端末に着信。雇い主からだ。音声通話は珍しい。それこそ、最初の「契約」以来かもしれない。話の内容は想像がつく。通話を繋ぐと、懐かしい、男の低い声が聞こえてきた。

「ネットに出回っているフリーの〈夢〉を知っているか」

 その落ち着いた喋り方から、俺は勝手にインテリヤクザのような顔を想像している。実際に顔を合わせたことはない。合わせたくもない。

「ええ、耳には入ってます。昨日あたりから、ネットじゃその話題で持ちきりです」電話越しだと、ちゃんと喉が開いて声が出る。この世の全ての対話が電話を介して行われるようになれば良いと心底思う。

「噂では、この街で新顔の売人がパッチを売っていたらしい」

「へえ」声が上ずらないよう注意する。「まあ、ありそうなことですね。ここなら」

「我々のシマを荒らす不届き者だ。見逃すことは出来ない」

「あなたたちに真っ向から喧嘩を売ろうなんて馬鹿ですね。或いは本当の世間知らずか」

「或いは確信犯か」

 喉元に白刃を突き付けるような声。俺は思わず息を呑む。

「誰かが何らかの意図を持ってこちらの顧客を奪おうとしていると、我々は考えている」

「大胆な人間がいたものですね」

「わからないのはその意図だ。売人はパッチと共にURLを渡したらしい。ファイルを無料でダウンロード出来るURLだ。アクセスすれば、生のパッチを持っている人間であれば誰でも同じ〈夢〉を手に入れることが可能だ」

「拡散が目的なのではないでしょうか」

「そうだろう。だが何のために? なぜ金を取らない?」

「取る必要がないから」

「取る必要がない」相手は繰り返す。「慈善事業でもしているつもりということか?」

「そんな優しいものではないと思いますよ」

 沈黙。電話の向こうで考え込む姿が目に浮かぶ。見えない商売敵の意図を読み取ろうとしているのか、俺の白黒を判断しようとしているのか。後者であれば、俺の身は危うい。

「ちなみに」と、俺は言う。「その〈夢〉の内容は御存知ですか?」

「ああ。今使ったばかりだ。だが何ともない。〈夢〉が始まらないのだ」

 口角が吊り上がるのを感じる。俺にはそれを、自分の意思では押さえられない。音声通話で助かった。

「不良品か、或いはエラーか」相手が言う。

「もしかすると、これが〈夢〉だということはありませんか?」

「これが?」

「今、この瞬間が〈夢〉なのです」

「パッチは外している」

「ネットによると、一度再生した〈夢〉は脳に常駐し、スクリプトを実行し続けるそうです。一見現実に見える景色も、スクリプトの作り出した幻の可能性があります」

「取り除く方法は?」

「さあ。そこまでは出ていませんね」

「専門家なら対処を知っているのではないか?」

「飽くまで仮説ですが、一つ、方法がないでもありません」

「何だ」

「死んでみるんです」

 沈黙。

 俺は続ける。

「よく、夢か現実か確かめるために頬を抓るというのがあるでしょう? 原理はあれと一緒です。物理的な刺激を身体に与えるのです。〈夢〉の中であれば、本当に死ぬことはありません。現実に戻るだけです」

「戻った先が、現実ではなく〈夢〉の続きである可能性は?」

「ゼロではないでしょう。ただ、パッチなしで再生される〈夢〉にそれほど大それた仕掛けが施されているとは思えません。脳の容量を食いすぎて、意識を維持できない筈です」

「もう一つ懸念しているのは」と、相手は言う。「君が俺を殺そうとしている点だ」

 一瞬だが、呼吸が止まる。

「俺は今、こう推理している――この〈夢〉を撒いたのは君で、君は我々組織の報復を恐れている。そこで俺が、事の真相に気付いてしまった。身の危険を感じた君は、体の良い口実を拵え、ごく自然な流れで俺を殺そうとしている」

 俺は唇を舐める。

「なるほど、もっともな疑念ですね。僕がどう答えると、あなたのお気に召しますか?」

「答える必要はない。君は何もしなくて良い。ただ、大人しく殺されてくれればそれで良い」

「穏やかじゃないですね、それは」

「穏やかだよ。実に穏やかな話だ。今から俺が君を殺す。それから自死を試みる。もし全てが〈夢〉ならば、誰も死なず傷つくこともない。万事解決だ。もし君が俺を陥れようとしていたならば、俺は確かに死ぬが、少なくとも君への報復も果たされる。まあ、痛み分けというぐらいの結果は得られる。穏やかな話だと思わないか?」

「なるほど。僕は〈夢〉の中の『僕』ですものね。殺しても差し障りはないわけだ」

「物わかりが良いというのは美徳だ」

「良すぎるのは汚点だと、親父に言われたことがあります」

 電話口から笑い声が漏れる。嘲笑。

「それで、僕はどうすれば良いですか? 何処かで待ち合わせますか?」

「いや、その必要はない。実はすぐ傍まで来ているんだ。君の部屋の前に」

 襟から水を注がれたような心持ちがする。俺はまた、唇を湿らせる。

「住所、教えたことありましたっけ?」

「この街で我々にわからないことなどないよ。どの鼠が子供を産んだかまで把握している」

「その鼠というのは、何かのメタファーですよね?」

「好きなように解釈したまえ」

 俺は溜息を吐く。そして端末を操作し、扉の鍵をリモートで解除する。

「どうぞ、鍵は開けました」

「物わかりが良くて助かる」

「汚いところで恐縮ですが」

「なに、すぐに用は済む」

 鉄の扉を開ける音。閉まる音。

「そのまま奥へ進んでください」

「いや、ここで良い。落とし穴でも掘られていたら困るからな」

 鈍い金属音。撃鉄を起こす音、という他に形容の仕様がない、他に類のない音。

「こちらを向け」

「怖いのでこのままでお願いします」

「仕方ない」

 銃声が耳をつんざく。思わず肩が撥ねる。

 通話が切れる。切られる。

 俺は端末を耳から離す。つい後ろを振り返ってしまう。背後の闇にはもちろん誰もいない。念のため、玄関のチェーンロックも確かめてしまう。全ての安全を確かめてから、ようやく息を吐く。

 通話が切られた後、電話口の向こうで何があったかを思い描く。もう一発の銃声は響いたろうか。或いは、自死を思い止まった相手は夢遊病者の足取りでこの街を徘徊しているだろうか。

 前者であることを強く望みながら、俺は電気スタンドを、部屋で唯一の灯りを消す。

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