される。

 吐息。

 静寂。

 吐息。

 吐息。

 ずれていた互いのクロックを同調させていく。どちらともなく呼吸は歩み寄りを見せ、やがて重なる。

 女の髪が胸をくすぐる。両の手はしっかりと握られ、自由が利かない。だが、それらの個人的な感覚は次第にぼやけていく。情報の伝達。ただそれだけの目標に向けて、必要なファイルが一箇所に集まっていく。

 クロックが別のリズムを刻み出す。しかし、振り切られることなく俺はついていく。こちらが割り込ませた転調にも、彼女は対応する。俺たちは一つとなっている。

 送信の準備が整ったと、感覚的にわかる。開始のタイミングは俺の意思ではない。決めるのは俺の奥底にある、意思とは無関係の機関だ。その機関を俺は制御できない。まだそれほど長い付き合いではないからだ。身を任せるしかない。身に任せるしかない。

 クリーム色の天井。壁から一筋、ヒビが入っている。稲妻のような、或いは枝のような。

 古いビルなのだ。

 どのぐらい古いのだろうか。

 廃ビルなら、以前調べたことがある。雇用主との「話し合い」の際に必要だった。彼を誰もいない空間に導く必要があった。この街に於いても全く誰もいない空間というのは難しく、どんな廃墟にも必ず誰かしらが住み着いていた。方々回ってようやく見つけたのが、あの場所だった。路地裏にある、古いビルだ。そういえば、あのビルも四階建てだった気がする。階段は、直角に曲がっていなかっただろうか?

 天井の色は、ヒビは――

 吐息。

 唐突に、データ送信が開始される。

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