8
望みは叶った。廃ビルの中で組織の男が死んでいたという話は、様々なルートを辿って俺の耳に入ってきた。
自ら頭を撃ち抜いた、見紛うことなき自殺。有機プラスチックの破片だけは見つかったというから、銃口はこめかみの辺りに充てられたのだろう。唯一の謎として、彼は正面の壁に向けて一発、銃弾を放っていたらしい。〈夢〉の見せる幻覚で朦朧としていたのだろうというのが、謎に対する最も説得力を帯びた推測だった。
その推測が半分当たりで半分外れていることを、俺は勿論知っている。彼は確かに〈夢〉による幻惑状態にあった。だがそれは、噂に上るような依存による朦朧とは違う。彼に幻覚を見せたのは依存などという生理などではない。俺の意思だ。
尤も、俺は巧妙な手段を用いて雇い主氏を自死に追い込んだわけではない。彼一人を狙って、特別誂えの〈夢〉を作ったわけではないのだ。この件に関して、俺は能動的には何もしていない。俺の居住地を決して認識できないようにすること。この、プログラマーとして最低限の自衛手段が、結果として身を救うこととなり、頭上を押さえ付けていた障害を取り除くことに役立った。彼が何らかの幻影(例えば俺の後ろ姿)などを見ていたとすれば、それは彼の脳内にあった願望が読み出されただけなのだ。俺には彼を殺すつもりはなかった。信じてもらえないかもしれないが、本当に。
とにかく、これ以上彼について考えるのは止そう。一度放たれた弾丸は、二度と銃には戻らない。
街は、俺の現実は、徐々にだが確実に塗り変わっていく。
極彩色に照らされた通りを行く誰もが、こめかみにパッチを着けるようになった。さっと目を走らせる限り、パッチを装着していない者は見当たらない。鼻の穴が二つ空いているのと同じように当たり前だと言わんばかりに、全員がこめかみに生体機械を貼り付けている。眠る時も起きる時も、彼らは装着し続けているに違いない。それが彼らに、甘美なる日常をもたらしているのだから。
誰もが〈夢〉と「現実」の境がなくなった、自分の理想の形に改変可能な世界を歩いている。
「現実」が何故ああも苦痛と悲劇に満ちていたかといえば、人間同士の関わりには必ずジレンマが生じるからだろう。外見、人種、年齢、性別、社会的立場――。自分ではない者との間には、大小関わらず何らかの差異が存在する。「相手を理解する」などというのは所詮は綺麗事だ。それを実践できるほど人間は賢くない。屈服するか、させるか。人間関係とは結局のところ、その一点に尽きる。そしてこの人間関係で構築された「現実」もまた、そのジレンマ故の「食うか食われるか」の道理の元に成り立っている。
全員が〈夢〉と「現実」の境界が有耶無耶になった場所で生きるこの世界には衝突がない。例えばAとBという人物が相対した時、AはBにとって都合の良いことを話しているとBに認識される。逆もまた然り。この会話を第三者が見れば齟齬が観測されるが、そんな指摘をする人物は俺を除いて存在しない。会話を眺める第三者氏もまた、パッチの流す〈夢〉によって二人の会話を己にとって都合の良い風に解釈するからだ。
サンプルをいくつか。まずは手近なところでのキャッチと通行人のやり取り。
「どうですお客さん良い子揃ってますよ新しい子が四人も入ったんです損はさせません一度見ていって」
「俺ァ昨日からツイてんだ何たってあの大穴当てたんだからなあの馬が来るなんて予想してたのは俺だけだその証拠にほれガッポリだ」通行人は財布の中身を見せるが、中には道で配っている割引券が詰まっているだけだ。
「はいご新規一名様ご案内」
「いっそ馬主にでもなったろかしらん」
キャッチは一人で店内へ入っていき、通行人はホクホク顔で歩き出す。
次のサンプルを採取する。今度は大人の玩具店の前でたむろする娼婦たち三人のやり取り。
「あの男いまぜってーこっち見たあたしの胸見て勃起してる帰ってマス掻く気だ金払えよフニャチン野郎」
「最近化粧のノリがヤバいマジヤバいどうヤバいかっていうとなんかもう真っ新なキャンバスに絵の具載せてるみたいなんだよね載せたことないんだけどさ」
「今年で二十四歳です趣味は読書と映画鑑賞お酒は嗜む程度です人見知りな性格なのでこういう場は苦手なんですけど今日はすごく楽しいです」
彼女らはそれぞれが別の方向を向いて電話口に話しているのではない。互いに視線を交わし、飽くまでも目の前の相手と「会話」している。こうして俺が傍から眺める限りはちぐはぐなやり取りも、三人が三人、それぞれの中ではちゃんと成立しているのだ。
衝突のない、誰もが平和に暮らせる世界。この世界を、俺は〈現実〉と呼ぼうと思う。〈夢〉が「現実」を乗っ取った世界。それが〈現実〉だ。
〈現実〉には「現実」で起こるような悲劇は存在しない。こんなことを言うと「本当の喜びも存在しないではないか」と言われそうだが、その点については反論しない。素直に認めよう。
ただ、一つ言わせてほしい。
茫漠たる砂漠の中で、見つかるかもわからない一粒だけの砂金に一体どれほどの価値があるのだろうか?
砂金は、確かにどこかにはあるのだろう。だが大方の場合、問題は「どこかにある」ではなく「見つかるか否か」だ。偶然見つけられたのならそれに越したことはないが、見つからないのであれば全く意味を成さない。殆どの確率で手に入らないものを夢想するというのは、なかなか虚しいと俺は思う。そして同じように考えているのは、俺だけではない。少なくともこの街に於いては、俺と同じ考えの持ち主で溢れている。彼らもやはり、見つかるかどうかわからない「本当の喜び」より、たとえ偽物であっても確実に手に入る「喜び」を選んだ。何度も言うようだが、火を燃え広がらせたのは俺じゃない。元々、燃え広がる環境が整っていたのだ。俺はただ、そこへ火種を落としたに過ぎない。
街中へ燃え広がった炎は、延焼を続け、やがてこの国を、世界を覆い尽くす。
世界中で、全ての人類が、こめかみにパッチを貼り付け、虚ろな眼差しで闊歩する光景を思い浮かべる。誰もが自分の理想とする〈現実〉の中で生きる。それを咎める者も、邪魔する者もいない。全員が(虚構ではあるが)見たいものだけを見て生きられる世界。
なんと美しい世界だろうか。
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