端末に入金の通知が届く。報酬が振り込まれたのだ。これで半月は食い繋ぐことが出来る。

〈夢〉一本に対して払われる額としては、まずまずなのではないかと思う。決して安値でないことは、前に同業者の話を聞いたから知っている。この男は、俺が〈夢〉だけで生活していると知るや頻りに羨ましがっていた。普通は他の仕事、電脳世界の掃除夫のようなことを掛け持つのが一般的らしい。

 幸いにして、俺は仮想でも現実でもゴミを集める仕事をせずに済んでいる。納品物の単価が高く設定されているためだが、それは誰が作ってもそうなるわけではない。俺が作るものが特別なのだ。自分で言うのもなんだが。

〈夢〉の作成自体は、実は誰にでも出来る。必要なのはテキストエディタと初歩的なコーディングの知識。最悪、前者は紙に書いて誰かに渡すという手もある。

 書き方としては、タグで舞台となる場面の大枠を定義し、そこで繰り広げられる細かなエピソードをスクリプトで展開させる。大昔にHTMLやCSS、各種スクリプトを以て行われていたページ作成とそう大差はない。

 ホームページと呼ばれた古式ゆかしい電子情報と異なるのは、そこから脳波に干渉する形で五感それぞれに対して刺激が流れ込んでくるという点だ。視覚や聴覚以外にも味覚、臭覚、更には触覚も刺激する。それらの感覚を「味わった」と思わせなければならない。更にはその記憶を統合し、最終的には快楽へと至らせるのが〈夢〉本来の目的だ。言葉にすると簡単だが、人間の記憶をキャッシュとして保持し、出し入れする必要がある。これを着実に行わなければ、大抵の〈夢〉は「夢を見た事実」のみが記憶に残るだけで、快楽の部分は無意識下に沈んでしまう。それでは意味がない。俺の作る〈夢〉は、この快楽が着実に得られ、覚醒後も感覚の残滓が長続きするのだそうだ。コツなんてものはわからない。俺は自分の中にある知識に従ってコードを綴っているだけだ。


 ベランダのすぐ下を、パトカーのサイレンが通り過ぎる。遮光カーテンが赤色灯の回転に合わせ染められる。

 サイレンは尾を引きながら去って行く。指が、再びキーボードを叩き始める。

 程なくしてもう一台、パトカーがやって来る。近くで何かあったらしく、カーテンの端に赤色灯の光が溜まっている。

 集中が切れた。というより、元々今夜は気分が乗っていなかった。月に一度はある不調だ。

 書きかけのコードを一時保存し、コートを引っ掛け外に出る。階段を下りていくと、道の先に野次馬たちが集まっている。俺もその中に加わる。方々から聞こえる話の断片を繋ぎ合わせると、ホームレスが不良どもに襲われたのだとわかる。

 最近、この手の事件が増えている。元々掃きだめのような街だ。他の場所で発生した「ゴミ」が集まってくるのは自然の摂理といってもいい。

 踵を返す。部屋へ戻る気も起きず、繁華街へ足を向ける。

 夜の冷え込みが本格的なものになっている。通りをいくらも歩かぬうちに身が竦んできた。どこかで暖をとろうと考え、ほとんど反射に近い速度でいつもの場所が思い浮かぶ。

「よう童貞」窓口からはいつもの合成音声。「今夜は早いじゃないか」

「寒いんだよ。中に入れろ」ポケットを探るが、札がない。舌打ちして、財布から折り目のない紙幣を出す。「いい加減、電子決済にも対応しろよ」

「そんなハイカラな客はここには来ないよ」チケットが差し出される。「まだ準備中だ。ロビーで待ちな」

 あの劇場に客を閉め出してまで準備するものがあるのかと思いつつ、ロビーに入る。壁際にある、合成皮革の裂け目から中のスポンジが剥き出しになったベンチに座る。こんな廃墟のような場所でも、屋外に比べればいくらかマシだ。

 コートの襟を引っ張り上げ顔を埋め、身体が温まるのを待つ。売店が開いたらホットミルクを買おう。開いているのを見た記憶がしばらくないが。

 カーペットを踏むしずしずとした足音が聞こえる。気配といってもいいぐらいの微かな音だ。

 思うより先に身体が反応する。俺は顔を上げ、足音の持ち主へ目を向ける。

 眩い光。入口の硝子の向こうで車がやって来て、右折する。いや左折か。どちらでもいい。

 逆光の中でも歩いてくるのが若い女だとわかる。逆に言えば、それ以上のことはわからない。そのわからなさが、却って興味を掻き立てる。

 彼女のことをもっと知らねばならない。頭の奥底から、誰かが鐘を打つように言った。

 逆光が止んだ時、女の影は既に目の前を横切っている。同じ壁際に並んだベンチに向かったようだが、わざわざ振り向くことは出来ない。ロビーには俺と彼女しかいないのだ。何か意図があるように思われては困る。

 視界の右端に女の影を捉えたまま、俺は正面を向き続ける。気にしないようにすればするほど、影は大きくなっていく。肌色が多いように思えるが、脚を露出しているのかもしれない。

 トイレへ行くふりをして、ベンチを立つ際に自然な流れで一瞬だけ目を向けてみよう。生憎、トイレは彼女とは反対側にある。右側にあれば前を通る際に横目で確認できたろうに。どうして右側に作らなかった。くそ。

 仕方ない。腰を上げ身体を回転させる動きを、何度もシミュレートする。何度も、何度も、何度も。現実と見紛うようになるぐらい繰り返す。

 よし。

 腰を上げる。ベンチに財布を落としていないか確認する態で身体を捻る。肩越しに、女の方を見る。

 目が合う。完全に、ばっちりと。

 ランデヴーする宇宙船同士が発するトラクタービームぐらい精確かつスムーズに、俺たちの視線は重なった。二人が目を向け合うタイミングは、それはそれは見事なものだった。

 呆気にとられていたようだった女の顔に微笑が浮かぶ。ぽってりと厚い唇が下弦を描く。長い黒髪の中で、耳飾りが煌めく。

 顔が熱くなる。目を逸らす。〈夢〉の中みたいに身体が勝手に動く。くそ。俺はそのまま背を向け、半ば駆けるような足取りで便所を目指す。くそ、くそ、くそ。

 洗面台で火照った顔に水を引っ掛ける。忘れていた寒さが蘇ったところで、ようやく気持ちが落ち着いた。鏡の向こうから、目の下に隈をこさえた血色の悪い男がこちらを見つめてくる。俺も見つめ返す。しばらく見つめ合ってから、蛇口の水を止める。

 ロビーに戻った時、劇場が入場可能になっていた。ベンチに女の姿は消えていた。暗い劇場のどこかにいるのかもしれないが、探す気にはなれなかった。

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