不意に、夜が静かなことに気付く。

 一切の静寂。冷蔵庫のコンデンサや俺が叩くキーボードの音を別にすれば、何の物音も聞こえない。外の世界は、滅び去ったように静かだ。

 その理由を考える。思い至る。サイレンが聞こえないのだ。

 あれほど響いていたサイレンが。夜とセットで、通奏低音といって良いほど毎日のように聞こえていたサイレンが、今日は聞こえない。いや、今日だけではない。昨日も、一昨日も、或いはその前から、俺はサイレンの音を耳にしていないかもしれない。

 街を荒らしていた不良どもが何処かへ行ったのだろうか。まさか。一度この街に流れ着いた者が、そう易々と外へ出て行ける筈がない。この、蟻地獄の底に落ちてくるような奴に、這い出す体力なんてない筈だ。あったらそもそも落ちてこない。不良どもは、今もこの街にいる。正常に息をしているかは別として、必ず。

 ベランダへ出る。遠く、ずっと遠くで、街道を行き交う車の排気音が聞こえる。「まとも」な連中の暮らす、外の世界の音だ。久しぶりに聞いた気がする。

 街は静かになった。賑わいがなくなったわけではない。ネオンは相変わらず煌めき、冬の夜更けだというのに通行人の数は多い。ついでに、地面に座り込んだり寝転んだりしている人間の数も。だが、確かに静かにはなった。

 息を吐く。白い靄の塊は、沈黙を体現したような闇に溶けていく。空には月明かりも、星の瞬き一つ見えない。


 下準備が整った今〈現実〉は、即ち俺にとっての「現実」は、意のままに書き換えが可能だ。

 俺一人の思い込みではなく、俺は街の女たちを全て知っている。彼女たちの中でも、そういうことになっている。

 雇い主を窓口とした組織との「雇用関係」も「ビジネスパートナー」として肩を並べることになった。彼らにとって俺は、シマを荒らす不届き者ではない。彼らに利益をもたらす救世主である。実際彼らには一ミリのメリットもないが、彼らがそう認識するのだから問題はない。

 俺が歩けば、誰もが声を掛けてくる。皆笑顔で、陽気に冗談なんかも口にする。味気ない、ネオンばかりがケバケバしい寒いだけだった街に、初めて愛着というものを感じる。

 美しい世界。理想の世界。

 書き換えを良いように利用しているだけだと思われるのは心外だ。それなりに苦労もある。

 運用が始まったシステムには当然、保守が必要だ。綻びは至る所にある。見つけるたび、逐一修正作業が発生する。ファイルを作り、電子パッチに流し込んで対象者に配る。規模が大きい場合はサーバに上げる。他の誰かに頼むわけにもいかず、全てが俺のタスクとなる。外注は一瞬だけ考えた。だが、俺と同じ立場の人間は二人以上はいらないとすぐに思い直した。自分とは別の個体の存在は、争いの火種になる可能性が高かった。

 これだけの規模のシステムを一人で切り盛りするのは、はっきり言って面倒だ。だが、元々あった「現実」の煩雑さに比べればどうということもない。俺は理想の世界を作った。払うべき対価は払う所存だ。


〈夢〉は今だ広がり続ける。俺が見ていないところでも着実に、「現実」を〈現実〉に塗り替えつつある。

 炎はこの街を焼き尽くすと四方へ広がり、近在の繁華街を同じような状況にした。初めは夜の盛り場だけだった〈現実〉の広がりが、やがて昼間の世界にも飛び火し始めた。誰もがこぞってパッチを取り合い、そこに目を付けた金の亡者がどんどん供給した。虚ろな目つきと足取りの人間が増え始め、ついには社会のイニシアチブを握るまでになった。国はもちろん統制を取ろうとしたが、一度うねり始めた波を論理や倫理で押さえることは不可能だった。社会機能が麻痺し、やがて国家という枠組みも壊死した。

 ネットという毛細血管を通った〈夢〉は、この星の隅々にまで広がった。この国と同程度の文明を持った(つまり世界を牛耳っていた)国々で、同じようなことが同時多発的に起きた。国や連合体はなくなり、人はそれぞれの理想で生きる個となった。規模を縮小しながらもだらだらと続いていた争い事も、やがて俺の耳には届かなくなった。報じる立場の人間がいなくなったということもあるだろうが。

 社会が止まると共に、製造や流通も止まった。つまり物資の供給がなくなった。これは〈夢〉に労働に関する処理を組み込まなかった俺のミスだ。人によっては〈夢〉の中でも仕事をする。だがそれは、仕事をする〈夢〉を観ていることでしかなく、実際の成果は生み出さない。〈夢〉が広がるにつれ、社会を維持する力は目に見えて減っていった。まあ、捨てるほど物が余っている国だから、すぐに餓死したり凍え死ぬという事態にはならないだろう。少なくとも俺に関しては、心配いらない。

 俺の「現実」の外側にあった世界まで塗り変わっていく。これは想定を遥かに超えた事態だ。

 いや、少し考えればこうなることはわかっていた。考えないようにしていただけだ。たとえ進む先に不幸が待ち受けていようと、それを自覚出来なければ誰も文句は言わない。不幸だと認識するのは俺だけだ。俺一人分であれば、どうにか乗り切れる。どれぐらいの時間を堪えられるかは、明言できないが。


 窓口で、皺だらけになった札を置く。貨幣の価値がなくなり、今や儀式以上の意味は持たないが、つい癖でそうしてしまう。

 いくら待っても、歪んだチケットと釣り銭は返ってこない。つまらない冗談も聞こえない。

 小窓からブースを覗き込む。

 老婆が座っている。目を閉じて、身じろぎ一つしない。死んでいるのか、眠っているだけなのかはわからない。ただ、その顔は春の陽向でうたた寝をしているように穏やかだ。こめかみに貼り付いたパッチがそうさせているのだろう。俺は小窓から手を突っ込み、チケットを一枚抜き取って入口へ向かう。

 厚い扉を押し開け場内へ入る。横着な老婆がタイマーでもセットしたのか、フィルムは回っている。見覚えがあるようなないようなわからないセックスが、画面いっぱいに映し出されている。座席は、どこに座ろうか迷うぐらい空いている。劇場内を見渡せる後方の端を選ぶ。

 画面の光に照らされ確認できた観客は三人。どの頭も、しっかりと背もたれに沈んでいる。たぶん、誰も映画を観ていない。そして三人とも、隣に(或いは膝の上に)俺には見えない誰かを見ている。スピーカーから響く映画の音声の合間に、囁きや呻きが聞こえる。彼らが〈現実〉で発する声だ。

 俺も背もたれに沈む。映画の音より、観客たちの漏らす声に耳を澄ませる。目を瞑る。

 眠れない。

 眠りは、そもそもそういう概念など存在しないかのように、気配すら漂ってこない。

 試みに、考えるのを止める。頭を無にする。駄目だ。無の中で、俺の意識ははっきりと残り続けている。諦めて目を開く。

 やれやれ。

 眠れないのは、今に始まったことではない。むしろ最後に熟睡したのはいつか忘れるぐらい、長いあいだ眠った記憶がない。

〈夢〉は常にデバッグモードで作動させてきた。妙な言い回しになるが、それは本当の〈夢〉ではない。そして本当の〈夢〉でないということは、本当の〈現実〉でもないということだ。俺は、俺だけは、〈現実〉を生きることが出来ていない。みんなが寝静まった中、一人だけ目を開けている子供のように、俺だけははっきりとした覚醒状態にある。

 俺だけは〈現実〉の外側にいる。

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