夢売る男

佐藤ムニエル

 風に靡く髪を押さえながら、彼女は微笑む。

「この辺りは危ないわ。大昔に埋められた地雷がそのままになっているから、気を付けて」

 そう言って、手を差し伸べてくる。

 細く小さく、真っ白な手。掴んでみると冷たく、心許ない。

 彼女は尚も微笑んでいる。

 俺は彼女に導かれる。辺りには俺たちの膝元まで覆う程の草が青々と広がっている。地雷どころか井戸が口を空けていたとしても判別は出来ないだろう。その中を彼女は、どこを通れば安全かを知っているような足取りで進んでいく。

 追い掛けるうち、俺は多幸感に包まれる。繋がれた手を通して、彼女の愛情が流れ込んでくるのを感じる。このままずっと、彼女に導かれていたいと思う。

 温かな陽の光。視認可能な多幸感。

 問題ない。

 滞りなく出来ている。

 以下の処理は省略。デバッグ終了。


 暗闇に橙色の豆球が浮かんでいる。

 背もたれのリクライニングを戻し、こめかみに貼った有機プラスチック製の医療パッチを剥がす。頭を振る。デスクトップの画面右下にある時計を見る。二時二分。つまり睡眠時間は二分間。生物学的または一般的な価値観から見れば短いのだろうが、デバッグとしてはこれで充分だ。ちゃんと動くことさえ確認出来れば、それ以上時間を費やす必要はない。

 使い回しのテキストファイルを開き、タイトルと概要を書き換える。詩的な表現は入れない。これが案外、ダウンロード数を稼ぐ上では意味を持ってくる。

 一式を入れたフォルダを圧縮。ドラッグし、アップロード。納品完了の表示が出る。

 時計を見ると二時五分。夜明けまでにはまだ時間がある。

 椅子にもたれ、目頭を押さえる。リクライニングを倒すが、眠れる気配はない。かといって頭が冴え渡っているわけでもない。睡眠と覚醒の間で宙ぶらりんの状態だ。夢と現実の境界が曖昧になっている。

 身体を起こし、立ち上がる。壁に掛けたコートを掴んで羽織る。ブーツに足を突っ込み、玄関を出る。冷気が一瞬だけ眠気を薄めるが、すぐに戻る。俺は虚ろな意識を抱え、白い息と共に階段を下りる。

 裏路地には人影が疎らだ。壁際に座り込み、眠っているのか何かを待っているのか蹲っている奴が時々現れるぐらいである。表通りに出ると、これが変わる。煌めく極彩色のネオンに、緩慢な動きで往来する人、人、人。嬌声の向こうで怒声が聞こえ、トランペットの音色の向こうで重低音がビートを刻み、何かの割れる音が混じる。最近では時折パトカーのサイレンも入る。昼間より、むしろ賑やか。そういう街なのだ、ここは。

 通りに身を沈める。俺は街の一部になる。「いかがわしい街」を構成するオブジェクトの一つに。誰からも何の感情も向けられぬまま、ただ漫然と通りを歩く。目的も終着点もない。ただひたすら、息を潜めるようにして、夜が明けるのを待つ。

 一昔前だったら、タクシーの運転手でもやるべきだったのかもしれない。だが、そういった仕事は全て機械に置き換わった。奴らは眠らない。人間は眠る。眠「れ」ないと悩む人間もいつかは眠る。もしくは途中で倒れる。徒党を組んでストライキなんかも始める。そうした諸々を踏まえ、人間を働かせるよりは機械の方が都合が良いと、社会全体が判断したのだ。

「機械に仕事を奪われる」といった過去の人々の抱えた危惧は、半分は外れ半分は当たった。まず、人間の仕事はなくならなかった。世の中、探せばやるべきことはいくらでもある。タクシーの運転席から追い出された人間たちには、別の仕事が待っていた。雑用か虚業。つまり、機械を使う価値もないような、賃金が発生しなければ「仕事」とも呼べないような行為だ。これが当たった方の半分。

 一晩中雑用をするほどの根気が、俺にはなかった。だから虚業の方を選んだ。夜な夜な〈夢〉を編み、他人に売る「仕事」を。タクシーに人を乗せ、深夜の街を走り回ることより尊いとは思えないが、道に落ちた誰かの反吐を洗い流すよりは俺の性に合っていた。

 もし眠れるとしたら真っ暗闇の中で何も考えずに脳を休めたいと思うのは俺だけらしく、世の中には〈良い夢〉を見たがる奴が多い。己の欲望を満たし快楽を覚える夢、と言い換えることも出来るが。

〈夢〉という言葉が人工夢を指すようになって久しい。俺の小さい頃はまだ、夢は脳のデフラグメンテーションの産物として認識されていたと思う。それがある時、精神治療の一環として開発された人工夢に置き換わった。初めはトラウマを取り除くことを目的としていたものが、やがて精神に直接呼び掛け治療する手段へとなっていった。そこから派生する形で、日常の約四分の一を占める睡眠を有効に使おうと様々な種類の〈夢〉が現れた。数が増えれば玉の中に石が混じるのは世の常で、いかがわしいものも多分にあった。〈夢〉に没入するあまり戻って来られなくなる者も出てきた。

 今では認可事業者でないと〈夢〉を製造・販売することは出来ないし、それを頭に流し込むための医療用パッチも医師の処方箋がなければ入手出来ない。

 もちろん表向きの話だ。

 そうでなければ俺は今頃、望むと望まざるとに関わらずこの汚れた街の吐き出す汚れをせっせと拭き取っていることだろう。頭と指先だけを動かして食い扶持を得られているのは、ネットの公序良俗コードを掻い潜ってまで金儲けしたいと思う連中が仕事を振ってくるからだ。俺は〈夢〉を造り、連中が売り、どこかの誰かがそれを買い、上がりの一部(相当ピンはねされた末のごく一部)を俺が得る。ちゃんと循環が成り立っている。その輪がゴミ箱の底にあることに目を向けなければ、立派だとさえ思える。

 時計を見る。二時三十四分。見間違いかと思い目を擦り、もう一度見る。末尾の数字が「5」に変わる。夜は長い。そして寒い。

 この街で暖を取りながら長い時間を潰せる場所なんて限られている。数少ない選択肢の中から、俺は最も安価で消耗の少ないものを選ぶ。いつも通りの選択。落としたシンクの汚れ結局最後に流れ着く、排水口のような場所。

「よう童貞。そろそろ来ると思ってたよ」窓口から聞こえる声は合成音声のようで、チケットを差し出してくる枯れ枝のような手を見なければ相手が老婆だとわからない。「シート汚すんじゃないよ」

「とっくにカンストした汚れだろうが」俺はポケットから抜き出した四つ折りの紙幣を置き、代わりに二本指でチケットを挟む。そのままもぎりのいない改札へ投げ捨てることになるのだから、紙資源の無駄以外の何物でもない。

 ロビーの照明は薄暗い。雰囲気作りではなく、電灯が切れかかっているのだ。隅の方では明滅しているのすらある。いつか真っ暗になったら閉館するのかもしれない。俺は毛羽立ちくすんだカーペットの上を歩き、くぐもった女の喘ぎ声を目指す。分厚い革張りの扉を開ける。喘ぎ声が直接耳に入ってくる。

 スクリーンはほとんどが肌色で占められている。誰が何をどうやっているのか、ちゃんと目を凝らせばわかるのだろうが、そこまでの興味も集中力も持ち合わせていない。

 添加物のように誇張された喘ぎ声と本物の添加物のにおいの中を進み、入って一番手前、最後列の真ん中に身体を滑り込ませる。とりあえずは温かい。全身が解れる感はあるが、眠気はやって来ない。そんなものはこの世に存在しないとでも言うように。

 暇つぶしに場内を見回す。観客の頭を数えてみる。一、二。これでは確かにロビーの照明も換えられない。

 喘ぎ声に男の笑いが混じる。スクリーンではなく、客席から。それから不明瞭な呟き。寝言だ。或いはこめかみにどこかで手に入れた医療パッチを貼り〈夢〉を見ているのかもしれない。俺に飯の種を落としてくれている上客なのかもしれない。男は尚も「へへへ」と太い声で笑い続ける。

 俺は知らない男の寝言に耳を澄ませながら、ピンク映画を三本観る。外へ出ると、ようやく夜が明けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る