〈夢〉が映画などの映像メディアと決定的に違う点。それは、登場人物が鑑賞者によって変化することだ。

 あらすじや配役は、こちらが指定したものが展開される。だが、登場人物の顔ぶれに関しては個々人の意識下にある〈データ〉を読み取り、投影している。〈夢〉とはいわば箱であり、そこにどんな要素を流し込むかは人それぞれなのだ。そういう点で、〈夢〉は小説や戯曲といった文字メディアに近い特性を持っているともいえる。

 眠れない俺でも、〈夢〉を観ることは可能だ。むしろ仕事柄、観なければならない。造っておいてそのままというわけにはいかないのだ。デバッグがその機会に当たる。

〈夢〉は本物の「夢」同様、レム睡眠中の脳で展開される。医療パッチの細かな仕組みはさておくが、簡単にいえば活動中の大脳辺縁系に電流を流し、主に快楽を伴って脳波に干渉するのだ(それゆえ法規制の対象となった)。この干渉は、脳の他の部位が覚醒中は上手く作用しない。一般に使用されるものはそのような仕様になっているが、デバッグ用のパッチはここが異なる。脳の状態に関わらず〈夢〉を上映出来るようになっているのだ。さすがに目を開けたままでは何も見えないが、目を瞑れば、瞼の裏に〈夢〉の景色が広がる。もちろん、〈夢〉の肝である感覚も味わえる。溺れすぎず、肝要な旨みだけを楽しむ。或る意味、これが〈夢〉の最も効率の良い使い方なのかもしれない。何か弊害があるとすれば、睡眠に纏わる器官が麻痺して眠れなくなるぐらいか。

 デバッグでは、途中でバグが見つかれば処理が中断され〈夢〉から抜け出すことも可能だ。というか、それが出来なくては本来の目的が果たされない。何もこっちは楽しむために自作の〈夢〉を観ているわけではないのだ。飽くまで仕事として、理想の美女と手を繋いだりくっつき合ったり、あんなことこんなことをしているに過ぎない。

 当然、バグを見つけることだってある。そのためにやっているのだから、むしろこれは喜ばしいことだ。

 ところで、〈夢〉がバグを起こすとどうなるか御存知だろうか。答えは簡単。悪夢になる。

 正確には「悪夢的」というべきなのだろうが、生身(に感じられている)の人間がいきなり目の前でブロックノイズのおばけになったり、色々な形で半分だけになったり、同じ単語を延々と繰り返し始めたりするというのは、何遍経験しても慣れることがない。正直、何度かちびったことだってある。デバッグだからまだ良いが、本番の使用でこんな目に遭ったら、或いはショックでこちら側に戻って来られないかもしれない。

 つい今しがた「デバッグだから」と言ったが、訂正する。デバッグだったとしても、中断処理が上手く動作しないのでは股間を濡らす羽目になる。現在の俺のように。

 時間にすれば、ほんの数分。いや、一分もなかったかもしれない。だが、あんなのは一秒でも充分だ。あと数秒かかっていたら、こちら側に戻って来られたかわからない。焦った。思い出すだに身体の底から震えが起こる。

 順を追って記す。なるべくなら忘れてしまいたい記憶だが、今後の仕事への備忘録として。

 舞台立ては、映画館のロビー。時刻は深夜。鑑賞者、即ちこの〈夢〉の主人公の設定は、劇場の準備が整うまで合成皮革の破れたベンチで待っているというもの。ああ、そうだ。俺は実生活を創作に生かすタイプの「クリエイター」なのだ。

 やがて、ロビーに女がやって来る。この変数に代入される値は人それぞれだが、俺の記憶から読み込まれた値は俺の記憶を忠実に再現する。つまり、あの女が登場する。

 逆光のエフェクト。女の姿は人影としてしか視認できない。そうこうする内に、彼女は俺のと同じ並びのベンチに腰を下ろす。

 主人公は、彼女の顔を見たいと思う。見たくてしょうがないという欲望がパッチから流れ込む。果たして、主人公は立ち上がる。ベンチの落とし物を確認するふりをして、肩越しに女の方を見る。

 目が合う。

 女が微笑む。

 髪の奥で煌めく耳飾り。その輝きが、いやに眩しい。眼を刺すほどに。

 思わず顔を背ける。もう一度彼女の方を向くが、眩しさは変わらない。

 大きいのだ、光が。車のヘッドライトなんて比ではない。スタジアムや何かで使うような照明。いや太陽。照らすどころか、焼かれそうなほど眩しく、熱い。

 何かの値が間違っている。だがexitに飛んでいかない。処理が中断されない。デバッグを強制終了するには瞼を開けるだけだが、それも出来ない。この眩しさを見たら網膜が焼かれてしまうという思いが意思とは無関係に働き、身体をロックする。

「隣に来ない?」低く、野太い声。女のものとは思えない。やはり代入された値が狂っているようだ。「隣に来ない? とな、とな、とな、となななななな」

 俺は彼女に背を向ける。彼女とは反対側にあるトイレを目指す。

「とななななななな」

 野太い奇声はすぐ隣で聞こえる。ブロックノイズに切り刻まれた腕が、俺の上腕に絡みついている。俺はその光景を、瞼を閉じたまま見る。

「なななななななななななな」

 振り解くことは出来ない。スクリプトはバグを孕んだままソース通りに進んでいく。俺たちはトイレへ向かう。女の耳飾りの光が鏡を真っ白に染める。現実の瞼はまだ開けない。眩しくない。目を焼かれたりはしない。言い聞かせるが、肉体は反応しない。

「ここここここここここででですすすすすすすすするるるるるるるるるるる????」ぽってり厚い唇が誇張されバラバラに配置されたキュビスムのような顔が近付いてくる。絵ではなく実写となると、もはやグロテスクだ。

 しかし助かった。このif分岐で処理を抜けられる。

「いや、やめよう」俺は言う。falseのルートへ処理が走る様を思い描きながら。

 グイ、と腕が引っ張られる。女(というよりキュビスムの怪物)が俺を個室の方へ引っ張っていこうとする。

「待て待て待て待て!」

 俺の叫びは意味を成さない。ブロックノイズの一部にちらつきが出たから、微笑むぐらいの反応は示したのだろうが、そんなものここでは何の意味もない。

 奥の個室の扉が開いている。本能が、入ってはいけないと頭の奥で鐘を打ち鳴らす。キュビスムの怪物はグイグイと俺を引っ張っていく。上腕が締め上げられる。踏ん張りは利かない。本来の処理に沿って、足は個室へ向かっていく。

 怪物の呻くような声に、別の音が混じる。

 サイレン。この場には存在しない音。

 下界から響いてくる音だ。

 まさに、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸。俺はそれを手繰り寄せる思いで耳を澄ます。悪夢の奈落から這い出すように、サイレンを鮮明に聴こうと試みる。

 そこでようやく目が開いた。目の前には机があり、ディスプレイが煌々と照っている。顔中には脂汗。脇の下も、それから股の間まで濡れている。くそ。しかしパッチをこめかみから引き剥がすと、生きていることへの喜びみたいなものが湧いてきた。その揺り戻しで、恐怖の大波も押し寄せてきたが。

 原因は果たして、パラメータの数値を一桁ずつ間違えていたためだ。凡ミス。ただちに打ち直すが、もう一度〈夢〉を観る気にはなれない。

 背もたれに身を預け、遠くで響くサイレンを聞くともなしに聞く。悪夢を観るのは初めてではないし、珍しいことでもない。だが、あれほどのものはそう滅多にない。さすがに精神が消耗した。肉体にも、鼓動の早打ちという形で影響が残っている。腕にも。

 腕。

 上腕にブロックノイズで毛羽立つ女の白い腕が絡みつき、ぎゅうぎゅうと締め上げる。

 俺は右腕を振る。女の腕は消える。というか元々ない。くそ。目頭をグッと押さえる。頭を振り、いつから机にあったかわからないカフェインレスコーヒーを呷る。

 袖をまくってみる。上腕に跡などは残っていない。だが、締め上げられていた感覚は未だにある。少なくとも、記憶に嘘のキャッシュを刻みつけ、過去に起こった事実として読み出せる程度の情報は俺の中に残っている。これはどれだけ腕を振ろうと振り切れない。

 現実世界にはみ出してきた悪夢。くそ。

 いや、「くそ」じゃないかもしれない。

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