赤色灯を灯したパトカーとすれ違う。反射的に、コートの襟を掻き抱く。まだ何もしでかしていないというのに。

 表通りはいつもと変わらず毒々しい光に満ちている。その気になれば、いつでもこの極彩色の中に自我を拡散させることが出来る。俺という人間はいなくなり、この街を構成するオブジェクトが一つ増える。この街を回す歯車になる。

「ねえねえ」ポルノショップの前で女が飛び出してくる。ショートカットにした髪が、頭上のネオンサインを受けてピンクや青に忙しく変わる。「お兄さん、いま暇? わたしも暇なんだ」

 さも初対面のように話し掛けてくるこの女を、俺は知っている。二週間ほど前からこの場所で客を取っている。何度か声を掛けられたが、その度に無視してきた。

 右へ踏み出そうとすると、女がそちらを塞ぐ。逆側もまた然り。

「ねえ、いいじゃん。二人でどこかで温まろうよ」

 俺はこめかみに指先を持って行く。


 女が出て行った後も、しばらく個室に残る。一緒に出て行った時の周囲の眼を気にしたわけではない。そんな奥ゆかしい人間は、この街にはいない。

 気怠さに全身を包まれながらズボンを上げる。ベルトを締める。個室を出て、洗面台で顔を洗う。指がパッチに当たる。防水加工されているから水濡れは心配いらないが、試しに外してみる。目の前の世界は変わらない。鏡には、水を滴らせた蒼白い男の顔が映っている。

 鏡の中の男は口元に笑みを浮かべる。

 トイレを出る。無人のロビーを横切り、劇場へ入る。既に上映は始まっている。人工甘味料のような喘ぎ声。適当な席を見つけ、身を滑り込ませる。暗闇を穿つ光の中で展開される営みを眺める。

 どれだけ画面を凝視しても、それは他人事でしかない。決して俺の体験にはならない。どれだけ映像が主観で撮られようと、サラウンドを駆使して耳許で囁かれようと、全ては俺の外側から入ってくる情報に過ぎない。俺は座席に座り、画面を観ている。俺は今、ポルノ映画を観ている。

 笑いがこみ上げてくる。声を出さないよう堪えるのに苦労する。傍から見たら、さぞ怪しく映るだろう。

 だが、恐れずに声を掛けてほしいと思う。「何がそんなにおかしいのですか?」と問い掛けてほしいと思う。そうすれば、このポルノ映画より何倍も有意義な快楽について話して聞かせることが出来る。


「ねえねえ」ショートカットの女が、俺の行く手を塞ぐ。

 ポルノショップの前。頭上ではネオンサインが、青からピンクに変わる。

「お兄さん、いま暇? わたしも暇なんだ」

 俺は彼女を見下ろす。女はこちらの口が開くのを待っている。

「もう少し――」痰が絡み、咳払いして言い直す。「もう少し、テクニックを磨け。客を取るほどのレベルじゃない」

「はァ?」

 女の歪んだ顔を横目に、通り過ぎる。後ろから何か声が聞こえるが、すぐに耳に届かなくなる。俺には関係のない、無意味な言葉だ。

 少し行くと、別の女と目が合う。

 口元に浮かぶ微笑。その唇の感触も、俺は知っている。

 反対の方からも声が掛かる。階段に腰掛けた女が、気怠そうにこちらを見上げている。煙草の吸いさしを挟んだ指がどのように動くのかも、俺は知っている。俺は、この街の大抵の女を知っている。


 開演前の劇場のロビーには女の姿がある。黒い髪の奥で耳飾りを輝かせる女。バグで悪夢となった女。合成皮革のベンチの上で、剥き出しの太腿が上下を交替する。その組んだ脚が開かれる様を、俺は知っている。

 女とは離れたベンチに腰を下ろす。視界の端には、常に相手の視線を感じている。

 人影の動く気配がある。女が近付いてくる。彼女は俺の前を通り過ぎ、トイレへ向かう。顔を上げると、こちらを見下ろしてくる眼差しとぶつかる筈だ。誘うような眼差し。それがある筈だった。

 ベンチが撓む。隣に質量が発生したのだ。人一人分の質量が。

 首が上手く回らない。俺はこめかみに指を充てたまま、しばらく前を向き硬直する。何が起きているのか、頭の中で整理する。

 腿に何かが載る。人間の、女の手だ。白く華奢な手は、腿の上を何往復がした後、股の内側へと滑り込んでくる。快感とも不快感とも着かぬ感覚が脳天まで駆け上る。全身に鳥肌が立つのを感じる。

 脚の外側には別の体温が密接する。短いスカートから伸びた、剥き出しの脚。二の腕にも同様に、他者の肉体が押し付けられる。

 吐息が耳をくすぐる。今度はこちらを起点として、鳥肌が波紋のように身体中へ広がる。

 バグ、ではない。そもそもこれは〈夢〉ではない。何故そう言い切れるのかといえば、女が身を寄せてきながら、流れるような手つきで俺のこめかみからパッチを剥がしたからだ。現実は何も変わらなかった。電気信号の供給は、まだ始まっていなかった。

 何か言わなくては。しかし、喉が勝手に閉まり、喘ぐような音しか出ない。そうこうするうちに女の手は、俺の核心部へと至る。

 ぽってりと厚い唇に笑みが宿っている。これが異様な大きさに、蛭の怪物のように見えたらどんなに良いだろう。今すぐ女の身体がブロックノイズに包まれたら。彼女が実体のない、俺の記憶を元に作られた電気信号の産物であったなら。今ならどんな悪夢でも望む。そもそも、現実を望んだことなど俺にはない。

 女の掌が上下する。まるで何かを磨くように。その運動は、着実に俺の思考を摩滅させていく。やめろ。

 やめろ!

「やめてください……」

 研磨の動きが止まる。生温かった吐息に、冷たいものが混じる。

 女の身体が離れる。彼女と接していた部分が、肌が露出したように寒い。彼女はベンチから立ち上がる。彼女の手があった場所に、何かが落ちてくる。電子パッチだ。顔を上げると、こちらを見下ろす眼差しとぶつかる。物理的にも観念的にも見下す眼差しと。

 遠ざかっていく靴音が、劇場の前を通るサイレンに掻き消される。赤色灯の光を浴びながら、俺は安堵している自分に気付く。くそ。

 くそ、くそ、くそ。

 サイレンが聞こえなくなると、廃墟のような静寂が下りてきた。がらんどうのロビーに、俺は一人だった。

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