繋いだ女の手が、向きを変える。細く白い指が、それぞれ俺の指の股に這い込んでくる。

 俺は彼女に搦め取られる。俺の方でも五本の指をそれぞれ動かす。真っ白な手。小さな手。冷たい手。走査させた指先から、それらの感覚を己に覚え込ませる。

 実際にやったら気持ち悪いことこの上ない。だが、彼女は何も言わない。何か言うようにプログラミングされていないからだ。俺は心ゆくまで、ホステスに言い寄るじじいのような手つきで女の手を擦る。

 色に形に質感に温度、全ての情報を記憶に刻みつけ、現実の瞼を開く。

 肘掛けに置いた右手を顔の前に持って来る。掌を見、甲を見、再び掌を見る。指を握り込む。開く。普通に動く。

 この手で、今の今まで女の手を撫で回していた記憶はある。どんな色で、どんな形で、どんな大きさで、どれぐらいの温度だったかも覚えている。だが、実際に触れていた感触が残っていない。情報は飽くまで「情報」で、「記憶」とは別の場所に保持されている。

 失敗だ。再びコードと向かい合う。

 背中を丸め、のめり込むようにディスプレイを見つめる。気付かぬうちに右の上腕を擦っている。あれから三日。キュビスムの怪物に締め上げられた感覚は薄れつつある。「記憶」に刻まれたデータが徐々に消えているらしい。逆に言えば、三日経ってもまだその残滓は残り続けている。それほど鮮烈な記憶の焼き付け方を、俺はまだ知らない。

 どこかにあるのだ、方法が。事故の産物だとは思いたくない。必ず道は存在する。必ず、この現実を書き換える手段がある筈だ。


〈夢〉を〈夢〉たらしめるものは何か。

〈夢〉は生理現象としての「夢」とは違い、観ているという自覚がはっきりとある。映画を観ている最中に、どれだけ内容にのめり込もうとも「自分は今、映画を観ている」という自覚を持ち続けるのと一緒だ。脳の一部を覚醒時の状態と同じにした上で、様々な刺激を流し込んでいる。

 わざわざ夢と現実の間に境界線を引くのには理由がある。あちらの世界からちゃんと戻って来られるようにするためだ。「自分は今、〈夢〉を観ている」と自覚しておくことで、プログラムの終了処理を的確に受けられる。この際、残すべき感情と〈夢〉を観た事実は「記憶」として定着し、他の感覚はクリーンアップされる。〈夢〉の世界から現実へ持ち帰られるのは、思考的な部分に関する記憶だけなのだ。肉体への物理的刺激は持ち出しが出来ない。

 キュビスムの腕に締め上げられた感覚が残っていたのは、その的確な終了処理が行われなかったためだ。つまり終了処理がされなければ、物理的刺激も持ち帰ることが可能となる。

 ここで障害となるのが、スクリプト言語は構造上、終了処理のメソッドを省けないという点だ。省略すると、そもそも文法上のエラーとなりコンパイルが通らない。ではなぜ、俺はキュビスムの腕に締め上げられた「負の感覚」を持ち出せたのか? それは現実世界から聞こえてきたサイレンをきっかけに、こちら側の肉体の制御を取り戻すことが出来たからだ。もしあの時サイレンが聞こえなかったら、俺は怪物にトイレの個室へ引きずり込まれ、なにがどうなっていたかわからない。

 終了処理を通らないということは、永遠に〈夢〉に閉じ込められることを意味する。そのループから抜け出すために、あのサイレンのような外的要因に頼るのは、あまりにリスクが高過ぎる。

 文法上は正しく、かつ終了処理を経ない方法。尻が駄目なら頭を見ろ。つまり、〈夢〉を観ているという自覚を消すのだ。そこで冒頭の話に戻る。

 コードをどうこうするより複雑な話に思えるかもしれないが、これはそれほど高度ではない。舞台立てを、〈夢〉を観る前の現実に近付けてしまえば良いのだ。限りなく、見分けがつかないほどに近付ける。

 そのために、骨組みや装飾から変数にしてしまう。状況そのものの数値を、鑑賞者の置かれた環境から取得する。指定するタグは最小限に抑え、全ての始まりからスクリプトを回そうというのだ。

 試みは成功した。エラーで弾かれることなくコンパイルされ、起動も確認できた。だが、仮説が実証されたといって自惚れる俺ではない。こうしたコードの書き方を、今まで誰も思い付かなかったわけではないだろう。する必要がないから、誰もしなかったに過ぎない。コードを騙くらかして終了処理をスルーしようなどと考える馬鹿は、幸い俺が初めてだったようだ。

 終了処理は、お化け屋敷の出口で拡張ゴーグルを回収する係員のようなものだ。「〈夢〉はここで終わりです。お疲れ様でした」と言わんばかりに感覚記憶を削除する。〈夢〉技術を医療分野で実用化する上で作られた安全装置だが、今の俺にとってはお節介でしかない。

 これを騙す。先の拡張アトラクションで喩えるなら「いや私はお化け屋敷になんか入っていませんよ」といった面で出口を素通りするのだ。実際の遊園地では通らない道理も、コード上なら可能だ。安全装置は鑑賞者の記憶――現実世界から持ち込んだ感覚までは削除しない。〈夢〉から覚める度に記憶喪失になっては、それこそ実用化どころの話ではなくなるからだ。ここが、堅牢な城を攻め落とすための穴となる。全ての感覚を記憶として判断させて、クリーンアップの処理を走らせないようにする。〈夢〉と現実の境を認識していない状態なら、これが可能だ。〈夢〉で味わう全ての感覚も、現実に起きたこととして脳に保持する。現実世界で起きたことにしてしまうのだ。そうすれば、安全装置は手が出せない。尤も、鑑賞者自身も〈夢〉で起きたことを現実のものとして、錯覚を錯覚とも気付かぬまま覚え続けることになるのだが。

 しかし、嘘の処方箋まで用意して〈夢〉に溺れようとする人間が、果たして現実と虚構の区別を付けたがるだろうか? いっそ、狐に化かされていることに気付かぬまま、葉っぱを紙幣と認識させておく方が、彼らにとっては幸せなのではないか?

 嘘は、嘘とバレるから問題なのであって、相手を最後まで騙し通すのであれば、むしろその努力を賞賛されるべきだ。それに、百パーセント完全な嘘で構築された世界は、それはそれで一つの真実だと俺は思う。虚構で現実を塗り替える。現実に成り代わった虚構をプログラミングすることは、現実をプログラミングすることと同義となる。

 俺は、何か間違ったことをしようとしているのだろうか?

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