アンディプロローグ
@jealoussica16
第1話
「しかしな、アンディ。いい加減に、あの絵を狙っているわけを話したらどうだ?あれがただ、金になるからという理由だけで、おめぇが欲しがっているとも思えない。ならば、売り飛ばすのではなく、手元に置いておきたいからだと考えても、なにやら納得いかねぇ。お前には、絵心ってものがまるでないからな。あれはただの絵じゃねえってことだ。あの絵そのものに、お前は価値を見いだしちゃいない。何かあの絵の中に隠されている真実があるな。それを探りたいから。狙いはそこだ。暗号でも埋め込まれているのか?」
「ちょっと、黙ってて、くれないか」
「冷たすぎねぇか」
「もうすぐ、あの橋が開く時間だ。ユージン、用意はいいな」
「万全だ」
「話は、頂戴したあとゆっくりな」
「あの女が、横やりをいれなければ、いいがな。あいつは」
「静かにしろ、ユージン。茶番はもういい」
まだ、昨日出会ったばかりなのにと、ユージン・オカダは思う。たしかに、もう茶番は、やめだった。すでに、俺らが、何故、あの絵を狙っているのか、理由は確かにあった。目的は、おのおの違ったが。
昨夜もまた、アンディ・リーは行きつけのギャンブル店に、姿を現していた。
「よっ、アンちゃん。久しぶり。景気はどう?」
顔馴染みのドアマンに対して、アンディは笑顔で応える。相変わらず、余計な言葉は発しない。二週間しか、あいだが空いていないのに、久しぶりと声をかけられる。そういう世界だ。
店全体が見渡せる、いつもの座席に腰をかける。
VIPにしか入ることを許されていない特等席だった。
アンディが席に着くやいなや、サーブの若い女が、注文をとりにやってくる。
「水を頼むよ」アンディはメニュー表も見ずに応える。
「かしこまりました」女はアンディの前から姿を消す。いちおう形だけの儀式であることを。
店側の誰もが、了解済みだ。アンディは酒を飲まない。そればかりではない。ソフトドリンクの一切も飲まない。余計なものも食べない。ふと、斜め前の席に女がやってきて座る。女はアンディの方を一瞬向き、大きな鋭い目で、アンディに何やら合図を送ってきた。女はそれっきり、しばらくアンディに向き直ることはなかった。
こんなのは、日常茶飯事だった。
アンディはどこに居ても、女の方がアクションを起こしてくる。女だけではない。男も、動物も、アンディを一人に放っておくことはしない。足元にやってきては、ずっと離れずに顔をこすりつけ、ときには舐められることさえある。
アンディは、そっけなく猫を見つめ、とくに相手をすることもなく、かといって、邪険に扱うこともなく、彼らのしたいままにさせた。
女は、何度か見たことのある顔だった。アンディから声をかけることはない。
女は沈黙に耐えきれず、アンディの元へとやってくる。
「隣いいかしら?」
アンディは、いいとも悪いとも言わずに、女をぼんやりと見た。女のどこかの部分に、特別焦点を合わせることはなかった。言ってみれば、女の全体像に合わせていた。女を含むこの場面の全体を、このフロアの全体を、さらには町におけるこの店の全体を。
放っておけば、意識はどんどんと、広がっていくのだった。
「わたし、ミーラよ。加賀ミーラ。初めて見る顔ね、あなた」
女は握手を求めてきた。
「おもしろい」とアンディは一言発した。
「よろしく。加賀ミーラ」
女の方が、予想外の対応だった、一瞬、戸惑った表情を浮かべた。
「きみの方が、初顔なのに、なんという始め方」
アンディは、ちょうどそのタイミングで、運ばれてきたミネラルウォーターの入ったグラスを、彼女に向かって掲げた。
アンディ プロローグ
第一章 沈黙の森
「みえた」
「ほんとうか?」
「ああ。ほんの少しな」
「どれ、貸しな。その望遠鏡を」
「待て、って。そうか。あの部屋か。あそこにあるのか。ふふっ。了解了解。窓を開けて、今は掃除中ってことだな。おやっ。女の子が居るな。おい、ユージ。彼女の部屋なのかもな。母親か、お手伝いのおばさんと、話をしてるぞ。彼女の部屋なのか。そこに飾っている絵なのか。なるほど。ユージも見るか?」
「いいよ、女なんか」
「嫌いなのか?」
「そんなんじゃない」
「ほら、お前の番だ」
アンディは、ユージンと、場所を入れ換えようとする。
「ほんとに見なくていいのか?」
「ああ、構わねぇ」
「もったいねぇな。女嫌いなのか?」
「違うよ。時と場をわきまえているだけだ」
「今はふさわしくないわけだ。お前の中では」
「そうだよ。二つのことをやるほど、俺は器用じゃねぇ」
「そんな固っくるしく生きるなよ」
「自然体だよ」
「まあ、いいけど。その方が、俺にとっては、都合がいい」
「それより、いいのか?絵の偵察は」
「ああ。もう場所はわかったし、あの絵に近づく算段はついた」
「女だな」
「相当若いぞ」
「興味ないね」
「あの女を、お前と争うような気がするね。さあ、もう行くとするか。今日の仕事は、終わりだ」
ユージンオカダは、最後に一瞥だけ望遠鏡を覗き、そのあと肩に担いで、アンディの後を追った。
あなた、今日、相棒に合うわよと言った加賀ミーラを、アンディは、興味深げに見つめた。
この女が適当に言葉を発しているのではないことは、すぐにわかった。眼差しもまた、気まぐれではなかった。
「それで、どれが、相棒なんだ?もういるのか?」
アンディは訊いた。
「あれよ、あれ」
彼女の指が示す先には、唾付きの帽子を被った細身の男が、ルーレットの前に座っていた。
「ふーん、あれね。なるほど。ずいぶんと、近寄りがたい男だな。やっかいな野郎だ」
「そう思う?」
「誰が見てもな」
「あなたが見て、よ」
「どうだろう」
アンディは、加賀ミーラに向かって微笑みかけた。
「君も、相棒なの?」
「あなたの?」
「どうかしら。そう見えるの?」
「全然見えない」
「ふふふ」
「むしろ、逆だな」
「敵」
「そのとおり。じゃあ、ちょっくら行ってくる。いつも、来られるだけではつまらないからな。たまには先回りしてみるよ」
「変なひとね」
アンディはそう言って、ミネラルウォーターの入ったグラスを手にもって立ち上がった。
階段を降り、ギャンブルの聖域へと入っていく。高見席からは、女の鋭い視線を感じる。
その視線を強烈に意識しながら、自分の行動を見せつけるように、帽子の男の近くの椅子にさりげなく座る。
近づいてきた男を認識したことを、アンディは確認する。
男は言葉を発することなく、体もほとんど動かすことなく、カードゲームに興じていた。ぱっと見、それが何のゲームなのかは分からなかった。帽子を深く被った男は、左手だけをただ、機械的に前方に差し出し、カードを引き、そして表裏をひっくり返した。カードの表裏には図柄が描かれていたが、ひっくりかえしてもまた図柄であり、どれも両面に描かれていた。
帽子の男の、微動だにしない身体に目を奪われていたため、その左手のあまりに速い動きに、しばらくは気づかなかった。
それほど、男の周りには、静けさが漂っていた。
あまりの早業に、図柄が明確に読み取ることができない。
アンディは、椅子に座り直した。真剣にカードの面に集中しようとする。ディーラーもいなければ、対戦相手がいる気配もない。この男はただ、虚空に向かって、一人カード遊びに興じているように見える。ただの手品の練習をしているようにさえ見えた。あるいは、何の意味もない、ただのお手玉に興じているのかもしれなかった。帽子の男は、アンディに見せつけるように、さらに早くカードを引いたり出したり、ひっくり返したりを、繰り返していった。アンディは、その光景に陶酔していった。この男はとても普通には見えない。男の周りを見たかった。フロア全体を確認したかった。今、この場では、この店の中では、いったい、何が起きているのか。その全体を確認することなしには、この男が何をしているのかは、分かりようがない。そう思った。
男のしているカードゲームを見るのは、初めてのことだった。この二週間のあいだに、導入されたシステムなのだろうか。店独自に開発したものなのだろうか。あるいは世界のどこかで、すでに流行していたゲームをもってきたのだろうか。それとも、この男がかってに持ち込み、ただ一人でいじり倒しているのかもしれなかった。
このとき、加賀ミーラと名乗った女からの視線は、消え失せているように思えた。
彼女はすでにこの場を去っている。そう感じた。
あの女が起点となっていた。
その起点が消えた今、この歪んだ現実は、元に戻っているはずだった。
しかし、アンディにはわかっていた。起点は彼女ではなかったということを。
「なあ、あのカードゲームのことだけどさ」
「ムーンのことか」
「そういう名前なのか?」
「通称、ムーン。サン、アンド、ムーンというのが正式な名称だ」
「知らなかった」
「だろうな」
「結構、あの店には通っていたんだがな」
「俺は特別だ」
「なあ、あの話は本当なんだな。刑事が言ってた。何て奴だったか。あいつが言ってた、ラストギャンブラー・X 。やっぱり、お前のことなんだろ?ミーラが機転を利かせて、あいつを追っ払ったからよかったものの。じゃなかったら、お前、あいつに、取り調べを受けられていたんじゃないのか?話せよ。誰にも言わないよ」
アンディはしつこく食い下がった。
しかし、それに関しては、ユージンオカダは、口を開こうとはしなかった。
あの、最初のときの出会い。警察が突如、ギャンブル場に踏み込んでなければ、ユージに声をかけるタイミングを、見失ったままかもしれなかった。
ムーンという名のゲームを見せられ、アンディは忘我の状態のままに、刻々と時間は過ぎていたのだ。警察が踏み込み、ラストギャンブラーの任意同行を求める捜索が、開始された。警部と名乗る男に従えた警官二人は銃を構え、場内は騒然とし始めた。最初は、麻薬の取引の現行犯逮捕を狙った行動だと思われたが、ラストギャンブラーはどこだ。お前か。誰か知ってる奴は、手をあげろ。おい、店の人間も隠したら、同罪だぞ。もうすぐ、逮捕状が発行される。これは俺の温情だ。今、自首すれば、減刑は確実だ。俺があいだに入った事で、穏便に納めてやる。
お前の手柄にするだけだろ、という野次には、警部は全く耳を貸さなかった。
アンディには何故かその名指しされたギャンブラーが、この帽子の男であることを疑いもしなかった。もうすっかりと自分を取り戻していた。陶酔からは覚めていた。そのときだった。
不意に、女の声が高々と響き渡った。
加賀が高見席から降りてきて、警官二人の前に立っていた。その男は知ってるよ、と彼女は言った。その男、たしかにここにいたわ。この店にいたよ。残念ね、警部。ほんの時間差。入れ違いよ。私が来たときには、確かに居たんだから。知っているのよ、私。その男のこと。知り合いだもの。ほんとうか?警部の濁った低音が響き渡った。私の前の男だもん。なんだって!警部は、女の方に、全面的に身を乗り出した。今日も、ほら、さっきまで会話していたしね。待ち合わせていたのよ、私たち。もう付き合ってはいないけど、友達なの。彼が裏では何と呼ばれているのかも、もちろん知っている。なぜ、警察にマークされているのかも。いえ、警察だけじゃない。そうでしょ?あなたが一番よく知っているはず。いないわ。さっき、出ていってしまった。帰ってしまった。あなたが来ることがわかっていたのかも。すでに、警察の動きなどは丸裸。彼にとっては、すべて、お見通し。そうに違いない。そういう男なの。私の動きも見透かされている。だから、そう呼ばれているんでしょ?」
「ごちゃごちゃと、うるさい女だな。いないんだな。そういうことなんだな。それは、確かなんだな。身分証明書を出すんだ。重要な証言として、記録に残しておく。あとでまた、捜査に協力してもらう。いいな」
「構わないわ」
「じゃあ、そういうことだ。あとは頼む」
警部は、二人の部下に仕事を引き継がせ、皮肉たっぷりな歩き方で店を去っていった。
「ムーンて、ゲームはな」ユージは続ける。「丁半博打と一緒さ。図柄は月か太陽。そのどちらか。こう、様々な図柄が無数に存在するのだが、いってみれば、月と太陽の二種類に、すべては集約される。それ以外にはない。変わってる要素としては、表と裏が固定されていないこと。さらには、よく見れば液晶画面になっていて、図柄は一回、そのカードにおいて、ゲームが執り行われることで、リセットの意味もこめて、図柄がランダムに変わる」
「つまりは、プレイヤーが、カードに触れることでだ」アンディは言った。
「そういうことだ」ユージンは答える。
「しかしこれ、ほんとに、液晶なのか?とても素材はパネルには見えない」
その問いには、ユージンは答えずに先を続けた。
「図柄はすべて、月系か太陽系に分類される。どちらに所属するものなのか。それは誰が見てもわかるようになっている。あからさまに月や太陽が描かれていなくてもね。そんなことはないけど、たとえ図柄が描かれてなくとも。温度でわかる。実際にカードに触れたときの体感でもわかれば、視覚においても、暖かみとか、冷たさといった肌触りでも、感じとれる」
「俺が、気になるのは、だな。その速さだ。お前の手技。俺の動体視力も、相当なものだと思うが、それでも、よくは見えなかった」
「俺が、カードをめくった瞬間、そこですでに、一勝負が行われている。つまりは、手元にあるカード。これをキーカードといってな。このキーカードにおいて、自分が太陽側にいるのか、月側にいるのかの意思を示す。相手にな。機械だけど。システムに対してだけど。そして、平面上に散らばったカードの中から、一枚を選びとり、表裏をひっくりかえす。キーカードが月で引いたカードも月ならば、俺の勝ち。太陽ならば負け。単純なゲームだ」
「つまりは、キーカードを設定するのに、一行程。次に、カードを引くので二行程。それをあの速さで、延々と繰り返していたわけだ」
「そうだ。もし、キーカードを変える必要がなかったら、手元はそのまま、何もいじることはない。卓上のカードを引き続けていればいい」
「なるほどね。卓上のカードの枚数は決まっているのか?」
「ぴったり、64枚だ」
「なぜ」
「それは。開発者に訊いてみないとな」
そうかと、アンディは答えた。
「はじめに、10万出すことで、ゲームはスタートする。勝てば22万を受け取り、負ければ没収」
「悪くないな。やめるのは、いつでも?」
「ああ、昨日のようなことが、なければな」
ユージンは笑った。
加賀ミーラがあいだに入らなければ、いったいどうなっていたのだろう。
いや、別に、どうにもならなかったのかもしれない。この男は何の動揺も見せてなかった。警察に目をつけられているのは、日常茶飯事のことなのだろう。どう対応したらいいのかも全部わかっている。いや、対応すら、必要ではないのかもしれなかった。ただ座って状況を見ているだけなのかもしれなかった。
警察には、彼を逮捕することはできないのかもしれなかった。ただの脅しを繰り返すだけ、それしかできないのかもしれなかった。ただの警告しか。そして、そんな警告には、この男は露ほども気にかけてはいない。おそらくは、違法のゲームを続けていることで狙われているのだろう。このゲームにも、その片鱗が現れている。合法ではない。しかし、この男はおそらく、警察に踏み込まれた瞬間に、その存在を消すことが簡単にできる。証拠すら残さない。捕まることは万に一つない。あの店もグルなのだろうか。不思議とアンディにはそうは思えなかった。あの店が導入したゲームのようには思えなかった。常連の俺でさえ、目にしたことはないゲームだった。新しく入ってきたのなら、フロアマネージャーの男が、必ず勧めてくるはずだ。そういった様子はなかった。
アンディは、考えを巡らせていた。この男そのものに導入されている、特殊なゲームのように思えてくる。ディーラーもいない。対戦相手もいない。あの光景が甦ってくる。あまりに特殊な状況だ。すべてが、通常のあるべき光景から逸脱している。しかし、逸脱は、この男に会った瞬間ではない。加賀ミーラの登場でもない。ギャンブル場に入店したときでもない。そのずっと前であるということを、アンディは思い出さずにはいられなかった。
一週間前のことだった。
探偵業で生計を立てていたアンディの元に、奇妙な訪問者があった。依頼人だと名乗る男は、顔面蒼白で、皮膚は透けて見えてしまいそうに色素が薄く、存在感もまた希薄だった。怯えという物質を、身に纏ったまま気づかず、家の外に出てきてしまったように見えた。その内なる声が伝わってしまったのか。依頼人だと名乗る男は、いつも、こういう姿だとは決して思わないでくださいと言った。
「けっして、これが、通常の姿だと思わないで」
さっきまで、まるで存在感が希薄で、しかも色素もすでにこの世からは解離しているようだった身体に、はじめて血肉が通い始めたように見えた。
男は健康体そのものだった。今さっきまでの身体は何だったのか。
夢が細切れに入れ込まれているかのようだった。
「行方不明というのは、この僕。行方不明になるんですよ。この僕が。そう、これから。だから、あらかじめ、そうなったときのために、誰かに、お願いしておく必要があるんです。ほら。だって、僕が一人、勝手にいなくなってしまえば、捜索願いすら、いったい誰が出してくれるのでしょう。そういう話です。親しい人なんていないんです。まるで、孤独な、独居老人のような僕。いいえ。けっして、憐れむのはやめてください。これでも、快活に生きていますから。充実した人生でもあるんです。いや、そうでもないかな。五分五分です。そういったところも、まるで、普通の人と変わらない。憐れんではいけません。決して、特殊じゃありませんから。あなたと同じ。みんな凡人ですから。たいした差などありません。僕もあなたも、人並みに幸せです。そして、人並みに不幸せ。わずかに、どっちかにより傾いてるだけで。その時々でね。実に、人間というのは、瞬間瞬間で、その表情というものを、変えるものですからね。ねえ、つまらないですか?僕のはなし。でも、ああ、そうだ。依頼人は、僕ですからね、話をする権利はありますよね。一通り、概要を説明する義務もある。だってそうでしょ。そうしないと、あなただって困りますよね。今後の取り組むべき仕事に、支障が出る。もう少しで終わりますから、我慢してください。いや、それに、おもしろいでしょ?僕のはなしだって。ちょっと気が触れているかもしれないけれど。たいしたことはないでから。僕もあなたも、他の誰でも、そう。たいして差なんてないですから。我々、人間。特に、この精神構造に関しては、ほとんど同じ。まったく同じといっても、過言ではない。見た目の方は、けっこう違いますからね。でも、そういうのも、ほとんど、衣装にすぎないでしょ。すべては衣装。外面にすぎない。時代が変わっても、環境が変わっても、そんなのはただの、衣装のチェンジなだけで。中身はほとんど変わらない。それが、我々人間なんです。そうですよね?衣装というのは、つまりは時間のことなんですよ。わかりますか?時間というのは、衣装のことだったのです!僕はもう、ずっと人生の始まりのときから、そのことに気づいているんです!でも、なかなか人に言う機会がなかった。そう、ただチャンスがなかっただけで。いつも誰かに伝えたかった。いや、違うな。別に誰に伝えたかったわけでもない。たまたまです。今がたまたま。そう。僕はこんな話がしたくて、今日ここに来たわけじゃない!早く本題に入れと。そのとおりです。僕は脱線が大好きなんです!生来の性質かもしれないな。困った困った。いや、でも、それは、誤解です。これがまさに、本題なのですから!細かく説明させてもらいますよ。だってそうでしょ。あとから、説明を求められても困りますからね。そのときには、僕はもう、いないですからね。勘違いしないでくださいよ。僕は、あの世にいってるわけじゃない。行方不明なだけです。ですから、あなたがちゃんとした手順を、踏んでほしいだけなんです。あなたに、お頼みするんですから。あとは、あなたがやるべきことをやるだけです。あなたが直接探したっていいし、警察に捜索願いを出してもいい。誰か別の人間にさらに依頼したって構わない。とにかく、何らかのアクションを、してほしいということです。僕が、行方不明になったという現実を、事実として、確定してほしいだけです」
誰も、冷房のリモコンをいじっていないのに、部屋の温度はどんどんと下がっているように感じられた。
アンディは体の節々に痛みを感じ始めていた。風の兆候に似ていた。
「お願いは、それだけではありません」と男は言った。
「もう一つ。僕は書籍の原稿をいくつか書き上げているんですね。それをあなたに託したい。誰の目にもとまっていない、まったく日の目を見る気配すらない、原稿のね。もちろん、僕なりに出版社とかは色々あたりましたよ。けれども、まったく反応は芳しくなかった。僕が最後まで、責任を持つべきなのでしょうけど。しかし、こういった事態に陥ってしまえば、仕方がありません。誰かに託す以外にはない。知り合いや友達に無責任に願い出ることでもない。正式に契約したそんな相手が、この場合も相応しいと感じました。直接、あなたにお目にかかって、やはり信頼に足る人物ということも確認できた。この売れない原稿。いえ、商品とでもいいましょうか。まったく価値のない商品。あなたに売っていただきたいんです。あなたにはそういった才能もある。どんな商品であっても、売ってしまえる才能をお持ちだ。僕はですね、むしろ今日こうしてお会いしてそのことを強く感じたんですよ。もちろん、今日の案件では実はなかった。まったくの想定外なんです。ただ、自分がこれから行方不明になることへの危惧から、そのことを確定するための定点人物を見つけること。それだけが今日の望みでしたから。書籍のことなんて全然どうでもよかった。しかしあなたには、僕にそう言わせるだけの何かがあった。むしろ、あなたの方から、このことを問い訊ねたかのようだ。何か売り物をもってませんかと。私に差し出してみなさいと。あなたに起こる危機について、あなたの申し出はわかりました。なら、尚更、あなたの元に残ってしまう物に関して、今、整理しておかなければならないでしょうと。
さあ、何でも、あなたが持っているものを差し出してみなさい。私は物を売ることにかけては、一過言あります。あなたの悪いようにはしません。あなたにリスクは何もないのです。あなたの元に置かれていたとしても、それはまったく価値が発生することはない。誰も欲しがる人はいない。買いたいと言う欲求はどこからも発生することはないのです。
喚起させなくてはなりません。私に任せなさい。さあ、私は、人の中に必要性を喚起させることが、できるのです。たとえどんな物であっても。人が作ったもの、人が産み出した物ならば、何でも。例えば、あなたが何らかの拍子でこの世に作り出してしまったものというのは、たとえ何も意図してなかったとしても、あなた自身が必要としていたものなのです。あなたが自らそれを生み出した。ということは、その瞬間、その時点においては、あなたが必要としたものは、あなた以外からは、どこからも提供されることはなかった。それ以外に理由はありません。どこにもなかった。なければ自らが作るしかない。実に自然な行動なのです。この世に出現してしまったもの、すべてに、存在意味というのはあるものです。必要性から生まれているのです。ならば、あなたと同じ、あなたのそのときと同じような心境、つまりは欲求を、あなた以外の人が、抱いていない理由はないのです。売れないものはないという、その意味です。たとえば、そのあなたがお持ちのものは、今、それを必要としている人の手元に、渡ってはいない。ただ、そういうことなのです。ただのそれだけのことなのです。私は、別段、特別なことをしようとしているわけではありません。ごくごく、全うなことをしようとしているだけです。・・・そう、あなたは、僕に語りかけているような気がしました」
男は、不意に言葉を切った。男はそのまま沈黙してしまいそうだったので、アンディはその隙間にするりと入った。
「僕は、ご存じのように、探偵です。ビジネスマンじゃありません」
「同じことです」
「同じとは?」
「立派に商売をなさっている」
「需要があって、供給がある」
「ええ」
「でも、需要を喚起したことはないし、潜在的な欲求を喚起したこともない。そういったことは、一度もない」
男は、溜息をつくかのように、わざとらしく、大きく息を吐いた。
「全然わかってないんですね、あなたって人は。全然、何もわかってらっしゃらない。需要が、勝手に生まれているとでも?そんなこと、あるはずもない。あなたのところに、依頼にくる人間。あなた自身が、彼らに直接させているとは、確かに限りませんよ。でも、たとえば、あなたが、探偵事務所を開いたことで、潜在的な依頼の欲求を喚起させるということはある。むしろ、そっちの方が大きい。探偵事務所がなければ、何の依頼も、思い浮かばなかった可能性すらある。道を歩いていて、あなたの事務所の看板を見たことで、僕のなかに眠っていたその案件が、目を醒ましたという可能性はある。そうでしょ?潜在的欲求というのは、そういうことです。需要が先なのか、供給が先なのか。実のところ、それは曖昧で、むしろ、同時に発生するものだということです。ある種の始まりに」
アンディは黙って聞いているしかなかった。否定することもできず、頷いて相づちを打つこともしなかった。受け入れているわけでもなく、聞き流しているわけでもなかった。
ただただね我を失い、この部屋に居る二人の男の様子を、離れたところから見ているだけだった。
その探偵だという男は、今何を考えているのだろう。どう反応してねどういった行動に、出るのだろう。見守った。
「定期的に連絡をください」と男は言った。「いつか、そんな先のことでは、きっとないでしょう。連絡が途絶える瞬間が、必ずやってきます。そうしたら、捜索するか、捜索願いを出してください。連絡は途絶え続けます。僕は行方不明になります。それはもう、決まっていることなのです。でも、勘違いしないでくださいね。僕が自分の意思で、雲隠れするわけではありませんから。意思はこれっぽっちも関わってはいない。僕は行方不明になることなど、望んではいないのですから。ひっそりと人知れず、命を絶っているなんてこともない。僕に自殺願望はない。いえ、ずっと昔には、あったかもしれない。でも、そんなことは、もう忘れました。興味はなくなりました」
「ちょっと、いいですか?」
不意に、探偵だという男が話を遮った。
「第三者に狙われているんですね。心当たりがあるんですね。その人物は、把握しておく必要がある」
「第三者?」
「そういうことでしょ?あなた自ら、ということでないとすると」
「物騒なことを言うものだな」男は笑い始めた。
「僕が狙われてる?この僕が?」
男の笑い声は、次第に高くなっていった。
「この僕が・・この僕が・・?それは、滑稽だ。是非、そうありたいものだ。ひとから、命をねらわれてる?ははは・・・是非、そうなりたいものだ!この僕以外の誰かに、認知されている。そんな状況になりたいものだ。ははは。あのね、あなたは、何もわかってらっしゃらない。僕がいかに人嫌いで、誰とも関わりを持つことなく、生きてきたかということを。僕は、誰との接点もない、孤立した人間なんですよ。今現在、そう、あなたとしか接点はない。ほんとうです。恋人も友達もいない。両親も兄弟も親戚も誰もいない。調べてみればわかりますよ。この歳にして、すでに廃人になっている。人生が不意に終わってしまっても、何も不思議じゃない。そうなんですよ。不意に終わってしまうというのが、事実になるのかもしれない。不意に消えてしまう。実に的を得た答えかもしれない!
第三者など、誰もいません。僕に関わりをもってくるひとは、誰も。自ら失踪するわけでもない。原因はわからない。実態もわからない。ただ、不意に消えてしまうだけなのかもしれない。解明はあなたにお任せします。僕は知らないし、今この場でわかることでもない。いずれ、未来において、あなただけが知り得ることになる」
男は、机の上に、USBを置いて去っていった。
「だから、数十分で、何千万もの金が動いている」とユージンは言う。
「そうらしいわね」加賀ミーラは、タバコに火をつける。
「君には何でもわかるんだな」アンディは言う。
「さあ、どうかしら」
「で、お前さんは、どういった道理で、俺の遊戯の邪魔をするんだ?」
ユージンは加賀ミーラをじろりと見る。
アンディは初めて、帽子の唾先からわずかに覗いたユージンの瞳を、見た。
「邪魔なんて、してないでしょ。あなたを助けたのよ。あなたが警察に捕まるのを、阻止したの」
「ちっ。余計なことを」
「余計なことですって?」
「もう少しで、大台に乗ったのによ。お前は、俺の仕事の邪魔をした。この損害を、どうしてくれるんだ?どう償うのかな。わかったら、さっさと、俺の前から消えるんだ!」
ユージンは、単なる脅しではなく、本当に怒りをみなぎらせているように、アンディには見えた。
「まあまあ、お二人さん、そんなカッカしないで」アンディは、二人のあいだに入る仕草をした。
「お前も、余計なんだよ」ユージンは、アンディに言った。「何者なんだ。お前ら二人は。付き合ってるのか?」
「さあ、どうかしら」加賀ミーラは、煙を肺まで吸い込み、ゆっくりと時間をかけて、吐いていった。
「焼いてるの?ふふふ。かわいいのね」
ユージンもアンディも、何も答えなかった。
「そんなにお金を稼いで、いったい、どうするのかしら」
加賀ミーラが、独り言のように呟く。
「あなた、自分で好き勝手にギャンブルして、自分の思い通りに、自由に生きてると思っている。そうよね?すべて、自分の思い通りに、金を動かして、ゲームを動かして、店を支配して、この世界を、コントロールしている。あなたのその、能力の範囲で。いい気になってるんじゃないわよ。何にも知らないで。あなたは、あなたをとり囲んだ状況を、何もわかってはいない。何の注意も、払ってはいない。惨めな男。今、現在において、本当は、なにが起こっているのか。なにが起きているのか。起ころうとしているのか。少しでも、慎重に分析したこと、ある?私が、あなたの金儲けの、邪魔をしたですって?ほんとに、ただ、それだけの認識しかないの?ほんとに、そんなことしか思わないの?」
信じられないわねと、加賀ミーラは天を仰いだ。
そして、煙草の火を消し、アンディの方を向いた。アンディは、加賀ミーラのことをずっと見ていたため、目が合った。ミーラの全身は、オレンジ色に燃えているように見えた。にもかかわらず、顔の周囲、特に頭の上あたりには、青白い光が、憤りと共に燻っているように見えた。あなたはそうじゃないわよねと彼女がいっているように、アンディには思えた。
この女に見えていることは、俺が知覚していることを、遥かに凌駕している。
この女が言ってることは、非常に興味深かった。当たっているとか、正しいとか、そういうことではなかった。彼女の想像力の話なのかもしれなかった。彼女が今、感じていることを正直に表現しているのだろうと、アンディは思った。
そういった目線で、ずっと見ていたのだ。
加賀ミーラは少し、落ち着きを取り戻しているように見えた。そして、さっきよりも、何倍も低い声で、仕切り直すように声を発した。
「このムーンというゲーム。あなたが言っている、その賭け事以外にも、いろんな現実が紛れ込んでいるわね。あなたが一人で、プレーしているように見えて、あなたの動きに連動して、さまざまな勢力が、入りこんできている。この店もグルね。あなたは、自分が好き放題、してると思ってるんでしょうけど、店もそのことは、百も承知。そのあなたの行為を、逆手にとって、存分に利用している。ほら、あっちのテーブル。あなたのゲームに連動して、別の賭け事をしている。あなたが、月と太陽のどっちを引くのか。あなたをディーラーに見立てて、ギャンブルをしている。あなたが、何をしているのか。みな知っているのよ。そしてね、モニター。映像を、別の部屋に飛ばして、その映像を食い入るように、見ている人間もいる。この店の人間か、もしくは、別の人間が、入り込んで映像を盗んでいるのかもしれない。その部屋では、マインドゲームが行われている。知ってる?マインドゲームよ。つまりは、真相心理。人の無意識が、外にどう、反映するかの実験。その別室の人間は、何か、予想屋のようなものね。別のギャンブルの、着順予想をしているのかもしれない。あるいは、選挙なんかで、誰が当選するのか。どの株に投資するのか。いくつかの銘柄における、株価の変動を、予測しているのかもしれない。その予測を、あなたが引くカードに、投影している。そういうことって、よくあるのよ。何かをやるかやらないか決めるときに、花びらをちぎって、やるやらない、やるやらないって最後に残った方に決めるとか。うまくいくかいかないか。次の曲がり角で、最初に見た人間が男だったらうまくいく、女だったらうまくいかない、みたいに、自分で決めて、そして、起こる現象を待つ。ほとんど、適当でいい加減なことのように見えるけど、これって、けっこう当たるの。何故なのか。あらかじめ決めて、現象を待つっていうのが、ポイントだから。決定者の意識が、現象に作用するからよ。それも、無意識の方。真相心理の方が。だから、データや理性で決めることに、煮詰まったり、そうしたくないときには、そうやって、マインドゲームに丸投げした方が、遥かに確率がいい。そういったことにも、あなたのギャンブル行為は、利用されている。わかってるの?あなたは、色んなことに使われているのよ。あなたという存在は、丸裸なのよ。何も知らないくせに。まだ続ける?まだまだ、あるわよ!これは、その別室に繋がっている、監視カメラの映像を、電波ジャックしてる。占い師よ。ずいぶんと遠くまで、飛ばしている。別の国かしら。とにかく、あなたの引くカードのパターンから、相談者の運命を予測している。占いに転用している」
「もうよせよ」とユージンが大きな声を発した。
「もういい。けっこうだよ。帰ってくれ!もう二度と、関わらないでくれ。邪魔をしないでくれ。俺は、俺の好きなようにやるだけだ。お前には、何の所縁もない。これっきりだ。ここにも、二度と来るな。俺のほうが、ここは、御免だがな」
ユージンは立ち上がり、店を出ていこうとした。
だが、その瞬間、一発の大きな爆発音共に、それまであったはずの視界は、一瞬で吹き飛んでしまった。
異なる記憶
真夜中、アンディ・リー将軍の使者は、その白亜の豪邸に忍び込み、命じられていたバイブルの存在を探すべく、闇の中をさ迷っていた。
アンディ・リー将軍いわく、敵国にあるその書を手に入れれば、戦いは終わり、戦争には勝利するということだった。
すべての戦闘は終結すると、彼は言った。戦争はすべて結局のところ、このバイブルを巡る争いであり、その争奪戦以外の、何ものでもないのだと。だが、このバイブルを長いあいだ所有している貴族の系譜は、家の存亡をかけて、死守していた。その防波堤は、決して陥落することはなかった。なぜならバイブルを所有しているからだと、アンディ・リー将軍は言った。
バイブルには、戦いにおける勝者たる方法が書かれ、勝者であり続ける波動が、埋め込まれているのだと。皮肉なものだと将軍は語る。バイブルを巡って、世界は戦禍が巻き起こっているのに、そのバイブルそのものは、無傷であり、さらには、バイブルの所有者を、永遠に勝たせ続ける。わかるか?と将軍は使者に言う。これが、バイブルの秘密なのだと。争奪戦を引き起こすことこそが、物事の核心なのだと。バイブルが永遠に、守られる秘密なのだと。バイブルを欲する者同士が、争うことで、お互いを殺しあい、疲弊させることが、目的なのだと。
「それは、変ですね」と使者は言う。
「なぜ、バイブルを所有するものへ、戦いが仕掛けられないのですか?」
「さあね」
「そこまで、辿りつかないんですか?きっと、そうだ。山の天辺に、バイブル共々その家の者たちは存在している。まさに、天高くに地上を睥睨している人間たちだ。そうか。丸見えなんだな。よじ登ってくるのが。そしてよじ登ってきている別の勢力の存在に気づく。そして、争いになる。争っているというよりは、それは成り行きで起こってしまっている。仕方なく、戦いが行われている。でも、なんて不毛な戦闘行動なんだろう。それは、争奪戦にすらなっていないのだから。勝者がバイブルを手にいれられるわけじゃない。バイブルに触れることさえできない。ただの無益な戦争。あ、でもなぜそれだったら、共にバイブルを手に入れるべく、協定を結ばないのか。協力したらいいじゃないですか。一緒に山頂を目指せば」
そういい終えた瞬間、使者はあっと大きな声を上げた。
「そうか。そういうことか」
にやっと、アンディ・リー将軍は、不適な笑みを浮かべた。
「そうなんですね」
「おそらく、君の考えてることと、僕の考えてることは違うよ」
「えっ?」
「しかし、確かに、秘密はある。その秘密に辿りつかない限りは、どんな解決も生みだされることはない。よって戦闘行為は続き、戦争は起こり続ける。これは僕らのこの、ちっぽけな戦いのことだけを、言ってるわけじゃない。そして、今、世界中で起こっている戦乱のことだけでもない。今後にわたり、未来永劫、続けられる戦闘行為すべてのことを、言っている。君なら、わかるはずだ。きっとわかる。僕は戦いをやめたいから、戦いなどからは、足を洗いたいからこそ、こうして将軍になったのだから。将軍まで上り詰めたのだから。バイブルを極秘に手に入れるべく、それができる環境に、この身を起きたかったからだ。とにかくバイブルは手にいれなくてはいけない」
「しかし、将軍。おっしゃっていることは、矛盾だらけであります。バイブルを求めるべく、こうして我々も半世紀にわたって戦いを続けているわけです。直接的な因果ではない範囲まで、広げてみれば少なからず、同じ目的のために、人類は戦い続けているともいえます。バイブルを手にいれるためには、戦いに勝つ必要がある。話はそこからです」
と言った瞬間、使者はさらに、自分の発言に、自ら赤面せざるをえなかった。
何という思い込みなのだろう。自分のこれまで生きてきた中で吐き出した、すべての言葉を回収したくなる程であった。
アンディ・リーの機転で、三人は、惨劇の場から抜け出すことができた。ギャンブル場に現れた警官が、まだそれほど遠くに行っていなかったことも、幸いだった。
事故なのか事件なのか。多くの警官がやってきて、建物から離れた所から、消防隊員の消化活動を見守っている。危険物処理班もまた、鎮火後すぐに、突入できる体制を、すでにとっている。その背後から、アンディら三人は、事の推移を見ていた。
消火活動と共に、担架に乗せられた人間が、次々と建物の内部から運び出されていく。ああいった人間たちの一人にならなくてよかったと、アンディ・リーは思った。面倒なことに巻き込まれなくてよかった。おまけに、ユージンオカダのこともまたそうだった。警察に再び接触されることで、一番困るのが、彼のようだったからだ。しかし、本人は至って平静を保っていた。警察に対して、警戒心はまるで皆無のようだった。違法なことは何もしていないという自信からなのか。それとも、初めから開き直っているからなのか。捕まることには、何の恐怖心もないからなのか。ユージンの横顔を見る。この男は何に対しても、心を動かされる様子がなかった。燃え盛る建物を眺めている、その瞳。安堵の念もなければ、何が起こったのだろうと、思案している眼差しでもない。まさに、ただ見ているだけだった。それに比べて、加賀ミーラは何とこう、内なる心の動揺を、素直に表現してくれるのだろう。その素直さに、アンディは少しだけ、信頼感が生まれてきていることを知った。
面白い、と思った。この人間たちは、面白い。一緒に何かできないものか。何かを一緒にやり遂げたいと、そんな想いが、不思議と沸いてくるのだった。あとから知ることになるが、今回のことは、事故ではなく、事件であって、何らかの小型の爆発物による、爆発だということだった。
事前に、仕掛けられたものではなく、誰かが持ち込んで、そのまま投げ去った可能性が高いということだった。時限爆弾ではなかった。威力は爆弾にしては、さほど強いものではなかった。建物を破壊することはなく、人間を殺傷する能力も乏しかった。ただ、派手な音を出し、大量の煙を出したことで、大事になってしまったのだった。
ここのところ、世界中で、テロ行為が多発し、ニュースにならない日はなかったものだから、ついにここでもと、皆条件反射のように受け取ってしまったのだ。アンディも担架に乗せられた人間が、次々と運び出される様子を見て、膨れ上がる死者の数を、想像してしまったし、泣きじゃくる加賀ミーラを、慰める役割を得た自分に、少し酔ってもいたのだ。間一髪で、この三人を救出したことに、誇らしげにもなっていた。
なので、後日、死傷者が出てなかったことに対しては、不謹慎にも、残念な気持ちが沸いてきたのが、事実だった。
「あなた、何か、訓練でもしてたことあるのかしら?すごい対応力ね。あの場から出られたのって、私たちくらいなものよ、きっと。結果的に、みんな、無傷だったけど。本物の爆弾だったら・・・」
「当たり前の対応だよ。誰だって迅速に避難をする」
「私、あのときのこと、あまりよく覚えてないの。動転してしまったから。前後の繋がりだったりとか、その、順序。そう。順番が、よく思い出せない。流れ。物事の流れ。何がどうなって、それからどうなったのか。だから、あなたの指示による脱出も、瞬間瞬間のことが、断片的に記憶としてあるだけで」
「ぺらぺらと、煩い女だな。まったく、女ってのは、どうして、次から次へと」
「まあ、そう言うなよ」とアンディはユージンに言った。
最初の出会いの夜は、とんでもない喧騒になってしまった。その三日後だった。あらためて三人で会ったのだった。
「しかし、ユージ。よく来たな、お前。来ても、そんな口のきき方は変わらないみたいだけど」
ユージンオカダは、面倒くさそうに帽子を被り直しただけで、何も答えはしなかった。
「結局、何だったのかしら。怖いわ。私たちを、いえ、私を狙ったものなのかしら。そんな気がする。いったい、誰が。私のことを知ってるのね。私が、あの時、何を話したのかも、全部、把握していた。それ以上はやめろ。首を突っ込むな。口を塞ぐぞ。そんなふうに、言われているみたい。ねえ、アンディ。どうしたらいい?わたし、これから。ずっと見張られているみたいで、怖い。お風呂も覗かれているのかしら。どうしたらいい?あなたたち、ボディーガードになってくれないかしら?ねえ、冗談じゃないのよ」
「あの店の奴らだろうな」アンディは急に、真剣な眼差しになった。「俺らの行動も、言動も、すべては筒抜けだった。まさか、音声まで、そうだとは思わなかったが。しかし、奴らしかいない。自ら爆発させた。おそらく、そういった仕掛けが、元々してあったのだろう。人間を傷つけることをせず、しかも、店を破壊することもなく、ただあの時間、あの場所で、起こった出来事をすべて、ご破算にするためだけの装置。そんな気がする。
あれは、綿密に計算された、爆発だ。火がついたのも、あれは、爆発によるものじゃない。店の人間が、フロアではない、たぶん階段かどこかで炊いたんだ。水をぶちこまれてもいいような場所で。そうだよ。たしかに、俺らは狙われた。その前の警官の突入から、布石はあった。きっとあれで、奴らは、警戒感を強めたのだろう。そして、警官を退けたお前の行動。そこから、加賀ミーラに対するマークが始まった。しかしな」
アンディは、ユージンを一瞥する。
「お前のことを、全く知らないってことはないだろうな。そもそも、警察に垂れ込んだやつがいるんだ。お前の周りで、すべては起こっている。全部、わかってるんだよな?だからこうして、今日も来たんだよな?こう見えて、お前って男も、ずいぶんと、無慈悲ではないんだ。こうして、俺らのことを心配で、見に来た。そうなんだろ?全部、話してくれないか?何か、力になれることはあるし。この女にも、何か他の人間とは違う能力が、ありそうだ。力になれる」
バイブルに実態などない。まるで聖杯のごとく、そのバイブルそのものに、不思議な力があるように見せかけているだけだ。それは神話だ。こじつけだ。
しかし、こじつけもまた、繰り返せば真実となる。歴史にまで昇華すれば、ほとんど仕事は完了だ。はじめは、本当に、物理的な支配者になったに違いない。バイブルの存在など、まだない。小さな成功を重ね始めた勢力だ。
いつしか、ゲン担ぎの延長で、その本を、必勝のアイテムとして祭り上げた。
そして、勝つことと、本は、分かち難い存在に、共になっていった。常に、同じ現実に、状況にあり続けた。神格化は、その頃に始まったのだろう。そこまではいい。
その勢力が、自分たちの勝利のために、地域や、そこに生きる人間たちを、支配し続けるために、神話として、自らの武器として使い続けた。それは、いい。そうあるべきだ。
いったいどれほど、その勢力は支配者として、ある種、王として、君臨したのだろう。
どれほど、勢力を、大きくしたのだろう。時間と空間。この世を把握する、二つの基軸
だ。そして、どのタイミングで、その男が現れたのかは、わからない。その勢力を、王家
と呼ばせてもらう。王家は、衰退し始めていたのか。外部からの圧力が、強まる中、相対
的に、劣性にたたされ始めたのかはわからない。あるいは、さらに、支配地域を拡大しよ
うとしていたのかもしれない。それ以上の拡大は控え、より権力を磐石にしようと、し
ていたのか。それはわからない。その男は引退を考え、誰か別の人間に、その地位を移
譲しようとしていたのか、それもわからない。そのとき、何が、起きていたのか。起ころうとしていたのか。今となっては、誰にもわからない。
しかし、その男が、存在していたことだけは確信できる。その男が始めたことだ。
ある種、画期的なことだった。
まさか、その身内の聖杯を、外の世界に漏らすとは。
伝説化し、まるでその本こそが、覇者になれた唯一のアイテムであるかのごとく。
そのように仕立てあげた。うまい!と使者は思う。たしかにうまい。自分のところだけに納めてしまえば、それはただの験担ぎにしかならない。そして、いつか、その効力は失うときが必ずやってくる。もうやってきていたのかもしれない。本は、家の守護神としては、すでに通用しない現実が見えていた。
やはり、まだ、覇者としての現実的な力は、残っていたのかもしれない。
その力がまだ、あるうちに。そうに違いない。素晴らしいタイミングだ。験担ぎを公開し、いや、堂々と公式に、ひけらかしたのではない。誰かにこっそりと、漏らしたのだ。
噂を、掻き立てさせたのだ。そこが絶妙だった。秘密事項として、絶対に知ってもらいたくなかった事柄として、人々に情報として与えたのだ。それは、情報だった。さも、その本にこそ、地上を支配する力があり、それを得ずしては、覇者にはなれず。本を得たものは、確実に王となるべく、約束の地が確約される。そう信じさせたのだ。
それこそが、彼を、本物の成功者へと、変えた。そして、その本のありかにしか、力は存在しない。そうやって人々を二重に支配した。これで、彼の命が狙われるリスクを、低下させた。そして、彼の命を狙う者を、他の勢力が監視する、互いに監視させるシステムを、暗に作っていったのだ。
その男がどれだけ生きたのかはわからない。
しかし、その思惑は当たった。けれども、寿命を悟り、本の在り処を出汁に使った、部下や他勢力の支配の時代もまた、終わりに近づいていた。
後継者を指名しなければならなかった。誰かに移譲しなければならなかった。
そして、それは当然、自分の息子であった。
ユージンは、ただでさえ重いその口を、徐々に開き始めていた。
「たしかに、俺は、ばっちりとマークされていたようだな。あの爆破は。お前のせいじゃない。加賀だっけか。すべては、俺だ。巻き込んで悪かった。俺は、うまくやってるつもりだったが、すべては丸裸だった。おまけに、利用まで、されていたとは」
「私の言うことを、真に受けては、駄目よ」加賀ミーラは言う。
「いや、いいんだ。別に、真に受けてるわけじゃない。たしかに、それは、アリえると俺が思っただけだ」
「心当たりが、あるのだろう」アンディは、ユージに先を続けるよう、暗に促した。
「これは、俺の心の内なんだが」とユージは言った。「誰にも言っていないことだ。誰にも悟られていないことだ。俺が何故、ギャンブルを日々繰り返していたのか、ということだ。結局のところ、どうしたいのか。どこに行き着きたいのか。昨日、今日、これだけ稼ぎたいっていうのとは、また別の想いだ。常にあり続ける、最終的な地の話だ。誰の心の中にだってある。アンディ。お前が、たどり着く場所は、一体どこだ?どこにたどり着くと、思っている?意識していようがいまいがな、人は誰でも、たどり着く地というものが、ある。俺にとって、ギャンブルの行く末。なぜ俺が、ラストギャンブラーと呼ばれているのか。そう呼ばせているのか。さっきの話じゃないが、いろんなやつに利用されていることも、全く気づいていないわけじゃなかった。お互いさまだと、俺は常に思っていた。一人こうして、孤高の男を演じているのも、茶番であることを知っている。ギャンブルに関わるすべての人間が、緩やかに、いや、強固に繋がっていることも、知っている。なぜ、続けているのか。最後のときは、まだやってきていない。俺はずっと待っていたんだ。すべてを終わりにしたい。そういった意味を込めた、ラストギャンブラーなのさ。死に場所。ただ死ぬためだけに、俺はこうして、続けている。稼ぐためじゃない。本当はずっと探している。待ち望んでいる。すべてが壊れるときを。破壊されるその日を。こうして存在している、その状態が、消える日を」
「なあ、ユージ」
混濁としたまま、話続けるこの男の真意を、アンディは失いかけてきた。
アンディは、仕切り直しの意味もこめて、一呼吸置こうと思った。
しかし、ユージはさらに、混沌とした心の闇へと、突き進んでいってしまった。もう誰にも止めることはできなかった。
「違うんだ、ユージ。そういうことじゃないんだ」
「ラストギャンブラー。なぜ、そう呼ばせているのか」
ユージは、何度も繰り返した。
「伝説のギャンブラー。そう。アキラと呼ばれていた伝説のギャンブラーがいる。知っているか?アンディ。その男に、俺は、何としても会いたかった。アキラ。だが、生死の確認はされていない。ある時を境に、彼は、この裏舞台から消えてしまった。人間生活の表舞台に、逆に戻ったのかもしれないな。ふふふ。結構なことだ。それも、また。しかし、そうなれば、この世界では死んだも同然だ。あるいは、表舞台にも裏舞台にも、戻ることなく、本当に死んでしまったのかもしれない。ムーンというゲームもまた、彼が作ったものだ。彼はそう、自身がギャンブラーでありながら、いくつかのゲームそのものを作りあげ、残していくということで、その名を轟かせたギャンブラーでもあった。俺は、その男と会いたかった。面と向かって、二人きりで、同じ空間に居たかった。それが俺の望みだった。こうして、ギャンブル場を転々としているのも、そういったことが理由だ。彼を探している。なあ、アンディ。手伝ってくれないか?その女もさ。色々と、俺の運命を、読んでくれ。なあ、何のために、こうして、恥を晒してると思ってる?金や生活のすべてを、賭けるのも、もうたくさんなんだ。俺は勝ち続ける運命なんだ。才能がある。しかし、もし、肝心なところで、大きな勝負に負け、文無しになったとしても、それも、結局、これまでの生の世界の中の、出来事にすぎない。おんなじ世界だ。おんなじ生の世界だ。代わり映えのしない、生きとし生けるものの、世界だ。そこから逃れるために、捨て去るために、こうしたギャンブルに身を投じているというのに。破滅への覚悟と共に、生存しているというのに。ところが、たとえ、破滅に至ったとしても、あくまでそれは、同じ生の世界の中での出来事。次元は、いつになっても、変わりやしない。どうしたら。なあ、どうしたら。あの男は。あの男は。あるいは、知っていたのかもしれない。あの男はそうした、世界に行ってしまったのかもしれない。あの男だけが、いったい、どういった拍子に、行ってしまったのかはわからない。唐突に、予期せずに行ってしまったのか。前々から、計算していたのか。何もわからない。俺は、ただ、その男のことだけが知りたい。手がかりは何もない。ただ待っているだけだ。その男が現れるのを。その男が、唯一、この世に残していったゲームで、時間を潰している以外に、することは何もなく。お前は、関係あるのか?あの男に。何をしに来た?
もしかして、もしかして、あの男に頼まれた?俺を、呼んできてくれと」
クールなユージンからは、想像もつかない崩れ方をしていった。
この目の前の男に対して、アンディもまた、当初彼から訊きたかった何かに関して、完全に見失ってしまっていた。
息子は、さらなる発案をした。バイブルを移譲されたことは、もちろん公にも認めた。
しかし、いずれは、敵は結託して自分を殺しに来るだろう。拉致監禁、あらゆる手を使って、その本の在りかを白状しろと、脅してくることだろう。そして、情報を引き出したあとで殺される。ありありと、想像することができた。ならば、先手を打たねばなるまい。自らの防衛を、鉄壁にするだけでは、結局は、奪われる恐怖から逃れることができない。息子の心のなかに、「神格化」という言葉が浮かび上がってきた。バイブルに実態はなかった。神格化によって、価値が出現し、そして、権力へと昇華する流れが、できてくる。すでに、できているこの流れを生かすべきだった。神格化をさらに、推し進めるべきだった。バイブルが、我々の地上に住む人間の手に、届くところにあるのがいけないのだと、直観した。天上へとバイブルを放り投げ、そこに、無惨にも固定させてしまうべきなのだ。誰にも、手の届かないその場所に、君臨させてしまえばいいのだ。実態のない空間を、創出してしまえばいいのだ。そして、その空間を、さぞあるかのように見せ、そこに、野心ある欲望にまみれた人間たちの、意識を結集させる。天上へと、意識をそらすのだ。ここではない、我々の足元、我々の拠点、住居ではない、遥か空高い場所に。それは、バイブルを持った家だけが、たどり着くことのできる場所であり、持たざるものは、決して到達することはできないところだ。万に一つ、時代の変わり目にだけ、人類の意識の激変期にだけ、開かれるのだということを、仄めかせておく。
その、万に一つの、風穴に、意識を向けさせる。
息子は、人々への啓蒙活動に、勤しんだ。そして、不思議なことに、自分自身もまた、その創られた神話を、心底、信じ始めていた。バイブルは、現実に手の届かないところにあるだけでなく、我々人間の方が、本来求めるべきものではない。バイブルの方が、人間を選ぶのである。選ばれる人間がいるのである。そして選ばれたからといって、何も偉大なことではない。選ばれた人間、選ばれた家が、地上を支配する仕事を、与えられるだけだ。それは、役割であって、優劣ではない。それは仕事なのだ。苦難を、身に纏わらざるをえない、厳しい任務なのだ。息子は、その演説に酔っていった。何とすごい力を手にしているのだろう。そして、それならばと、バイブルに中身をもたらし、実態のあるものとして、後世に残していくのはどうだろうか。俺の名前が、人類史に残る。何と素晴らしいことじゃないか。
そして、親父や子孫にも、その栄誉は与えられることはない。何と恵まれた順番に、俺は位置しているのだろう。現物を作りだすのだ。一人で創出するのだ。何世紀もの時間が過ぎていき、この家が、覇者たる地位から陥落した、ずっとずっと先において、このバイブルは、人々に発見されるのだ。記録者はこの自分。家の歴史とは、全く異なるこの個人としての名を不動のものとし、後生に、絶大な影響力を残すことができる。
むしろ、そこからが、その地点からが、俺の人生の、本当の始まりだといえるのかもしれない。そんな想像に、息子は、有頂天になり続けた。
「実は、そのバイブルというのは、たくさんの複製が作られている」
使者は、そう聞かされていた。
そういうわけで、アンディ・リー将軍の使者は、その白亜の豪邸に忍び込み、命じられていたバイブルの存在を探すべく、闇のなかを彷徨っているのだ。
アキラ、アキラと、加賀ミーラは、頭の中で、その何の変哲もないありふれた人名を、繰り返していた。何かが引っ掛かる。ありふれすぎていて、逆に記憶に残った。そうだ。あのときだと、加賀ミーラは右手を膝に打ちつけた。
「あいつよ。絶対にあいつだ。あなたと同じギャンブラーなのよね?そうよ、きっと、そう。あの男よ。私も狙っていた絵画を、そのときのオークションで落としたのは。私が予測していたよりも、遥かに高い額で、競り落とした。おそらく破格だったようね。誰も勝負にはならなかった。ケイロ・スギサキの絵よ。凄い絵。あまりに、その絵に執着を持ちすぎていて、そのあともずっと、追ってしまっていた。ところが、あの男。すぐに、転売した。それより遥かに高い額に、昇華して。その絵のある場所。
私は知っている。大富豪の家。何の事業をしているのかは詳しく知らないけど、一代で成り上がった家。その男が、自分の孫娘へのプレゼントのために買った。子供のおもちゃじゃないのよ。ふざけるんじゃないわよって。私ね、ちょっと、その家を見張っていたことがあるの。子供といっても、もう二十歳くらい。真っ白で綺麗な、肌のかわいい女の子でさ。窓を開けたときに、その素顔を見たんだけど。あれは、家から出たことのないくらいに、白かった。病的に。病気なのかしらって、思った。でも、私なんかよりも、全然綺麗だった。あの子のために、祖父が買った絵。部屋の掃除をしているときに、窓が全開になってるときがあって、確かに、壁には、あの絵が額に入って、飾ってあった。本当に、素晴らしい絵。そしたらさ、そのアキラって男。屋敷に出入りしてるじゃない。何度か、見た。あの家と、その後も繋がりがあったみたい。もう、だいぶん前から、繋がりがありそうな雰囲気だった」
「ほんとに、あの、アキラなのか?オークションだって?何故そんな場に。何をしていたんだ?しかも、アキラって名前で?」
ユージンは、加賀ミーラに問い詰めるように、身を乗り出した。
「信じられないな」
「どう、受け取ってもらっても、あなたの勝手よ。ただ、実際にあったことを、今、思い出しているにすぎない。絵の買い付けをしているようには、見えなかったから、やっぱり、あの時だけなのかしら。屋敷の老人に頼まれて、断れなかったのかもしれない。いやでも、やっぱりビジネスよね。屋敷の老人が、あの絵を欲しがっていることを知って、それで、先回りして手に入れて、その男に売った。いずれにしても、あの屋敷の家が買い取って、その娘に渡ることは、確実だった。私の出る幕じゃなかった」
「ケイロ・スギサキって、名前」
今度は、アンディの頭に、その言葉が引っ掛かった。
「画家のケイロ・・・。そいつは、まだ、生きているのか?いつの時代の作家なんだ?」
加賀ミーラは、首を横に、三度振った。
「欲しかった絵なんだろ?作者のことは、何も知らないのか?」
「違うわよ。情報がなかなかないの。謎が多いの。公に、姿を現したことはないし、個人的な情報も、一切、公開していない」
「同じ時代なのか?」アンディが言った。
「絵もまた、ほとんど公開していない」
「なんだって」
「ほんとに謎だらけで。それでも、何年かに、一枚とか。こうして、オークションに出品してくるから、かろうじて実体のある者として、扱われている」
「年齢も性別も国籍も、何もわからないんだな」
「そういうこと」
「それは、それは」アンディは全く、興味が沸くことはなかった。芸術の一切は、自分とはまるで関係のない事柄だった。
「そういえば、あの、警察の男。刑事だと名乗った、あなたを捕まえに来た、あの店に踏み込んできた、あの警部。あの男もオークション会場に、居たような気がする。今思い出してきた。あの男、何をしていたのかしら。警護のため?何かを取り締まるために?制服は着ていたかしら。うまく思い出せない。でも、確かに居た。私服だったかもしれない。何かの事件の捜査で、紛れ込んでいたのかしら。それとも、プライベートで?そんなはずはないわ。絵を買いに来たんじゃないわよね。どうして、あそこに居たのかしら。わからない」
加賀ミーラは、そのときの記憶に苛まれながら、混乱をひどくしていった。
しかし、それを払拭するために、絵画の話に意識を移し、話を続けた。
「そうそう。その画家の話。ケイロ・スギサキ。思い出した。行方不明なのよ。そうだった。最近のニュースじゃないの。どうして、さっき思い出さなかったのかしら。そうよ。失踪したのよ、彼。男よ、男。まだ、意外に中年になりたてかその手前か。日本人男性。そうだった。どうしてそんな、大きなニュースのことを、忘れていたのかしら。彼ね。失踪する前に、自ら探偵のところに姿を現して、行方不明になった男の捜索依頼を、お願いしに来たんだって。その男ってのが、未来の自分よ。未来に失踪してしまう自分を、探し当ててくれって、そう頼みに来たって、話よ」
「それって、誰かに、狙われていることを知っていたからだよな。でも、変だよな。そしたら、未然に防ぐことに、対策を講じるはずだよ」
「そうなのよ」
「でも、そうはしなかった」
「そして、彼は、こんなことを言った。僕には、ほんの少し、未来を見る力があるのだと。そして自分が、この世からほんの少し、はみ出す時が来ることを、知っているのだと。それが、もうすぐそこにまで、来ていることも。誰かに、その事実を、伝えておかなければならない。知って、記録しておいてもらわなければならない。さらには、その現実がやってきたら、踏むべき手続きを踏んでほしい。僕はいないわけですから。誰か、僕以外の人が。公的な記録者として、動いてくれる人を望んでいるんですと」
まるで見てきたかのように、この女は話すなと、アンディは心のなかで思った。
しかし、そのケイロという画家の行動が、つい一週間前にうちにやって来た、芸術家と称する男と酷似していたこと。その対応に、この自分が当たったことが、甦ってくるにつれて、アンディは言葉を失い、身体は凍りつき始めていった。
真夜中、使者は、迫りくる恐怖と戦いながら、バイブルの在りかを、その書斎の中で探し求め続けていた。時計を見る。もうすでに、三時間が経過している。夜明けを考えると、あと一時間のうちに、屋敷を出ていかないと、外に抜け出すことは、容易ではなくなる。そう考えれば、すでに本を見つけて、ページを素早くめくりながら、内容を記録して、重要な箇所を何度も、読み直している状況でないとまずかった。
バイブルは見つからない。バイブルは、人間の手の届かない天上に存在するとしながらも、その内容は、地上の紙の上に書き留められ、そして製本された。それも複数。富豪たちは、我先にと買い求め、それは事実上、莫大な資金でその行方が決められた。
その後も、売買は断続的に行われた。そして今、その一冊は、ココにあるのだという。原本にしか地上を納めるパワーそのものはないのだという。しかし、その内容に関しては、僅かながらも、記載した複製が出回っている。それもまた、うまいやり方だと使者は思った。資金集めにも事欠かない。しかも中身に関しても、自在に自分らの家に都合のいい文言を、並べ立てることができる。彼らは、本が数多く出回らないよう、調整に余念がなかった。シリアルナンバーをいれ、公認本にすることも、忘れなかった。本物であるという証明書もまた製作した。
本は、証明書と、運命を共にすることとなった。ページをすでに、めくっている映像が、使者の頭の中を駆け巡っていく。何故ないのだ?蔵書は、闇のなかにあっても、すぐに分かるはずじゃなかったのか?アンディ・リー将軍は、そういっていた。異彩を放っていると。部屋に入れば、すぐにわかるのだと。本の方が語りかけてくるのだと。
君は、本の方に呼ばれ、導かれていくはずだと。探す必要などない。遮二無二に探索する必要などないのだ。それは、そこにあるのだから。いったい、どこを探せというのだ?わかりきったことだ。君が、その屋敷に潜入でき、書斎に辿りついたというその事実で、ことのほとんどは終わっている。本は探すまでもない。使者の頭の中では、将軍の言葉がぐるぐると回っていた。
しかしと、使者は苛立ちを隠せない。夜明けは近いのだ。早起きな人間であるならば、すでに、眠りは相当に、浅い状態となっている。こんな屋敷に住んでいる人間なのだ。老人に決まっている。使者は、部屋の中を行ったり来たりし、窓から外の様子を伺った。耳を澄まし、屋敷中に、何か変わった音が発生していないか、聞き逃すまいと、神経を集中させた。そこで、あることに、使者は気づいた。自分が本を探し当てることよりも、自分が侵入者として、誰かに気づかれるのではないかと、そのことばかりに怯えていたことを。この屋敷に入ったときから、ずっとそうだった。
早く、本を探し当てたいという気持ちもまた、ただ侵入者として、捕まることへの回避から、事を早く終えたい、その一心だったのだ。
こんな精神状態で、一体、何が見つけ出せるというのか。普通の本だって、見逃してしまう。
使者は、その雑念のループを見つめていた。ただ、見つめていた。さっきよりも、さらに、恐怖心は増大していっている。しかし、使者は構わず、見続けていた。夜明けはもう、構わなかった。開けてしまうのなら、それも仕方のないことだった。丸見えな状態になったとしても、仕方のないことだった。屋敷の人間に認識されようとも、もう構わなくなっていた。侵入している時点で、すでにアウトなのだ。何事も起こらずに、任務を完了することのほうが、幸運の極みだ。何が起ころうとも、使者はすでに、それが起こることを前提に、状況を作り直していった。すると、本を読んでいる残像が、再び鮮明に甦ってきた。もうすでに、それは為されたことなのだ。俺は、蔵書を探し当て、必要な箇所を抜き取っている。それ以外に、残像は、何も存在はしない。使者は、女に話しかけているのにも、気がつかなかった。本棚の最上段が、ほんのりと、柔らかな空間に変質したことを知っただけだった。薄れ行く意識の中で、何とかページを捲る自分がいた。眠いわけでもなく、気分が悪いわけでもなかった。目もしっかりと、見開いているつもりだった。しかし、両手で包み込むように持つ、本との距離は、どんどんと遠ざかっていくようであった。そうだ。それは決して、意識が遠ざかっているわけじゃなかった。距離が遠ざかっているのだ。しかし何故だろう。何故そのように感じるのだろう。両手はしっかりと、本を包み込んでいる。右手は、紙を捲り続けている。視覚にも、異常は見られないはずだった。だがうまく、紙上の文字を、読み取ることができない。はじめは文字がびっちりと書かれているように見えた書籍も、次第に、文字の輪郭が、背景に溶け始めているように見えた。何が起こっているのか全然わからなかった。
すでに、時間は気にしていない。夜明けを心配する自分もまた、いなかった。
正確に、バイブルを読み取り、記憶していく以外に、やるべきことはなかった。
しかしと、使者は思う。この遠ざかっていく感覚はなんなのだと。本を読み始めたから起きたことなのか。それとも、それとは関係なしに、自分に起こったことなのか。
だが使者は、書籍との距離が遠ざかっているだけではなく、屋敷に居るというこの状況そのものが、自分と距離を置きはじめていることに、気づいていったのだ。この空間が丸ごと、自分からは遠ざかっているのだ。
しかし、不思議だ。この空間そのものに、自分は含まれているというのに。
その空間が、自分から解離しているというのは、到底理解することができない。一体・・・。
次第に、文字は読めなくなっていった。物理的に。はじめから、読み取れてなどいなかった。解読など、できていなかった。確かに、見えてはいたのだ。けれども、今となっては、それが母国語なのか外国語なのかすら、思い出すことができない。絵文字だったのか。数だった可能性すら、否定することができない。しっかりするんだと使者は闇の中で、自分を励まし続けた。
何故かしら、闇は明けないような気がしてきた。闇は明けない。自ら、声に出してそう言ってみた。けっして開けることはない。何を心配していたのだろう。使者は笑った。嘲るように笑った。自分を笑った。この闇・・・。光のない、太陽の沈んだ・・・。まったく、バカだ。馬鹿な男だった。暗闇が明けるだって?再び、嘲け笑う。
そんなことが、今だかつて、あっただろうか。夜が明けた、なんていうことが。そんなことが。夜がやってきて、再び朝がやってくる。夜は、朝の予感を表現し、朝は昼の世界を暗示し、昼は再び。そのサイクルは、何度となく経験した・・・。それもまた、勘違いであることを、使者は知った。
夜は、明けたことがないのだ。
けっして明けたことがないのだ。明けたように、ただ見えただけだった。明けたつもりとして、そのように、自分に偽ってきただけだった。
ふと、その偽りが今、溶解したような気がした。これまで、自分はどこに、生きていたのだろう。どこの世界で、生きてきたのだろう。そして、そんな世界は、どこにもなかった。アンディ・リー将軍に命じられた任務によって、その幻想は溶け始めていた。
そうか。それが、この遠ざかっていく知覚の、正体かもしれなかった。
そうしているあいだにも、本は遥かに、自分とは離れていっている。
使者は、すでに、バイブルの中身を読み解くことを諦めていた。
せめてもの手段として、本全体を、その存在全体を感じ取ろうとしていた。
将軍への報告を、このときもまだ、考えていた。将軍を前に、無言でいるわけにもいかなかった。使者は、いまだ、屋敷からの帰還を可能に思い、任務を果たす可能性に、しがみついていた。これが、唯一の拠り所だった。ここに今存在している、最後の望みの綱だった。しかし、それも、時間の問題だった。本は、印刷された文字の溶解にとどまらず、本の構造そのものにも、次第に及んでいった。
本そのものが、溶けて消え、その周囲の大気と、くっつき始めているのだ。組成は解体し、新しい固体に凝血することなく、無音を語る。書斎にも及び、屋敷そのものに及ぶのにも、時間はたいして要さなかった。その存在の輪郭を、完全に失ってしまったときだった。
女の小さな声が、耳元で囁いていたのを、唯一覚えていた。次に目が覚めた時、その声の主を探したほどだった。女の声はこう言っていた。中身はすべて、別の場所に移されたのよと。あなたたちのような盗賊がやってくる前に、すべて。文字は書き換えられ、その文字は、今。別の形に置き換えられたの。私の部屋の絵よ。私を描いた絵よ。私の肖像画よ。
それは表向き。その絵には、暗号化されたモチーフが描かれている。それが本のメッセージ。
要約した伝言。
君はいったい・・・
その姿なき女は、屋敷の娘だと語った。
「私の祖父が指示したの。本を、すぐに、破棄するようにと。フェイクに作り替えろと。中身を抜け。そして、絵に作り変えろと。祖父は巨額のお金を投じて、ある絵画を購入した。と同時に、売れていない、無名の、けれども抜群に才能のある画家を雇い、そして、その男に、さらなる絵を加えるべく、上書きをさせた。祖父が変換した暗号を含んだ新たなる絵の具と共に。私の肖像画と共に」
使者は、その瞬間、繋ぎ止めていた自らの最後の輪郭を、失っていた。
今度もまたか、とアンディ・リー将軍は思う。
使いに出した男が、いつになっても戻って来ないことに、アンディ・リー将軍は、失望を通り越して、逆に安堵の気持ちを抱くようにもなっていた。
やはりそうなのだ。バイブルを得ようと命を出し、そして命を受けて実行へと移す者、そのすべてが、何の連絡もなしに、その存在を消してしまうのだ。
音信はなくなり、本人が帰ってくることもなかった。生きているのか死んでいるのかさえわからない。今度もまた、その事実を証明するためだけの、派遣となってしまった。
また無駄なことをしてしまった。尊い命を、無惨にも、捨ててしまったのだ。アンディ・リー将軍は、それでも、自らバイブルを求めるべく、探索をしにいくことはしなかった。
使者の道中に、いったいなにがあったのか、知ることは決してないだろう。自らが体験する以外に。
けれども、アンディ・リー将軍は、いまだバイブルを得ることを、諦めてはいなかった。
そもそもが、バイブルの本物が、どこにあるのかという話ではなかった。中身を写し取ったレプリカが、ほんのわずか、世界には流布しているだけだった。きっとそれが、原因なのかもしれないと、アンディ・リー将軍は思った。そんな、写し取ったといわれている、いや実際には、それすら不正確な情報である、偽物を、しかも誰かを使って、探しだそうとしているその考えが、浅ましかった。
すでに、時は来ていると、アンディ・リー将軍は感じていた。
軍における任務の片手間、趣味のごとき、このバイブル収集には、けじめをつける時が来ていた。もう誰をも、バイブル探しに駆り出すつもりはなかった。これまで使わせた人間は、今も誰一人、自分のもとには、帰ってきていない。それはまるで、自分という存在の一部が、切り取られ、消失してしまったかのようでもあった。分身が、日に日に、この身体から流失し、永遠に垂れ流されているかのようでさえあった。
エネルギーは、無駄に外への放出を続け、無意味に消費されていくのだ。死を量産し、その死は、再び、どこかで生き返り、いずれは、自分の生命を脅かしてくるような気がする・・・。これまで送ってきた使者のすべては、実は死んでなどいなく、この無意味な任務を言い渡した、自分に復讐するべく、集合して、結託して、その機会を淡々と、狙っているような不穏さを、刻刻と色濃くしているようであった。
次第に、アンディ・リー将軍は、眠れなくなっていった。
使者が、寝床を取り囲み、火をつけている姿が、浮かび上がってきた。彼らは、微動だにせず、この自分を見下ろしていた。表情はよく見えない。軍服姿であるのだけは、わかる。そんな程度だ。帽子を深く被っている。将軍が、激しく燃えていく様子を、静かに見守っている。男たちの体が、小刻みに、揺れはじめているのがわかる。笑っているのか、泣いているのか。その揺れは、次第に前後に大きくなっていった。炎は燃え盛っている。焼き付くしてしまっているかのようだ。灰になっているに、違いない。苦しまずに、死ぬことができたのだろうか。アンディ・リー将軍は、ここで、夢から醒めた。
醒めたつもりだった。悪夢は終わった。終わったつもりだった。夜中に見ていた、不気味な夢であった。
夜明けまでは、まだ、しばらくありそうだった。もうひと眠りしよう。そう思ったときだった。
将軍と、呼ばれた。リー将軍と。悪夢は終わってなどいなかった。
自分の肉体はどこにあるのか。闇の中で探した。
「ありませんよ、リー将軍」と心を見透かされたように言われる。
「ありませんよ、リー将軍。すでに、焼却してしまいましたから。ご命令のとおりに、させて、いただきましたから」
「ご命令?」
「そうです、リー将軍。今夜中に、ということでした。五十人でやらせてもらいました」
何を言われているのか、わからなかった。
「そういう命令を、出したのか?この私が、君たちに?」
別の男の声が、あとを、引き継いでいた。
「ふふふふ。それはどうでしょう。もしかしたら、そんな命令など、出ていなかったのかもしれませんね」
低い笑い声は、次第に、別の方向からも聞こえだした。
空間中に、響き渡っていた。反響していると、リー将軍は思った。
そして、笑い声は合唱のごとく、広がっていく性質の悪い和声を失ったハーモニーを轟かせていた。けっして、空には、突き抜けてはいかない、広大な世界には、伸びてはいかない、身体の周りにこもったままの、バイブレーションを、永久に続けるように。
その響きは、時間の経過と共に、強く、さらには不調和になり続けていくかのようだった。
「やめてくれ」とアンディ・リー将軍は、大きな声を出した。しかし、その声は何故かしら、男たちの声の一部のように、ただ合唱に加わっただけで、不調和に加担しただけだった。
加担という言葉に、将軍は自ら反応した。加担か。そうだ。確かにそうだ。この私の人生を、一言で形容してみれば、それは、加担以外の何ものでもない。調和に参加することを、加担とは言わない。私はただ、世界が不調和になるその行為に、加担していただけだった。
何も得るものはなかった。そういった事実を、私は、自らに伝えるために、ただそれだけのために、バイブルの捜索といった気まぐれを、引き起こしていたのかもしれなかった。
そのせいで、またさらなる犠牲者を、増やしていた。
「私は、もう、燃えきったのだろうか。どうして意識は、まだあるのだろうか。私は、これから、墓地に埋葬されるのだろうか。君たちに対して、申し訳ないという気持ちは、正直抱いてきたことはなかった。許してほしい。いかに、愚かな司令官であったことか」
アンディ・リー将軍は、すでに、自分が夢のなかにいるのではないことは、確信していた。これほど、鮮明な意識は、昼間起きているときよりも、強いくらいだった。
火は消え、笑い声は消え、しかし光は、どこにもなく、体もなく、ただ存在だけが、闇のなか浮かんでいる。いったい、どこにいるのだろう。何をしているのだろう。リー将軍は、次の指令を、どこにも、誰にも出せずに、時のとまった閉ざされた空間に彷徨い続けていた。
その絵は、バイブルと呼ばれている。V・I・B・L・Eよ。
加賀ミーラは、そう言った。
「なあ、アンディ。本当に、お前一人で、乗り込むのか?一人で、平気なんだろうな」
「仏頂面のお前が、よくそんなことを言えるな。じゃあ、お前が、一人で行けるのか?あの、お嬢様に近づいて仲良くなって、絵と、ご対面。ってところまで、すいすいといけるのか?悪いことは言わないから、俺に任せておけよ。俺らの目的は、一致しているんだ。あの絵だろ。あの絵が手に入ればそれでいい」
「別に、俺は・・」ユージは言う。「そこまでは」
「そうだったな」
「その絵を買って、転売した男のことが知れれば、それでいいんだもんな。そのギャンブラーの行方がわかれば。ほんの少しの情報さえ、出てきてくれれば。あとは、それを、お前が、広げていける。最初のきっかけが欲しいだけだ」
「お前だって、そうだろ。お前も、その行方不明の依頼に来た、男のことが知れれば、それでいいはずだ」
「俺はな、ユージ。俺の件だけだったら、何も絵など手にいれなくなって、いい話さ」
「どうだかな。それより、お前の本業が、探偵だってことの方が驚きだ。儲かってるのか?」
アンディは、その問いかけには、答えなかった。
「自分が、失踪することを予期して、その創作物の依頼だなんて、そんな馬鹿な話。聞いたことがない。しかもそれを受けたっていうんだからな。そして、その男と、これまた頭のイカれた女の言う話に出てきた画家の男が、異様に似かよっているだなんて・・・、まったく。とちくるった話は、もうこれっきりにしてくれよな。ごめんだよ。これが、全部、もし繋がっていたとして、ひとつの話に集約していくのだとしたら、俺はもう、お手上げだよ。煮て食うなり、やいて食うなり、好きにしてくれってこった」
「あの女、どう、思う?いい女だよな」
「どっちの女だ?」
「加賀って奴に、決まってるだろ。ああいうのが、タイプじゃないの?」
「趣味じゃねぇな」
「お嬢の方か?屋敷の」
「さあな」
「なるほどね。ああいった、病的な白さの女がいいわけか」
「病的かどうかは、わからない」
「白さにも、色々ある。けれど美しくはあるな。一度抱いてみないと。しかし、あのお嬢は、肉感が明らかに足らないよ」
「それも、脱がせてみないと、わからない」
「加賀ミーラのように、同じ白くても、むっちりとしていて、艶のあるほうが俺は好みだね。両方手に入るのだとしたら、その方が、もちろんいいけどな」
「どっちでも好きにしたらいい。俺の範疇じゃない。それより、どこで、接触するんだ?あの女、屋敷からは、ほとんど出ていないらしいじゃないか」
「大学は、夏休みだからな。学期が始まれば、出てくる。しかし、運転手付きの車だが。学校の門につけて、そこまでは、完全に外部から守られている。そして、門からは、守衛を伴って、教室まで行く。授業中は、特定のご学友しか、周囲にはいないようだ。昼食もほぼ、そのメンバー。クラブ活動は、また別の友人たちのグループだ。そのメンバーも固定されている。アルバイトをしている形跡はなし。コンパをしている形跡もなし。居酒屋にすら行かない。学校の外で食事をすることもない」
「ずいぶんと、厳重なこった。しかしよく、そんなことまで知ってるな。本職を発揮したってわけか。けっこうなことだ」
その男は、仲間の同僚の科学者から、マッドサイエンティストと呼ばれていた。
次第に、MSと暗に意味付けされるようになり、いつのまにか、勤務していた国立研究所からは姿を消していた。四十歳を目前にした頃だった。
その当時の同僚にとってみれば、すでにMSは、研究所の中の研究室の、さらにその内側に、特別に作った空間で、ほとんど引き込もっていたため、退職をしたか、別の期間に飛ばされたかしているのだと思っていた。MSの退職が発表されたときは、誰もがその存在に驚かされた。突然、闇夜から、とっくに消え去っていたはずの怪物が、再び姿を現したからだ。男は転職することなく、世間から姿を消した。友人も共同の研究者もいなかった。既婚者もいなく、子供もいなかった。親族もすでに他界していた。彼はそれまでに稼いだお金と、両親の遺産とを合わせて、巨額な資金をもっていた。男はその莫大な資金のほとんどを、自らの研究のためにすべてを投入した。命をかけて、有り金のすべてを張るギャンブラーのように。研究施設、その設備に投入した。周囲には、単なる豪邸のように映っていた。男は、今後の生活費のことには、まるで思考が及んでいなかった。家事のすべては雇ったひとりの家政婦に任せ、彼女に食事のすべてを作らせていた。MSは、自らの健康には、気を使っていた様子で、食費にはかなりの額を使うのを許していた。MSには、ひとつだけ、『当たった』研究が過去にはあり、特許料が毎年発生するため、その金で、今後のすべての生活費を、賄おうとしていた。やっと、念願だった自分だけの研究に没頭できる。男は大学院生の頃から、自らの引退の時を考えていた。いつどのタイミングで、表の世界から姿を消すか。その時からの逆算で、日々の世界のことを考えていた。そういった視線だけが、唯一、自分の人生をリアルなものにしていた。十年以上にも及ぶ、研究員生活のあいだには、必ずひとつの成功を持って帰ることを、自分に約束した。研究所に依存しない、その外側で、極秘の成果を、ひとりで挙げなければならない。
男は、普段の仕事のときには見せない、別の顔を、別の技術を、開発を、仕事以外の、ほとんどすべての時間を捧げて、打ち込んでいったのだ。
当然、男は、その極秘開発研究を、自分名義で発表することはなかった。男の意向を全面的に受け入れ、資金まで出してくれ、情報はすべて、外には出ない環境を整えた、全面バックアップ体制が、敷かれたのだ。男と、その組織の繋がりは、そのひとつの特許を獲得したときに、完全に切れた。それも、重要な両者の契約事項であった。その時点で、お互いに必要としていたものは、手にしたということだ。それ以上、関係を続けることで得るものは、両者にはなかった。関係が明るみに出てしまうリスクは、高まっていくばかりだった。きっぱりと関係は終わらせた。繋がっていた証拠は、何も残ってはいない。マッドサイエンティストと呼ばれていたのは、彼が仕事に対しての没頭具合が、他の研究員とは、まるでレベルが異なっていたからであり、その研究の内容もまた、人体や環境に危険な物質、危険な行為と、隣り合わせのものばかりに、懸命に取り組んでいたからであった。他の研究者が、しり込みするようなことほど、彼にはやりがいを感じるらしく、その姿からは、生命に関するすべての存在を、破壊しようと目論んでいるのではないかと、そう杞憂される反応を、周囲から引き出してもいた。
彼に対するあだ名は、そうして付いたのであり、彼の耳に入っても大丈夫なように、MSと緩い暗号をかけていたのだった。仕事仲間は、男が仕事で何を目指しているのか。究極的に、いったい何がしたいのか。成し遂げたいのか。誰にどんな形で貢献したいのか。まるで、聞いたことがなかった。次第に、男とは疎遠になっていき、まさに、その退職するというニュースが、突然舞い込んできたことで、彼の存在を思い出したのだ。
そういう兄がいるのだと、聞いたのは、二人ではじめて外出したときのことであった。
アンディ・リーと円藤らやは、二人で車に乗っていた。助手席には、今日はユージではなく、女性が座っていた。円藤らやを連れ出すのは、簡単なことだった。らや自身が、護衛付きの生活に、嫌気がさしていたからだ。難問はまだこれからだった。どうやって部屋に入れてもらうか。屋敷に招いてもらうか。らや自身がオーケーでも、家の人間は認めないだろう。兄が居たとはまるで知らなかった。調査した段階では、らやに兄弟など、いなかった。一人娘なはずだった。
「お兄さんがいたとは」アンディは、嘘偽りない感想を率直に言った。
「ええ、そういうことになってるわね。公にしてないのよ。だいたい、私、会ったことすらない」
「腹違いなのかな」
しかし、調査では、両親が離婚経験者であるという情報はなかった。愛人が居て、子供を出産したというような情報もなかった。
「実の兄弟よ」らやは言った。「血は完全に繋がっている。表向きにはいないことにしているって言った方が、正確ね。もちろん、そういうつもりで、生きてはいるけど。けれど、気になるのよ。特に最近になって。どうしてなのかしら。私の年齢の倍は、いってるって話。親だといってもいいくらいに」
「なんだか、先が読めてきたよ」
「学歴は高くて、国の研究期間に勤めていたらしいの。もちろん、正確な情報かはわからない。私が調べた範囲でわかったこと。でも、調べれば調べるほど、曖昧になってくる。そんな人間、存在しないんじゃないかって。おぼろげに輪郭が見え始めるときは、たしかに、実在の人物のようには見える。でも、それ以上に入っていくと、輪郭はするりと逸れて、それでも執拗に追うと、今度は観念したかのように、その場に静止して。捕まえようとしたときに、濃度を薄めて、そのまま気体となって、大気に溶解していくようにいなくなってしまう」
「それで、探偵に、依頼するしかないと」
「ええ。たまたま、通学のときに車から見えた、探偵事務所が、あなたのところだった。通学路には、あなたのところ以外にはなかった。ネットで確認したけど、そんな変なところではなさそうだった」
「選ばれて光栄だね」
「で、お金のことなんだけど」
「わかってるよ。すぐに、まとまった金を用意することはできないってことだろ。あんなすごい家に住んでいるものの、今回の行動は、やはり、内密にやっているって、そういうことでしょ?」
「必ず、支払うから。期間を少し、長く見てほしいの。私の定期預金から引き出すことのできるときを待ってほしい」
「大丈夫だよ」とアンディは言った。「力になるよ。俺はまさに適任だ」
予定外の出来事は続くものだった。まさか向こうから接触をもって来るとは思いもしなかった。そして、兄の捜索という余計な仕事まで、することになってしまったが、これも、あの絵を手にいれるためなら仕方がない。ユージに話したが、あいかわらず彼は、そっけなかった。驚きもせず、協賛することもなかった。何かあったら手伝ってくれよなとアンディは言った。女の相手以外だったら、何でもすると彼は答えた。とりあえずは、この兄という人物の正体を探ることが先だった。ユージにはそう伝えた。彼女の信頼を得るには、これを素早く片付ける以外に、なかった。はじめは、男女関係を築くために近づこうとしていたが、こうして探偵とクライアントという立場で、スタートしてしまった。その流れで、中盤までは行くしかなかった。その先で、当初の男女関係へと、さりげなくもっていくか。そのまま、探偵とクライアントの状態で、本丸へと流れこむか。今はどちらとも言えなかった。
ある画家の存在
ケイロ・スギサキは、この作品の製作が最後になることを知っていた。生涯に渡ってずいぶんと描いてきた。今は、専属の美術館にすべてが保管され、そのほとんどが展示されている。世界では例を見ない、ビルの一棟丸ごとが、ケイロの作品で埋め尽くされている。あるいは、場合によっては、ルーブルにも匹敵する程の広さを誇り、もちろん一人の作者からなる世界としては、最大級のものかもしれなかった。
ケイロは初めから、そのような試みとして、美術館を与えられた画家であった。
画家としてデビューしたときに決められた、特別な事柄だった。生涯に渡って描き続け、そのすべての作品を美術館に贈呈する。そして、美術館が展示、保管、貸し出し、すべての業務を担当すると。ケイロの作品は、国内に限らず、海外にも多数、期間限定のレンタルという形で旅に出ていった。いずれは、ケイロ・スギサキ美術館に、かえってくることが決められていた。その契約内容は、公には公開されていないため、いつ戻るのかについては我々の知りえることではない、ということらしかった。
アンディ・リーは、この画家の調査も始めていた。ケイロ・スギサキはそれが遺作になることを知っていた。自らの生命が、すでに終わりに差し掛かっていることを知っていた。
バイブルというタイトルはすでに決まっていた。彼の作品のほとんどは、製作後に付けられることが多かったので、これは珍しかった。製作後、何年経っても、タイトルが不在であり続けることもあった。バイブルの製作期間は、10ヶ月だ。比較的、ケイロは描くのが早かったそうだから、この最後の絵は、異例の長さだ。一枚の絵にかける時間ではなかった。ケイロが晩年、体力の衰えを訴えていたという報告はない。残り半年の命となった時に、急速に弱っていったということは、もちろん考えられる。それについて、家政婦の女性のコメントは出ていない。ケイロは、86歳。結婚歴はなく、26歳のデビュー以来、途切れることなく作品を発表している。噂になった女性は数名。交際期間は不明。生涯にわたって、パートナー関係にあった女性が、いるとも伝えられているが、真相はよくわからない。特定の女性にこだわることなく、たくさんの友人関係の延長戦上での、交際を好んでいたという話もある。ケイロは、デビューしてから、十数年は、ほとんど人前には姿を見せず、アトリエにこもって、製作を続けていた。しかし、40を手前に、突然そういった生活スタイルをやめ、ほとんど、タレントか政治家と間違えるほどに、彼の生活の表裏は逆転してしまっていた。外に居て、姿を晒しているのが日常で、たまに絵を描くために人前から姿を消す。そういった生活に一変していたのだ。メディアにも頻繁に出ていた。海外への渡航も増えていった。ある時期などは世界中を回っていたことすらある。その頃、彼は、英語を身に付けたらしく、インタビューにも流暢に答えられるほどに上達している。飛行機での移動も多く、ホテルに滞在することも多かった。そのあいだも、彼は絵を描き続けた。途切れることなく。彼にとっては、どこに居ても、絵を描くそこがアトリエであった。もちろん、その辺でいきなりキャンバスを立てて、絵の具の準備をするわけにもいかなかったが。専属のスタッフが常に同行していて、屋内のスペースを、即刻借りきることで、急遽、特設のアトリエを拵えることも多かったという。そこでは準備を終えたスタッフは、ケイロと入れ替わるように退出し、彼はそれから何時間も食事もせずに、製作に没頭するのだ。即席のアトリエという意味で、ケイロのスタッフたちは、「透明のアトリエ」と呼び、いつでも、ケイロのそばに突然現れては、消失していった。ケイロは、世界中で描き続けていった。ケイロは言っている。世界の様々な場所で描くことを、最初から考えていたのだと。どこでだって描くことができるからこそ、その場の特有な波動のなかで、その瞬間にあるべきものを、描く必要があるのだと。そして、いずれは、その作品たちは、ひとつの場所へと集められ、そこに永久に飾られることになる。異なる波動同士が、一ヶ所に、それも、とても近いところに置かれることで・・・。
そこで、突然、コメントをやめてしまう。彼にはそういうところがあった。海外で英語のインタビューをうけているときも、突然、流暢だったはずなのに、言葉に詰まるとか、思案するといった具合ではなく、何かに絶ち切られるかのごとく、ぷつりと言葉の放出をやめてしまう瞬間があった。アンディは、ここに注目した。この途切れるといった現象を集めろと、調査会社には指示を出した。アンディの探偵業務は、外注が多かった。アンディは表向きは、一人ですべてをこなしているように見せていた。ケイロ・スギサキは移動中や、仕事と仕事の合間、人と会っている最中もまた、常に、絵の製作を行っているようなものだった。キャンバスに向かっている時間は、画家としては非常に短かったが、彼はアトリエに入ってから悩むことがまずなかった。筆をもってから、躊躇するようなこともなかった。迷いはなかった。彼は、キャンバスに向かうときは、すでに、エネルギーを放出する寸前であって、その高まりのないときには、そもそも、アトリエの準備の指示を出さなかった。絵の準備、つまりは、スケッチや構想のメモなどは、アトリエ以外でやるものだと決めていたらしい。それこそ、周りに人がいようがいまいが関係なく、どんな喧騒の中であっても、彼は一人静寂を保ち、何の影響も受けずに作業をしていたらしかった。
なるほどなと、アンディは思った。そして、アトリエには誰も人をいれることはなかった。そのアトリエの外側は、喧騒な環境なこともあった。しかし、アトリエには必ず一人で入り、防音に対しても、繊細な指示を出した。アトリエはすべての五感を排除することを念頭に作られ、つまりは、ケイロ以外の感覚が全く入らないように準備された。ケイロは、アトリエの中でのことは、何も語らなかった。その前後のことなら、何でも答えた。そのスタイルを崩すことはなかった。
四十前にかと、アンディは思った。四十を境に、拠点を外側へと変えた男。そのまったく反対の男も知っていた。四十を境に研究所をやめて、ほとんど行方不明になってしまった男。なぜこのタイミングで、この二人の男が、俺の前に現れてくるのだろう。しかも、両者とも、生きていない可能性すらある。ケイロ・スギサキは、89歳で死んだことになっている。マッドサイエンティストの方は、これから探しにいくが、生きている保証はない。バイブルの製作に関する発言の、調査報告書を読み込むことにする。アトリエにこもった期間は、十ヶ月。アトリエに滞在した時間は不明。家政婦の証言は、得られていない。しかし、バイブルの絵を研究している専門家は、一様に、その作品への傾倒の仕方が尋常ではなかったことを指摘している。重ね塗りは、もちろんのこと。何度か火をつけて、燃やしている形跡すらあった。水に浸している。あるいは、極度な温度の低下。凍結を起こしている跡もある。塗料に関しても、金粉をふんだんに使っていながらも、生物の繊維や体液などが、混ざり合っているとも考えられ、これだと確定させる要素が、あまりになさすぎると口をそろえる。何かを確定させようとした瞬間に、絵がそれを許さない。別のところに意識を逸らされる。それでいながら、その新たなる場所に長居をさせない。イメージが固定させることを嫌う。そうした、掴み所のない点から見ても、相当に手がこんでいるものであり、製作時間もまた、計り知れないのではないだろうか。作者における無数の構想が、構造へと変換されて、大量に急速に重ねられることによって、分析することのできない多重世界が形成されている。そのことだけは、はっきりとわかると研究者は語っていた。
結論は、十ヶ月という製作期間は、非常に短いということだった。
エネルギーもまた、無限に投入されていると考えるのが、しかるべきであり、この作品を完成させることで命が費えてしまったと考えて、何ら不思議はないという。そんな末尾のまとめ方だった。
ケイロ・スギサキは、確かに、バイブルを最後に、亡くなっていた。本人もまた、事前に予告していた。文書にも残していた。しかし彼は、まったくの自然死ではなく、自殺であった。健康そのものであったこの老人は、作品の完成と共に、自ら死を選んだのだと。公式な見解は、そうであった。アンディは、バイブルを目の前にしたことがなかったのでわからなかったが、何となく、自殺という線は、非常に薄いような気がした。やはり、この老人は、想像もできないくらいに、途方もないエネルギーを自らの内部に生み出し、そして絵に投入したのだ。自分の力を、遥かに凌駕した、力を起こすために、いや起こしたために、自分が犠牲になってしまった。文字通り、生命と引き換えに産み出す作品であることを知っていた。長いあいだ、その時を、望んでいたのかもしれなかった。やっと、そのチャンスが来た。キャリアのすべてを、残りの寿命、重ねてきた過去、残った未来、すべてを、今この瞬間に結集させることで描いてきたケイロだったが、そのわずか未来においてついに待ち望んできた、つまりは画家になった当初からビジョンとして描いていた、最初で最後のときを迎えていたのだ。
何も想い残すことは、なかったに違いない。
画家になった時というよりは、この世に彼が生まれた時に、もっとも強く望んだ情景だったのかもしれなかった。
その瞬間、彼はどんな状態だったのだろう。アンディは、心からそのときのことを知りたいと思った。アンディは、今、自分が何故、ケイロ・スギサキに意識が向いているのか。そうなった成り行きのすべてが、しばらく消え去っていることに気づいた。
「ずいぶんと、久しぶりじゃん。元気?警部?」
その馴れ馴れしい口調は、初めて会ったときから同じだった。
「いつまで、警部って呼ぶんだ?」
「いつまでもよ。私たちの縁が切れるまで」
テルマは言った。どっからどう見てもと警部は思う。女以外の何者にも見えなかった。
声だって、言われてみなければ女のそれだし、男だと意識しなければ、彼女より低い声の女には労せず出会える。テルマという名前は、本名ではなかった。彼女は仕事柄、ずっとそう名のっていた。本名を知ってからも、警部は変わらずエルマと呼んだ。彼女を逮捕したときから、不思議と、昔からの知り合いのように思えた。
「あいつは、まだ、来てないのか?」
「史実家さんかしら」
「そうだよ。その史実家さんだよ」
「ちょっと遅れるって、言ってたわ」
「どうして、名前で、呼ばないんだろうな」
「本名なんて嫌い。もう、その話はいいでしょ」
テルマは親しい間柄の相手には好意を込めて、その人間の職業を名前として代わりに呼んだ。
職業が被る場合は、どうするのかと思いきや、それはいろんな呼び方があるものだなと、感心させられることもあった。
とりあえずは、警部という名で、自分は呼ばれている。
「仕事が、長引いてるらしい」
「長引いてるって、自分で勝手に切り上げればいいじゃないか」
「そう言わないでよ。わかってるでしょ?あなたの仕事とは違うの。文章を書くっていうのは、からだの内側から沸いてくるものなんだから。ちょっとくらい、待たなきゃ。待つのも仕事でしょ、あなたの」
「待ちくたびれることだらけだよ」
「張り込み?」
「ああ」
「薬?」
「じゃないよ。賭博」
「違うんだ」
テルマは、違法ドラックの所持で逮捕された。そのときに出会った。使用は認められず、転売もまた確認できず、さらには入手先の解明もできなかった。
テルマはただ、その薬を、どういうわけか持っていただけだった。彼女の供述は明確だった。まるで、そんなものは知らないということだった。自分のものではないという主張を、終始繰り返したのだった。彼女は一人で賭博場に来ていた。賭け事は何もせずに、ひとがやっているのを見ているだけだった。彼女の目的はギャンブルではなかった。そこに来る男に性的なサービスを提供する、娼婦のような役割だった。店に雇われる形で、そこに待機していた。自ら相手を物色することもあった。テルマは、張り込みで来ていたこの自分を、警察の人間だとは思わなかった。彼女から声をかけてきたのだった。本当に、彼女が薬とは関係がなかったのかどうかは、今となってはわからない。俺の目には、しかし、嘘をついているようには見えなかった。テルマには、何故かしら心を牽かれた。男女関係ではない友情のようなものを感じた。彼女という実態には、その中心にどこかしら清らかな何かがあった。警部はそう思った。その部分だけでいい。その部分だけを共有してみたい。警部は自ら、今度は釈放された彼女に近づいていったのだ。
それ以来、こうして飲み仲間として続いている。彼女は逮捕以来、売春のようなことからは足を洗い、ホステスとして働くようになった。心もからだも、女性に転換していた彼女だったが、交際している男の存在はなかった。これまでも、男とは付き合ったことがないのだという。男と寝たこともないのだと言う。どうして身体まで変えたのに、という意見には、明確な答えは返ってこなかった。性転換する、遥か前に、一度だけ、女性を抱いたことがあるのだと言っていた。いまだ、その女のことしか、本気で好きになったことはないのだと、テルマは言った。二人は当然交際していた。しかし、その初めての性交渉の後で、テルマは、行方をくらませてしまったらしかった。もう二度と、彼女とは会わない決意を固めていた。
仕事をやめ、街を出て、携帯電話の番号を変え、そして、性別まで変えて、物理的にも精神的にも遥かに遠くへと、逃避していった。
警部は、テルマの話を真剣に聞いた。もちろんすべてが、事実だとは思わなかったが、このときもまた、ストーリーそのものよりも、それを話している彼女の奥にある、中心の震えのようなものを感じ取っていた。ほとんど話など聞いてなかったのかもしれない。ただその震えだけに、同調していた。テルマはそのときの性交渉を、生涯忘れないと言った。いや、生涯どころではない。何回生まれ変わってきても、体験することのできない出来事だったと語った。確信したのだと。だから、それを、その瞬間を、何としても保存したかったのだと。誰にも、理解されることはないだろう。自分はおそらく、間違っているのだろう。でも、間違いを犯す人生のいったいどこが、悪いことなのだろう。生涯が、この瞬間のために存在していたって、何もおかしいなことではない。
テルマの支離滅裂ながらも、何故か熱のこもった言葉に、警部は真剣に耳を傾けた。
こういったタイプの人間は初めてだった。その逆の人間など無数にいた。ほとんどがそういう人間だった。取り繕い、ふわっとしたような正しいことを、どいつもこいつも述べやがる!それでいながら、心の奥にある震えは、まったく冷えきっている。嘘などついていないのに、存在そのものが嘘極まりなかった。職業柄、特にこの手の人間に出会い続けた自分は、テルマのような人間が新鮮だった。きっといつか、彼女に助けられることがあるだろうと思った。そう感じた。だから、あのとき、執拗以上に彼女を助けるつもりで、釈放への算段を、取り付けていったのだ。彼女が事件とは関係ないことを、必死で裏付けようとした。グレーゾーンを極めることで、彼女を早急に、解放することを望んだ。そして、テルマもまた、そのような警部の熱情を受け止め、理解には至らなかったが、そこにある何かに興味を抱いたのだった。二人はすぐに、意気投合した。今日もまた、何を特にしゃべったわけでもなかったが、ただ一緒に傍にいるだけで、仕事の疲れもすべて、吹き飛んでしまっていた。現れないラストギャンブラーを、半永久的に待つこともまた、テルマとの息抜きがあるからこそ、実現可能なことのように思えた。
結局、この日、もう一人の友人は、姿を見せることはなかった。
史実家は、時計をちらりと見た。深夜はすでに十時を回っている。この調子だと、簡単に十二時は越え、さらには、二時過ぎには、佳境に入っていくことは明白だ。
テルマに電話をし、今夜は行けそうにないことを伝える。久しぶりに警部にも会いたかった。しかし執筆は、予期せぬ沸き上がり方を見せていた。現代の聖杯、バイブルを巡る争いのシーンへと、突入していた。現代といっても、正確に言うと、もう少しだけ未来のことであった。
ちょうど、史実の記述が終える辺りで、時間の帳尻は合う。雑誌に発表する頃には、ちょうど、そういった現実になる。過去に起きた、歴史的な出来事を後世のために書き残す、すでに起こってしまったことを、後になってから、回想的に書くのであれば、歴史家になってしまう。史実家は、それとは違う。史実家とは、まさに、ライブ感覚なのだ。その場に実際に居て、体験したかのように、( 実際には体験するのだが) そういった文体で表現するのが、真骨頂であった。災害が起きたときなどの、緊急事態に、素早く現地に直行する報道機関の人間のように、その早急性が、非常に大事なのだ。さらには、報道期間とは違い、起きたあとにどれだけ素早く動いても、駄目なのだ。ほんのわずかでもいい。一瞬でも起きる前に、事が起きる前に現場に到着し、事が起きる前に、これから起きることを凝視し、記述しなければならないのだ。そして、実際に起きたときには、すでにそこにはいないという状態に、しておかなればならない。起きたときには、そこにはいない。それが史実家なのだと思った。そして、その記述は、時間が経って起きたことを振りかえってみても、まるでズレてはいない。そして、起きたことよりもさらに、正確に記録している。時間が経てば経つにつれて、どんどんと、現場の時空から遠ざかっていくことで、何故か、その記述の方が、さらにもっともらしくなっていく。現実を記述しながら、現実を遥かに越えている。歴史家とは違う。事実を記すのが、目的ではないのだ。その事実が起きた、背景とも言うべきか。しかし、背景そのものを、書き写すのではない。それもまた違う。何と言ったら言いのだろう。背景もまた、一つの要素に過ぎなかった。実際に起きたこともまた、一つの要素にすぎなかった。すべては、要素にしかすぎなかった。すべてを総合的に集めて、ある瞬間に、そのすべての統合したエネルギーを、何かの形にして残す。芸術のような、創造のような気もしていたし、未来を予言する、占い師のような気もしていた。しかし、そのどれもが違う気がした。そしてさらに不思議だったのは、この史実が、あるまとまった量に到達したときに、発行される書籍のタイトルが、バイブルという名前であったということだ。そして、そのバイブルを巡って、激しい争奪戦が繰り広げられること、それをまさに今、こうして自らが記述している不思議さに、ほんのすこしだけ、思いを巡らせることになった。
わずか、数分のことだった。
テルマに電話をした。
その後、物思いにふけり、すぐに仕事に戻った。そのままほとんど記憶を失ってしまった。
部屋の電話が鳴っていたことに気づいた。
コンピュータには、物凄い量の文字が、書き連なっていた。時刻は三時を越えていた。
「ゴルドです」
電話の相手は言った。サイエンティストの知り合いだった。
「そっちは、深夜だろ?悪かったね。仕事中だった?そろそろ、切りがついたかと思って」
何故、そんなことまでわかるのだろうと、史実家は思う。
この時間、普段なら寝ていることも多いが、あまり眠くはならない時間帯だった。
意識は、非常に冴えている。ただ、体が疲れているときは、必ず横になっていた。
それでも、意識のほうは、身体の休息とは真逆で、研ぎ澄まされていく一方だった。
頭の中で、考えをまとめる時間として、普段は使っていた。
「どうしたんですか?珍しいですね、こんな時間に。いや、そちらは、深夜ではありませんでしたか。何か、いい報告でもあるんですか?」
史実家の当てずっぽうな発言に、ゴルドは応えた。
「いよいよだ。いよいよ始まるんだよ」
ゴルドは、いよいよを繰り返した。
「嬉しそうですね」
「君だって、同じだよ」
「そうですか?」
「気持ちが非常に高まっている。君だけじゃない。僕だけでもない。我々のね。いや、我々だけではない。あらゆる人の。今、この時間に、目覚めているすべての人の」
「ご機嫌なのは、構わないんですけど」と史実家は言った。
「何か、大事な用事があったのでは」
「いやいや、そういうことではないんだよ。ただ、君の方がさ、僕を呼んでるような気がしたから。そんなことはない?」
ゴルドには、たいした用件はなかったようだが、それにしても、まったく脈絡を欠いている。
「いよいよって、何が、いよいよ、なんですか?」
「ああ、それね。いや、たいしたことじゃないよ。本当に。ただ、うまくいきそうなんだよ。僕の研究。実験がさ。実験がついに、できそうなんだよ。これまでは、その実験にすら、こぎ着けられない状況が、続いていただろ?それがいよいよなんだ」
「それは、よかったですね」と史実家は言った。
「君のおかげなんだぜ」
「何も、力にはなってませんけど」
「君が、その仕事を完成させたから」
「どれですか」
「今のそれだよ」
史実家には、まったく意味がわからなかった。
かといって、こんな夜中に、詳しい説明を求める気にもなれなかった。
ただ一方的に、君のおかげだと、言われ続けた。
「研究分野も、仕事の内容も、取り組み方も、すべて違う我々だけれどね、それが逆に、よかったのかもしれないよね。もし一緒だったら、ここまで、わかりあえることはなかっただろうから」
「そうでしょうか」
「そうだとも!これだけ着ている衣装が違うというのは、ものすごく、意味のあることなんだぜ。お互いが、とてもとても距離がとれるから。距離がとれるということほど、重要なことがあるかい?それでいて、何かがわかりあえる。琴線に触れることができる。なかなかあることじゃない」
ゴルドは、今度は感慨に浸ってしまったようだ。何が、どうわかりあえているのか。史実家には、さっぱりわからなかった。しかし、史実家は、ゴルドに反論することはなかった。異論を唱えることもしなかった。ただ、彼の言葉を、そのままの形で受け止めた。
「そうかもしれませんね」と答えた。
「実は、君だけなんだ。僕のことを、心底、理解してくれるのは」
「そうなんですか?」
「ああ、そうだとも。こうして深夜にも関わらず、電話をしてまで伝えたかったのは、まさに、それなんだよ」
「それは、うれしいことですね」
その気持ちに、嘘はなかった。
そう言われて、悪い気は全然しなかった。
「じゃあ、仕事の邪魔をして、悪かったね」
「いえ、もう、終わりましたから」
「ああ、そうだったね。これから寝るのかい?」
「いや、どうでしょう。もう、朝日が出てきますからね。そのまま、一日をスタートさせてしまった方がいいとは思いますけど」
「とにかく、ありがとう。それだけを、言いたくて。というよりは、もっと、本当のことを言っちゃうとさ、今日君と、この時間に、会話することそのものが、大事だと思ったんだ。まさに、この瞬間、僕らは繋がっていた。連絡を取り合っていた。お互いを称えていた。理解し合えていたということを、確認することがね。だから、声を聞けるだけでよかった。僕らがこうして、遥か遠くに存在しているにも関わらず、こうして」そこで回線は、ぶつりと途切れてしまった。リダイヤルしようと思ったが、すぐに、向こうからかかってくるような気がしてやめた。しかし、その後、電話は鳴ることはなかった。テルマにもう一度、謝罪のメールを送り、またしばらくしたら、三人で会う算段をつけてほしいと、付け加えた。
「あ、いくっ。あっ、あっ。あっ、もう。いくっ」
らやは、予想以上の声を出した。アンディは、部屋の外に、声が漏れていることを心配した。
「いって。あなたも、はやく、いって。わたし、もう、だめっ」
アンディは、円藤らやの表情を見つめた。こんなにも激しく乱れるタイプだとは思わなかった。あるいは、彼女は、バージンなのではないかと、思いもしたが、そんな心配は杞憂に終わった。アンディは絶頂までには時間があった。まだだいぶん、先のような気がした。ぽっかりと空いた空間に、身を委ね、その中で揺れるように、アンディは一人を楽しんだ。そのあいだも、らやの声は、大きく響いていた。気持ちがいいのか苦しいのかまるでわからない悲鳴にも似た叫びは、もうどれほど大きくなっていることだろう。アンディには計り知れなかった。
らやとは、恋愛関係になっていた。アンディは、その名もない空間に、まだ居た。
絶頂を迎えるまで、これほどの時間の差があることも、珍しかった。
この前、性交渉を持ったのはいつだっただろう。だいぶん期間が空いているにもかかわらず、そして彼女とは初めての行為で、しかも今日においても、一回目にも関わらず、終わりは全然、前倒しされてはこなかった。いつもならわざわざ、自分で終わりのときを引き伸ばす努力をしないことには、ままならなかった。もう、感覚としては、らやと同じで、イっているはずだった。もうとっくに、ピークを過ぎているはずだった。まだ放出していないにもかかわらず、ほんの少しだったが、快感が減退してきているのだ。
アンディは、らやとの肉体的結合が、本当に起こっているのか、わからなくなっていた。
彼女の中に居ることが確信できなくなっていた。そのときすでに、目は閉じていないにもかかわらず、情景がよく見えてはいなかった。そう思ったとき、らやの声もまた、どこかにふと消えてしまっていたのだ。あれほどの絶叫が、静寂に変わっている。彼女の声だけではなかった。部屋中が静まり返っていた。部屋の外から、漏れ入ってくる音もまた存在を消している。自分のからだの重みもない。この体の下にもあるはずの肉体がない。あれほど、官能的な匂いを放っていた肉体がどこにもない。当然、匂いもまた消えている。ここは、アンディ自身の部屋だった。彼女とは、近所のカフェで待ち合わせをし、話をし、そのあと、二人で部屋に来ていた。そこでも、何杯か、お茶を飲んだ。いつのまにか、二人は、互いに体を近づけあい、互いの体を探りあい、合わせられる場所はどこでも、合わせていった。ゴムはしただろうか。急に、意識は、過去へと遡り始めていた。二人のエネルギーが合わさった怒涛の本流に、あっという間に巻き込まれてしまったため、記憶は所々で、落ちてしまっていた。したはずだと、アンディは思い直す。これまでだって、どんなときも、避妊には注意を払ってきた。無意識であっても、同じことをしたはずだ。こういうときのために、これまで、執拗に避妊をしてきたのかもしれない。そう思った。
そんな怒涛の奔流に流されたにもかかわらず、その勢いのままに、終わりに突入することはなかった。こうして、先はまた、どんどんと先に行ってしまっている。まるで、追えば追うほど、ゴールは逃げていくかのようであった。もうそのときには、すでに、アンディは、自らの放出を目指してはいなかった。半ば諦めていた。いつもとは、何かが違った。何もかもが、違っていたのかもしれない。二人が、エネルギーを重ね始めたときから、何もかもが違っていたのかもしれない。その電気的ショックは、身体がその根底から真っ二つに切り裂かれていくようであった。何度、割かれてしまったか、分からなかった。らやほど、声を出すことはなかったが、アンディもまた、熱い吐息を漏らしていた。まさかこんなことになるとは。恋愛関係にすらなるとは、正直思ってもいなかった。カフェでは、彼女の兄の話をした。調べることのできた彼の情報を、すべて渡した。マッドサイエンティストと呼ばれ、通称МSと呼ばれていた過去も伝えた。彼女は衝撃を受けていたようだったが、すぐに表情を元へと戻した。一度、彼とは会わなくてはなるまいと、語った。もちろん、セッティングするのはあなた。同席もしてもらう。最後まで責任をもってもらうから。そして、任せたわと。彼女の表情が、一気に安堵を示した。何故か、彼女自身がこれまでずっと、抱えもってきた影を、一瞬で、払い落としたかのようだった。あの病的な白さに暖かみが加わり、華奢だと思っていたその肉付きにも、少しずつ女性の丸みが加わり、艶の感覚が、ずいぶんと変わったように感じられた。彼女は生まれて初めて、心の底からの安らぎを得たかのように見えた。そして、らやは、この身体の下に、何も衣服を身に付けない状態で、横になっていた。目を瞑り、顎は上向きで、手の平を上向きにして、腕をわずかに曲げ、アンディにすべての力を抜き取られたような格好で、仰向けになっていた。
急に自分が、絶頂を迎えていたことに気づいた。肉体の一部は、まだ彼女のなかにあった。急速に緊張が緩み、彼女の中で萎んでいくのがわかった。らやは、その後すぐに、自分の部屋にアンディを招き入れることになった。あんなにも、護衛のついていた生活が嘘のように、遠くから見ていたときには確かに居たはずの黒服の男たちは、いなくなっていた。彼女を送り迎えする車を、見ることもなかった。すべて彼女が引き払わせたということだった。どうも、そういうことが、可能なようだった。両親もまた、強制的に彼女を保護しているのではないのだという。成人を迎えてからは、護衛の有無は、彼女の裁量に任されているということだった。自由に付けたり外したりできる、アクセサリーのように彼女は護衛を扱った。
「ただの、格好つけよ」と彼女は言った。屋敷には、自分の車で行き、あらかじめ話は通っていたため、門の前に来ると、勝手に開いていった。門番は、確かに居た。しかし、厳重なセキュリティチェックを受けることなく、その男は、深々と敬礼をしてきて、特別な扱いをアンディは受けているように感じた。らやの両親は、離婚しているということだった。父親は、今は海外に出ているということで、あと一ヶ月は、帰国しないのだという。ほとんど、こんな大豪邸に一人で住んでいる状態だった。家政婦や警備の人間は、十数人は居るということだ。父親の姉という親族が、近所に住んでいるということだったが、それほど会っての交流は、ないということだ。アンディは、それでも、常に、自分は監視されているのだという意識を外すことはなかった。娘のボーイフレンドとしての行為はすべて、撮影されていて構わないといった覚悟だった。それ以外の本当の目的さえ、解錠されなければ、それでよかった。らやを犯す映像が誰かに見られ、残されていたとしても、不都合は何もないようにとだけは意識した。それに関しては、アンディは、特別なプレイを好むわけでもなかったし、暴力的なわけでもなかった。いたって普通だった。
アンディとらやは二時間以上も念入りに時間を費やして、愛を成就させた。二人はベッドに仰向けになって、性行為後の微睡みの中に居た。らやは、寝ていた。アンディの意識はこれまでにないほどの、鋭敏さを光らせ、頭上の絵を下から見上げていた。ほとんど頭上に、直角に飾られていたので、上下逆な状態で見ているわけだった。起きて正面を向いて、眺める気にはなれなかった。不審な動きを、監視カメラに残すわけにはいかなかったし、らやを起こすようなことを、してはいけないと思った。何よりこうして、横になっていることが気持ちよかった。これが、加賀ミーラの言っていたバイブルという絵なのだ。この距離で、対面することができるとは驚きだ。何かに導かれるように、こうして、自分は連れて来られた。その不思議さを、アンディは思った。どういう成り行きで、今自分はこうして、ここにいるのだろうか。いったい何をしているのか。何が起きているのか。起ころうとしているのか。とにかく、自分は、確かにここにいる。それだけが、唯一の現実だった。どういった理由なのかはわからなかったが、ここに辿り着いてしまっていた。
そしてさらに、また、どこかに行こうとしている。違う領域に、移行しようとしている。束の間の、休息をしている。バイブルを下から見上げている。絵はどこから、どう見ても、らやの肖像画だ。これは、塗り重ねられているのだという。バイブルという、書籍の内容を暗号化した絵が、市場のオークションに出た。それを、ユージンの言っていた、伝説のギャンブラーアキラが購入し、ある金持ちの男に、転売された。それが、らやの父親だ。
そして、画家が雇われ、何故か、娘の肖像を、その上に重ねて描かせられた。そういうことになっている。この絵の下に、本当に、別の絵があるのだろうか。アンディは、部屋に入って初めて見たときの記憶を、呼び起こそうと、目を閉じた。それから、しばらく、絵を見続け、彼女とその絵を、何度も見比べた。その絵が、とても彼女の特徴を、よくとらえていると誉めた。彼女もまた、ずっと見続けた。特に、何の解説もしてくれることはなかった。この絵がどういった経緯で、描かれたのか。誰がどのように描いたのか。誰の勧めで、どんな目的で、こうして寝室に飾られているのか。何も、話してはくれなかった。
彼女自身が、知っているのか、知らないのかもわからなかった。らやは、小さな寝息をたてている。まだ起きる気配はない。そっとベッドを抜け出し、テーブルの上に置いてある、水の入ったグラスを手にして、飲み干した。そのあいだ、バイブルを正面から再び見る。もう駄目だと、アンディは思った。見れば見るほど、重ね塗られたようには見えない。実物の彼女との、共通点ばかりが、目立ってくる。そして、絵の中の彼女は、服を着ていたが、見れば見るほど、アンディの目には、服を身につけていない、肌を晒した彼女の映像ばかりが、重なって見えてくる。あの、初めの瞬間にしか、すべてを捉える目は発動していないのだろう。次の瞬間からは、時間の経過と共に、濁りが続いていく。濁りは増していく。アンディは再び、彼女のいるベッドの中へと潜り込んだ。もう今日は、絵に視線を向けるのは、やめようと思った。不必要に、これ以上視線を送ることはない。これ以上は、何も掴めやしない。どんどんと、そこにあるものからは、遠ざかっていくだけだ。
アンディは、目を閉じて、絵に対面した最初の瞬間に、戻ろうとした。
視界は次第に消えていった。
暗闇が、アンディを取り巻いている。部屋全体を取り巻いている。屋敷を襲っている。感触。あのときの、感触。触ってはいない、そのときの手触り。匂いのない匂い。距離のない距離。旋回していく空間。あのとき、そこには、何があったのだろう。わずかな痕跡でよかった。それだけを持ち帰りたい。あとは、その欠片を入り口に、広げていったらいい。
アンディは、らやが起きるそのときまで、意識をその一点に、集約させていった。
ゴルドと呼ばれていた。ドクター・ゴルド。お電話です。パルスペーターさんの、経理だという方から。
ほんのわずかな時間、うたた寝をしていたようだ。
「ドクター・ゴルド。聞こえてますか?」
「ああ」
「お通しして、よろしいでしょうか」
「構わないよ」
「アポイントされていませんよ」
ゴルドは、パルスペーターという言葉を、何度も反復する。
何だっただろうか。ごく最近、何度も聞いた名前だった。だから大丈夫だろう。自分と密接な関わりがあるはずだ。
「いいよ。通してくれ」
最近は、ほんの少しの眠りであっても、そこからの目覚めが、非常に悪かった。
目の前の世界に、なかなか戻ってきずらくなっていた。メインスイッチがすぐに、覚醒へと切り替わらなかった。置かれた状況が、よく飲み込めないことも増えてきた。
次第に、ゴルドは目が覚めたとき、視界の中にヒントを探すようになっていた。いくつかのシンボルを選びとり、その組み合わせの中に、事実を読み取ろうとした。その一つが、今は、パルスペーターだった。会社の名前だろう。その会社の人間と接見する。以前からの知り合いのようだ。仕事のパートナーかもしれなかった。クライアントかもしれない。そもそもここは自分の会社の事務所のようである。自宅兼仕事場。ビルを丸ごと、買い取った記憶が甦ってきそうだ。
何の会社なのだろう。自分はその代表なのだろうか。ドクターと呼ばれている。それも、重要なキーワードだった。医者には到底見えない。ゴルドは、事務所の中を見渡す。広いフロアには、木目調のタイルが敷かれ、磨きあげられている。本棚のようなものがあり、手を伸ばして触れてみようとする。しかし、あっさりとすり抜けてしまう。
腕の辺りに、レーザーが屈折し、表面が黄緑色に染まる。部屋を見回すと、どうも扉が見当たらない。窓はある。この窓から出ていけということか。
それにしても、今日の記憶喪失具合は、いつもと比べて図抜けていた。下手に動かないほうがいいのかもしれない。さっきまで座っていた椅子に、慎重に触れて座ろうとする。しかし、これもすり抜けてしまう。さっきまで実体のあった椅子までもが、今は物質としての機能をやめている。何なのだ、これは。
ゴルドは立ったまま、部屋の中を徘徊しているしかなかった。見えるものに実体がない代わりに、実体のあるものが、逆に見えなくなっていることを危惧する。
俺が、おかしいのだろうか。
自分のオフィスの機能さえ、忘れてしまっているのだろうか。
感覚的には、ほんのわずかなうたた寝であったはずだ。
「失礼します」防護服に身を包み、顔だけ何もつけていない若い男が現れる。宇宙飛行士のような格好にも、見えた。
「とても、経理の人間には、見えないな」
何か、自分の方から言葉を発せずにはいられなかった。
「あなたがそう、指示したくせに」男は笑みを浮かべた。
「言われていた品を、もってきましたよ。なかなか抜き取るのが大変でした。予想外に時間がかかってしまった。セキュリティコードが変換されるタイミングを、ピンポイントで狙いました。午前三時十四分です。毎日、ランダムで、その時間設定も、変わります。読み取るのに、手間取ってしまって。しかし、慎重には、慎重を期さないと。怒鳴られると思いましたよ、あなたには」
「俺が?そんなこと、今までしたか?」
「冗談ですよ。では、さっそく」
ゴルドは、自分が何かへまをしないか不安になった。とりあえず、ワンテンポだけ相手よりも遅く、しかしながら、同調するようにリズムを合わせていった。
「では、見せてくれ」ゴルドは言った。
「レーザーカーテンを、三重にひいてください」
いきなり困ったことを言う。事務所のスタッフをいち早く呼びたかった。すべてを任せてしまいたかった。ゴルドは叫びたい思いを抑え、つとめて冷静になれる位置を、自分の意識の中で探っていった。そのポイントさえ合えば、すべてはなるようになっていく。あるべき状況へと、自動的に為されていく。
「どうしました?」
暑くはないのだろうか。防護服に身を包んだ男の姿に、ゴルドの身体の方が汗ばんできた。
「いや、ちょっと、頭がくらくらしてね」
「それは大変だ。少し休みましょうか」
「スタッフを呼んでいい?」
「それは、駄目ですって。あなたと二人だけの、機密事項でしょう?互いの会社の誰をも、巻き込んではいけない。漏らしてしまってはいけない」
「そうだよな。ところで、その物は、本当に、効果は絶大なんだろうな」
ゴルドは、試しにそう言ってみた。
「すでに、実験済みです。もしあなたが、ご自分で確認してみたければ、そうしてかまいません。今日のところは、私は下がります。あなたが確認したあとで、再び、訪問にあがります。一日あればいいでしょう。明日の夜にでも、再び。そうしましょうか?ご気分もすぐれないようですし。ね。とりあえずは」
「すまないな」
「あの、そうは決して、思わないのですが」と男は、前置を言う。
「ですが、まさか、取り止めようなんて話ではないですよね?ここに来て。もうお互いに、太ももまで、どっぷりと浸かってしまってますからね。今さら抜けようだなんて、いけませんよ。私のほうでも、もしそうなったときには、しかるべき対処を準備してますから」
「というと?」
「あなたも、そうでしょうに。このご時世。誰でもそうでしょう。ちゃんと保険はかけているでしょう?と、そういうことですから。特に念入りにね、私の方では。殺人の依頼ですよ」
「あ、それね」
ゴルドはなんとか、同調しようと努める。
「人を消すというのも、昔のようには、簡単にはいきませんからね。肉体を消滅させるだけでは、存在していたという痕跡は、まるで消えてはくれませんからね。それを消すという技術もまた、今は我先にと、開発の急速な途上にありますから。ここでも、商売の競争はすごいですから」
いよいよ、物騒な話になってきたなと、ゴルドは思う。相づちを打つように、手を引くなんてことは、万に一つないよと、そう自分でもわかるほどひきつった笑顔で、快活に答える。
「では、明日」と男はきびすを返した瞬間、部屋の壁の一部が眼鏡なしで、海中に潜ったときのように、歪み、液体化して、その中に消えていく。
彼の姿がなくなると、壁は、木目調へと戻っていた。
アンディ・リーは、意識のまどろみの中から、目覚め始めていた。夢を見ていた。
ドクター何とかと、自分は呼ばれていた。しかし、不思議と夢には思えない。今さっきまで、その世界に本当にいたかのようだ。しかし、そのドクターもまた記憶障害を患っていたようで、状況を把握することに、必死になっていた。それはまた自分もそうだと、アンディは思った。しかしすぐに自分は円藤らやの家に居ることを思い出す。セックスした後に、バイブルの絵を眺めながら、寝てしまっていたのだ。静けさに包まれていた。
らやはまだ、寝ているのだろうか。横をみてみる。目を瞑り小さな寝息をたてている。起こさないようにそっとしておこうと、再び壁にかかった絵に目を向ける。しかし、どこにもない。壁から絵がなくなっている。ふと、そのとき、らやの豪華な部屋の造りとは少し違っていることに気づく。上質で、シンプルな素材を組み合わせている、あの部屋からは、一変して、奇抜でクールな彫刻が置かれ、透明なスタイリッシュな家具が、配置されていた。ベッドの下には、皮ジャンや短いスカートが、脱ぎ捨てられている。アンディは自分がどこに居るのかわからなくなった。らやの顔をじっと見ていると、その女は、全然らやではなかった。ミーラだった!加賀ミーラの裸体が、シーツにくるまれていたのだ。何度みても、いや見るたびに、加賀ミーラに違いなかった。肩までしか肌は見えていない。いったい俺は、ここで何をしているのか。あの夢の男同様、まったく前後の記憶が、抜け落ちている・・・。シーツをわずかに下ろしながら、加賀の体を見ようとする。しかし、彼女は、目を覚ましてしまった。「変態」と彼女は言った。
「もう、十分見たでしょ。終わってまで、覗き見ようとしないで」
終わってまでと来た。加賀とやってしまったのか。アンディは黙って部屋全体を見た。
「だいぶん、寝た?」
アンディは彼女に訊く。
「何時かしら」
加賀ミーラは、枕の傍に置いてあった携帯電話に、手を伸ばした。
「四時ね。一時間くらいかしら」
アンディの記憶は、ちっとも戻ってはこなかった。
「そういえば、あの絵のことだけど」と加賀は言った。
「あの絵?」
「そう。バイブルよ。見てきたって、言ったでしょ、あなた」
「バイブルね」
「屋敷の彼女の部屋に行ったって。よく中に入れてくれたわね。でも、そういう関係じゃないみたいだけど。そりゃあそうよね。あの子、どう見ても、バージンだもの。だから逆に、男を部屋に入れるのに、抵抗がないのかしら。まあ、その屋敷だもの。監視体制は、ばっちりなわけだし、下心満載の男であっても、手出しはできないわよね。それで、彼女の依頼は引き受けて、そっちの方は進んでいるのよね?解決しちゃったとか?彼女の部屋に行ったっていうのも、あれでしょ?仕事の話をしに、行ったんでしょ?そこのところが、うまいのよね、あなた。よく、自然にするりと、狭い隙間に入っていけるわよね。たぶん、外だと、はなし声がどこに漏れるかわからない。一番安全な場所はどこかなって。そう訊いたんでしょ?で、あのお嬢さまは、それは私の家じゃないかしらって。セキュリティーに雁字搦めされた、あのお屋敷で」
加賀ミーラは、堰を切ったように、一人でしゃべり続けていた。
「ああ、あれね。そうそう。絵の話よ、絵の話。そうなんだ。一度みたら、二度と忘れない絵なのね。でも、彼女の肖像の奥に描かれている絵は、全く見えないんじゃ、しょうがないわよね。これから何度通ってみたって、無駄よね。記憶はもうすっかりと定着しているわけだから、いつでも、鮮明に思い出せるでしょ?ならなおさら、実物を何回見たって無駄ね。残念。でも、何とかしないと。でさ、ひとつ、いいこと思い付いちゃったんだ。それを、さっき言おうとしてたんだけど、あなたったらもう、ほんとにいやらしいんだから。好きよね。そんなに私を襲いたかったの?そんなこと、これまで一度もいわれたことないし、そんな感じには全く見えなかったわよ、あなた。実はものすごく、野性的だったのね。気にいった。私もあなたの勢いに飲まれちゃった。そのとき、言おうと思っていたの。あなた、意識を、拡張することね。思うんだけど、あなたの認識できる知覚では、あの絵を読み解くことはできなかった。つまりは、何も見えなかった。その奥にある現実を。奥にあったメッセージを。暗号を。でも、そこには、確実にある。あなたが、とらえられなかっただけ。つまりは、問題は、あなたの方にあるってこと。そして、このままでは、何度、直接見るという経験を重ねても、まるで、事態は変わらないということ。あなたの方が、変わらなければならない。それで、提案をしに、来たの。意識の拡張を。あなたの知覚できる範囲を、広げていく。あなたの見える範囲を、聞こえる範囲を、感じるとれる範囲を。これまでとは、考えられないほどに、増やしていくのよ。人間の脳なんて、その何パーセントくらいしか、機能していないって話じゃない?それを使わない手はない。あなたにとっても今度のことだけじゃない。きっと役に立つことだらけよ。未来は明るいわ。あなたの仕事には、特に役に立つんじゃないかしら」
アンディは、黙って聞いていた。
「ちょっと、聞いてるの?」加賀ミーラは、話を中断して身を乗り出してきた。
シーツがずり落ち、乳首が露になった。色素の薄い、しかし、妙に熟されている果実のような感じで、男を誘惑していた。本当に、あれをつまんだり、口のなかに含んだりしていたのだろうか。今度は特に気にもせず、加賀ミーラはシーツを引っ張りあげることもしなかった。完全に、両方の乳房は見えてしまっていた。体は前方に傾いていたため、かなりのボリュームがあるように見える。
「一人、知ってるのよ」ミーラは言った。「直接、知り合いではないんだけど、知り合いの友達の、知り合いくらいの。でも、その道では、けっこう名が知れていてね。ただ、合法じゃないの。完全な地下の世界。医者というか、研究者というか技術者というか、なんといったらいいか、わからない。五十代って噂だけど、本当のところは、わからない。かつては、某大学病院に勤務していた、腕のいい外科医だという情報もあるし、国立科学研究所で、次期ノーベル賞は確実視されていた、若手研究者だったという説もある。いろんなことが言われている。ギャンブルで破産してしまって、それで仕事を辞めざるをえなくなって、それで、闇社会に流れていったって、噂もあるし。はたまた、逆に、日本を出て、アメリカの研究機関か病院で、成功して名をあげて、そして一般的な世界を越えちゃって、世間とはあまり接触のない、スーパーエリートとして、超お金持ちに雇われていたとか。とんでもない治療や研究に、飛躍していったとか。いろんな思惑が、高度に絡み合って高すぎる世界に消えていってしまった。そんなことを言う人もいる。この地球上において、もっとも高い山にこもって、修行を続ける僧侶になってしまったとか。科学とか、医療からはきっぱりと足を洗ってしまったという説も。しかし、そっちの世界でも、また、飛び抜けた成果をあげて、その噂が漏れ始めて、こうして特定の人に対して、その成し得た何かを伝授している・・・とか何とか」
アンディは、すでに記憶を整合させることを諦めていた。
ここは、加賀ミーラの部屋で、彼女とは十分に楽しんだ。そして、彼女とは恋人関係ではなく、ただの親しい知り合いの一人で、今は共通の話題である絵の話をしている。
そうだ。絵のことだけを、考えればいい。何も難しいことは、必要ない。バイブルに集中しよう。バイブルに集まってきたものや人ということで、すべてを統一してしまおうと、アンディは思った。
「それで、その男は、何ていう名前なの?俺の知ってる人なのか?」
「知らないと、思うわね。あなたが、その道に詳しいとは思えない」
「君は、知ってるんだろ?」
「本名は知らない。正確には、何を生業としてるのか、わからない。ただ、裏の世界では、こう呼ばれている。マッドサイエンティストと」
アンディは、頭を抱え込むしかなかった。
アナザー ムーン
ユージン・オカダは、ほぼ毎日、カジノ店「ハイドパーク」に通い続けていた。
アンディや、加賀ミーラと出会い、ラストギャンブラー・Xを捜索する、警察の人間と、鉢合わせたあの日以来、あの店に関わり合うのはやめた。アンディともあの後、二度ほど会っただけだ。加賀と三人で会い、その後、アンディ屋敷の下見に行ったのだった。
それ以来、アンディからの連絡は、なかった。あの屋敷の娘とどうなったのか。途中経過は全く知れずだった。そのうち、ユージン・オカダは、何もかもが、どうでもよくなっていった。あの日と、あの日の前後は、いくつもの偶然が、同じ箇所で多発したことに、らしくもない高揚感を、覚えていたのだ。しかし、それも、一週間と続かなかった。そのうちに、記憶はだんだんと、薄れ始め、ユージンは、元の生活にすっかりと戻っていった。
都合のいいギャンブル場を、お気に入りに選び、そして通い続けることにした。
いつもこうだと、ユージンは思った。しかし、突然あのとき、アンディに語った自身の胸の内が蘇ってきていた。奴にしゃべったことは嘘じゃなかった。どうしてあんなことを、素性もわからない男に、べらべらと話したのだろう。自分自身でも、普段はあまり思わないことだった。あの男に引き出されたのだろうか。それとも、誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。あのタイミングだったからなのか。俺の閉ざされた内なる世界は、開いていた。すぐに閉じたが、あれは何だったのだろう。ラストギャンブラーと、暗に呼ばれている俺。それは、深いところでは、俺自身が、他人にそう呼ばせているのだと、あの男は確かにそう言った。その言葉に触発され、俺はむきになってしゃべり始めていた。いつも、死に場所を探しているのだと。自分のすべてを投げ込んで、そして、破滅したいのだと。確か、そのようなことを。けれども、そういった開き直った賭け方を、すればするほど、勝ってしまうという、勝ち続けてしまうという、逆接を生きているのだと。そして、いつか、その神話は崩れ、この命は天へと奪い取られる。この勝ちという幸運も、使い尽くした先には、その反転が待っている。
俺は、実は、それを唯一の頼りにして生きているのだと、ユージンは思った。
だが、身に付けた勝ち方は、次第に洗練されていき、倦怠感を加速させていった。警察のかわし方など、寝ていても、容易だ。何かギャンブルではない、別の方向へと、道を転換する必要性も感じていた。そうしたときに出会った、奴らだった。何か、期待していたのかもしれなかった。ところが、アンディからの連絡は、一ヶ月経っても、全く来ることはなかった。そういえば、別れ際に、また連絡をするという約束をしただろうか。ユージン・オカダは、自ら電話をするつもりはまったくなかった。自分から、相手の状況を伺うなど、敗者の法則にのっとっていると思った。ユージンは、このときも、身に付けてしまった思考回路を、捨てることができなかった。ハイドパークへと通うことを続けた。ムーン・ゲームを、ひたすら続けていた。ますます、人生をすり減らしていく行為を、繰り返していった。だが、ユージンは、自分の心の動きまでをも、ないものとして無視することはできなかった。アンディへの思いが強くなっていくことを、誰よりも感じていた。その思いの根幹には、いったいどんな考えがあるのかについても探っていた。ゲームをしながらも、それだけは自覚していた。
日々、心苦しくなっていく自分を、誰よりも知っていた。そういった意味で、ユージンは、自分に正直だった。物事の連動の仕方を、分析する頭の良さをも備えていた。自暴自棄なる生活も、終わりに近づいていることを知っていた。確かに、死にたいという気持ちに嘘はなかった。しかしそれは、これまでの、狭っ苦しい小さな箱に閉じ込められたような自分からは、逃れたい、消し去りたい、消えてなくなってもらいたい。そうではない、小さな次元にはいない自らの存在を、ただ感じたかっただけなのだ。
ただのそれだけだったのだ。もしそうなったときには、その後のことは、想像することができなかった。どう生きているのか。どんな存在の仕方をするのか。なったことがないのだ。わかりようがなかった。そのわからなさが、ユージンをずっと苦しめてもいた。ただ、一つ言えることは、この今の自分は、溶けてなくなるか、消えて崩れ去ってしまうか。そうなることだけは、確かなことのように思えた。
アンディは、一度事務所に戻り、加賀に言われた男を訪問するべくアポイントの電話をかけた。どういうわけか、あのMSと繋がってしまった。らやの兄の捜索依頼が、ここに来て、進展しそうだった。らやの屋敷には、いついったんだっけか?アンディはパソコンを開き、スケージュール帳を開こうとしたが、やめた。日時の感覚は、いつのまにか、めちゃくちゃになっていた。そして、ここで整合性を求めた瞬間に、こうして繋がったMSへの通路が、何故か閉ざされてしまうような気がした。
アンディは、加賀に言われた番号を押した。すぐに繋がった。女の声だった。小さくて、聞き取りずらい。研究所という語尾は理解できた。かけてから、自分が何と名乗って、用件を伝えるのか。何も考えてなかったことに、一瞬焦った。
「知り合いに、紹介されたもので」
アンディは、咄嗟に言った。「ここで、施術ができると、聞いたもので」
アンディは、返答を待った。
女の声は、じょじょに聞き取りやすい音量と音質を、備え始めていた。
「お名前を、どうぞ」
事務的な会話が続いた。
アンディは、本名を伝えた。意識の拡張を。特に視覚の方を、と答えていた。
「そういうご指定は、できません」女は、無機質な声で答えた。「意識の拡張ということで、お間違いありませんね?」
「そうです」アンディは答えた。
「ご紹介者を、お伝えください」
アンディは、正直に、加賀ミーラだと答えた。
「それでは、予約は、完了致しました。本日の、午後二時半。十四時半が空いております。いかがなさいますか?」
「今日ですか?」
アンディは、事務所の壁にかかった時計を見上げた。
あと五分にも満たなかった。
「それは、また、急な」
「キャンセルですか?」
「いえ。大丈夫です。はい。しかし、ここから、そちらに伺うのに。どれくらいの時間がかかるのかわからないもので。あと五分では、さすがに」
「キャンセルするのですか?それを訊いているのです」
「いえ。けっこうです。よろしくお願い致します」
パソコンのキーボードの音だけが聞こえてくる。
受話器を通して聞こえてくる音の明瞭さは、時間の経過と共に、何故か増していた。
「それでは、場所の説明を致します。当医院は、ご存じのとおり、場所を公表しておりません。さらには、施術に関して、一切の口外を禁じております。守秘義務の契約書に、サインをしてもらいます。よろしいですね。そして、施術に関する問い合わせを、その後は、一切受け付けておりません。もちろん、施術後、多少の違和感は、誰でも感じるものです。しかし、新しい肉体、新しい意識、新しい現実に、統合されていくに従って、違和感は、劇的に消えていきます。そのように設計されています。絶対の自信をもって、提供させていただいているプログラムです。ただし、一つだけ、問題があるとすれば、施術後に本人が動揺して抗議をしてくるということ。あるいは、施術をやり直してくれ、元に戻してくれと、訴えてくることです。こういった行為、そして、思考回路の復活を許せば、完璧に設計されたプログラムは、まったくの台無しとなります。少しも、機能しなくなるということです。ということは、すでに、施術前の肉体、意識は破壊され、存在しなくなっているわけです。戻るところなど、ありません。困るのは、被施術者本人なのです。わかりましたか?すべてを了承して、この電話を切ったところで、プログラムは、動き出しますので。後戻りは許されません。よろしいですね?」
もうすでに、この会話をしているあいだに、五分は有に経ってしまっている。
アンディはそう思い、視線を上げて時計を見る。
しかし、長針はまったく動いてはいない。
「あの、費用の方は、どうなんでしたっけ?」
アンディは訊く。
「あなたがもちます」
「そりゃあ、そうでしょう」
「あなたの銀行口座から、引き落とさせていただきます。預金はございますよね?まあ、しかし、たとえゼロだったとしても、色々と工夫はさせてもらいますので。ちゃんと、いただいていくものは、いただいてまいりますので。さて、あなたをお迎えに出る準備は整ったようです。あなたが、今、電話をかけている場所も逆探知で、正確に把握することができました。周囲の状況も完璧に。受話器を置くのとほぼ同時に、迎えの車が建物に横付けされることと思います。それでは、他に、ご質問はありませんね」
これから一体、自分はどこに連れていかれるのだろう。急に不安が込み上げてきた。
体は劇的に代わり、その後でいったい何がどうなってしまうのか。しかし躊躇する時間はない。事はすでに成された後なのかもしれなかった。
すべては終了している。プログラムは完璧に作動し、それこそ別人として機能を始めている。現実はすでにそうなのだ。これからそのギャップを埋めるための、作用が起こっていくだけなのだ。
何の妨害も入らず、横道に逸れる別の道の存在もない。
すでに終わったことなのだと、アンディは確信した。次に意識が戻るとき、それはもう、これまでのアンディではないのだろう。受話器を置いた。
男は、古びたビルから出てきた。そして、ビルの前に止まっていた警察車両に、乗り込んだ。私服の男二人に両隣を囲まれ、さらに一人が、横に並んだ三人の男の後ろから、最後の男が、警察車両の運転席に乗り込み、三人は後部座席へと乗り込んだ。車両は発車する。
だが、警察に、車は向かうはずもなかった。警察車両に見せかけた謎の車だった。車両は、四斜線の国道へとすぐに入る。
すぐに、百キロ以上のスピードで移動していく。道行く車も、警察車両以外の可能性を、誰も疑いはしない。規定速度は大きく上回っている。サイレンはない。車は、国道から急カーブを描いて、突然左折する。右車線を走っていたにも関わらず、強引極まりない左折だった。幸い、左車線に車はなかった。それを見越しての左折だった。細い県道に入っても、車両の速度は落ちなかった。逆に、スピードは増していくばかりだ。往来する車はほとんどない。結局、研究所に着くまでに、すれ違ったのは、近くの農場で作業をしていて、車庫へと戻るために、一時的に通過していた、トラクターだけだった。
市が運営するゴミ焼却場に入っていき、そして、開いたままの裏門を、同じスピードのまま、通過していく。焼却の際に発生する熱を用いた、温水プール施設の脇を通過して、再び県道へと出る。とにかく、速度は、増していった。すれ違う車や、人がいないのが、幸いとばかりに、どこにも誰にも接触することなく、あるべき風景をなぎ倒していった。運転手は、かなりの腕前のようだった。
突然、背丈の高い建物が現れる。
セキサイ・コンクリートと、大きな文字が側面に書かれている。
セメント会社のようだった。大型のダンプカーが五台ほど、駐車スペースに置かれている。ほんの一瞬の出来事だった。警察車両はその大型ダンプのあいだをすり抜けようとしたのか、ぶつかったかのように見えた。いや、そんな車両が通るスペースなんて、どこにもなかった。ダンプの駐車スペースの先へと回ってみる。しかし警察車両はどこにもない。消えてしまったのだ。
坂城刑事は乗ってきた自家用車を止める。マイカーのレクサスだった。慌てて脱いだ制服が助手席に転がっている。そんなばかな。車両はどこへ。セキサイ・コンクリートには抜け道などない。入り口がそのまま、出口となっている。五台の大型ダンプもまたそのままだ。車が接触した跡などどこにもない。立ち往生してしまう。
そうこうしているうちに、会社の事務所らしきプレハブから、恰幅のよい日に焼けた短髪の男が、レクサスに近寄ってくる。
その男は、巨体を左右に揺らせながら、走ってきた。「ちょっと、困りますよ。どうしたんです?しかも、こんなにいい車で。何かご用ですか?」
坂城刑事は咄嗟に助手席に放り投げられた制服を掴みとり、ポケットに入っていた警察手帳を取りだし、男に見せつけた。
「ああ、警察の方。どうしたっていうんですか?」
「すまないね、驚かせて。あなたは、この会社の関係者?」
「ええ。社長のセキサイです」
「ちょうどよかった。今、おたくの会社の敷地に、何か侵入してきたものはありませんか?人でも車でも。そういった通報があったんですよ。不法侵入している車両があると。見回りに来てくれと」
「不審車両ですか?」
「ほんの少し前に」
男は頭を掻き、視線を上げ、何かを思い出そうとしていた。
「今日ですよね?今日は何もありませんが。うちも休みでしてね。ドライバーは誰も、出勤してないし、ご覧のとおり、ダンプも昨夜から止まったままで」
「昨晩の、何時から?」
「九時ですよ。すべてのダンプが会社に戻ってきたのは。ドライバーが帰宅したのは、九時半。私はそのあとも仕事をして、十時過ぎには戸締まりをして出ました。今日は昼過ぎに来て、ちょっとした作業をしてたら、あなたがやってきて」
「そのあいだに、特におかしなことは?」
「いいえ、ありません」
「そうか」
「悪戯ですか?悪質な垂れ込みですね」と社長は言った。
「とりあえず、敷地内に異変がないかを、調べるぞ」
「ええ、構いません」と社長が答える前に、警部はすでに、ダンプのあいだの空間を凝視し、自ら通過することを繰り返していた。
人がひとり、通れるほどの隙間しかない。せいぜい、二人の大人が、すれ違える程度だ。車がしかも、警察車両が飛び込んでいけるスペースなどどこにもない。幻覚を見ていたのだろうか。白昼夢だったのだろうか。そもそも、事の発端は警察車両が突然、不審な動きをしたことだった。坂城警部が夜勤明けの仕事を終え、昼過ぎに、レクサスで家に帰ろうとしていたときだった。近くにあった警察車両が動き出したのだ。それは別によかった。たまたま誰かが動かしているのだろうと、運転席をちらりと見たそのときだった。窓に映った男の顔に、見覚えがなかったのだ!警察の職員の顔は、すべて見知っていた。まったく初めて見る顔だった。さらには後部座席にも人影が複数あった。いったい何の出動だろう。勘にさわるところがあった。
坂城警部は、レクサスを発進させて後を追った。発進直後から、いやにスピードが出ていた。なのにパドランプは点滅せず、サイレンも響くことはない。速度だけが上がっていく。明らかにおかしかった。
警察の人間ではない誰かが、勝手に発進させているのではないだろうか。事件だった。窃盗だった。レクサスもまた速度オーバーなままに離されないよう、マークし続ける。そうしてたどり着いたのが、古びたビルの前だった。
三人の男が車を降り、そのうちの一人がビルの呼び鈴をならしにいった。すぐに一人の男がビルから出てきて、呼び鈴をならさなかった二人の男が、ビルから出てきた男の両端に位置をとった。呼び鈴の男は、横並びした三人の男の後から、続いていった。
この四人の男は、誰も知らない。見たことがない。写真をとる暇もなく、記憶に焼き付けておくしかなかった。状況もわからぬまま、再び、動き出した車両を追った。ナンバープレートを控え、無線で本部に連絡をとろうと探したが、自分の車であることに、すぐに気がつき、車を見失わないよう、全神経を集中させることにした。
MSは、ある女から連絡を受けていた。
男が被験者として、志願していきている。いいだろうかと。いいに決まっていると答えた。
いつだって、歓迎だと。来るものを拒む理由はどこにもない。守秘義務さえ守ってくれれば。しかし、それも、実験材料として、この施設に来た瞬間に、外の世界で何かを語ろうとする意志はなくなる。
MSは、日々、研究を続けていた。その成果を、人間を通じて実践することが、常に必要としていることだった。しかし、自ら、そういった人体を探しに行くことはしなかった。連れてこさせることもなかった。必要な人材は、彼らの方から、正しい時に正しい量で、必ずやってくる。それに、これは人体実験ではなかった。ひとに還元しているのだと、MSは思った。自分は生命全般における普遍的な構造を、追求し続け、そして明確になったことを、ただ人にも還元しているにすぎないのだ。これはボランティアなのだと、MSは考えていた。
料金は確かに取るには取った。しかしそれも今はどうでもいいことだった。研究所を発足した当初は、資金に困ることも確かにあった。今は、特許を取った技術が、常に十全な資金を、供給してくれていた。ただ形だけ、被験者から、金をもらっているだけだった。相当な額だったが、彼らが施術後に得ることに比べたら、ほとんどないに等しいものだった。
「あと、五分ほどで、到着します。ご準備を」
機械の無機質な声が、鳴り響く。
女の携帯電話に電話をかける。
「無事到着するよ」
今回は特に当たりよと、女は言った。
「何を望んでいるのかは知らないけど、いつものことしか、できんぞ」
「わかってる。それでいい」
「それで、今度は、いつ来るんだろう」
「明日でいいわ」
「研究所に泊まる?」
「いやよ。気味が悪い。あなたが来てくれないかしら」
「無理なことをわかっていて、言うんだな」
「仕方ないわね。行くわ。そっちにも、泊まる」
「ありがとう。すまないね」
MSは電話を切った。被験者は到着していた。
助手の三人の男たちに、連れられてやってきていた。
無構造のエレベータで、地下の駐車場からMSのいる部屋まで、一瞬で吸い上げられていく。
「ご苦労様。私が、所長のMSです。お望みはすべて、あなたの代理人の方に伺っております。さあ、どうぞ。おしゃべりに無駄な時間を使っても、仕方がありませんから。さあ、どうぞ。しかし、少し、自己紹介は必要でしょう。私はMS。科学者を長いことやっております。ずっとこうして、地下で隠れて。表だってはできない仕事なのはあなたの方がご存じかもしれませんが。かいつまんでお話すると、あ、そうそう、地上における芸術はご存じですか?それと、天空における瞑想のことも」
男は、凍り付いていた。
構わず、МSは、話し続けた。
「芸術と、瞑想。あなた方にとっては、馴染みのある言葉です。しかし、実態としては、今いちよくわからない。それが本音でしょう。本音なはずです。私の専門は、実にそれでしてね!芸術と瞑想を融合させるというのが、私の根本の、テーマなのですよ。芸術というのは非常に、この地上的な要素を基盤に置いています。その基盤が、天空へと背伸びをして成長していくというイメージでしょうか。我々は、この体を持ってこの世に生まれてきている。そして、肉体を失うことで、この世から去る。地上とは、この体のことです。体を構成する物質。人間以外においても、すべては、物質で成り立っているのです。物質の世界というものが、あるわけです。もちろん、この物質には、特に人間においては、心なるものがくっつき、ひっつき、まとわりついている。物質を乗り物に見立てて、それに寄生しているかのように、存在している。これがですね。天空へと延びて行こうとする、人間の意識を、邪魔する存在として、実に機能しているのです!
地上で、肉体を長く持てば持つほど、この心という障害物が、肉体に深く深く付着していく。芸術というのは、肉体を用いた心の世界を深く探り、知り得ることで、その汚れを取り去るという行為なんです。人々はよく、芸術の認識の仕方、芸術との関わり方を、完全に取り違えております。美しいものに感動したり、自分の好みを満足させるために、芸術が存在していると、実に勘違いされているのです。そうではありません。それでは、汚れた心を、生き延びさせることになってしまいます。心というのは、どういった状態をもってしても、それは汚れへと通じていくわけなのです。落とさなければならないものなのです。浄化させなければならない。それは、病気なのです。病原体そのものなわけです。芸術は薬です。強烈な、激薬です。わかりますか?そして、瞑想もまた同じ。劇薬なのです。芸術が肉体、つまりは物質世界の方から、心へと働きかけるのに対して、瞑想はまったくの逆。天空から、心に直下的に働きかけるわけです。天からの、光線のようにね。まさに、神からの恩寵のように。落雷のように。落雷を引き起こすように、働きかけをする。それが瞑想なのです。どちらも目的は同じ。その手法が違うだけで。方向がつまりは、角度が違うわけです。そして、その両者は、一方を追求していくと、またもう一方をも副次的に誘発していくという現象を引き起こしていく。この世界はすべてが繋がっていますから。そういうことです。
しかし、それは非常にまどろっこしいことに、私は気づいていきました。
両者を同時に行うことはできないものか。もっと主体的に。もっと積極的に。同時に。両者を主体的に。対等な立場で。互いをすり減らすことなく、相乗的に、刺激しあいながら。さらには、科学的に。私は、科学者ですから。三十五のときでしょうか。それまでの人生、仕事、興味、関心、功績、すべては、そのビジョンへと繋がっていったのです。四十を前にして、私は勤めていた国立研究所をやめ、自分の研究所を設立しました。そして、そこには、さらに、男女による異なるエネルギーの深い融合も、また、関係しているのです。私は、こう見えてね、非常に好きなのですよ、あっちのほうも。こうして、頭を使えば使うほど、今度は、からだの方を使いたくなってきますしね。自然の摂理です。理詰めの世界からの、感覚の世界への反転。そして、私は男です。女を欲します。当たり前の話です。そして、そういった行為に没入していく中で、この異なる性エネルギーの合流もまた、どこか芸術と瞑想の融合と、深く関係していることにも、気づいていったわけです。
まったくの無関係ではない。無関係どころか、これもまた、角度を変えた同じ現象であることに気づいていきました。すべては同じ場所へと向かっているのです。事のすべてが。そして、私は、さらなる気づきを得ていったのです。続けましょう。科学者としての私。つまりは、こうして、四十のときからずっと地下に潜伏しているような人生の私。これを例えるなら、『陰』というふうに表現しましょうか。男女でいう、『女陰』ということでしょう。ということはです。その向こう側には、『男根』が控えてるわけですよね。『陽』の存在が。科学者としての『陰』の私。その反対側にいる、そうです。『陽』の科学者の存在にも、私は気づいていくことになります」
被験者としてやって来た男に、反応はまるでなかった。
すでに、意識はすっかりと抜け落ちてしまったようだった。相づちを打つこともなく、言葉を発する様子もなかった。ただ、目だけを開け、壁のさらに先を、眺めているようだった。部屋の外を見、地平線の遥か先を、ぼんやりと見ているような眼差しだった。
構わず、MSは続けた。
「科学者にも、『陰』『陽』の二人が、居ることに気づいたわけです。その『陰』が私。その『陽』もまた、ある種の別の私だ。両方私だ。どちらに、より自分を感じるかという問題なのです。おわかりでしょうか。私は、しかし、陽の科学者の存在は認識しつつも、私とはまったく相容れない、実に気楽に好き放題やっている男でもありました。私には、まったく、肩入れのできない存在でした。それは、まあいいです。
私は完璧に、そのときは、陰だったのですから。そして、それ以来、十数年、私は、陰の世界を彷徨っているのですね。この研究開発と共に。そう。これは、あきらかに、陰の実験なわけです。陰に基点を置くことで、陽を引き寄せている。そして、その合体を、想起する。わかるでしょうか。必ず、陰陽は、ひとつのセットなのです。
必ずどちらかが、初めにやってきて、それを基点に、もう一方を呼び覚ましていくものなのです。そして、時はいつか、その互いの邂逅と共に、両者の存在を打ち消しあうことになる。必ず、物事はそのように進んでいくものです。そのとき、私の研究は、その役割を終える。何一つ、地上に残るものはない。真の浄化のときです。私は、そのもう一方の私と、いつか出会うことになるのです。近づいてきているんですよ。その存在を、感じてきてもいる。確かに、その人物は、私の外側からやってくることでしょう。しかし、感覚としては、すべて、私の中での出来事のようです。私がどちらに自分を強く感じるのか。だんだんと、その割合が変わってきているのですから。陽の科学者を、この自分だと思う割合が、だんだんと増してきているのですから。私はちょうど、昨年からです。地下にもうひとつ、新たな部屋を特別に設えたのですよ。からっぽのその部屋。このひとつでは、何も役割を果たさない、無意味な部屋です。この中に何か、設備を揃える気もなければ、人をいれて、そう、君に対する施術のようなことを、するわけでもありません。物置きでもない。何の予定もない、ただの部屋です。しかし、私は、その部屋の必要性を感じ始めた。ピラミッドにも、実に、そのような役割のわからない空洞が、内部に存在するそうじゃないですか。それだけを、眺めてみているだけでは、全く理解のできない、けれども、全体としてみたときに、それは意味が浮かび上がってくるという。私の施設の空洞も、また、ずっと時代が過ぎていった先に、もし、誰かに発見されるようなことにでもなれば、色々な穿った見方を、されることになるでしょうね。
さて、だいぶん、前置きが、長くなってしまった。始めましょうか。君の頭部に取り付けてほしい機械です。眠りが誘発されます。脳波のデータをとるためのものです。そして、モニターに接続して、映像へと、簡単に変換することが、可能となるものです。その映像を、君には見てもらいます。君という存在を、自分の目で確かめてもらうためにね。対面する必要があるのです。最初に。これまで、君には、そのような機会はまったくなかったはずですから。人は、自身の存在の全貌を、知る権利がある。権利のあるところに、もちろん、責任は発生する。つまりは、責任がとれる人間だけが、自身の存在の全貌に、対面できるということです。そういう人間しか、ここに来ることはできない。
だいぶん、時間を使ってしまいました。しかし、こうした過程が、何よりも大事なことを、私はわかっているのです。ほとんど、これだけが、このことだけが、唯一踏むべきステップであるということを、身をもって、体感もしている。さて、時間です。私は、君に名前は訊きません。そんなものなど、私にとっては、いや、君にとっても、何の役にも立たないことは明白ですから。君に名前など、ないのですから。そしてこうも言える。君には、複数の、いや数えきれない程の名前もまたあるのだと。君が持つ、無数の影の数ほど、名前はある。どちらも同じことです。同じことを、違ったやり方で表現しているにすぎない。さっきも、何かの話で、同じようなことを、しゃべったような気がします。そうなのです。私は同じことを何度も繰り返し、しゃべっているにすぎないわけです。あっちにいったり、こっちにいったり、一見、まるで、的を得ないようなことになっているかもしれないが、それは、実は、違います。どれも、違う衣装を身に纏った、同じ肉体のことなのです」
男は完全に、忘我の境地に入っていた。順調だと、MSは認識する。より深く、催眠状態は進んでいる。もうあと一歩のところだった。あと少しで、男は、完全に自分を手放し、そして、自分を越えた、自分の世界へと入っていくことだろうと思った。器具が強引に、彼の内部へと突き進むのではない。彼自身が覆われた固い殻を手放し、ほどけさせていくことで、ただ露にしていくだけなのだ。彼自身が行くべき道を持っていて、彼自身が行き着く場所を知っている。彼自身の全貌を、ただ眺め見るだけなのだった。
そこが始まりだった。そこに唯一の扉はあった。
MSは、鬱蒼とした深い森の中へと、男を導いていった。
知るがよい!MSは呟いた。それが、終わらせるということなのだから!
時計の針はすでに、十二時を回っていた。
出版社から執筆の依頼を受け、編集者との食事もかねた打ち合わせをしていた。アルコールは取らなかった。ドクター・ゴルドは、すでに今日になっていたが正午に、パルスペーターの社員が事務所を再訪問することになっていた。
昨日の午前中に、ストーンバイブルの試作品を持ってきていた。
機能を極秘にチェックするため、ゴルドは一晩預かっていた。たっぷりと一日かけて、作動実験をするつもりだった。しかし、予定外の打ち合わせが入ってしまったのだ。
ゴルドは、試作品の運転を後回しにした。けれどもこの時間になってしまい、結果的にはよかった。誰にも邪魔をされることのない時間が、あ、九時間近くは確保できている。明日の午前中には研究員が、それぞれの実験の結果を持って、事務所を訪ねてくる。その一つ一つに、対処しているうちに、正午になり、パルスペーターの社員がやってくる。
ゴルドは、いくつもの仕事の合間に、このクリスタルストーンバイブルの製作に励んでいた。事実上、パルスペーターの社員と二人で、秘密裏に進めていた。半年後には、公式に発表する予定だった。ゴルドの研究室が、単独で開発し、パルスペーターがその販売を担うという形で、計画は進んでいった。ゴルドは、厳重にレーザーの層に包まれた立方体を、両手で包み込みながら、持ち上げたり、少しだけ放り投げて、浮かせたりさせながら、もてあそぶように戯れた。しばらく一時間ほど、この物体との信頼関係を、築かねばならないと思った。ある種の生命体だった。ゴルドの長年の悲願だった。パルスペーターとは、新薬を共同で開発していた。そのときの営業部の男が、今のストーンのパートナーだった。まさかそのときは、会社の枠を越えて、個人的に一緒にやろうという話になるとは、思わなかった。パルスペーター社員は、営業部という肩書きだったが、元は、理学部の大学院まで出ている男で、その駆け出しの時代から、自分の中に暖めている構想があった。それが、ゴルド自身の構想と、そっくり同じであるとは、一体誰が想像することができただろう。クリスタルストーンは重くなったり軽くなったり、丸みを帯びたり、角張ったりを繰り返し、接触をもっている生命体に対して、不信感を露にしていた。
ゴルドは、表現しえるすべての形態を伝えてほしいと、心の中で考えた。レーザーの層はそのあいだも全く解けることなく、中身を保護していた。色もまた、最初は半透明だったが、緑色に光ったかと思えば、発色の薄い茶色へと変化し、黄色に輝いたかと思えば、赤色にすぐにスライドしていった。色の変化とは、全く相容れない、別のタイミングで、重さは変化していた。
この中に、バイブルが入っている。これは、形を変えた書籍だった。ある種のディスクなのだった。ゴルドは、この書籍に埋め込むための情報をもっていた。それを、安全に時が来るまで、保管しておける場所を探していた。ゴルドの事務所は、この飛行船の中だった。高層マンションを引き払ったのは、もう二年も前のことだ。スペースクラフト社との共同で、飛行船の住居を開発した。まだ一般での発売には至っていなかったが、すでに、自分はここに住んでいた。特別に、政府に許可をもらっていた。大々的に口にすることは憚られたが、ゴルドの周囲の人間にとっては、了解済みの事項であった。
別に隠しているわけでもなかった。いずれは市場に解禁される。モデルハウスとして、今は、開発の責任者が安全性の確認のため、試験的に住んでいるということにしていたる
すでにすべての検査にパスし、販売は時間の問題であった。インフラの整備もできていた。しかし住宅業界は、マンションの取り壊しに反対を貫いていたし、一軒家への願望がある住人もかなりの数を保っていた。価格を意図的につり上げ、富裕層に販売ターゲットを絞り、豊かな生活の象徴として宣伝していく戦略であった。この船を持つことで、必然的に、公共の交通機関の使用も減り、当然ながら、こういった業界からの反発も、かなりのものであった。まだゴルドの船には搭載されていなかったが、世界中、地球中を、縦横無尽に飛び回ることも、可能であった。飛行機とは比べものにならないほどの、スピードで移動し、体への負担を軽減する薬剤の開発も、同時に進められていて、それにもまたゴルドは一枚噛んでいた。共同開発者として、名前を連ねていた。
しかし、国内においては、すでに公共交通機関は使ってはいない。ゴルドの事務所は公称では決まった住所があり、訪問者はそこを訪れるということになっていて、確かにその時刻にはゴルドもその場所に戻ってくることで、これまでの世界との繋がりを、緩やかに保っていた。
それ以外はほとんど、その住所の場所にはいなかった。研究室付属の事務所兼住居で、一日のほとんどを過ごしていた。人と会食したり打ち合わせをしたり、公の場に姿を見せるときは、もちろん宇宙船は空中に置いて、地上へと降りていった。
何日も帰らないこともあった。宇宙船を自動運転させて住所へと戻すことも多々あった。そのまま地上に建つホテルへと宿泊し、タクシーや電車での移動を、することもあった。また徒歩で、街を楽しむこともあった。
遠い記憶
その荒廃したテオティワカンに、神官は、何千年ぶりかにやって来ていた。ずっと、入場を拒まれていたような気がしていた。あれ以来、自らの意思で、もう二度と、この地に足を踏み入れないと決意したとき以来。そのときの気持ちは、昨日のように思い出すことができた。これ以上、自分に出来ることはなかった。ほんの七年のあいだ、テオティワカンには帰ってなかった。こんなにも短いあいだに、自分の知っていた光景はまるで消えてしまっていたのだ。神殿は傾き、住居が集まったあたりには、下水の滞りからくる悪臭が充満していた。人々の数が、そもそも減っていた。よくみれば、ひび割れた道路に、黒い血の塊の痕のようなものが、そこかしこで、確認することができた。いったい何が起きていたのだろう。親族に訊くも、彼らは固く口を閉ざしてしまう。あのときのことを思い出す。そういえば、テオティワカンに帰った日の夜、月が変だったことが甦ってくる。あのときは、まるで気がつかなかった。今、まさに、目の前に甦ってきていた。半月の月がさらにケーキを切ったかのごとく割れていた。切り込みが入り、ショートケーキのようになっていた。確かに、あの夜、自分はその月を見ていた。意識のほうは、他にも異変を確実にとらえていた。思い出すことが、山ほどありそうだった。一つ一つが、千年のときを経て甦ってくるようだった。ずっと封印していた出来事の断片たちであった。
あの日、完全に都市を退場するだいぶん前から、自分がそのような決意をすることが、わかっていたかのようだった。見て見ぬふりをずっと続けていた。テオティワカンに帰還したときにはわかっていた。いや、違う。むしろテオティワカンから、マヤの都市に飛ばされたときには、わかっていた。それも違うと、神官は思った。飛ばされることも、あらかじめ知っていたような気がする。神官は、目の前の遺跡から、過去へ過去へと意識は遡っていた。テオティワカンの王宮に、生まれた日まで、遡っていた。
その王族に、この自分が生まれることがあらかじめ分かっているみたいだった。兄弟は誰もいないこと。ずっといないことも知っていた。成人してから、神官になることも知っていた。そして、神官の職の中身が、時間の流れと共に、激変していくこともまた知っていた。
神官は、天体の知識を、長いあいだ勉強し、自らその運行を、この目で耳で感覚でとらえることのできるレベルにまで訓練する。そして、一年の天候を予測して、農業の計画をたてる。日々の天候を、そのあと、チェックしていきながら、農作業の細かな修正を執り行う。天体の動きの把握に連動して、我が民族の、未来の社会状況、自然環境とのレベルの高い共生。他の動植物との、深い交流を基軸とした、教育プログラムの作成など、天体の知識を基盤とした様々な社会システムの構築に、尽力をつくす重要な仕事でもあった。都市全体の構想。過去から未来に渡る、存在の存続と高度なバランス。神官の仕事はまさに憧れであり、誇りであり、自分にとっての、天職でもあった。その中心的組織の一員として、仕事をしていたときに、突然、マヤへの移動を命じられたときには、心底驚いたものだった。
たしかに、優秀な神官は、今後を見据えて、近隣の都市や遠方の都市へ、さらなる能力向上のために、勉学の派遣が行われることもしばしばだった。それに選ばれた自分を、誇らしく思おうとした時期もあった。無理矢理に納得するよう、自分を仕向けていた面もあった。なんとか、正当化しようとしていた。しかし、そのときもすでに、知っていたのだ。今から思えば。今という場所から、全体を眺めてみれば。そして、その事実は、変えようがなかった。変えるべき手段の持ち合わせはなかった。厄介払いをされたのだ。
何かの計画が、秘密裏に進行していたのだ。それは、自分が生まれるずっと前からだったのだろう。おそらく、テオティワカンが、大都市として発展するその片鱗を、見せ始めたときからであったのだろう。はじめから、綿密に計画されていたのだ。何があったのだろうか。神官は、そこにある事実、あった現実と、今向き合う準備ができていた。あのとき、自分は何故、厄介払いされたのだろう。テオティワカンから追い出され、退けられたのだろう。なぜあの場にいることができなくなったのだろう。あの場で起きていることを、この目に焼き付けることができなかったのだろう。脇道に逸れてしまったのだろう。
ふと、声がしたような気がした。あの場に君はふさわしくなったのだと。あのときはふさわしくなった。今そのときが来ている。あのときではなかった。ふさわしい時期というものがある。それが今なのだ。今、君は、その場所にいる。テオティワカンに。
あのときではない。今このときだ!何千年も前のあのときではなかった。むしろ君は、ここまで歩んで来た君こそが、もうすでにあのときになっているのだ。変わり果ててしまった。直接的な繋がりは、何もなくなってしまった。君が、この地にやって来た道のりのこと。すでに記憶は薄められ、実態は消え失せている。体にその感覚は、もう残っていないはずだ。君はもう、別の場所に存在しているのだ。あのテオティワカンが終わるときを知り、完全に滅亡する前に脱出した、あのときではもうないのだ。
テオティワカンに人がいなくなり、汚染されていくときの流れのなかで、世界中に散らばっていった同胞たち、あらゆる時間の中へと、散り散りに移動していった同胞たちの、その後のひどく苦しい、運命に狭く閉ざされていくような。何かにひどく執着して、その狭き肉体と、肉体に纏わる現実という名の、奴隷状態に、嬉々として生きていく同胞たちの繁殖ぶりに、君は、今、なんと声をかけてあげられるだろうか。その発端に、君は今いるのだ。君から始まったのだ。テオティワカンなき世界は、君から始まったのだ。君が始めたことなのだ。君の意思なのだ。そう。君が、テオティワカンの盛衰を利用して、行ったことなのだ。君が終わらせなくてどうするのだろう。あの後に起こったことのすべてに、君が目を見張ることなしに、見届けることなしに、いったい何が終わるというのだろう。このままでは、君がただ始めたことになってしまう。始めたことになってしまうんだよ!
神官は、自分を見失っていた。自分という存在の輪郭を、うまく掴むことができなくなっていた。そしてさらに、声は続いた。その後の離れていった同胞たち。テオティワカンから遠ざかるために生きていった、死んでいった、生まれ変わっていった君の、分身たちを、しっかりと、その目に焼きつけるがいい。輪郭なき声は、無辺の空間を激しく揺さぶっていた。
神官には、また、四万比丘尼と名乗る声も聞こえてきていた。渦巻く重厚なエネルギーの中で、とりわけ存在感があった。四万比丘尼は、この多元的現実世界における、実に狂言回しのような役割だと自称した。あなたは神官ですね。夢の中の出来事のようだった。そうですと、答える。その答えもまた、自分が発したようには思えなくなっている。四万比丘尼が、自ら答えたかのようだった。誰が問いを発し、誰が答えているのかわからなくなっていった。四万比丘尼と名乗るエネルギーは、激しく旋回を続けながら、何かを強烈に伝えてきていた。
後に、テオティワカンは、ファラオズ・エンパイアと呼ばれ、神々の都市と祭られ、後世の人間たちに崇められて、復活を果たします。廃墟は、一度蘇ったのだと、四万比丘尼は言った。神官のエネルギーに、疼くものを感じた。そうですと、四万比丘尼は言う。あなたはそこでも、神官として生を得たのです。あなたはその後も、神官として死に、生まれ変わるということを繰り返しているのです。あなたはそのときも、その本質は神官だった。神官と呼ばれる生は、そのときが最後でした。以前の神官とは、だいぶん、姿も形も役割も変わってしまいました。その時代によって、適合した衣装を、常に着せられるのです。廃墟となり、何百年も放置された、いえ、何千年かもしれない。荒れ果てた、しかし、その骨格は、まるで失われることのなかった広大で、深淵な都市構造は、再び発見されたのです。
はじめは、それが、神々の都市として使えるとは、これっぽっちも思わなかった人たちの中にあって、わずかに、目の開いた、目覚めていた人たちには、かつてのテオティワカンの幻影が見えていた。何かがあるということは、多くの人たちが感じ取っていた。一度、頂点を極めた文明の波動は、完全にこの世から消え去ることはないのです。そして、発見されてからのテオティワカンは、もう自らを隠しておく必要はないとばかりに、その本来のエネルギーを、解放し始めたのです。
テオティワカンの地に、復活の兆しが見え始めたそのとき、あなたは神官として、再び生まれることを決意したのです。しかしこれは、本来のテオティワカンではなかった。神々の都市として、かつての、栄光の名残を再現しようとした、人間の欲望が織り成した巨大な野望であったのです。もう二度と、現れでることのない幻影による、再興。哀しみの創作なのです。しかしそれは、成される必要があることだった。たとえ、幻影であったとしても、繋いでいかなければならない、糸の創造を、担う運命を与えられた人間たちが、いたのです。あなたもまた、神官として、その事業に参加したのです。あなたは、その再興したテオティワカンに、何度も、神官として再生した。だんだんと、神官としての仕事もまた、変化していきました。天体をはじめ、天の動きを掌握し、その中におけるこの地球、この大都市、この人類の歴史の中での位置、在り方のバランスを整えていく、創造していくという神官の役割は、次第に、その範囲を著しく減少させていき、ついには、天との回路は途切れて、地球全体を最大とした認識へと、変化していき、さらには都市そのものだけが、世界のすべてであるというような、そんな都市に生まれ、そして、死んでいく。ただ、その数十年だけの範囲しか、とらえられなくなっていったのです。
都市に住む人々よりは、神官の認識能力の方が、遥かに大きかったものの、彼らもまた、ついには、都市の範囲をなかなか越えないまでになってしまった。そして、神官の主な役割とは、都市における祭りの設立。都市全体、王国全体が、一年のサイクルにおいて、巨大な祭りを組み入れることで、人々の精神を調整するという、人間の心の在り方を主体とする、都市構造へと、劇的に変わってしまった瞬間でもありました。
神官は一見、これまでよりもさらに、重要な仕事を任されるようになり、社会の中では、さらに、力を振るうようになっていきました。神官という仕事は、いつのまにか、王と同等の権力まで、備えるようになっていったのです。神官勢力と呼ばれる一代組織となって。神官たちは、王族たちとは一線を引くようになります。王続と神官階級が、反目していくのも時間の問題でした。さらには神官勢力の中にも、階級や思想を別として、様々な勢力へと別れていきました。分裂し細分化されていったのです。王族もまた同じでした。権力闘争は激化し、さらには神官たちと部分的に結び付いていく人たちも出てきました。庶民もまた、王族や神官の、さまざまな派閥に所属するようになり、社会には亀裂がそこらじゅうに存在するようになっていきました。それでも年に数度の祭りが、そんな亀裂を亡きものにするため、日頃のわだかまりを越えて、矛盾と葛藤をすべて解き放つ役割を、担い続けていきました。人間というのは、天との回路を失えば、確実に、エネルギーは、上へと流れていくことをやめ、天からは、地上にエネルギーが降り注いでいるにもかかわらず、地上では受けとることができずに、そんなものを認知する能力すら、失っていくものなのです。そして、天へと上がっていくことのないエネルギーは、地上をぐるぐると彷徨い始めます。行き場の失った、まるで成仏していかない幽霊のように。エネルギーは浄化されず、不浄の濃淡を、加速度的に増していくのです。天と地の、あるべきエネルギーの循環は、なされなくなっていくのです。次第に、祭りによる一時的な発散では、誤魔化しきれない状態になっていきます。エネルギーが浄化されずに、地を這いつくばるように、溜まっていくのです。人々の意識は、次第に暴力的になっていきます。彼らは、心の奥底では、こう感じているのです。天との回路を失ったことにも、気がついているのです。そしていつ、失ったのかの記憶も、深いところでは鮮明に覚えているものなのです。そして今、それは二度と繋がることはない、夢物語であるということにも。
テオティワカンの地は、遠く離れていってしまったこと。同じ地、同じ場所、であるというのに。そして、構造物は、そっくりと残っているというのに。見た目には、これほど華やかで、美しく飾り立てることすら、できるのに。肝心なものは、ずっと失われたまま。神官は、祭りがまったくの効力を発揮しなくなるときが来るのを、察知していました。あなたもまたそうです。何か、手を打たなければならない。手を打つということが、生きるということなのです。たとえ、駄目だったとしても、何かをしなければならない。それが生という現象なのです。たとえ、その何かをすることによって、甚大な被害が出てしまおうとも。人間にはそれを止めることができない。それが人間なのですから。四万比丘尼は言った。
女性のような柔らかな声質でありながら、辛辣な太い音質でもあった。人間というのは、一体何なのでしょう。なぜそのような資質を持って生まれくるのでしょう。神官であるあなたたちは決断します。祭りをただの踊ること、豊作を祈って、生命に感謝し、歌い踊ることで喜び、楽しみを表現すること、それから一転させることで。つまりは、人を殺めることで、ある特定の人間を選びとり、神として、崇め生活させることで、その祭りのときに、創出した神の絶頂なる世界において、殺し、昇天させることで、天との回路を復活させるという、心底、暗い儀式を始めることになってしまおうとは・・・。
本当に、四万年余りを、見つめ続けてきたのだろうか。
四万比丘尼は、いつのまにか消えていた。失った天との回路を無意識に繋ぐため、今度は、歳のいった男の声がした。取り戻すためにと、男は言う。取り戻すために、たくさんの人間が幾重もの方法で、幾重もの状況下で、それぞれ奮闘した。それなりに、成功したかのように見える男もいた。老人の声は、四万比丘尼の後を継いでいた。また、自分を徹底的に駄目にしてしまった女もいる。天との回路を意識できた、賢者もまたいる。達成することはできなかったが。そしてまた、天との繋がりから何故か、強烈に自ら遠ざかるよう、仕向けていく人間もいた。様々だった。それなりに幸せだった人生。ひどく、辛い思いが募っていった人生。そのどれもが、死の間際には、それなりに穏やかな気持ちへと誘発されていった・・・。もうこれ以上、生きて奮闘することはないという、安心感だったのかもしれない。全身からは力が抜け、あとは来たるべき別れの日を、静かに迎えるだけだった。すべての人間たちがそうだった。何も掴めずに、どこにもたどり着けずに、その日を迎えることになった。はじめから、わかっていたことだった。
だってそうだろう。偽りの回路を、いくら華々しく構築しようとも、むしろ、成功したほうが、最後にやってくる強烈な反転に落胆し、打ちのめされるからだった。だが、打ちのめされたままに死んでいく人間は、驚くほどに少なかった。ほとんどが、打ちのめされた後の人生がまだ残っていた。その期間は、自分が間違った方向で、間違った奮闘をしていったことが、思い知らされることとなった。そして、すべてを諦めることのために、運命が用意した、聖なる計らいであった。
君の、分身たちだ。君が産み出した、数多くの分身たちの、これが運命なのだ!
その目で、すべてを見ていったらいい。どの人間も、君の片鱗を担っていることに、気づくであろうから。ちょっとずつ、それこそ、周波数を変えているだけであって、その大元になっている存在の生に、気づくであろうから。そして、それが、君であるということにも。最後の神官であった、君であるということにも。いったい、この老人は、誰なのだろうと神官は思う。四万比丘尼は、いったい、どこに行ってしまったのだろう。疑問はすべて老人には筒抜けだったようだ。四万比丘尼は今も、君たちを見守っていると言った。今も、君たちの頭上で、その運命を見守っているのだと。
私は、四万比丘尼の使いのような存在だ。彼女の手となり、足となって、そう、君や君の生んだ子孫たちとの直接的な出会いを、現実のものとしている。直接的に、あるいは間接的に、四万比丘尼からの伝言を運んでいる。より具体的な存在なのだ。それぞれの子孫たちは、必ず人生のどこかで私と出会う運命にある。もっとも重大な転機で。もちろん彼や彼女が、私と会ったことで、瞬時に何かに気づくことはほとんど稀だ。しかし時間の経過と共に、私の、つまりは、四万比丘尼に、もっと正確に言えば、四万年以上にも渡っている、ある種の視線、視野が、じわりとじわりと肉体に浸透していくことで、彼らは彼らの個々のタイミングで、その視野に影響されていくのだ。この世で過ごす、最期の穏やかな時間。それこそが唯一無二の証拠なのだ。安らぎは再び、この世に戻ってくるまで続いていくのだ。
神官にはあいかわらず、地面の感覚がなくなっていた。地面どころではなく、時の感覚すら失っていた。視界には何も映ることはなかった。それでも盲目になった気はしなかった。森の中にいるようだった。鬱蒼とした、時空の網の中にからめとられ、それでいながら、身体には何もまとわりついてはいない透明感があった。
そのコントラストが、浮遊感を極限にまで、広げていた。なのに飛んでいる感じが少しもしない。上昇も下降もしていない。前後左右の揺らめきもない。捕らわれているようでもあり、自由へと羽ばたき始めている錯覚もある。
森の中を彷徨っている。ますます神官であるという唯一にして、漠然とした自己証明をも、失っていった。森の中にいるという認識が、今は自己のすべてとなっていた。
神官ではなくなっていた。過去の記憶は、流れ落ちてしまっている。神官からさらに、遡った神官。あるいは、神官の後に広がった無益の運命の鎖。ネットワーク。すべてが森の中で流れ落ちていっているようだった。
再び、四万比丘尼とおぼしき声に、繋がった。幻想ではけっして、天に繋がる道は見いだせない。人間が自ら造ることで、復活する道ではけっしてない。そんなものはどこにもないのだ。
きっぱりと忘れるがいい。忘れなさい。わたしの存在と共に。そんなものは。
少しも、残しておく価値はない、人生たちだ。流しなさい。すべてを流しなさい。見届ける必要もありません。ただ、流れていくままに、しなさい。遠ざかっていくことを、ただ許していきなさい。
あなたから離れていくだけではなく、あなたもまた、離れていくということを。流されていくということを。すべてを忘れなさい。薄れ行く小さな声に、涙が浮かんだように、一瞬感じた。しかし涙は、どこにも伝っていく肉体を持っていなかった。涙が発生する場所もまた、どこにも存在してなかった。涙は浮かびも流れもせず、初めからどこにもなかったかのように、どこにでもあったかのように、ただ・・・。その存在を失っていた。
小便をしていた。ずいぶんと長い時間、ずっとここで用をたしていたようだ。間もなく、尿は、体の外への排出がすべて終わる。アンディはレバーを動かし排水をする。トイレの中の様子を注意深く伺う。こんな状態になることが、あまりに多すぎた。前後の記憶はなかった。ここがどこかもわからない。ドアを開けた瞬間、命が危険にさらされている状況が、露になるかもしれない。アンディはズボンを整え、この狭い空間を出ていく準備をする。朦朧とした意識が次第に鋭敏になっていく。トイレは予想以上に広かった。しかも装飾が豪華だった。自分の家ではなかった。店のトイレなのか。いや、そんなレベルではなかった。そのとき、ここがすぐに円藤らやの屋敷であることに気づいた。しかし変だ。トイレを借りるからと、アンディはほとんど、裸同然で部屋を出たはずだった。トランクス一枚に、上にはTシャツを一枚羽織っただけの姿。やはり、記憶がうまく繋がらない。アンディは扉を開け、目の前に現れた螺旋階段を見上げる。どうやらここは地下のほうだ。他に部屋はなさそうだ。このトイレだけのために作られた、階段のように見える。トイレだけ、他の部屋とはかけ離れた所に、わざわざ置いたのだろうか。階段を上っていった。見た目よりも急で、廻り具合もかなり激しかった。途中、何度か足を止め、呼吸を整えなくてはならなかった。階段はいつまでも終わりそうになかった。
アンディは再び意識が薄れていくのを、何とか踏みとどまろうと意識する。
またここで記憶を失ってしまったら、本当に自分はどうかしていると思った。
けれども、この屋敷にはそういった、人の意識を薄れさせていく仕掛けがあまりに多く設定されているような気がするのだ。とにかく、今はらやの部屋まで戻らなくてはならない。最後に思い出せる情景は、らやも自分も裸でシーツにくるまっている絵だった。裸で結合したあとで、二人は寝てしまっていた。そして目を醒まし、尿意を催し、トイレを貸してほしいとらやに言った。らやは何と答えただろう。細かいことが思い出せない。簡単な道案内をしたはずだ。本当にずいぶんと、長い時間が経っているような気がする。らやがまだ、ベッドの中で一人でいるなんてことは、もうありえないことように、まるで違った時代の、違った出来事のような距離感さえ感じる。この螺旋階段を見上げる気など、とてもなれなかった。いつまでも続いていきそうだった。止まるわけにはいかなかった。とにかく、外に出なくてはならない。そうだ。もう服はちゃんと、着ているじゃないか!このまま屋敷から出ていってしまえばいい!らやの部屋に戻る必要などない。彼女をそのまま残していくことにはなるが、そもそもここは、彼女の家なのだから問題はない。これ以上、滞在していれば、きっと良からぬ登場人物も、現れ出てくるかもしれない。もう、あの絵は見たのだ。ここでようやく、アンディは自分が何故屋敷に入ってきたのか。その最初にして、唯一の理由に、思い当たることになった。らやが目当てじゃなかった。つきあってもいなかった。そもそも、絵を見にきたのだ!その絵はもう見ている。この目に焼きついている。この家に用はなかった。あとはらやからの仕事の依頼のことだ。兄のMSを、探し出さなければならない。頭が痛み、疼いた。
MSには、すでに、会っているような気がした。
二人で面と向かい合って、話合い、すでに何かに合意していたような気がする。何を持ち帰ってきたというのか。らやに何を報告すればいいのか。頭の中はこんがらかったままだ。
螺旋階段は続いていく。さらに記憶を混線させようとしているのだろうか。それとも整合させようとしているのだろうか。お前はバイブルを探しに来たんじゃないのか。自分に問いかける。そのとおりだと答える。もう見つけた。何度も見た。凝視した。あとは中身だ。中身を探っていくだけだ。そうだ。意識の拡張だ。それ以外に、あの絵の重なりを、読み解くことはできない。何をすれば。
うん?見えてきた。見えてくるぞと、アンディは思った。
あのらやの肖像を、重ね塗ったことで、何かの暗号を隠した。そのらやの背後にある何か。らやの肉体は、じょじょに消え始め、なぜか、小さな少年の姿が、寂しそうに現れ出てきた。少年は一人、とり残されている。家族はいない。両親の姿はない。兄弟の姿も、友達の姿も。すべての存在が、彼から離れていっている。しかし、その離れていっているのが、自分の視線であることに、アンディは気づいていった。
アンディが彼から遠ざかっているのだ。少年の哀しげな表情は、色濃くなっていく。そのときだ。女性の姿が見えた。母親のような気がした。淡いピンク色のスーツを来た、若い女性だった。髪はアップにセットされ、黒くて艶のある髪の毛は、肌の白さと相まって、女の魅力を発散していた。首には高価なネックレスがかけられ、シンプルな指輪もまた彼女の妖艶さを際立たせている。夜の商売をしている女性に見えた。高級ホステスだろう。滅多に、客とは恋愛関係にはならなそうな、一線を引くことに、強い意思を感じる女性だった。プライドが高く、しかし天性の品の良さが控えめな雰囲気を演出していて、時に守ってあげたいと思うと同時に、一緒に並び歩きたいと思わせる華やかさも、備えている。彼女の息子のようだった。父親の姿はない。母は一人で子供を育てている。夜の仕事をしながら。どういった経緯で、子供をもうけることになったのかはわからない。そして、その少年が書籍を持っているのだ。小さな少年ではあったが故に、異様に大きくて、重厚な箱のように見えた。訴えかけるような目で、涙さえ浮かべながら、こっちを見ているような気がする。アンディに何かを語っているのだ。伝えたいことがあるのだ。この俺に?この俺でいいのか?間違ってないのか?アンディは自分が父親であるかのような錯覚に陥っていった。母親はあのホステス。二人のあいだの一人の息子。そしてホステスの女。それは円藤らや。アンディは息子かもしれない少年に手を伸ばして、本を受け取った。あまりに軽くて、手には触れたような気さえしなかった。俺でいいんだな。俺で。少年は、アンディから目を離すことはなかった。俺は君の父親なのか?俺とらやは結婚するのか?君は、そのあいだに生まれた子なのか?アンディの手の中で、本は次第に重みを増していった。
夢の中の出来事が、次第に実態を伴って、この世界に定着してきているみたいだった。
その後、アンディは、少年がこの本の中に記してあることが重要ではないということを、伝えてきたような気がした。そうではないのだと。消してほしいのだと。書き換えてほしいのだと。すでに書かれている文字を焼き捨て、破り捨て、そして空白のページに、違う言葉を書き記して欲しいのだと、そう訴えているような気がした。
その夜の満月を見ていると、中心点を軸に突然四方に割れて、さらには細かな破片となって、あっというまに霧消してしまったのだ。岡田有事は驚いた。満月は消えている。岡田はずっと、さっきまで月のあった場所を、眺めていた。確かに満月があった。それもずっと長いあいだ、自分は見ていた。自分にしては珍しく、ただぼんやりと空を眺めていた。ムーンというゲームをやっているのだ。たまには、本物の月を見ていたって、構わないだろうと思った。そして、月は割れ、小さな破片の数々に、消えてしまった。空に撒き散らされたかのように。本物の月だと、岡田は信じて疑わなかった。だが今となっては、疑わしかった。初めから出ていなかったのかもしれない。本物の月の、さらにその反映だけを、見ていたのかもしれなかった。反射していただけの幻影。不思議と心はざわめかなかった。そんなこともあるだろうと、岡田は思った。見ていれば、再び現れるかもしれない。どんな月が出てきても、岡田には心の準備ができていた。だがその夜、月は二度と空に君臨することはなかった。本当にあのまま、どこかに行ってしまったかのように。月の中心へと凝縮された力が、その頂点に達したことで爆発し、宇宙のなかに飛び散ってしまった。そんなふうにも思えた。
太陽じゃあるまいし、爆発することなどあるだろうか。
岡田はそれでも、毎日のようにやってきたムーンゲームと、この現実の月との関係を、切り離すことができなかった。
今日の午後、彼はゲームをやめたのだった。カジノに出入りすることもやめたのだ。もう二度と、ギャンブルに身を投じるのは、やめたのだ。ラストギャンブラーになったのだ。すべて終えたのだ。すべての過程は終わったのだ。これ以上、引きずることも、なかった。完全に仕上がったのだ。まさに、自分の人生における、満月だった。完全なる丸みを達成した。何も思い残すことはない。すべては終わったのだ。その矢先だった。何にも心を煩わされることなく、ただ空を眺めていたのだ。月はバラバラに粉々に弾け散った。岡田はアンディ・リーに電話をかけた。ずっと躊躇っていた彼との繋がりを取り戻そうとした。自然発生的に、行動に移した。アンディ・リーの携帯電話は、二度ほど鳴っただけで出た。しかし本人ではなかった。女の声だった。加賀という名の女だった。あの女だ。まさかアンディの女にでもなったのだろうか。加賀は、早口でまくしたてるように、アンディがいなくなってしまったことを伝えてきた。昨晩からだという。携帯電話も財布も、鞄もすべて部屋にそのままになっているのだという。加賀はアンディを昨晩訪ねた。しかし彼は藻抜けのからだった。荒らされた形跡もなければ、アンディが自ら出掛けていった様子もなかった。戸締まりもしてなかった。一晩中、加賀はアンディの帰りを待った。しかし加賀はその部屋の様子を見た最初の瞬間、アンディが筋の通らない失踪をしたことを直観した。説明することのできない、妙な印象を受け取り続けたのだ。誰かに連れ去られたわけではない。外部の力で無理矢理に、引きずり出されたわけではない。逆に自発的に、出ていったわけでもない。そのどちらでもないことが、一目瞭然だった。
なぜか、彼女にはそう思えた。警察にはその印象については、何も言わなかった。当然だ。しかしユージン・オカダには正直に話した。誰かに伝えたかったのだろう。気の触れた女であると思われてもいいと。
その電話は、絶好のタイミングで、かかってきた。
警察は、行方不明の届けを催促してきて、まだ事件性については、何ともいえず、動きは当然のごとく鈍かった。加賀もまた、何をすることもできず、アンディの予期せぬ帰宅をただ待つことしかできなかった。
ぼんやりと、ソファーに座っていたのだ。
「今から、そっちに行く」とユージン・オカダは即答した。
電話と財布を持ち、すぐにホテルを出た。オカダはおもむろに部屋へと戻った。荷物を取りにいった。引き払おうと思った。ホテルにチェックアウトを申し出て、今後の滞在についても、すべてキャンセルしてほしいと願い出た。咄嗟の行動に自分でも驚いた。何を考えているのかわからなかった。あとになってオカダはその時のことを、こう回想する。
あのときすでにわかっていたのだろう。アンディの部屋に、自分が居候のような形で住みつき、その部屋で加賀と同棲までするということを。
そして、アンディがいつ帰ってきてもいいように、心の準備もまたしていたこと。
加賀には、ギャンブルからは、もう足を洗ったことを伝え、アンディの探偵業について、未完了のものを含めて、整理をするということ。
加賀と共に、そういった作業にしばし没頭することになったのだ。
多元のバイブル
スペースクラフト・バイブル社は、新作飛行船の開発制作を終了し、一般発売に向けて、量産体制に入ることを、市場に発表した。構想から十年。長きに渡って動き出さなかった大きな事業が、今始まろうとしていた。スペースクラフト・バイブル社は、その名のとおり、スペースクラフトバイブルと呼ぶ、飛行船型の、移動式車の開発のみを、唯一の事業とする会社として、十年前に一部上場をした。すぐに製品化する目処は立ってなかった。必要な資金は未来に実現される車の販売による、実益への期待における、投資という形で、十年にも渡って続けられた。期待は大きかった。贅沢な資金をバックに、開発は、急ピッチで進んでいった。しかしこの恵まれた環境は、早い販売実現へと結び付くことはなく、その点においては、見事に裏目に出てしまっていた。決して開発のスピードが緩んだわけではなかった。研究者の創造意欲が低下したわけでもなかった。贅沢な資金はすべてより画期的で根源的な、かつての構想を遥かに上回る、かなり先の未来からの要請に応えるかのごとく、多元的で重層的な商品というよりは、それ自体が生命体のような、そんなレベルのものを、産み落とすべく、すべてのエネルギーは投入されていったのだ。
なので、開発のスピードはより加速していた。時間の経過と共に、さまざまな方向に、同時に成長していった。もし開発を下支えする資金等が乏しく、小さなものであったなら、より早くに、市場に還元するべく、事業は展開していったことであろう。事態はそうはならなかった。十年もの長きに渡って、ただ性能のレベル、つまりはスペースクラフトバイブルの世界の認識能力の高さを、ひたすら進化させるためだけに、時間は費やされていったのだ。移動手段であるということ。住居空間も兼ね添えた、生活スタイルそのものの提案であるという、当初のビジョンなどは、遥か越えてしまっていたことは、想像に難くなかった。
「バイブルが、ついに帰ってくるらしいですよ」
史実家は興奮を抑えるかのごとく、言った。
テーブル越しの正面には、テルマと警部、二人の友人が座っていた。
レストランバーで、三人は久々の再会を祝った。
その言葉の意味を、警部もテルマも、全く理解することができなかった。
「バイブル?聖書?どこに?ついにってどういうこと?」
会っていないあいだの積もる話が、互いに始まるのだと思っていた警部は、意表をつかれた形になっていた。まだ注文した飲み物すら来ていない。
フロアはとても広くて天井も高い。テーブル同士は独立している。かなり離れている。大きな声で話さなければ、到底、聞かれることもない。顔を上げると、サーブの男性がすぐに気づいた。三人に飲み物がやってくる。
しかし誰も手をつけることなく、乾杯すらせずに二人は史実家が話すのを待っていた。
「そういえば」
警部は、沈黙に耐えきれずに口を挟む。
「今日は一種のお祝いなんだからな。君の仕事が一段落した。きりがついた。この前はすっぽかされたからね。佳境だったんだね。いい論文ができたことだろう。本になるようなら、言ってくれ」
「なあ、警部」
史実家が圧し殺したような声で囁きかける。
テルマもまた体を前傾させて身を乗り出してくる。
「ケイロ・スギサキという名前は、聞いたことがあるだろうか。画家なんだが。ないだろうな。その道に詳しい人間でも、なかなか知った名前ではない。しかしこの画家の絵は、ものすごい高値で、裏では取引されている。世界中の国立美術館クラスも、だいたいがその絵を借りている。実は展示もしている。一般に告知されてないだけで。オムニバス展だったり、常設展だったりに、密かにさりげなく飾られている。知る人ぞ知る絵だ。その情報を知り、見たい人間には、いつでも開かれている。そういった種類の画家だ。しかし売買は一切されていない。すべてはレンタルだ。貸し出し期間も、厳格に決められている。ケイロ・スギサキは、今から十年以上も前に、亡くなっている。享年38だ。しかし、作品の点数は実に多い。ピカソには到底及ばないが、ゴッホは遥かに凌駕している。いや、ピカソに迫る点数なのかもしれない。正確な数字は俺にはわからない。これをたったの十年で仕上げたというのだから、驚きだ。そして、すべては自身の専用の、美術館へと所蔵された。その美術館が期限付きで、世界中に密かに貸し出していたというわけだ。そしてすべての絵は、あるべき場所へと戻る。近い将来に。そしてそのきっかけとなる、重要な出来事というのは、このバイブルという作品が、美術館に戻るという話なのさ。どうも、小さな作品ではあるらしい。見たことはないのだが、紙でいうと、A3かそれくらいの。ところが、これが何故か非常な重さであるらしい。人間ひとりが運べる重さでは到底ない。それを運び出すのに、重機が必要であるということだ。大がかりな作業だ。乾杯しようじゃないか。このままだと、氷がすべて熔けて、水浸しになってしまう」
三人は乾杯した。
「お前の論文と関係があるんだな。それに関連したことを、調査してたんだな」
「ああ、そうだよ。そして、それはな、警部。あなたのこれからの仕事を、大いに忙しくするものなんだ」
不適な笑みを、史実家は浮かべた。「垂れ込みさ」
テルマは黙って聞いていた。
「ここだけの話に、しといてくれよな」
史実家は言う。
「そうじゃなかったことが、あるか?」
「その、さっきから言っている、美術館ってのがな。ケイロ・スギサキ・マリキミュージアムっていう。これ、国立なんだよ。二十年前にある公募があってね。巨大な美術館建設と平行して、そこを専用の展示保管をする、アーティスト、画家の一人を選ぶっていう、オーディションのようなものがあった。詳しくは、今となってはわからんが。どうも書類審査のみだったらしい」
「なんだって」
「仰天だよな。実際に、その本人が制作した、作品による審査が、なかったってことだ。それは、絵に限らず、美術全般に渡って、特に制限はなかったらしいんだ。世界中から、かなり名のあるアーティストが、たくさん参加したらしい。自分専用の、しかも半永久に残る美術館の存在は、そりゃあ魅力的だろうよ。それも生涯に渡って制作するすべての作品が、保存されることになる。その全制作を、はじめから、保証されているんだ。仕上げる以外に、何の心配もする必要がない。制作に専念できる」
「けれど」テルマが初めて、会話に割って入ってきた。
「それって、ずいぶんと、過酷なことなんじゃないかしら?保証されているってことは、抜けられないことと、同義なわけでしょ。逃げ出せないし、自分の意思でやめることもできない」
「そうだね。そういうことだ。だから、選ばれるというのは、大変な覚悟が必要なことだったのかもしれない。しかし、そんなことを覚悟して、挑んでくるような者は、はじめから端にも棒にもひっかからない。結局ね、選ばれたのは美術家ではない、素人だったんだ」
「ほんとに?それが、ケイロ・スギサキ」
「本人に、美術の経験はなかった。一枚の絵も、それこそ描いたことがない。学校の授業で、決められたお題で描くようなもの以外は」
「どうして、そんな素人が」
「そもそも、主催者側には、一つの意図があったと言われている。そのことは、今度の論文にもちろん、丁寧に書き込んだんだけど。はじめから、その一人は、誰なのか分かっていたらしいんだよ。もちろん、スギサキのことを知っていたわけではない。けれども、必ず、今回の企画に合う人間が、出てくるということ。そしてそれは、一人であるということ。何の迷いも生まれない、たったの一人であるということを、確信していたらしいんだ。だから、何の迷いもなく、ケイロ・スギサキを選ぶことができた。そして、派手に記者会見を開き、日本中に、テレビで放映されることとなった」
「ちょっと待った。それなら知ってる!見たわよ、私。当時は、超有名だった。その記者会見で確か、銃撃事件のようなものが起こらなかった?」
「警部。そのことなら君の方から」
「二十年前。そう、俺がまだ警官に成り立ての頃だ。その記者会見の警備に配置された。俺の前で、それは起こった。ケイロ・スギサキの登場と同時に、覆面をした男たちが、いったいどの隙をぬって、現れたのか。発砲したんだ。けれどね、ケイロ側、つまりは主催者側と、あとは警察の上層部には、そういった情報が事前に入っていたようで、ケイロ本人ではなく、ダミーが用意されていた。それはすでに死刑の決まっていた囚人だったらしいんだが、その男が身代わりになった」
「知ってるわ。その事件も」
「という、華々しい発表によって、世に現れた画家さ」
史実家は嬉しそうに紹介した。
「けれど、それ以降、この男に関する情報は、何ら世間には更新されることはなかった。水面下ではこれだけの絵を制作していたにもかかわらず。いや、制作していたからこその、静寂だったともいえる。徹底的に彼の制作環境は、守られていたのかもしれない」
「そういえば、美術館を警備するといった部署が、特別に作られた時期があった。もちろん、あの会見の直後だったが。しかし、それ以降も組織は継続されていた気配がある」
「ちゃんと、事は計画通りに進んでいたのさ。ただ、世間が忘れていただけでね」
「ということは、美術館も。ケイロ・スギサキ何とか美術館も、現実に存在するわけね」
テルマは言った。
「そう。もちろん、そのことも記述した。今はほとんど、空っぽのその美術館。二十年のときが経っているが、いや、二十年前には建設が発表されただけだ。ケイロの選出と共に。つまりは着工に入ったばかりだった。ケイロの制作と平行して」
「まさか」
「おそらくは、そう。完成しているんじゃないのかな」
「最近の話なのね。いったいどこに」
「それについて、警部にお願いしたいわけよ」
「あなたの著作のために」
「それだけじゃない。警部というよりは、警察全体に、お願いする話さ。場所も建物も確実につかまなければならない。バイブルの経路が、そのカギだ。バイブルが、その美術館に戻るという、その事が合図であるかのように、一斉に絵は集まってくる。そうなってしまえば、事は大きくなる。厄介になる前に、つまりは、バイブルが激しく動いたときを狙って、場所の特定をするんだ。そうしなければ、大量の絵の流れを止めることなど、できやしない」
「そうか」とテルマは言った。「美術館が建設中だから、制作の終わった絵を、すべて、同時に、展示しておくことができなかったのね」
「そういうこと」
「彼のアトリエも、やっぱりその中にあったのかしら?」
「アトリエだけじゃない。今じゃ、墓石すら、そこにあるっていう噂だ。美術館の中で、そのまま故人に手を合わせられるってわけさ。絵を見れば当然、作者のことが気になるだろ?作者のことをもっと知りたくもなる。こちらです、って具合だ」
「すべてを一ヶ所にまとめたいわけね」
「いいことを言うね。テルマ。まさにそういうことさ。それがポイントなんだ。散らばったままの断片を、一ヶ所に集めるということがね。そしてその全体像を、見るということがね」
「美術館建設における、当初からの目的か」
警部も同調した。「完成が間近だという話だ」
「そういう意味では、ケイロもまたその構想の一部だった」
「彼はどうして、死んだの?その若さで。それも本には書いたんでしょ?」
「そうだな。死因はわからないが、どうも突然死のようだね。病気だったという情報はない。おそらくは、これは俺の想像なのだが、描き終えたということなのだろう。彼には、描くべき絵があり、それを実現するためのエネルギーの持ち分があった。それを使い尽くした。そう考えれば、決して短い人生ではなかったような気はする。役割は果たせた。やりきったはずだ。後悔はなかった」
「で、俺に何を頼みたいのだろう」
「ひとついいですか?これは、重要なことですよ」
史実家は、急に、丁寧な口調になった。
「もちろん本にも書きました。しかし、事が起こる前に、人々に流布してしまっては、駄目です。おかしな先入観を、個々が持つことに寄与してしまう。本はあくまで、その後に出るべきです。事が起こり、そして、あるべきものがあるべき場所に収まることで、静けさが生まれるまでは。キーとなるのは、あくまでバイブルです。その絵が動くときです。今は、アメリカのニューヨーク、グッゲンハイム美術館の倉庫にあります。すでに、展示はされていません。あるべき場所へと、戻る準備に入っています。僕には、その戻るべき場所であるケイロ美術館が、どこにあるのかがわからない。かなりの巨大な建物なはずです。完成間近でそのサイズ。探せばすぐに、ヒットしそうな気もしますが、まったく駄目。でも、必ずあるんです。ケイロは、当初、生涯アーティストと呼ばれていました。全集作家とも。そのすべての作品が、同じ場所に、生まれたその場所に戻るとき。すべての絵がですよ。すべてが揃うとき。すべてのピースが揃うとき。いったい何が起きるのか」
僕が言いたいのは、そこなんだと、史実家は強調した。
「これは、仕組まれた、テロのようなものだ」
「なんだって?誰が仕組んだんだよ。ケイロか?馬鹿じゃないのか、お前。制作した全作品が一ヶ所に集まって、それでいったい、何が起きるって?何も起きやしねぇよ。当たり前じゃないか。何を寝ぼけてる?お前、歴史家だろ?起きたことを、ただ、事実に沿って書いていれば、それでいいんだよ。いつから先回りして、未来の妄想を書くようになった?何の根拠も兆候もない、出鱈目を、他人にまで押し付けるようになったのか?いったい何なんだ。いいかげんにしろよ。それで挙げ句の果てには、何だ。何を警察に頼もうとしている?まさか、あれじゃないだろうな。さっきテロだとか言ったよな。もういっぺん言って見ろ。簡単に、そんな言葉を吐くものじゃない。お前の妄想に付き合ってる暇はないんだ。俺は帰る。警察は決して動かない。貸し出した絵が、すべて帰ってくるだって?そもそもが、それ自体・・・。そんな事実は、ないんだよ!ケイロなんて画家もいない!いや、たとえ、二十年前に居たとしてもだ。ただの売れない自分の趣味のために描いた、そういった人間だよ。何の影響力もありやしない。あの記者会見だって、茶番なんじゃないのか?ハッタリなんじゃないのか?ああやって、派手に何かを打ち上げる必要があった。低迷していくいろんな分野、業界が、起死回生を狙って起こした、ハッタリなんじゃないのか?実態はどこにもない。ああして一時的に注目されることで、生まれる利益を、かっさらっていった連中が、いただけじゃないのか?何もかもが、張りぼてだ。お前は、そういった嘘に首を突っ込み、さらには、自分のもっていた幻想までをも、上乗せしやがった。嘘の上塗りとは、まさにこのことだ。それならそれで構わない。ひとりでやってくれ。最悪、フィクションとして、こじんまりと発表してくれ。ひとを巻き込むんじゃない。特に俺を巻き込むな。友達を。テルマを。警察を。社会を」
「俺は、ちゃんと、警告したからな」
史実家は言った。
「ちゃんと、伝えたからな。音声だって記録した」
「お前っ・・・」
「これは、グラウンドクロスの一種だ。時代の変わり目。人々の意識の変わり目に現れる、あらゆる事象が、高濃度に凝縮した一点が、出現する。歴史を記述していると、そういった場面に必ず遭遇する。地球における人類の歴史において、それはある、サイクルを伴って、やってくる。そういったことも踏まえて、俺は言っている!何も、絵画がただ、集まってきたことで、化学反応が起こるとか、発火する現実があるとか、そういったことを言ってるんじゃない!お前は、お前たち警察は、ただ、表面的にしか、物事を受け取れないんだ。あくまでな、絵画の話は、現実を象徴した、シンボルにしかすぎない。俺が何を言おうとしてるか、もう一度、よく考えるんだな。帰るのは、俺の方だ。グラウンドクロスは必ず起こる。ケイロやケイロを選び、バックアップしてきた奴ら、意識的にか無意識的にかは、わからないが、彼らは知っていた。いずれ起こることを。何のために自分たちは動き、動かされているのか。すべてを知っていた。そして、彼らは、それぞれが、自分の役割を果たした。俺もまたそうだ。お前もまたそうだ。もう一度、一人きりで感じとるんだな。すべては初めから、遥か昔から、組まれていた計画の一部なんだ。どこまで遡れば、その起源に辿り着けるのかは、わからない。ピンポイントで特定できるのかもわからない。それは、お前には関係がない。誰にも関係がない。これは俺だけの問題である。史実家として成されるべき、個人的な仕事だ。それはずっと、続いていく。俺はただ、その過程で、掴んだ情報を、お前に流しているだけだ」
場は静まり返り、三人はそれ以上、グラスに手をやることもなかった。
史実家が帰り、そのあと警部も帰り、テルマは三人分の勘定と共に、一人取り残されてしまった。
スペースクラフトバイブルⅠの完成が、間近に迫っていた。ゼロポイントと呼ばれる飛行船内にある、小さな部屋の制作から始まり、その空っぽの空間を起点に、飛行船の全体が構築されていった。構造は実にシンプルで、解体もまた容易だった。同じ素材から、バイブルⅡバイブルⅢと作り替えていくことが、可能な設計だった。スペースクラフト社は、飛行船事業において、長期の構想を持っていた。スペースクラフトにおいては、すでにⅴまでの構想はできている。さらに、研究の深化によって、その先にも、できるだけ伸ばしていくつもりだった。購入者は必ず、スペースクラフトバイブルⅠからであり、自身の使用において、クラフトを育て、進化させていかなければならなかった。もちろん、基本的に、本人以外の主人を持つことは、不可能だった。同乗はできたが、寝食を共にする主は、購入者ただ一人であった。よって一度、自分のものになってからは、一生ものだった。主人がこの世から去ったときに、クラフトもまた完全に解体される仕組みだ。もちろん途中で気にいらず、返品することはいくらでも可能だった。ただし処分には、少しややこしい手順を踏まなければならなかった。中の構造は決まっていたが、外壁は購入者の自由に任されている。クラフト社はデザインにはまったく参加しないことを決めていた。乗り物の販売社としては、異例のスタンスだった。デザインのない乗り物を売る、メーカーである。デザインは、購入者との綿密な打ち合わせによって、進められる。あるいは、購入後に、購入者自らが施していくことになる。クラフト社にも、もちろん、デザイン部門が設置され、どんな要望にも応えるために、外注で様々な会社や個人と契約をしていた。絵画やイラストのように、ペイントを希望する顧客を、想定した布陣であったり、ディスプレイの設置を要望されることへの、対策。外部から、認識されにくくするための塗装。逆に、光を強烈に乱反射させるような、板金の準備。それ以外にも様々な要望があるに違いなかった。その度にクラフト社は、他社との提携を模索して、関係を強化していくことを決めていた。内部構造は、同一の仕組みとして、統一し、外側はまったくの購入者の自由、といったスタンスを貫いていく。そして同じ素材を解体、組み替えることで、次のモデルへと進化させていく。すでに社会における都市の風景のサイケデリックさには、歯止めが効かなくなっていた。ただ、街を歩くということが、できなくなったのだ。スペースクラフト社の営業部の男は思う。目に優しい、ただ自然の緑のなかを歩くということが、人間社会の中で、完全に不可能になっていた。広告という広告、宣伝の嵐、情報の奔流に、人間は常に晒されていた。外を歩けば、我先にと、それらの情報は人間の五感をめがけて、まとわりついてくる。そして離れようとしない。神経をかき乱してくる。メッセージに次ぐメッセージだった。映像として訴えてくる。音声として訴えてくる。匂いを漂わせ、触れたような感覚を、もたらしてくる。夢の中に迷い混んでしまったかのように。夢の中に強制的に連れ去られてしまったかのように。有無も言わさず、偏見と極端と嘘の世界に引きずり込まれていってしまう。電波は至るところに飛んでいる。背後に多重の思惑の詰まった、あまりに多い夢たちの餌食になるのに、ほんの一瞬の隙さえ、許してはくれなかった。大気はそうした情報の固まりで占拠され、そしてそれには限界がなかった。情報は増えただけ濃密に重なりあい、絡み合い、世界をどんよりと、重みのもった空間へと仕上げていくだけだった。規制のしようがなかった。だが人々は、そうした重みに対しては、無尽蔵に鈍感になれるらしく、皆どこかの時点では、受け入れているようにさえ見えた。
スペースクラフト社は、そんな社会の状況に対して、いち早く、クラフト船構想を打ち出して事業化した。催眠と洗脳の森のなかに、入り込まずに移動できる手段。あるいは、同時に、寝食を共にできるプラットホーム。すでに街のなかだけでなく、あらゆる建物の中に電波情報は錯綜し、五感を刺激し、住宅の中にまで、縦横無尽に飛び回る世の中になっていた。気がおかしくなると、営業部の男は思った。スペースクラフト社の社員は、バイブルⅠの試作品に住んでいた。まだ飛行船として、宙空に飛ばすことはできなかったが、住宅として、固定したものとして、使用していたのだ。あと数年もしたら、この住居空間のままに、移動手段としても、利用できるようになる。いや、移動することが、生活のスタイルそのものになる。常に異なる世界に滞在でき、どこででも仕事ができる。乗り降りも自由だ。国境にも煩わされず、制限も当然受けない。営業部の男は、その辺りの政治的なことはよくわからなかった。広告の混線ばかりではなかった。人々が送信するメディアによるメッセージもまた、大気に放出されていた。メッセージは溢れ返り、そのガラクタもまた、神経に差し障っていた。さらには、テロや、デモは、日常茶飯事。国家同士によるミサイル攻撃。または公共交通機関や、システムネットワークの機械トラブルの多発化、重篤化。人間同士の抗争も、またどこかで必ず起こっていて、それに加えて気象の突然変異による、災害の日常化。地震の多発。水害、火災の広範囲化。混乱という言葉が、もう何年も前から、我々の辞書からは消え去ってしまったかのようであった。
ドクター・ゴルドという名の稀代の科学者が、起業して、しばらくしてから我が社と手を結ぶことになった。彼とのパートナー関係が、開発を急ピッチで仕上げていった。
ゴルドの開発が、ほとんどを占めているという。ゴルドの会社のようであった。
その姿をいまだ、見たことはなかったが、さすがに発売記念のパーティーには、顔を出すに違いないと、そう営業部の男は思った。
ユージン・オカダは、加賀ミーラと暮らすようになってからは、一度も、ギャンブル場に通うことはなかった。加賀は変わらず、ホステスとして働いていた。暇になった時間を、ユージン・オカダは、アンディの事務所で過ごすようになった。加賀ミーラとはしばらく、アンディの話はタブーになっていた。あるとき加賀に訊ねた。
「もう、あいつが帰ってくることはないように思うんだが」
加賀は表情ひとつ変えずに、どうして?と訊いた。
「俺たちは、何をしている?アンディの帰りを、ただ同棲して待っているだけなのか?それにそんな俺たちの間に奴が帰ってきてもな」
「あなた、もうやらないのかしら。あのゲームは」
「ムーンか?」
「やらないのなら、私に譲って」
「譲る?」
「教えてよ。必勝法を。私が続けるから。資産を増やし続ける」
「おいおい」とユージン・オカダは答えた。
「女が入り浸るところじゃないぞ。目をつけられたら、何をされるかわからない。容赦しないぞ。体がいくつあっても、足りやしない」
「心配してくれてるのね」
ユージンは、顔を背けた。
「誰かが継がないと、もったいないと思うの。ただ、寝かせておくなんて。お金はもう、十分にあるのよね。銀行に?」
「そんなわけないさ」
「でしょうね」
「それに、あなたが、引退してしまったら、あれに便乗して、商売していた人たちが、困るんじゃないかしら」
「知るかよ」
「そうよね。便乗されていたことにも、気づいてなかったものね」
「知らねぇよ。そんなやつらのことなんて。俺がいなくなりゃ、また別の奴に狙いを定めて、影で利用してるさ」
「まあ、そうなんでしょうけど」
「お前、本気で、ムーンをやるのか?」
「あなたが教えてくれれば。二度と、やらないのよね。二度とやらないのなら、私のものにする。少しでも未練があるのならいらない。私の方こそ、願い下げよ」
「どういう気まぐれなんだろうな。しかし、それより、お前はもう知ってるんだろ、初めから。アンディは、どうなってるんだ?いつ帰ってくるんだ?今、何をしてるんだ?全部、見えてるんだろ?お前は何でも見えている。見えないものまで。全部わかってるんだ。俺はあえて訊かなかった。そうだ。こうしよう。ムーンと引き換えっていうのは、どうだろう。お前がアンディのことで知っていることを、すべて話す。そうしたら俺も、ムーンで知っていることを、すべて話す。悪い取引じゃない。ムーンを身に付ければ、金は望むだけ手に入る。どうして俺と寝た?付き合うつもりなのか?アンディが戻ってからもか?あるいは、奴は戻らないのか?」
加賀ミーラは言った。
「悪い条件ではないわね、たしかに。でも、ひとつ訊いていいかしら。条件を付け加えても。あなたのこれまで稼いだお金を出しなさい。全財産の有りかを教えなさい。私にくれとは言っていない。有りかだけを、教えてくれって言ってるの。これは保険よ。あなたにムーンを伝授されたからといって、本当に勝てるかどうかがわからない。そうでしょ?そんな保証のないことに、私の能力を引き渡すことなんてできない」
「お前の能力を、くれといってるんじゃない。そんなのは無理だ。アンディのことだけでいい。容易いことだ」
「あなたは、なんにもわかっていないのね。そんなこと、できるわけないでしょ。アンディだけの情報だけを取り出すなんて芸当。できるわけがない。アンディの情報を開いてしまえばそれこそ、その周辺の情報は芋づる式に掘り出されていく。止まらない。止まらないのよ!止めどなく、さらなる周囲へと、情報の網は広がっていくのよ。パンドラの箱なのよ。すべては。どこを入り口に設定したとしても」
「そんな、おおげさな。たかだか・・・」
「どうやら、交渉は決裂のようね。あなたとは話にならない」
「こっちこそ、願い下げだ!たかだかアンディのことで、全財産を出せだって?しかもムーンまで取り上げられたら、また次の商売道具を見つけるのに、どれだけの時間とエネルギーが必要か、わかってるのか?」
「決裂よ!」
「どうするんだ?」
「出てって!」
「俺が?」
「戻りなさい!自分の商売に!私たちが出会う前に。帰りなさい!私たちは出会ってない。そうよ。そうすればアンディだって関係がない。そんな人。元々いなかったのだから」
そうして、ユージンはアンディの事務所兼、住居を出ていった。
向かった先は、あの屋敷だった。あの屋敷の中の絵が、そもそものアンディの狙いだった。屋敷のお嬢と、繋がったアンディが、その後、行方がわからなくなったのだから、目指すのはたったここ以外には、ユージンには残されてなかった。
加賀はユージンが部屋を出ていくとすぐに、事務所の電話を手にとった。
「あ、もしもし。あなたね。今から一人、あらたに男がそっちに向かったから。ええ。まだかろうじて、若い男。前に訪ねていった男と、ほぼ同じくらい。ええ、そう。彼にも、共通点がある。ええ。もう、自分の人生に望みなんて、限りなく抱いていない。とどめを打った。まだ打ち足らなかったけど。でも仕方がない。もう向かってしまったから。じゃあ、あとはよろしく。あとは、好きにしてちょうだい。私には連絡してこないで。それじゃあ、また。またね、MS」彼女は囁くように呟いた。
告白
こうして、私は、夫とは別の愛人である科学者の元に、あらたに二人の男を実験台として送りこんだ。月が実に綺麗な夜だった。夫もまた科学者だった。
私は、愛人とのからだの関係に溺れていった。男の言いなりになっていった。実験台になる人間が欲しいと言われれば、街に適合しそうな人間を探しに出る。色仕掛けは、ほとんど、使わなかった。薬もまた、使わなかった。愛人の研究成果は、私でも試されていたのだ。拡張した意識で、ターゲットの意識の中へと入っていった。この肉体もまた、意識の世界の中に見事に入り込んでいた。そしてその世界で彼らとは出会う。知り合い、時に親密になり、彼らのそれまで認識していた世界に、じわりじわりと切れ込みを入れていく。彼らはまったく気がつかない。自分に一体、何が起きているのか。それまでとは少しも変わらない世界に生きていると、信じきっている。
少しずつ少しずつ、拡張した意識へと、移行させていくのだ。気づかれることはない。
すべてがわかる時は来ない。それでも、だんだんと彼らにも、現実がズレてきていることが感じとれる。しかし、まさか、それまで生きていた世界そのものが、夢の中であったなんてことは、信じられないだろう。所詮は夢なのだから、そこに歪みを加えることなんて、実に容易いことなのだ。歪みを、徐々に加えていっても、彼ら人間の適応能力は、実に素晴らしいものだ。結果、気づかれることは、何もない。それにこの私が、そのように夢を操作しているということを、疑う人間は誰もいない。そして夢の操作は段階を経て、最後のステージへと進んでいった。
MSが製作した、新たな夢の世界を、彼らに移植する日がやってくる。
満月の夜だった。満月の夜に、その最後の扉は解き放たれることになっていた。
理由はわからない。何か科学的な根拠でもあるのだろうか。月との関係に、異常に拘る男だった。そういえば、私との性交渉もまた、その日の、その時間の、月の状態をよく分析して、その後の変化を注意深く吟味しながらの、行為であったことを、いまさらながら気づかされた。私は再び、夫の元へと帰った。MSとは違い、ちゃんとした正式な社会組織に属する、地位も名誉もある科学者だった。ドクターゴルドと呼ばれ、研究員の人望も厚い、世界的に名前の知れ渡った、素晴らしき研究者ということになっていた。私は十年も前に結婚し、それ以来、子供を持つことなく、ほとんど家にいて家事をこなすだけの生活を送ってきた。夫が学会に出席するとき、パーティに招待されるときにはもちろん、私も正装して同行した。ほとんどそのためだけに、結婚したように思えてしまう。私もまた、そういった華やかな場が、嫌いではなかった。
元々、コンパニオンのようなことをやっていたのだ。夫と知り合ったのもまた、有名な作家の受賞パーティであった。私の顔やスタイル、立ち振舞いは、まさにそういった場に実にふさわしく、派手目なルックスに加え、仕草や言動は控えめだった。それでいて姿勢は美しく、動きもきびきびしていた。しかしゆっくりと、メリハリもあった。ああいった場において、他の人が次に何を語り、どのような行動をとるのか。あらかじめ全てが透けて見えてしまっていたのだ。私は状況よりも先に回り、そしてゆっくりとさりげない受け身の状態を、自然に演出することに長けていた。家庭的でもあった。料理はとてもうまく、掃除もまた趣味であるくらいだ。私ほど主婦という職業に向いている女もまた、いないのではないかと思った。私はそういった自負を持っていたというよりは、そういった女性を、まるで他人を見るかのように眺めていたのだ。私は昔から、自分が自分であるような気が、ずっとしていなかった。私というこの意識と、私が動作をしている肉体というものが、いつもかけ離れていた。私は私を含む世界を見ている、そんな感じだった。私が動くことを指令しなければ、また話すことを指令しなければ、この私という身体の方は、うんともすんとも言わずに、ただぼうっと突っ立っているかのようであったのだ。意識的にわざわざ、意図しなければ何も反応しない肉体であった。その解離状態がずっと普通だったので、あの男に指摘されるまでは、特に何とも思ってなかった。誰しもが、こんな状態であると思っていたくらいだ。ところがあの男は、こうした私の状態を、わかりやすく理路整然と説明してくれたのだ。そしてこれは通常の状態とは、少し違っているのだと教えてくれた。さらには今は、中途半端な状態なのだとも語ってくれたのだ。さらに進めていくことができる。進めていくべきなのだと言った。僕が手伝ってあげよう。研究所に一度来てほしい。悪いようにはしない。きっと君のためにもなる。必ず将来役に立つときがくる。僕を信じてほしい。とにかく一度来てほしい。僕の研究所だけでも見ていってほしい。どれほどハイテクで、現実離れしているかを。君の旦那さんのものなんかとは、比べようもないほどの設備を誇っている。相手じゃないよ。あんな子供だまし。地上の施設はどれも、おもちゃのレベルだ。あいつらは一体何をやっているのだろう。俺はいつも嘲笑っているよ。気の毒だなって。残念ながら、君の旦那さんもまた、そのレベルだ。一度だけでいい。チャンスが欲しい。もちろん、そのときは、そういった言葉を侮辱ととらえていたし、私に対する奇妙な口説き文句だとも、受け取っていた。私が欲しいのね。それならそうと、はっきりと言えばいいのに。私は挑発的な言葉を吐いた。退屈だった。夫との親密な交流が、ずいぶんと縁遠くなっていた結婚生活に、嫌気がさしていたのかもしれない。からかう気になっていたのかもしれない。「いいわよ」と私は答えていた。何度だって行くわよ。その代わりと私は言った。私を利用しないって、約束してちょうだい。ただ、女としてだけ、扱ってちょうだい。それで、そのあとで、捨てるなんてことはしないで。もちろんだと、男は答えた。ある意味、これは君に生命を与えようとしていることだ。君のその、埋もれたままの能力を、開発してあげることはもちろん、その開花を最後まで見届けることも約束するものだ。ある種、研究所の助手のような立場にも、なるだろう。君のすべてが欲しい。僕の研究にも、君は貢献することができるだろう。いつか、社会にもまたその成果を還元できるときが来ることだろう。太陽と月はその位置を入れ換えるときが、必ず来るのだから。
我々はそのとき、太陽になっていようじゃないか。さあ一緒に行こう。
こうして私は、私の夢の中で二人の科学者を引き合わせたのだ。融合させたのだ。
第二章 真夜中の太陽
死地の発動、導きの儀は、都の完全放棄を前にした、ある夜に執り行われた。
雲ひとつない、満月の夜であった。テオティワカンの都で見る、最後の月だった。そして最後の満月の瞬間だった。
月は儀式が始まると同時に、その姿を劇的に変えていくことになった。
月はもう二度と、この形で姿を現すことはなかったと、一部始終をかきとめた書記の男は思った。かつては自分も神官だったが、未練はすでになかった。神事を司るすべての仕事を彼は放棄した。しかし最後にテオティワカンを見届け、そしてその最後の姿を、記録として残しておく役目だけは、放棄することはできなかった。
『死地の儀』という名の気味の悪い行事において、たとえ何が起きても、書記の男は目を背ける意思はなかった。そして書くのを躊躇することもなかった。彼はいつでも、この言葉を胸に刻んでいた。もう終わったことなのだと。終わった世界が、終わったことを自分たちに、ただ確認させるためだけの行事なのだ。死人の魂が、まだ死んだことを悟らずに、地上への未練を抱いて、さまよっているのと同じことだった。すでに肉体はないのに。成仏できない哀しき魂たち。まさにそれが都を荒廃させていた。かつての栄光はすでに過ぎ去っていた。ここに「存在」はもうないことを、肉体的に心底、知らしめるための、節目の共同体儀式のようだと書記は思った。
回顧趣味に陥ることなく、転地での余計な期待は抱かずに、ただ終わることへの現実を真摯に受け止める、大事な儀式だと思っていたのだ。
それがまさか、後世にまで影響を残していくような、特別な日になるとは思ってもみなかったのだ。今思えば死地の儀という名前に、もっと警戒しておくべきだった。集団自殺だったのだ。彼らは焼き払った都の中で、まさにその火のなかに、火そのものと同化して、宴狂っていったのだ。彼らは酒を大量に飲み、幻覚作用の強い植物を多量に接種して、そして火の中で激しく躍り狂っていった。書記を除いて。
書記は、自分の役割を心底嘆いた。この役をなぜ引き受けてしまったのか。書記は、燃え盛る炎の景色の中には、いなかった。彼だけが除外されていた。彼だけが共同体からは外れていた。そして実際、彼だけが生き残っていた。逃げ出すことなく、生きとし生けるものすべてが、最後の灰となるまで、書記は見届けなければならなかった。
都を統一支配していた王家の人間。王族たちもまた錯乱のなか歓喜の声を上げ、神官たちも死への道を華々しく彩り、あの忌まわしい、テオティワカン時代の後期にわたって、繰り広げられた、人身供養さながら、最期のときを迎えたすべての住人が、あのときの生け贄のごとく、自ら死の中へと飛び込んでいったのだ。
ただ一つ違ったのは、彼らは誰一人、鮮明な意識の中で死の恐怖と向き合い、鋭利な刃物により、人々の前で神への特別な捧げ物として、天へと召されていったわけではなかったということだ。すべてあのときの世界観とは違っていた。真逆であった。最期に大きな反転が起こったかのようであった。しかしと、書記は思う。
どうしてこの俺だけが・・・。こんな状況ならば、時代と時代の狭間、境目ならば、皆と同じようにこの自分もまた酩酊状態なままに生を終えたかったのに。
書記は今、誰に残そうとしているのかわからない書物を書き上げ、ものすごい死臭のする中で、ただ目の前の光景を、見つめていることしかできなかった。
その地は、死地となった。書記は見つめ続けていた。この地に生きる人間は、誰もいなかった。動物もまたいなくなった。植物の存在もまたなくなっている。しかし振り返ると、火に包まれた光景は生命の最後の輝きに満ちていた。
たとえ、すでに死んでいたとしても、偽りの燃焼であったとしても、終わりを飾る意味のある行為のように、だんだんと思えてきた。そしてそこに含まれることのできなかった自らの運命を嘆いていた。
これからどこに行き、残りの人生をどう過ごしていったらよいのだろう。そしてこの最期の儀式を記した、紙の束を、いったいどうしたらよいものか。ここに置き去りにしていけばいいのだろうか。風に吹き飛ばされて、雨に濡れ続ける。あっというまに、姿かたちをなくしてしまうことだろう。これは一体、そもそも何のために、誰のために書いたものなのだろう。何故、この自分は、そういった役回りに入ってしまったのか。何故、神官のままに死んでいかなかったのだろうか。
あれほど執拗に、何度も、神官に生まれ変わったんじゃなかったのか。
何故、最後にこうして、脇に逸れてしまうようになってしまったのか。
そして、その逸れたままに、書記の男は、天との繋がりをも失っていた。
いったい、どうしたら、取り戻せるのだろう。
書記の男は紙を丁寧に畳み始める。風化させてはならない。持って去らなければならない。最後の目撃者として、自分の生が終わってからも、読み次がれていかなければならないのだ。誰かが必要としているのだと、書記の男は強く思った。
それが誰なのかはわかりようがなかった。その必要としている誰かが、こうして俺を、最後に書き記す役目につかせたのだ。見えない力に操られている運命を、男は凝視した。
時は自分の周りを回っていた。自分を中心に回っていた。激しく旋回もし始めていた。さっきまでの静寂が、嘘のように。
ただ、自分だけが少しも動かずに、止まり続けていた。
書記の男は自分はもうどこにも行くべき場所がないことを悟り始めていた。そんな場所など、どこにもないのだ。はじめからそんな場所などなかったのだ。そのことをわからせるために?まさか、そのために、作られた状況なのか?辺りを見回した。
しかし、景色はなかった。固定したあるべき世界は、すでに消え失せてなくなっていた。何もなかった。激しく旋回している何かがあるだけだった。動きがあるだけだった。どこにも動けない自分。動く必要のない自分。何も、次なる地が用意されていない今。ただ、旋回していく何かだけを、見続けていた。
今さっきまで、居たはずのテオティワカンと、結びつくものなど何もなくなっている。
ほんのわずかな過去だったということが、まるで、信じられなくなっている。何もかもが、消え失せている。『死地の儀』の記憶は、鮮明だったものの、現実味のない夢のような世界に、すでになっている。死地という言葉が、辛うじて旋回する、何かにくっついていた。まるで、それは死地を生みだすためだけに、ただそれだけのために、あの最後の惨劇が催されたかのようであった。そして、その最後に合わせて、歴史は組まれ、時間は構築され、色々なことが起こり、段階を経ていったかのようであった。
何も知らないのは、この自分だけのようだった気がする。皆、テオティワカンの住人は、初めから知っていたかのようだった。すべてわかった上での、生だったかのようだ。本当に、そうなのだろうか。
書記の男には、死地がこの地球上に住む人間を、手招きしている光景が浮かんできていた。具体的なテオティワカンは消え、実態のわからない目には見えない死地が、生きとし生ける人間を、手招きしているのだ。
その地へと足を踏み入れるものは、再び生まれることはなかった。もう二度と、生まれ変わりはしなかった。死地という場所。それは出口だった。
気づけば、書記は後記を綴っていた。死地は誕生することなく、消失することもなく。いつでも、人間を手招いていた。率き入れることはしなかった。強制的に連れ込むこともしなかった。たまたまある、落とし穴でもなかった。望めば行き着く地でもなかった。ただ、死地なのだった。旋回する、時の螺旋に囲まれし、孤島に着いたときと、書記は印字する。
その孤島こそが、死地となっているに違いない。
嵐は、次第に、おさまり始める。それでも、視界はまだ開けてはこなかった。
だが声は聞こえ始めてくる。あのテオティワカンで炎に包まれた人間たちの。
そして知っていた。自分たちが何のために、この儀を執り行っているのかを。作り出した死地という名の出口。はじめから、そこにあった出口。茂みを焼き払ったことで、再び姿を現した、時の中の孤島。まさに、書記の男はその地にいた。
史実家はまた、別の著作の構想のために、新しい文章を書いていた。
死地と呼ばれる場所についての物語だった。
死地に正確な地理的場所は存在しない。かつてはテオティワカンと呼ばれていた時期もあった。しかしそれは今、メキシコシティ近郊にある、ピラミッドの遺跡のある場所とは、また違っていた。確かにそれもまた、一つのテオティワカンではあった。
しかしかつて存在していた現在進行形の都市とは、違う。遺跡であり、生の脱け殻であり、墓場のようなものだった。死地は遺跡や脱け殻や廃墟や、見世物ではなかった。死んだ地と書きながら、それは今も生きている。エネルギー体として生きている。オーラがあり、活力を発散している。死地と呼ぶのは、この世のものではなくなったからだ。この世から、別の世界へと生息場所を変えたからだ。この世的な意味での死んだ土地ではなかった。むしろ、この世界に存在している、すでに活力を失ってしまった地もまた、甚大な数になっていた。
史実家は、この死地についての文章を、書き始めていた。
何かの予兆を感じとったかのように、文章は涌き出ていた。
この肉体の新たなる動きに、史実家はついていく以外になかった。
幸い、友からの誘いの電話は、なかった。仕事に集中できた。まだ強烈な波動は、やってきていない。しかしそう長くはない未来に、この死地はおそらく、この世界へと甦る。一瞬の出来事かもしれないし、ずっと居座るような場所になるのかもしれない。しかし何かの隙間に、つまりは空間と空間の隙間、時間と時間の隙間、時代と時代の隙間、劇的な変化における境目に、その境目を埋めるために、現れ出てくるような気がした。
白紙にしてはおけない、状況の穴埋めをするかのごとく。史実家は書くことを続けた。死地の方がもしかすると、宇宙空間のようにベースになっているのかもしれなかった。そこに浮かぶ、天体、地球のように、こうして我々の世界は出来上がっている。浮いているだけのかもしれない。死地の中で。死地に包まれて。浮いているのかもしれなかった。だからその世界が揺らぎ、ほんのわずかに切れこみが入り、隙間ができることで、死地が流入してくる。海の中の潜水艦のような、我々の世界なのかもしれなかった。死地の方が、遥かに広大で、その中のほんのわずかな一部分を、我々はほんの仮初めの地として、借りているのかもしれなかった。
死地は地球の中のある時代の、ある瞬間に、ただ現れたものにもかかわらず、実際は我々を包みこんだ、赤ん坊における、子宮のようなものなのかもしれなかった。
そうした認識の逆転こそが、来たる死地現象における、重要な準備なのかもしれなかった。
死地はただ、生きた人間を欲している。
生きた人間を、引き込むことに常に飢えている。
生き生きとしている、活力溢れる人間ほど死地は心待ちにしている。
死んだ人間、生きる希望のなくなった人間に対して、誘いの手はなかった。
生きたいと、この世界で生きたいのだと、強く思っている人間こそが、死地が最も欲っする存在であった。しかしそんな人間ほど、この世への執着が強かった。引き込むことが難しかった。そういった矛盾を抱えこんでいた。
彼らは生きる世界にしか興味はなかった。しかしそんな彼らもまた、いつまでも元気で快活ではなかった。エネルギーは低下していき、肉体の死が近づいていく。すると今度は、死地の方が、そんな人間は願い下げとなる。見向きもしなくなる。死地と、この世界との取引は、常に成立することが難しかった。活力のある、若いエネルギーのピークな状態のままに、死地へと引き込むことはできないものか。当然、死地は、そう考えた。死地は常に、そこだけを狙ってきていた。どうしたら、その生きるエネルギーが、高いままに、世界に生きることに執着させないでいられるか。そこで死地が考えたのは、そういった高いエネルギーの人間たちを、その世界の中で、絶望させることだった。ただこれは、非常に難題であった。絶望させてしまえば、エネルギーは枯渇してしまう。生きたいと願う想いこそが、エネルギーそのものだった。生の頂点で、生の地から、引き剥がすことなど、できそうになかった。だんだんと、死地そのものが生き物のような、有機体のようなものに、なってきてしまったなと、史実家は思った。死地が生きた人間を、しかも、エネルギーの高い人間を引き込むだって?いったいどんな話なのだ?史実家は笑った。生きるエネルギーの、特に高い人間たちを、死の世界にそのままスライドさせようとでもしているのか?まったく正気じゃないと、史実家は思いつつも記述を続けた。
死地はそういった人間たちを集め、一体何がしたいのか。彼らを補食して亡きものにしてしまうのだろうか。彼らからエネルギーを抜き取って、殺してしまうのだろうか。
死地はそのエネルギーを元に、存在を維持しているのであろうか。
史実家は今も夜の帳のなか、蠢く死地の様子を想像した。もうここにも、手が伸びてきているのではないだろうか。今にも俺を、連れ去ってしまおうとしているのではないだろうか。帳が幾何学模様へと、姿を自在に変え、この俺をとらえようとしているかのように、見えてきた。死地はすぐそこにある。そして死地はこの世界の隅々にまで、その手を自由に伸ばしてくる。時間的、空間的制限は加わってはいない。死地は常に蠢いている。特に夜の静寂の中では、その存在が浮き立っている。
こんなときに寝ている人間たちが、史実家には信じられなかった。どうして無防備に意識を失うことなど、できるのであろう。不思議に思った。そういえばこの俺。この俺はどうなのだろうか。死地は獲物として、認識しているのだろうか。エネルギーは、高いのだろうか。この世への生きる執着は、強いのだろうか。野心もまた大きいのだろうか。人並み以上は、あるような気がする。しかしふとこの頃、史実家が感じ始めていたのは、この世界で生きるということに、だんだんとうんざりしてきたということだった。まだ心底くだらないと、思うような決定的な出来事は、起こっていなかったものの、もしそうした想いを助長させるような重大な出来事が、起こったとしたら・・・。そうなのかもしれなかった。俺はだんだんと、生きていることに嫌気が差してきているのかもしれなかった。そんなことは、これまで考えもしていないことだった。死にたいということではなかった。そうじゃなかった。何ともいえない、モヤっとした気味の悪い状態になってきた。この世界で生きることに、すでに飽きていたのだ。もうずっと前から、そうだったのかもしれない。意識してなかっただけで。もうほとんど、物心ついたときには。いや、つく前から。なのに、それを、そういった事実を、覆い隠すかのように、様々な目標を、親や社会からは与えられてきたような気がする。そうして学生時代、成人を越えた辺りまでは、生きてきた。だが突然、そのようなものは全てくだらないと思うようになっていった。唯一、書くことだけが、気持ちの高揚する事柄として、存在していった。ノンフィクションでも、フィクションでもない、自分流の書き方を会得していったことで、この世で生きる術を獲得していったように思う。涌き出てくることは、無尽蔵にあり、その手を緩めることは決してなかった。
それが今日まで続いてきた。
これからも、続いていくはずだった。はずだった?脳の中を、自分で覗いて見たくなった。エネルギーの低下は感じなかった。沸いてくる無尽蔵なエネルギーの源泉は、少しも枯渇してはいない。それどころか、増していくばかりだ。なのに、この世への未練が、劇的に低下しているとは・・・。いったい何事なのだろう。何が起きているのだろう。そうだ。これは、今回の仕事は、いつにも増して、自分に直結しているのかもしれなかった。重大な何かの未来が、すぐそこにまで、来ているのかもしれなかった。
死地という、シンボルを借りて、迫ってきているのかもしれなかった。
「来てるぞ」
「誰がですか?」
「サラハじいさんだ。前に、言っただろ?グッド・テクノロジー・オブザイヤーの、初代、受賞者の」
「ああ。その人ですか」
「ああって、興味なさげだな」
「だって、過去の人でしょ?今さら来られて、何をされるんですか?つまらないスピーチでもされちゃ、たまりませんよ」
「お前だって、スピーチしないと、いかんだろ」
「やりませんよ。そんなもの」
「お前の、パーティなんだぞ」
上司の男は、原岡を嗜めた。
「なあ、原岡。そういった態度はよくない。改めるんだ。研究者として、結果を出すだけでは、これからは駄目だ。人との接し方に、もっと愛情深くならないと。社会で、お前の研究が成果を広げていくときには、特にだ。それに、お前の研究そのものにだって、そういった冷徹な姿勢は、そのうち反映されていく。テクノロジーに携わるものは特にな、人間性ってものが、最後はものを言うようになるんだ。心のこもった在り方っていうのを、少しは研究した方がいい。サラハじいさんは、そのことを最も強調している。あのじいさんは毎年のようにパーティに来て、そのことを受賞者に伝えている。それなのにお前って奴は」
「心を込めて研究ね。ははっ。確かにね。魂を込めて、でしたっけ?何ですか、それは。魂って。頭おかしいんじゃないですかね。理論的に説明してほしいですね」
「ほら、来たぞ」
やけに肩幅の広い、背の異常に低い老人が、原岡に近づいてきた。髪は長く、ウェーブしていて、その整えられていない、汚ならしい髪の毛は、妙に高そうなスーツとの対比が、あまりに顕著だった。しかし不思議とアンバランスな感じではない。
「君かね。今年のキングは」
キングという言葉に、苦笑いを浮かべながら、原岡は丁重に頭を下げ、右手を差し出した。
サラハじいさんは、両手で包み込むように握った。暖かく重厚な手だった。
「冷たいよ。いかんね。もっと暖めないと。動かさないと。からだ全体を。研究室ばかりに、籠っていてはいかん。もっと人と接するんだ。自然とも。もっと空を見たほうがいいな。夜明けの空。昼の空。夕焼け。夜の空。空くらいにしか、良い景色など、今はない。いいかね。わしが君に言いたいのは、それだけだ。才気も十分。エネルギーの回りも実にいい。あとは空だけだ。ふぉふぉふぉ」
原岡は再び、丁寧にお辞儀をする。
「わかりました。さっそく今夜から実行します」
「ふぉっふぉっふぉっ。いい心がけだな。すぐにやるのだよ。もうすでに君の研究は土台ができた。あとはそこに積み上げていくだけだ。土台に問題はない。しかしどちらの方向に、積み上げていくのか。それが非常に肝心なところだ」
「どちらとは」原岡はすぐに訊いた。
「おおっ、実にいい心がけじゃな。すぐに訊く。わからんことは解決しておく。いい心がけじゃ。しかし一瞬、自分で考えてはどうかな。自分に質問してみてはいかがかな。しかしこの質問には、私が答えよう。方向というのは一体いくつあるのか。君にはわかるかね?」
原岡には、このじいさんが謎かけをしているような気がした。
といっても、ただの謎ではなく、科学的な。すぐに答えるのはやめた。
「方角のことを、普通は考える」サラハじいさんは言った。「東西南北。四つ。あるいは、それをどれほど細かく表現しようかと。しかしそれは違う。方角は二つしかない」
「つまりは上か下というわけですね。いや、違うな。水平方向と、垂直方向。そういったことですか?」
「ふぉっふぉっふぉっ。さすがだね、キング。ご名答。まさにそうなのだ。そのどちらかしかない。そしてどちらにいくのかを、自分でよく考えることだ。そしてどちらに今、行こうとしているのか。その瞬間瞬間でも、どちらに動いてしまっているのか。動かされてしまっているのか。それをよーく見極めることだ。瞬間瞬間の短い時の中で、意識することだ。さもないと気がついたときには、引き戻すことのできない地点へと、行ってしまっている。逆らえない気流のなかへと、飲み込まれてしまっている」
どっちに行くのが正解だとこのじいさんは言っているのだろう。原岡は考えた。
じいさんは沈黙を楽しむかのように、じっと動かず、場の流れに身を任せているように見えた。
原岡の上司は凍りついたように静止していた。上司だけではなかった。サラハじいさんと自分。その二人以外はまるで止まってしまっているように見える。
じいさんと自分だけが唯一動いている。しかしじいさんもまた、止まっていた。その止まり方が、一人だけまったく違っていた。一人、周囲からは隔絶されているような。
そうか。さっき、空の話をしていたじゃないか。垂直ですと、原岡は心の中で呟いた。
声には出さなかった。なぜ垂直なのかを考え始めた。答えはすぐには見つからない。
じいさんの瞳の中に求めた。じいさんは相変わらず、原岡を包み込むような雰囲気で佇んでいる。原岡はずっと見つめ続けた。答えはすぐに見つからなくていい。その瞳だけを覚えていようと思った。その目がいつか答えを発見してくれるだろうし、その目が原岡を、正しい方向に走らせてくれると感じた。
そしてその目が、原岡が窮地に陥ったときも再び、天へと導かれていく道筋に回帰させていくように感じられた。
原岡帰還はその後、サラハじいさんと会うことはなかったが、いつも見守られているような、そんな感じを受けるようになる。心の中ではいつも、サラハじいさんに問いかけているようにもなった。サラハじいさんは、何と感じるだろうか。どんな表情を浮かべるであろうか。
原岡帰還は日々、新住居構想における移動手段にもなる、スペースクラフトバイブルⅠの開発製作に没頭した。原案を作るまでは完全に一人きりだった。まずは会議に骨格を提出しなければならない。人と関わりあうのはそこからだった。
スペースクラフトは初め、エアークラフトという名前で、社内のコンペに提出した。
大賞の受賞を機に、ネーミングが変えられた。原岡は名前に対して特にこだわりはなかった。受賞者のアイデアは社内において確実に現実化し、製品として市場に出すことが約束された。それはまた原岡が、このプロジェクトからは逃げられないことをも意味していた。できるまでやれというメッセージでもあった。そのための投資協力は惜しまないと。年間で一人だけに与えられる特権だった。創業当時から変わっていない。そして社名も何と、今度の件をきっかけに同名へと変えるとは、原岡にとってそれは驚くべきことであった。そのための改名でもあったのだ。スペースクラフト社。そしてこのプロジェクトが一本化されることで、これまでの事業主体はすべて、段階的に放棄されていったのだ。スペースクラフト社は新しい会社として別に登記され、それまでの会社は解散という形で、社員の全員が退職するという方針を、経営陣はとったのだった。
ここまでくると、原岡には何がなんだかわからなくなった。ただ一介の研究者が、気まぐれとは言わないが、通常のアイデアを、コンペに提出しただけにもかかわらず。例年と同じく、ただの採用された一つの原案にすぎないのに。なぜ。なぜ会社全体に、こうも多大な影響を与えてしまっているのか。原岡帰還は当然、経営のことはわからなかった。経営陣がいったい何を考え、どういうつもりであったのか。税務状況はそれほど悪くはないと聞いている。しかし経常利益はここの所、じょじょに落ちてはいた。世の中の景気は決して良くはなかったので、相対的にはかなりの健全な経営の部類ではあったはずだ。にもかかわらず、会社を閉鎖するとは。そして新会社は、原岡のプロジェクト一本で行くことを決めてしまっているのだ。どうしてそんなことを。なぜ例年のごとく、ひとつのプロジェクトとして、成り立たせていこうとしないのか。
原岡は去年までの受賞プロジェクトを、見直してみた。しかしこうして改めて見てみると、どれも形にはなっていなかったのだ。もう次の年には、ほとんどの社員が、受賞したプロジェクトの名前はおろか、内容さえも忘れていて、それを地道に受賞者が製品化に向けて、努力しているのかどうかも、わからなくなっていた。原岡はさらに一歩足を踏み込み、受賞者本人の今の仕事の状況を、チェックしてみようとした。しかし何と、受賞者の半数近くは退職していたのだ。残った受賞者も、社内ではほとんど、目立たない存在になっていて、受賞を期に、昇進している者など皆無だったのだ。たったの二人を除いて。一人はもうほとんど、プロジェクトとは呼べない、会社のサポートも同僚の研究員からのサポートも外部からのサポートも何もない状況で、廃人同然に、かつてのアイデアにしがみついているだけのような人物であり、もう一人は昨晩会ったサラハじいさんだった。新会社には役員のほとんどがそのまま移行し、サラハじいさんは最高顧問という形で経営に関わり、研究員もまた半分以上は温存されるということだった。移行はスムーズに行くと思われた。しかし研究員はすべて、正社員としての契約を打ち切られ、契約社員として再雇用される見通しなのだという。さらにはその契約もまた、あらたなプロジェクトが始動するときに、招集されるものであり、それまでは一切、新会社での仕事はないということだった。経営陣はそれまでのあいだ、別の会社や研究機関での仕事を認めていて、さらにはその紹介までをも積極的に行っていた。半数近くが自主退職している背景が見えてきた。原岡の上司だった男も、退職を決めていた。たったの一週間で、ここまでの変化があったのだ。原岡は事実を知るにつれて、ますます自身の研究開発に集中できなくなっていった。
何がこういった事態を、引き起こしているのか。
原岡はサラハじいさんに話が聞きたいと思った。しかし経営陣の一人と会うことが精一杯で、サラハじいさんにはたどり着くことはできなかった。社には姿を見せていないらしかった。これまでもほとんど、あのじいさんが公の場に姿を現すことはなかったのだという。年に一度のパーティーだけが、唯一、じいさんが生きていることを確認できる、機会であったらしいのだ。
「君にかけている期待は、多大なものだよ」
次期社長となる男は言った。社長は交代したのだ。これは、重大なことじゃないか。
原岡は思う。たとえ、社員や会社形態が同じまま存続するとしても、そのトップが変わるのだ。すべてが変わるのと同義だと原岡はとらえた。
もし従業員が全員入れ替わり、事業内容も一変し、拠点も何もかも変更されたとしても、社長が変わらないのなら、何ひとつ変わってはいない。この男なのだと原岡は思った。この男と今、同じ部屋にいる。これは二人きりで深く話し合うチャンスだった。この男なのだ。原岡は何度も繰り返した。言い聞かせるように、腹をくくる必要性を感じた。余計なことは考えられなかった。
ただ、この男なのだと呟き続けるだけだった。
その男は同い年くらいのように、原岡には見えた。
「あなたが新社長。見たことがないです。部外者か?乗っ取ったのか?いったいどういうこと?この一週間のあいだに、何があったのですか?あなたの会社だ。だとすれば、これまでの会社とは、まったく繋がりはない。見た目には、同じ人材組織が存続しているように見えるが。実態は・・。それが狙いなのか?何をしようと?」
「何をしようと?」
暗闇から、響いてくる声のように聞こえた。
「僕が、何をしようとしてるかって?愚問すぎるな。自分に訊いてみたらいいじゃないか!」
部屋には電気はついていた。
しかしこの社長の顔が、いまひとつ判然としなかった。
濃い陰そのものを、見ているようだった。
「どうして、俺のプロジェクト一本で、行くと?」
答えはかえってこなかった。
自分に訊いたらいいという言葉通りだった。
「俺のプロジェクトが、決まった瞬間に、動いたんだな、あなたは。社内コンテストに目を光らせていたのか?社外には漏れていない状況だ。社内の人間か?」
しかし顔にかかった陰は、いよいよ濃くなるばかりだった。
「サラハじいさん」
目の前に突然、あのじいさんが記憶として甦ってきた。
「あのじいさんと、何か関係が?あのじいさんも、一心同体なのか?あなたたち二人が、動いた。計画済みだったのか?いつから、たくらんでいた?」
新社長は何も答える気はないようだった。
「何か答えてくれ。ヒントが欲しい。このままでは行き詰まってしまう。俺はいったいどこに居る?位置している?それがわからなければ、何もする気にはなれない。どこに向かっている?」
このタイミングで、サラハじいさんの言葉が甦ってきた。
水平じゃない。垂直に進めと。あの言葉の意味が、いまだに理解しきれずにいた。
視点を、水平状態にしては、何も見えないと、彼は言っていたのだろう。
とりあえずは、そう理解した。しかしただ空を見上げれば、それで何かが見えるとも思えなかった。今この瞬間に、君はいったい、どっちの方向に進んでいるのだろう。常に、それを意識しろと、彼は言った。
水平方向に動いているのか。それとも。空を見上げるというのは物のたとえなのだろうか。物理的にも見上げてみた。逆の方向もまたあることに気づかされる。
天から直滑降に見下ろすという構造もある。そんなことは鳥にでもならない限り不可能だ。鳥か。鳥になればいいのか?いや、違う。鳥の視点、視界を、スペースクラフトに備え付けろということなのか?そういうことなのかもしれない。
スペースクラフトの構造を、水平から垂直方向に設計しろ、ということなのかもしれない。
それでもまだ、意味がわからない。自分の視点を、水平目線から垂直目線へと変える。
それは、空を見上げるということだ。思考は、それに連動して、どう変わるのか。この状況を、利用してみようと思った。この目の前の男と、二人が居る空間情報。これを、水平のラインとしてとらえると、それを垂直へと変換する。
変換というという言葉が、妙に突き刺さった。何が起こるのだろう。消えた。
目の前の男は消えた。部屋もまた消えた。今あると思っていた状況が消えた。
それで?まだ中立地帯に居た。見上げる視界を、再入力しようとする。思い止まった。
違う。逆だ。ここに、鳥の直滑降の視点を入れるのだ。キューブ状の半透明な箱を見下ろしていた。この部屋だ。少しだけ、横にズラしてみる。キューブ状の箱が、前後左右、さらに上下に連動している。三次元のビルの見取り図を見ているようだった。おもいきって下降してみる。角度は少し違うものの、社長室にいる二人の人間が向かい合っている映像になった。逆に上昇させてみる。ビルそのものが、小さな箱状になって再現される。
いつもとは違った光景が、次々と変転していくことに、夢を見ているような気分になっていった。視界を、これほどまでに調整できる現実は、たまたまなのだろうか。どこに戻せばいいのか、まったくわからないままに、原岡はサラハじいさんの言葉の中に、そのヒントを探し続けていた。今どっちの方向にむかっているのか。それを見極めろという、唯一のメッセージ。水平方向に今は戻そうとしている。自分の思考回路を、慎重に意識する。すると、視界は最初の地点へと戻っている。
「社長」と、原岡は虚空に呼びかけた。すでに部屋には自分以外の誰もいなかった。
その男はいつのまにか、退出してしまったようだ。しかし一度は、確実に見た。そういった男は、確かにいた。彼が雇い主だ。そして今後の事業はスペースクラフトバイブルⅠの、製品一本に絞られている。サラハじいさんは最高顧問として、会社に関わっている。
明日からの研究開発の、とっかかりのようなものは見つけた。途方にくれることにならなくて、本当によかった。今はこれ以上、望むのはやめようと思った。この、小さな取っ掛かりに、今は全力を注ごうと原岡は心を決めた。
ここ最近の、一連の出来事に、坂城警部は混乱していた。
友人の史実家から聞いた絵画の話。世界中に散らばったケイロ・スギサキの絵が、すべてのレンタル期間を終了し、当初の予定通りに、ケイロ美術館にすべてが納められるという話。その美術館で、大きな混乱が起こるという話。警察による、大規模な警備の必要性を、友人は力説していた。まともに取り合わず聞き流しているつもりだったが、こうして一人になり、職務から離れたときには、鮮烈な関心事となって坂城警部の目の前に甦ってくるようだ。
さらにはこの前の警察車両の盗難事件のこともあった。見知らぬ男たちに、勝手に乗っていかれ、猛スピードで街を疾走したかと思えば、忽然とコンクリート会社の駐車場で姿を消してしまう。あれからあのコンクリート会社に、何度も見回りに行ったが、異変は何もなく、警察車両が盗まれた事実もなければ、悪戯されていた形跡もなかった。
警部はこの二つの事柄が、特に気になり続けた。何の関わりも持ちそうにない事案だった。そもそも二つとも、実際に起こったものではないのだった。友人とはあれから、電話で話してもいない。飲みに行く以外に、彼との交流はほとんどなかった。テルマとは何度かメールでやり取りしたが、あのときのおかしな話を互いに蒸し返すことはなかった。
ちょうど、そういった時期だった。警察に妙な物が送りつけられてきたのは。小包だった。差出人には坂城のサインがしてある。坂城警部とは下の名前が違った。知らない名前だった。爆発物を疑った警察官たちは、処理班を呼んで、慎重に開封した。割れ物注意のシールが貼られていた。中は厳重に半透明な袋で包み込まれている。やっとのことで中身は姿を現した。これまた半透明な立方体だった。処理班は何度も宙で角度を変えながら、その物体を眺め見た。光の反射で見え方が変わるのかどうかをチェックした。しかしだんだんと立方体を掲げる腕が下がってきて、しまいには床に立方体を落としてしまった。警官たちは一斉に建物の外に向かって走っていった。坂城警部もまたそうだった。どうしたんだと、周りにいる隊員の言葉に、立方体を落としてしまった隊員は、何も言葉を発せず、ただ立方体を指差して、あっあっと、怯えるような表情で、顔を背けることしかしなかった。
落とした衝撃で、爆発する代物ではなかった。ライトのように光を放射していた。
衝撃でスイッチが入ってしまったのだろうか。別の隊員が立方体を持ち上げる。
しかしあまりに重かった。この部屋に来たときよりも、遥かに重くなっていた。まるで別物のようだ。
「おい、手伝ってくれ」
名指しされたのは、坂城警部だった。
仕方なしに、特殊な手袋をはめ、立方体に近づいていった。
ものすごい空気抵抗を感じた。押し戻されていく気流が発生していた。物体は普通の立方体ではない。半透明な立方体は整えられた氷の固まりのようでもあった。精巧なガラス製品のようにも見えた。液体のジェルが固まったようにも、見え始める。
光は消えていた。触れてみる。特に熱くも冷たくもない。
一度触れてしまえば、抵抗はまったく感じない。両手で持ってみる。持ち上がる。あまりの軽さに拍子抜けだった。
「おい。どういうことなんだ?」
巡査部長の男が近づいてくる。坂城警部は首を横にかしげた。
立方体に視線を戻し、やはり先の処理班の男と同様に、宙で何度も回してみる。
ところが、次第に鉄の塊のような鈍重さを増していき、腕にものすごい圧力がかかっていった。坂城警部は離してしまった。再び床に鈍い音が響き渡る。爆発は起こらない。またライトのように壁に光を照らしている。
「おい。いいかげんにしろよ」
巡査部長はいよいよ怒りがみなぎってきていた。
「坂城、説明しろ!どういうことなんだ?」
「説明ですか?ただ、持つと、重量が増える仕組みになっているようですね」
ありのままに報告する。
「それで?」
坂城警部は再び、立方体に近づいた。また空気抵抗を感じる。その抵抗を無視して立方体に素早く掴みかかる。軽くなっている。その繰り返しだ。持つとどうしても持ち上げたくなってしまう。宙で回したくなってしまう。その欲望を何とか押さえる。掲げず机の上に移動させた。みんながよく見える位置へと置いた。近づくもの。距離をおくもの。目を背ける者。面倒な事態を予測して、顔をしかめるもの。様々だった。
坂城警部はその場に集まった人間の様子を、観察した。そのとき誰かが声を上げた。
皆一斉に立方体の方を見た。
「何か、浮き出てきてます。ほら」
「どこだよ」
「ここですよ」
「わからんよ」
「ここですって!」
「来てください。そんな遠くからじゃ。ほら。この角度から。あっ。消えはじめてる。はやく!」
あまりに小さな容疑者を、取り囲むかのごとく、皆一斉に近寄った。
「文字ですね。文章だ」
「なんて」
「ああ、よくわからないな。ああでも、再生とか。再生しろとか。再生する必要ありとか。そういう感じかな?あと、一時間後。ああ、消えてく・・・」
「おい、こっちからは、全く見えん」
「ピンポイントで見える角度があるようですね。僕の角度からはばっちりと見える。しかしもう、ほとんど望み薄です。ああ、終わってしまった」
一同の緊張感が緩んだその瞬間だった。大きな音を立てて空気が一気に炸裂した。
爆発したと思った。だが閉じた一瞬に、目を開けてみても立方体には何の変化もない。
「爆発ではないようですね」
「なんなんだ」
「わかりません。もっと詳しい検査が必要です」
「坂城。お前と同じ名字だよな。どういうことなんだ」
「わかりません」
「身に覚えはないのか?坂城なんてそんな一般的な名前じゃないだろう」
「そう言われましても」
「親戚にでも同じ名前はいないのか?」
「まったくの初耳ですね。僕には関係ありません」
「だといいがな」
巡査部長はこの新たに発生した事案を、誰かに擦り付けようと、その対象を探しているようであった。
「空気が炸裂しただけのようだ」
「それを爆発って、言うんじゃないですか?」
「誰も怪我人は出ていない。一番近くに居た坂城に、被害が出ていないんだ。さっさと部屋から出してくれ。しかるべき場所に持っていって処理するんだ。いいな。あとは研究所にでも送りつけて、徹底的な解明を命令しろ。もう二度と署内には持ち込むんじゃないぞ」
爆発物処理班は宙に掲げることなく、回すことなく、元の箱に詰め直して、あまり丁重そうには見えない扱い方で、建物の外へと運び出していった。
「あの男、来たんだってな」
「原岡でしょうか」
「今年の受賞者」
「大丈夫ですかね」
「俺が選んだんだ。間違いあるまい。例年とは違う」
「はじめてあなたが、自ら選ぶとは」
「驚いたか?」
「ええ。しかし」
「君を引っ張ってきたのも、この僕だった」
「原岡はどうも、私が会社を乗っ取ったと思っているみたいですよ」
「何とでも思わせておけよ」
「あなたは全面的に、表には出ないんですね」
「これっきりね。あの男とも会うことはないだろう。君とも。これまでどおり。私は自分の生活に戻る」
「今も研究を続けているんですよね?研究者としてのあなたは今も、生き続けているんですよね?」
新社長の男は言った。サラハはそうだと答えた。
「しかし、その研究を会社に提供することはない」
「ああ。社員でも何でもない。やめてからもう四十年だ」
「そうらしいですね」
「今さら年寄りが出ていく幕はない」
「研究成果は、どちらに発表するんですか?」
「成果を、現実世界に、反映させるという意味なら、もうやっているよ。昔よりも遥かにね」
「そうですか」
「もうすぐだよな」
サラハは、再び、同じ口調で繰り返した。
「絵の方も」
「絵画ですか?芸術にもお詳しいんですか?」
「そうだね。お詳しいね。ケイロという画家が非常に好きでね」
「知りませんね」
「君たち若い世代には馴染みだよ。二十年前にデビューして、十年前に死んだ画家さ。36歳で」
「あなたが惹かれるのだから、相当な天才なのでしょう」
「どうかな」
「早熟の」
「どうだろう」
「二十代で頭角を現したんでしょ?」
「残念ながら、頭角は今だに現してないよ。これからなんだ。これからついに、本格的に頭角を現すんだ。もうすぐだというのは、そういうことさ。世界中に散らばった彼の作品が、そのレンタル期間を終えて、製作した地へと戻ってくる。絵画の生まれ出た誕生の地に。その誕生の地こそが、本当の死すべき場所。死に場所ということだ。そこに、永久に、存在することになる。生誕の地に、死すことができたなら。それがもうまもなく、執り行われる。滅多にないことだ。しかしそういった計画のもとに、はじめからケイロは画家となっている。ケイロ側から見た人生とは、また別に、ケイロの外から見てみれば、彼もまた、ひとつの駒であったとさえ、言えるくらいだ。操り人形の一人だともね」
「どうして、そんなに若くに」
「若くはないさ」
「36って」
「彼にとっては、決して若くはない。君が考えているほど、小規模な枚数じゃない。全生涯をかけた創作生活だ。けっして短くはなかった。私もね、実にそこに標準をずっと合わせているのだよ。私の研究の終わりのときを。そのケイロの絵が集まるときに、一致するように・・・計算したわけじゃないよ。感覚の話だ。そうなっていくものなんだよ。私だけの話じゃない。そうやって、その時に合わせて、進めている人間たちは、少なからずいる。そういったひとつの目安になっている。ケイロがね。君を引き抜いたのも、そう。原岡くんだっけか。彼を選んだのもそう。彼のプロジェクトに社運を背負わせたのも、そう。私がね、四十年前に自らの研究所を作ったのもそう。今考えれば、すべては逆算して、動いていた。今となっては、これだけその日が近いんだ。私だってそれに合わせて、できることはしていける。私以外の人間にそれとなく、その方向にむかわせるよう、導いていくことはできる。私自身も成長したんだ。もちろん私もまた、そういった大きな青写真の中では、ひとつの駒にすぎないだろうがね」
「さっきから、おっしゃっている、そのときっていうのは、いったい何なんですか?そこまで、言ったんです。全部教えてください」
「それは、絵を見てみなければね。そこにすべてが、描かれている。何が起こるのかの、すべてが。その日の光景を、描いているということだ。私もね、世界中の美術館に、その絵の欠片を見るために、出向いたのだ。数十枚ほどだが、何度も見た。数千枚、彼の絵は、現存しているらしいが、でも十枚見たって、私にはそれが何を現しているのかわからなかった。すべてをみることでしか、真実は浮かび上がってこないということは理解できた。断片を見ただけでは、全体像はまるで理解することができない。けれども断片にだって、全体図は宿るものだろ?ヒントは掴めるはずだ。しかし深い眼差しが必要だ。見る人間のね。あるいは描く人間の。双方の。私は科学者だ。科学を深めていく以外に方法はない。自身の研究を探求していく以外に、道はない。私は二十年前に、ケイロのことを知ってから、ますますそう思うようになっていった。すべては奥深くで繋がっている。そして辿っていった。その行き着く先なのだよ。それがもうすぐ、そこまで来ている。私の研究も終わりのときが迫ってきている。集大成なのだよ。その集大成を今、次々と人間たちに還元している。彼らに注入して、彼らの中で育ち、そしてこの世界で表現していけるように。本当にその日は近い!あるいは断絶の日、といっても構わないと思う。これまで繋がっていたと思うものが、まったく繋がりのなかったことを知る日。逆もまた同じ。繋がっていた世界が見える日だ。私にしてみれば見えてる二人の科学者の姿が、共に消える日だ!」
サラハじいさんは、去っていった。
言葉のとおり二度と姿を見せることはなくなった。
アンディ・リーはユージンオカダの探偵事務所を訪れた。新築ビルの真新しいオフィスは探偵事務所というよりは、大企業のオフィスそのものだった。
一階の受け付けには若い女性が一人居て、自分の名を告げた。ユージンの事務所とアポイントがあることを伝えた。アンディはそのままエレベータのある所を案内され、一人で乗り、事務所のある四階のボタンを押した。
インターネットでいくつか候補をピックアップしたものの、どれも整然としすぎた規模の大きなものばかりだった。その中で唯一、規模が小さく、代表の男の名前に何か引っ掛かるものがあったので、即ここに決めた。
エレベータが階に着いてアンディは廊下を歩き、まっすぐ突き当たりにある部屋へと、直行する。以前から知っているかのように、そこが目指す目的地であることを、疑いもしなかった。そういったことが最近は益々増えてきた。
「どうぞ。開いております」と、声が聞こえてきたような気がした。
アンディは扉を開く。
「どうも、どうも。わざわざすみません。アンディさんですね。伺っております。すぐに案件に入りましょう。秘書の加賀も同席します。お気になさらないで。彼女は有能です。余計な口出しもしません。主に記録係として。バイブルでしたね。そういったタイトルの絵だと聞いております。間違いないですね。その絵をより詳しく知りたいということでした。もちろん、あなたと直接話した後で、本格的な調査は開始しようと思っていましたが、そこの加賀君はいつだって、フライング気味でしてね。もうすでにわかることは調べてしまいました。よろしいですか。はやすぎますか?」
「いえ、そのようなことは」アンディは答えた。こんな固い話し方を、一体いつまで続ければいいのだろう。おいっ、ユージンと、声をかけそうになった。
そういったやりとりの方が、自然な気がするのは、何故なのだろう。
ユージンオカダの表情を、それとなくチェックしていた。人のちょっとした表情に、アンディはいつも注目した。正確に言うと表情と表情のあいだにある、何かだった。
そこに真の情報はあるのだと、アンディは確信していた。秘書だという加賀に対しても、同じだった。しかし彼女はまったく会話に入ってこないばかりか、ほとんど俯き加減で紙に向かって文字を書いていたため、細かい表情を確認することは難しかった。
ふと彼女は、アンディのそのような視線を読み取り、自己防衛していたのかもしれないと、思うようになった。
「絵はですね、その実物は今、アメリカにあります。ニューヨークのグッゲンハイム美術館は、ご存じですか?そこにあります。レンタルという形で、今は展示されることなく、倉庫に保管されています。去年は常設展において片隅にさりげなく、公に姿を現したということでしたが、今は影に隠れてしまっている。レンタル期間の終了が間近ですから。実は日本から、貸し出されているんですね。ケイロという画家の作品です。晩年の。遺作ですね、おそらくは。しかしですね、この絵。調べてみると、複製がけっこう作られていて、誰が描いたのかはわかりませんよ。でも、おそらくは、正式に認められているものでしょう。誰かが勝手に盗み描くには、あまりに厳重な警備すぎますからね。まあ、公式ではないとは思いますけど。ああ、公認ね。しぶしぶ認めたっていうところですかね。よくわかりません。その複製もなんと日本で出回っている。予想以上の数なのかもしれない。まあ、当然、金持ちの家にしかないわけですけど。高値で取引されたのでしょう。複製なのに。しかしその複製も、その所有期間が決められているんですよ。そんな話きいたことあります?期限が来たら返還しなければならないんですよ。ケイロの絵を管理する団体に。ちょうど、実物が海外にレンタルされている期間と、時は同じく。レンタルが終了すると、絵は専用の美術館へと、保管が決まります。他の絵も同様。バイブル以外にも、三千点はあると言われています」
あ、とユージンは慌てて、立ったままのアンディに椅子を勧めた。
「夢中に話続けてしまった。悪い癖です。加賀くん。言ってくれって、いつも頼んでいるじゃないか。俺を止めてくれって」
加賀という秘書は言葉を発しなかった。顔も上げずに何度か頷いただけだった。
「いいですか。続けますよ。一気にいきましょう。バイブルは元の美術館に戻ることになる。世の中に密かに出回っている複製もまた、返還される。世の中でこれまで僅かに見ることのできた可能性の扉が、もうすぐ閉鎖される。あなたは今、その絵がとても気になっていて、それに関する詳しい情報を、求めている。それにまつわる、どんな情報でも。欠片でもいい。むしろ、全然関係なさそうな、意外な繋がりの方が面白いと」
「そのとおりです」
アンディもまた、他人行儀な話し方を踏襲した。すでにじれってくなっていたが、ユージンに合わせた。何故かしら、茶番を演じているような気がして、逆により真面目な態度で挑もうと考えてしまう。
「ところが正統派な情報で実に申し訳ないです。絵は一ヶ所にすべて、集められます。ひとつの美術館に。その美術館はどこなのか。公には発表されていません。しかしそれだけの枚数を、受け入れるだけの、規模のある美術館といえば、数はそうはないはずですね。いや、まったくない。あらたに巨大な倉庫を借りて、そこに置くという話もある。そこはこれから、調査をするということで。今日はご勘弁を。しかしある情報は掴みました。バイブルが日本に帰ってくる日です。これが目玉です。10月22日。航空便です。プライベートジェットにて羽田空港に着。その事実だけは掴んでいます。いかがでしょう」
「十分ですね。ありがとう」
「いえ。もっと意外性のある答えで、要求に答えたかったんですけど」
ユージンはもうし訳なさそうに言った。
「ところで」とアンディは言う。
「探偵業のほうは、始められて、どのくらいになるのですか?」
なぜか、秘書の加賀が顔を上げて、アンディを見た。
眼鏡をかけていたが、その顔はかなりの美しさであった。そしてアンディの好みでもあった。白い肌にはシワひとつ確認することができなかった。加賀は自分の行動に自分で気がつき、素早く視線を落として何もなかったことにした。
このときアンディの記憶に何かがかすり始めていた。なかったことにすることにかけては、熟達した人間のように見えたのだ。何かをしても、それをなかったことにする技術の洗練された・・・。この女もまた知ってるような気がしたのだ。
どこかで出会ったことがある。そう遠くはない過去に。関わりがあったことがある。
初めてではないと、アンディはこの二人のことを今意識にしっかりと留めている。
加賀ミーラは恋人に、その日の昼間にあった出来事を話していた。その日は互いに疲れていたため、軽いキスをするくらいで、同じ布団の中に入っていた。
「仕事は慣れたの?もう一ヶ月は経ったかな」
「あなたが会社のコンペで一位をとったときだから」
「ちょうど一ヶ月だ」
「私の就職と、まったく同じタイミングだなんて」
加賀は大学を卒業した後、企業で働くことはせずに、学生時代から続けていたホステスで生計を立てていた。しかしいつまでも若くはない。店の経営をするつもりもなければ、男の愛人になる気もなかった。そろそろ潮時だと思い、店の客であった原岡に相談した。
彼のツテで彼の会社か関連会社にOLにでもなって、潜り込もうとしたが、結局は熱心に乗ってもらった相談は、互いの恋心に火をつけてしまっただけだった。
加賀は雑誌の片隅に載っていた探偵事務所の事務職に応募し、採用された。
そのタイミングで、恋人は社内で賞をとった。そのあとで恋人のビジョンが中心となった、新しい形へと会社そのものが変わってしまった。人員は縮小された。入ってもすぐにリストラだったねと、原岡は言った。
「慣れたわね」と加賀は答える。
「それより、今日は面白いクライアントが来たよ」
「どんな?」
「昔の知り合いに、よく似てるの」
加賀は笑いながら言った。
「あっちも、なんだか知ってるみたいだった」
「それで、何が面白かったの?」
「その、クライアントの案件よ。なにあれ。あんな依頼もあるのね。ビックリしちゃった」
「その話、長くなるのかな」
「今日はやめとく?」
「もう話さないと、寝れないんじゃないの?」
「よくわかってるわね」
「僕も何だか、今日は、頭が煮えたぎっちゃってさ。適当な話題が、欲しいと思っていたんだ」
「絶好ね。その男。仮にAというんだけど。そのAがある絵のことで、もっと詳しい情報が知りたい。調査してくれって来たの。で、わたし、とりあえず資料としてよ、ネットで調べた簡易な情報を、雇い主のオカダに渡したの。参考資料として。最初の面談の予備資料として。事前の準備はとりあえず私の役目でしょ。それで資料を印刷して渡した。そしたらなんとオカダさん。その情報をそのままクライアントに、いかにも自分がすでに調査してきたかのようにしゃべるの。そんないい加減なことはないわと、私は気のせいだと思おうとした。すると、そのクライアントの、Aという男。すっごい感心しちゃって。信じられる?いかにも仕事のできる名探偵って感じの眼差しで。すっかりと信頼しちゃったのよ。これ、どういうことなのかしら。わざわざ探偵に持ち込まないでも、誰にでも知り得る情報じゃないの。そう受けとる方もそうだけど、それをさぞ、かくし球のように提示する、オカダさんの神経の方を、疑うわよね。でも、私はじっと、そのやりとりを聞いていた。ほら、そのAという男。なぜか、知ってる男のような気がしてくるんですもの。すると、その話し込んでいる二人の男たち。彼らもまた、互いをよく知ってるような気がしてくる。古い友人のようにも見えた。なのに二人は敬語なんか使いあっちゃって。しかも、探偵とクライアントという役を、大真面目に演じている。吹き出しそうになった。お互いを知っていて、それでわざとそんなやりとりをしているんだから。私がいるから?私がいることで、彼らは取り繕わなければならないの?そんなふうだった。私、退席しようかと思った。そうしたら二人は本性を現すんじゃないかと。ねえ、つまらない?私の話」
「正直言って興味深いよ」と原岡は言った。
「でも」と加賀は原岡が答えきる前に、次の言葉をもう重ねていた。「でもよ。私は、その場に留まった。この茶番を続けてもらうために。じっと観察していることにした。彼らの心の奥底では、いったい何が起きているのか。それを見抜こうとした」
「それで、見抜けたの?」
「いや、結論から言うと、無理だった。私の想像力が、乏しかったのね。なにも見えなかった。だんだんと、二人は本当に初めて会った人間同士のように見えていった。するといつのまにか、仕事の案件は進化して、転調していたの。ビックリしたわ。ただネットの情報を語っていたオカダさんが、クライアントが欲していた、機密情報を、滔々と語り始めているの。日にちを特定して、場所まで特定していた。クライアントが次に行動する指標を、端的に提示したの。どうしてその日時が出てきたのか。彼がこの件を独自に調査している様子は少しもなかった。いったいいつのまに、その日を割り出したのか。誰から入手した情報だったのか。私には何がどうなっているのか、まるでわからなかった。そういう話」
「なるほどね。できる男の話だね」
「焼いてるの?」
「仕事中は、二人のことが多いんだろ?」
「そうね」
「雇用関係が、あるとはいえ」
「ないだろうね。向こうも、なんとも、思ってないみたいだし。そもそも、私のタイプじゃない」
「わるいね。変な勘繰りしちゃって。いけないね。仕事がスムーズに進んでいないことに対する、当てつけになってる」
「大丈夫よ。あなたの仕事は、うまく順調にいくことが稀な、とてもレベルの高い仕事なんだから。気にすることはないわ。成果が直接、人間社会に繋がっていくような。影響していくような。未来の文明の方向性を決めてしまうような。探偵なんかとは、比べる土壌にもない。ただの個人的な問題を解決して、平穏な日常に落とし込むためだけの、ほとんど生産性のない仕事よ。あなたのとは違う。あなたはとても困難なチャレンジだらけの、チャレンジのしがいのある、素晴らしい仕事なのよ。自信をもってちょうだい。私はそこに惹かれているの。尊敬もしているの。だからこんなレベルの低いことに、あなたを巻き込みたくはない」
そう言われた原岡は、今夜はするつもりのなかった行為に突如、引き込まれていった。
加賀もまた拒むつもりはなかった。気づけば、二人は抱擁をし合い、深い口づけを重ね続け、寝巻きを脱いで裸になって、互いのからだを求め合っていた。
アンディは、ユージンに電話をした。事務所ではなく外で会いたいと伝えた。
仕事のことではないと、アンディは言った。あの案件はこないだで終わった。今日はちょっと、あなたと個人的な話がしたいのだと。ユージンは意外にも承諾した。
アンディの家の近くのレストランを指定した。ユージンの事務所の近くでは彼の仕事関係の人間に会う確率が高いと思ったのだ。特に加賀とは会いたくなかった。彼女との同席だけは、何としても避けたかった。あの女はどう見てもユージンの女だった。恋愛関係にある。
ユージンは予定よりも五分ほど遅れてきた。
「秘書にはここに来ることは伝えたの?」
アンディは訊いた。
「いいや。何も知らない。クライアントと、別の場所で、会ってたんだ。事務所には、これから帰る。その帰り道に寄った。それより、この前の調査はもう終わりでいいのか?日にちを知るだけで、十分だったのか?」
今日は、ユージンの話し方もこの前とは違うんだなとアンディは思った。
「そのことなんだけど」
アンディは一呼吸置く。「一緒に襲撃しないか?」
「はっ?」
「襲撃。一人だと心細い」
「ちょっと、待って。何だよいきなり。冗談だろ。遊びには俺は付き合えないぞ。襲撃って。何を考えてるんだ?」
「なあ、ユージン」
「やめてくれ。馴れ馴れしい」
「お前、まだ何も思い出してないのか?自分のこと。俺のこと。事務所のこと」
「その話か」
「だんだんと目覚めてきてるんだろ?俺のことだって、元々知っている。昨日会ってからは、ますます身近に感じるよ、ユージン。まだ、何もかもがぼんやりとしているけど。あまり輪郭がはっきりとしないから、逆にすべてが繋がっているように見える」
「たしかに」
「お前も、か?」
「言われてみればな。こんな突然の会食にも、反応してしまったんだ」
「秘書はどうしてる?加賀は?」
「その名前も、公表はしてないぞ」
「知ってるんだよ」
「曖昧な記憶のなかで」
「そう。お前と、どういう関係なんだ?今は」
「単なる雇い主だよ」
「まあ、いいさ。そのうちはっきりとする。知り合いにな、警察の人間がいるんだ。そいつも、今度の件に一枚噛ませたい。それでお前の協力が必要なのさ。坂城って警部なんだけど、何とかアポイントをとってくれないかな。三人で挑めば、取り返せると思うんだ」
「全然、話がわからない」
「バイブルだよ」
「絵だろ?グッゲンハイムから、日本に輸送される」
「どうしても欲しい」
「どういうことなんだよ。盗むのか?」
「違う。襲撃するんだ。一時的に預かるんだ。その絵が、美術館に到着してしまえば、事は起こってしまうんだぜ。なんとか食い止めなければ。これまでの世界はすべて、吹き飛んでしまう。お前の世界も、また。いいのか?いいわけないじゃないか!坂城にも、そう言っておけ。死にたくなかったら、今度の件に協力しろと。テロと一緒だぞ。地球規模での破壊活動を、野放しにしていていいのか?情報を知っておきながら、放置するのか?何の防衛体制も敷かずに、それで、警察を自認するのか?考えられないな。国の一大事なんだ。お前は、わかってくれるよな。思い出してきてるだろ?いいか。坂城だ。ちゃんと、メモをしておけ。あいつにその話をしてやれ。あいつも思い出すはずだ。すぐにピンと来なくても。必ず、お前の言葉をきっかけに、意識は広がっていく。俺らだってな、こうして二人で、面を付き合わしていることで、思い出してきてるんだ。そうだろ?どんどんと湧いてきてるぞ、ユージン。お前も、俺も、ある一人の化学者に、この肉体の改造を施されたんだ。そうだろ?マッドサイエンティストと呼ばれる、通称MSという男。知ってるよな?俺らは、それぞれ、別の時間の中で、その男と二人きりになった。その男の機密研究所を訪問した。仲介したのは、あの女だ!加賀ミーラ。あいつの元に訪ねるまでは、お前の職業は探偵じゃない。探偵は、俺の方だった。お前は、ギャンブラーだった。毎日、カジノ通いがやめられなかった、そういう男だったんだ。そこで俺たちは、知り合った。加賀もそうだ。そのときから、すでに、加賀は俺たちを狙っていたんだろうか。あいつに嵌められたのかもしれないな。加賀もまた、誰かに動かされているのかもしれない。まさにそのMSに。MSがいろんな女を掌握していて、自らの地下帝国に率いれる、男の人材をかき集めていたのかもしれない。奴の研究の成果を実際に付与する人体の存在に、飢えていたのかもしれない」
「あの警部も、そこで出会ったな」
「思い出したか?」
「ああ。俺を、逮捕するために乗り込んできた」
「その男だ!」
「あいつとのツテは、何もないぞ」
「会えばわかる。会えば思い出す」
「まさか、あいつも、そうなのか?あいつも、MSの元に?」
アンディは笑った。「そういうことだよ」
「加賀を仲介に?」
「それは、わからん。おそらくまた、違う女じゃないのか?」
「あの屋敷に、乗り込んでいった目的」
「そう。あれは、複製だったんだ」
「なるほど。22日の羽田着が、本命。複製は見たのか?そういえば、あの屋敷の女を、うまく利用できたのか?」
「ああ。いい仲になったよ。それで、部屋に招待された」
「さすがだな」
「しかし、収穫はゼロ。何も見えや・・、いや、そんなことはないかも。ああ、そういうとか。そういうことだったんだ!」
アンディは、突然、重ね塗られたあの娘の肖像が、記憶の中で溶け始めていることを知った。
彼女の美しい姿が、その構造を維持できず、自己破壊を始めている様子を、目の当たりにしていた。そしてその奥には深い黒い闇が続いていた。その深さは絵の厚みをすでに貫通しているように感じられる。キャンバスを遥かに凌駕する、奥行きだった。
絵画を置いたことで、それまでにあったはずの空間に、奥行きが生まれてしまったかのようだった。そしてそのえぐったような暗闇は、自ら旋回をし始めた。
辺りの物質は吸いこまれていくかのように、獲物をむさぼるように、旋回する闇は巨大になっていった。屋敷もまた簡単に飲み込まれ、構造という構造を、闇は旨そうに食べ尽くしていった。
巨大な谷が生まれているとアンディは思った。そうなのだ。これがバイブルに記された暗号だったのだ。おそらく、本物の絵にもそのメッセージが塗料やキャンバスに付着したときの時空の状態で、確実に埋め込まれているのだ。取り出し方さえわかっていれば、誰でも、バイブルから暗号を得ることができるのだ。複製であっても、そのわずかなエネルギーの添付は、避けられなかったのだろう。写りこんでしまったのだろう。それが記憶の中で今紐解かれていた。その瞬間にアンディは立ち会っていた。
バイブルがこの世に生まれ出た場所に回帰するとき、バイブルに纏わるすべての絵もまた、あるべき配置へと着くのだ。
爆心地だと、アンディは思う。その爆心地で起こるのが、この谷化現象なのだ。
その渦はやはり、今のようにありとあらゆる物質を飲み込むことによって、自己増長する。いったん発生した谷の巨大化は、あっという間であろう。
旋回し、そして静かに激しく、この世の空間を構造を飲み込んでいくことだろう。在ったものが消えていく。存在は無となり、生きていたものは死の淵へと沈み込み・・。誰も何も止められはしない。
すべてはバイブルが、あるべき場所へと、その位置を獲得することで始まる。
アンディはその瞬間を恐れた。あってはならない事態だと感じていた。何としても食い止める必要がある。知ったものの責任だった。今ならぎりぎり間に合うかもしれなかった。アンディはユージンに、とりあえずは坂城からだと叫んでいた。
ユージンの顔も、見る見る間に青ざめていった。
その夢を見たとき、隣には当然のことながら恋人の加賀が寝ていた。
彼女は目を醒まさなかった。原岡の額には汗が吹き出していた。シーツもまた頭部の在った場所がぐっしょりと濡れている。それとは正反対で、上半身はまるで湿ってなかった。下半身もまた同じだった。全身がひどく冷えきっていた。大声で叫んでいた。自分の声で起きてしまったのだ。飛行船がそこらじゅうに飛びまくっている世界に、自分は居た。スペースクラフトバイブルの未来を、垣間見たのかと思った。しかし世界は飛行船のテクノロジーのレベルにはまったく比例しておらず、むしろ退行したかのような世界であった。ひどく土着に根付いた宗教が、生活の主体にあるような原始社会のように見えた。
原岡は登場人物の一人になっているわけではなかった。ただ同化していない距離を置いた見物人として、まさに宙に浮いたまま、繰り広げられる光景を眺め続けていたのだ。何かの儀式のようにも見えた。共同体が一体となった、祭りのようにも、原岡には見えた。その儀式の様子を、飛行船の中で見物することが、この世界では流行っていたのだろうか。花火大会のときに、川に浮かべた屋形船からみているような、そんな光景とイメージが重なった。
大きな広場では若い男女が情熱的に踊っていた。太鼓の速いリズムが鳴り響いていた。
そのリズムはかなりの高速を刻み続け、原岡にはどんどんと速くなっているように聞こえた。しかし踊る人々は、まったく涼しい表情で、そのリズムについていった。彼らの身のこなしは実に軽やかだった。低い平屋の建物が広場を囲んでいた。ちょうど正方形に、広場はつくられていて、平屋の一番内側は、その正方形の線に合わせて、たてられていた。それに続いて平屋が後部まで扇状に連なっていて、意図的な都市計画の元に、造られていることは一目瞭然だった。文明の雰囲気から、原岡は年代を割り出そうとしていた。原岡はずっと、夢の最中、わかっていた。これがただの夢であり、自分はその中をさまよっているのだということが。年代と地域がまったく予測不能であった。
夢なのだから、仕方あるまいと、原岡は冷静にその様子を見守っていた。
原始社会に鳴り響く太鼓の音と、表情ひとつかえずに、楽しんでいるのか、祈っているのか、激しい心を吐露してるのか、まるで読むことのできない人々の戯れ。古代社会を思わせる、都市の設計でありながら、よく見れば、建物一つ一つは近代的な外装。全体としての世界観がよくわからなかった。そしてこの飛び交う飛行船。あらためて、空を見上げて、原岡は驚きのあまりに目が覚めてしまった。その瞬間に上げた、叫び声だったのだ。空を埋め尽くしていた。
原岡は、加賀ミーラを起こすまいと注意しながら、布団をそっと抜け出した。
キッチンに行き、コップに水を入れて一気に飲んだ。洗面所に行って顔を丁寧に洗った。
あの空を埋め尽くした、様々な形を模した飛行船の数々を見て、気味が悪くなった。大量の蜂が、視界の中の空を埋め尽くしているのに、何故かショックを受けた。隙間からはわずかに、空が垣間見えただけだ。音が何も聞こえなかったことが、神経回路を切ってしまったかのようであった。あの一瞬、祭りに鳴り響いていた太鼓の音も消滅していた。何も聞こえない世界だった。地上の世界は消えてしまっていた。
原岡はあの瞬間の出来事を、その後も忘れたことはなかった。その一瞬に、何かが宿っているような気がしたのだ。その瞬間だけのために夢は創造されたかのごとく。
夢の中とこっちの現実とのあいだの狭間だった。
原岡は再び顔を洗いながら思った。すでに汗は止まっていたものの、ずっと今も垂れ流されているかのような感覚が続いていく。どこか自分を守る、自分であることを足らしめる境界線のようなものに、破れが生じ、中にあった物質が漏れ出ているかのようであった。その状態がずっと続いている。これまで塞き止められていた何かの流出が止まらなかった。
原岡は再び、意味もわからずに顔を洗い続けた。
だんだんとそれは、強迫神経症のようにやめることができなくなっていった。
理由のない恐怖のようなものを感じた。あのすべてが止まってしまったかのような瞬間、世界から音が消え、空を埋め尽くすほどの多種の飛行船の数々。その瞬間だけ、飛行船はわずかな振動も止めていた。その瞬間のことがいつまでも、頭からは消えることがなかった。
そして原岡は、その日スペースクラフトバイブルⅠⅡⅢを続けて、設計することに成功した。その一瞬は原岡の中で時間から空間へと変更されたように思えた。前後一点に止まった、その時間は空間における凝縮された一ヶ所。狭い一ヶ所へと急激に凝縮していくようであった。この視界もまたそうだった。ひろがったパノラマは、その範囲を角から削りとり、縮小を繰り返し、その視野の現象の中に、原岡の感覚もまた萎んでいくようでさえあった。掠め取られていくようでさえあった。
ふと原岡は、この急激な狭窄によって、自らはその輪郭の外側にはみ出てしまったかのように感じた。狭窄は視界だけでなく、音にもまた及んでいた。一点に集約されるかのごとく、空間は圧縮を続けていた。
原岡には為す術がなかった。
今、自分が布団のなかにいるのか、外にいるのか、立っているのか、寝ているのかも、わからなくなっていった。視界と音のない世界の中では、自分の存在を完全に失っていた。ただ名もない場所に、目的もなく、浮かんでいるだけだった。
原岡は突如、ここだと叫びたくなった。ここが俺の求めていた場所なのだと。スペースクラフトが、自ら求めた場所だった。原岡をここまで導いた、運命が与えた場所だった。
原岡を支援してきた人々の夢でもあった。そうだ。これは色んな人の描いてきた、夢の場所でもあったのだと思った。原岡の目に急に涙が込み上げてきた。原岡はただこの名もなき場所に感謝した。時を忘れ、原岡はこの場所にただ浸り続けた。可能な限り、ここに留まろうとさえ思った。どこにも行かなくていい。ただ運命が望むだけ、ここに居続けたらいい。原岡は味わいつくした。いずれ、ここを出され、再び新しい動きが現れるときを、待つことにする。しかし展開は何もなかった。原岡は至福に満ちていた。このままの状態が永遠に続いてほしかった。加賀の隣に寝ていることに気づいたとき、すでに夜は明けていた。カーテンの隙間から光が漏れ入ってきていた。加賀は眠っていたが、右手で顔を擦り始めていた。もうすぐ目覚めは近いようだった。
原岡は夢の世界が多重に入れ込まれていた構造のことを思った。今この場面さえも、その夢の中の一部であるような気がする。多重の夢の森の中で人は生まれたときから死ぬまでを過ごすのかもしれないなと思った。森はどこまでも続いていき、その複雑さは日に日に濃くなっていくようだった。折り重ねられていくことで、複雑さを増していく生き物のように、縦横無尽に動いていく森の姿。その様子を原岡はぼんやりと眺めていた。
人体の中に入って、自らの細胞を見ているようでもあった。この折り重なっていく光景は、生物が自らの苦痛のために、身を激しく捩っている光景と重なった。原岡はまた、新たなる気づきを得ていった。捩りは加速していき、絡まりがどんどんとひどくなっていく中で、森の範囲は狭くなってきていたのだ。絡まりの塊に中心があるかのように、その点に向かって圧縮されていくようだった。あるいはその一点が、周囲を激しく吸い込んでいっているかのようだった。
こうして、森をこの場所から見ていれば、いずれは、凝縮の果てに、消滅していくことが予感された。
しかし、森の中で生息するものは、一体どう感じるのだろう。
原岡は、この二つの地点に居た。そして、その二点を意識しているまた別の地点の存在にも、気づかされていった。さらには、ベッドの中に居る自分もいた。
いったい、いくつの地点に、自分はいるのだろう。どれもが確信をもつことができない。
今では、ベッドの中に居る自分でさえ、その確信の優位性はほとんど剥奪されているような気がする。
「おはよう」加賀ミーラが、小さな声で話しかけてくる。
「起きてたの?」
「いまね。よく眠れた?」
「ぅぅん。どうかしら」
加賀は、まだ完全には覚醒しきれていなかったようだ。
「夢をたくさん見ていたような気がする」と彼女は言った。
「例えば、どんな?」原岡は訊く。
答えは返ってこなかった。自分の夢を、振りかええっていた。ひとつひとつ遡っていた。
共通点を、記憶の軸にしていこうと思った。とにかくこれは、スペースクラフトのアイデアなのだ。そのことばかりを日々考えているのだ。その一点に、夢も現実もすべては結実してきている。あの森のことが再び思いだされる。今居る世界が森の中だったとすると、空間はどんどんと折り重なり、あらゆる事象は複雑化しているのかもしれなかった。繋がるはずのない遠い地点の出来事が、考えられないほどに接近し、出会うことさえある。重なりあうことさえある。そんな時代に生きているのではないか。そのタイミングでの、スペースクラフト社の創業。この自分のコンペにおける受賞。スペースクラフトバイブルの製作。すべては繋がっているような気がする。
空間の圧縮は加速していき、そして一点へと集約されるとき、重なりが重なりを誘発し、重なりがそれまでの世界を打ち消し合い、さらに別の世界を創造して、再び対消滅を繰り返していく。しかし一点への集約に勝る力はどこにも存在はしない。
スペースクラフトの存在。世界がその一点へと消滅するとき、出現するスペースクラフトの存在。その一点こそが、スペースクラフトなのではないだろうか。これまで単なる移動手段としての飛行船を模索し、自動車のように市場に流通させ、さらには住居までをも組み込もうと考えた、未来型のプライベート空間。来たるべき、近未来のライフスタイルの提案のために、計画していることだと思っていた。ライフスタイルというのが、コンセプトだったような気もする。けれども、そんな気は今はまったくしなくなっていた。これはその来たる一点のためだけの、その一点を表現するためだけの・・・。意味など、目的などまるでない、ただの現実の表れにすぎないのではないだろうか。
その一点を表現した・・・。何のために。
その後、森は、いったいどうなってしまうのだろう。森は消滅してしまうのだろうか。
それとも、別の形態となって、別の空間で、あらたな成長を続けていくのだろうか。
原岡にはわかりようがなかった。行き着くところまで収縮していったのなら、今度は膨張していくのであろうか。空間は込み入った重なりから解放され、緩んでいくのであろうか。拡大していくのであろうか。とてもそのようには思えなかった。一点に結実していくのだとしたら、その後に膨張していくための、どんな空間も、そこには残されていないはずだと思った。
「話は、聞いたよ」と坂城警部は言った。
「お前たち、あの日のギャンブル場の、常連だったそうだな」
「そうだよ。で、これがあんたの狙っていた、ラストギャンブラーだ」
アンディはユージンオカダを指差した。
「もう、足は洗ったがね」アンディは付け加える。
「残念だったな」とユージンは言った。「しかし、これも何かの縁だ」
「たしかに話は聞いた」坂城警部は言った。「お前ら、頭がおかしいんじゃないのか?」
「そう思うか?」
「誰が聞いてもな」
「あんたがだよ」
「警察にそういう話し方をするな。勘弁してくれ。こうして来ているんだ。察してくれ」
「で、そういう情報は、警察の方ではどうなってるの?」
アンディは訊く。
坂城警部は首をかしげ、何度かうなずいたかと思えば、今度は頭を抱え始める。
「どうなんだ?」
ユージンはたまらず煙草に火をつける。
「お前、禁煙してるんじゃなかったのか?」
「やめたのはギャンブルの方だ」
「まあ、いいや。坂城さん。警察がつかんでいることを、こっちに少し、流してくれないかな。あんたのところにも、もちろんメリットはある。カジノのことは洗いざらい、俺たちが知ってることは、全部話す。俺たちはもう、立ち入ることはない」
坂城は急に口をつぐんでしまった。
「イエスかノーかで答えてくれ。こっちも忙しい。駄目ならあんたの所は見きりをつける」
あいにくと、坂城は絞り出すような呻いた声を出す。
「警察はそんな話はつかんでいない。ガセネタだ。そんなものは。妙なものを掴まされたな。しかし」
坂城警部の表情は一変していた。
「俺個人は、別だ」と坂城は答えた。
「俺の知り合いの歴史家からも、また君らと同じような話を俺は聞いた。相手にもしなかった。友人だったが、そのとき以来、連絡はとっていない。ついにイカれたんじゃないかと、俺の警戒心に火がついた」
「けれども、気になり続けてたんだな」
「ああ、似たような話が、それほど間を置かずに。舞い込んできたんだ。馬鹿げた話であっても、俺のなかでは決着をつけなければ」
「話はわかった」アンディは言った。
「それで、乗るのか乗らないのか。それを、聞きに来た」
「乗る?」
「襲撃だよ」
「はっ?」
「乗るのか?乗らないのか?どっちなんだ?」
「襲撃って、何の」
「回りくどいのは、よそうぜ」
ユージンは、言う。
「あんたの腹の中では、もう決まっているはずだ。もうすでに、話に乗ってきている。行動しちまっているんだ。引き返せるわけがねぇ。つまりは、その絵画、バイブルが、空輸で羽田に降り立つときを狙って、奪うってことだ」
坂城は急に笑いだした。
ユージンは続けた。
「奪うといっても、永久に保持しておくわけじゃない。売ることもしない。いずれはしかるべき場所へと返納する。ただ時期をズラしたいだけだ。タイミングを乱したいだけだ。そうすれば、すべてのバランスは崩れる。ほんの小さな掛け違いで目的は十分に達成できる。たいしたことをやろうとしてるわけじゃない。ちょっとばかしの、横やりを入れるだけだ。イタズラをするだけだ。そのためにあんたの手が必要なだけだ。警察というほんの少しの仮面がほしいだけだ」
「仮面・・・」坂城警部は呟いた。警察という仮面、仮面、仮面・・・。
「ほんのひととき。あんたに、それ以上の迷惑はかけない。たいしたことじゃない。ほんの少しだけ、ズラスだけだ・・・。誰の目にも止まらないくらいの、わずかな裂け目を入れたいだけだ。ただのそれだけ」
「お前ら、まさか、警察車両を拝借したりはしてないよな?」
自分の発言に一番驚いたのが、坂城自身だった。
「何を言ってるんだ?」ユージンは言う。
「まあ、いいから」アンディが間に入る。
「そんなわけないか」坂城は天を見上げる。
「何かあったのか?」
アンディは身を乗り出した。
「この際だ。気になったことは、何でも聞くぞ。何か、俺らのことに関係があるのかもしれない。こんなときだ。どれが重要なことなのかは、わからん。あるいは、すべてが関係していて、関連づけられるかもしれない。すべてがね。すべてを結びつけようじゃないか、坂城警部!」
その言葉が、妙に彼には響いたようだった。急に顔色がよくなり、艶が増したかのようだった。坂城は署内の警察車両が、おかしな動きをしたことを、鮮明に思い出していた。コンクリート会社まで、猛スピードで追っていったこと。史実家の友人から聞かされた、絵画バイブルのこと。作者である画家の男の話。生涯に渡った全作品の存在の話。世界にレンタルという形で、秘密裏に広がり、その後、レンタル期間を終えて、一斉に戻ってくる時期が近づいているという話。ある一ヶ所に集められること。専用の美術館があるということ。
坂城。お前がその場所を突き止めなきゃならないのだよ!警察の仕事だろう?これは垂れ込みだと考えていい。手柄をあげるんだよ、坂城警部。昇進してほしいんだよ、お前に。そしていずれは返してくれ。互いに永久にサポートしていける関係になれる。坂城。これは大事件になる。それを未然に防ぐことができたら。決まってるじゃないか!お前は重宝がられる。本当にそんなことまで、あいつは言っていただろうか。
あることないこと、色んな言葉が、坂城の頭のなかでは駆け巡っていた。こいつらは協力者なのか?こいつらでいいのか?坂城は煩悶し続けた。
そのあいだ、アンディとユージンは、その後の時代について、互いの意見を交わし続けていた。アンディとユージンは最近見たキューブの広告についての話をしていた。食器のCMだったが、注目すべきは商品そのものではなく、キュービック式の伝え方の方であった。
ある特定の用途を、圧縮された短い時間の中で、一義的に伝えるという従来の方法では、まったくなかった。
「たしかに、あれは感じるものがあった」とユージン。
「広告は。全部、ああいった形になる」
「広告だけじゃない、と思うぜ」
「そう思う?」
「ああ。実際に、映画もまた、そういった作品が、アメリカでは出てきているらしい」
「書籍や音楽の世界も、そうなっていく」
「舞台芸術も」
「インターネットだって」
「選挙も」
「というよりは、政治ね」
「そう。すべての分野が。しかし、あの広告は、顕著だった」
二人のやり取りについていけず、坂城はだんだんと、自分が置き去りにされているような気持ちになっていった。もうすでに、ここに自分はいないことになっているのかもしれない。そんな不安が募っていった。
意味不明な声さえ出してみた。しかし、二人の会話は、その後も止まる気配はなかった。
キューブ式という言葉だけが、坂城が認識できた唯一の事柄だった。そしてキューブで思い出したのが、あの警察に届けられた奇妙な予告状だった。あの立方体。立派なキューブだった。坂城はそのことを懸命に二人に語りかけていた。そんなことをしても、二人には気づかれることはなく、流されてしまうであろうに。坂城はそのキューブが前代未聞の予告状であったことを、懸命に伝えた。見る角度によって、その予告状は形状を変化させ、記憶された言葉が、変化するのだと説明した。そしてその言葉に合わせて、背景に映像まで流されていて、キューブの面だけその数もあったのだと。予告状は複数、折り重なるように、ひとつの立方体に入れ込まれていた。そしてひとつの予告をさらに深く読み取っていくうちに、再びまた別のキューブが姿を表したのだと。
そこでもまた、面の数だけ、異なる予告の文言が埋め込まれ、背景には映像があった。
坂城はそれを、キューブの森だと表現した。その森の中に、我々は吸い込まれていったのだ。しかし自分をはじめ、その場にいた署員たちは慌てて引き返してきた。何の準備もしてなかったからだ。森の中は危険だ。そこでは森の論理が生命を司っている。生死を決めていた。ユージンはその生死に異常に反応してしまっていた。しかしはやる心を押さえ、坂城の話に、淀みをつけることを嫌い、じっと聞くことに専念した。
アンディもまた、じっと流れに身を任せていた。そのキューブの予告状は、その後、特殊爆弾処理班のもとで、解体が進められ、細かく分析されるということだった。その結果はまだ出ていない。坂城もまたずっと気になっているという。
一連の出来事にこのキューブ事件もまた、加わったのだという。
「また、連鎖したな」アンディは言った。
「な、言っただろ。坂城さん。事は、ひとつじゃ終わらない。すべては繋がっている。胸につかえていたことが吐き出せて、少しは、すっきりしただろ」
坂城は思いのほか、息を切らしていたのだ。水を飲み、喉を潤した。
「誰にも言うんじゃないぞ」語尾には、警察官であることを誇示する一言が、付け加えられた。「キューブの世界に、段々と、我々は移行してるのさ。予告状というか、脅迫状か?それも、以前のように、一通で一メッセージだなんて単純な構造を、あっけなく拒否している。多重な意味を持たせ、多義的な目的を、表現するものとなっている。しかし、考えてみれば、当たり前のことだ。ひとつの要求が、ただの単独で存在することなどありえないのだからな。孤立した、ひとつの事柄がないように、何か一つを誰かが選びとれば、それに纏わる、あらゆるものを選んだことと同じになる。つまりは選んでいるというのは、一種の幻想だ。選んだと見せかけている。そこに纏わる、周囲の情報にまで、因果を鮮明にして光をあてる。そしてその因果は、どこまでも広がり繋がっていく。終わりがやってはこない。やめる意思を受け手が示さない限りは。
キューブ化の本質だ。ほんの少しだけ、これまで影になっていた背後を、ちゃんと際立たせていこうという、世界の方針だ。
俺たちの知らないところで、俺たちは、そのことに同意しているのだろう。色んなことがキューブ化してきている。多重な現実が見えるようになってきている。この周りの変化は、そのことを物語っている。映画だって、一つの話を、一つのストーリーで単純に描くという手法は、これからは逆に難しくなっていく。不可能になっていく。
ストーリーは分岐し、それぞれのストーリーへと、枝わかれていく。そして、異なる因果へと繋がっていく。誰にも止められやしない。製作の段階で、映画を撮っているときに、それは自然に起こっていく現象だ。制作者側が、たとえ強固な一つのストーリー、一つの世界観を元に、描いたとしてもだ。世界は多重化していき、ストーリーは見事に分岐して、枝分かれしていってしまう。さらには、受け手はそのそれぞれがまた自発的に、その世界を色んなキューブ状に、展開させていってしまう。その展開を止めることなど、誰にもできやしない。それが世界の自然なあり方になっていく。俺たちの会話だってそうかもしれない。今だって昔の自分のしゃべり方とは、大きく逸脱しているのかもしれない。脱線に脱線が重なり、ほとんど支離滅裂ながらも、何かが崩壊をとどめている。そんな気がしないか?崩壊は絶対にしない。なぜなら、所詮はすべてが繋がっているからだ。人によって、作品によって、ただの入り口が違うだけだからだ。切り取り方が違うだけだからだ。出口はない。出口は全体だからだ」
アンディはまたもや、三人がなぜ今ここで会っているのか。その目的が一瞬掴めなくなっていた。
「そういうことが、多々増えていく」
自分に言い聞かせるように続けた。「芸術作品もまた、この一つの世界を表現するためだけの、入り口となっていくものになる。入り口は無数にあり、個性化された独特なキューブが姿を現すことになる。今よりももっと独創的なものとなっていくだろう。そうか。警察のような場所にも、キューブが出現したんだな。まったく面白い話だ!そして、一人の警部の現実を、かき乱している!高見席に座って、じっくりと見ていたいくらいだね。しかし」
アンディは急に表情を引き締めた。
「その前に、俺たちにはやるべきことがある。そう。あの絵画の搬入に、妨害を加え、美術館に安置されることを、何としても、食い止めなければならない。あの核となる絵があるべきタイミングで、そこにはないという状況さえ、作ることができれば。あとの絵もまた、行き先を失ったままに、この世界で放浪することに違いない。我々は、中心部だけに狙いを定めればいい。そして攻撃をいつまでも続けている必要もない。時間を強烈にズラしてあげれば、それですむ。あとはバイブルにしてみても、帰るべき地への扉は閉ざされる。坂城さん。頼んだよ。あんたが率先して、警察の名を盾に切り込むんだ」
その後、坂城からアンディに一度だけ電話があった。
「搬送を担当する、会社がわかった。スペースクラフト社だ」
これで何もかもがはっきりしたなと、坂城警部は言った。
「あの予告状を送ってきたのも、スペースクラフト社だ。きっとそうだ」
アンディはスペースクラフト社を、すぐにインターネットで調べた。そして外注の情報業者に連絡する。運送会社ではないようだ。創業は2017年。
「今年じゃないか」アンディは言う。
「何の会社なんだ?自動車メーカーか何かか?」
「宇宙船だよ。地上における宇宙船。空飛ぶ自動車だ」
「そんなものが」
「もうすぐ実用化される」
「それと今度のことと、どう関係がある?」
「さあね。向こうさんも商売だ。デモンストレーションかもしれないな」
「新商品の宣伝か。しかし、何も絵の輸送をすることはないだろ」
「護衛だよ」
「なるほど」
「お前らのような輩からの」
「他にも、狙ってる奴らがいるのか?」
「いろんな意味で、今度の出来事は注目されているのかもしれん」
「そんな」
アンディのパソコンに、すぐに外注業者から報告が入る。
スペースクラフト社の創業は、ネットの情報のとおり、今年で間違いなかった。
しかしそれは今年開発した車。つまりは船が商品化されることによって、経営が始まるということを意味していた。会社組織そのものは十年前に立ち上がったものだ。
「お披露目かもしれないな」
アンディは受話器越しに坂城に言った。
「しかし、どうしてそれが輸送なんだ?いったいどんな車なんだ?」
「これでは何の手出しもできないな。警察としては。その車自体が我々が見たことのないものだ。体験したことのないものだ。事前に対策などは、何も立てられん。力になど、なれない」
坂城にはそう一方的に言い放たれ、電話を切られた。なぜ予告状がスペースクラフト社からだとわかったのだろう。質問は虚空に浮かんだまま、行き場を失っていた。
もしそうだとすると。アンディは呟いた。そのキューブの予告状は、クラフト社の技術そのままだ。こうして時を同じくして、世の中で出回って来た、同じキューブ構造とは、みな、出所が同じものだ。スペースクラフト社が一手に担った事業に違いなかった。
とすると、キューブ構造の技術を、より洗練した形で体現しているのが、そのスペースクラフトだともいえる。さらには外注業者からの報告書が上がってくる。何と、その車の名前はスペースクラフトバイブルだった。これで坂城の話は筋が通った。
これは挑戦状だ。絵画バイブルには、指一本触れさせない気だ。アンディの中では何故か、怒りが込み上がってきていた。挑発されている。たしかに手出しは何もできないのかもしれない。しかし。バイブルが美術館に搬入されてしまえば、絵の集合は予定通りに始まり、加速していってしまう。すべての絵が揃ったときに起こることを考えたら。
「そういえば、予告状には、何と書いてあったんだ?」もう一度、坂城に電話をしてみる。
彼はちゃんと出た。そしてそのメッセージについても、教えてくれた。
「多重の夢が」
「何だって?」
「多重の夢が、一つの場所で重なり、織り込まれるとき」
「織り込まれるとき」アンディは繰り返す。
「時間は消え」
「ああ」
「時間は生まれ」
「生まれ?」
「同時に、多発地帯において」
「それで」
「そのそれぞれが、爆破する」
「爆破」
「時は場所へ。場所は時へと変換され。その二度目の爆発により」
「ああ」
「世界は、始まりのときへと、戻されていく」
アンディは黙って相づちを返す。
「遡りは終わり、進みも終わり、ただ時空なき」
「なき、何だよ」
「空間が、我がものとなる」
「我がもの?スペースクラフト社のか?」
坂城は答えない。間がしばらく空いた。
「それで、終わりか?」
「終わりだ」
「そうか」
「しかし、ある側面から見た、一つの予告状だ」
「キューブ構造だからな。他は?」
「捜査班からは、まだ上がってきてはいない」
坂城とは、まだ連絡をとる必要があった。もうそこにしか、使える価値が彼にはなくなっていた。
死地の成長は留まることを知らなかった。そのうねりは、すでにあの時代のテオティワカンという名の枠を、凌駕していた。
閉じ込められた時空の壁を突き破り、死地は拡大の手を緩めることはなかった。死地を望むエネルギーもまた多数点在していて、死地は次々とそういった勢力を取り込むことで、自己増長を続けていった。
書き始めてから、どれほどの時間が過ぎていったことだろう。徹夜はすでに、何晩も続いているように思う。完全に部屋を締め切っていたので、光は少しも入ってこなかった。これほどぶっ通しで仕事をしたことなど、かつてあっただろうか。
史実家は、死地そのもののなかに、すでに飲み込まれてしまったように感じられた。ここはすでに死地の中なのかもしれなかった。ここは部屋じゃない。仕事場でもない。すでに違う次元にいる。これは書いているんじゃない。死地が死地であることをただ表現しているにすぎない。周囲の光景は、ずいぶんと前から消えていた。史実家は匂いを嗅いだ。死地の生臭い香りが漂ってくるものだと思った。だが匂いはしない。土の匂いというよりは、わずかに無機質な素材の香りがある。死地に飲み込まれているものの、このからだは丸裸でその中にいるのではない。何かに守られているような、保護されているような、薄い壁のようなものを感じる。この部屋がシェルターのような役割を果たしているような。
そう思ったとき、机の上の状況も、いつもとは違うことに気づく。
白い大理石に変わっているのだ。積み上げられているはずの書籍の存在もない。
何一つ広げられている資料の存在がない。ペンも、筆も、書くためのものは何も存在していない。学者の書斎ではなく、研究室のような雰囲気に変わっている。
ふと足が地面をしっかりと押さえている感覚がないことに気づく。浮いていると感じたのだ。そして動いている。猛烈なスピードで動いている。死地のうねりの中で、直線的に旋回しながら、抜け出そうとしている。通過している。突き抜けようとしている。死地の匂いを、完全に消している。
史実家は、記憶を必死で遡っていた。自らの書斎で、仕事をしているあいだに、どこかに移動してしまっていた。そんなはずはなかったが、目はしっかりと見開いている。わずかな音さえ、見逃さないほどに、耳もまた冴え渡っている。空気の激しい抵抗の中、移動しているのがわかる。その音を、ほとんど無きものに変えている分厚い壁の構造もまた、想像できた。
血なまぐさい死地は、だんだんとその性質を変えているのがわかる。
死地に飲み込まれていきながら、逆に死地を別なものへと、変えてしまおうとしているかのようだ。史実家は書くものを探した。仕事をするために、自分は起きていたのだ。終わらせなくてはならなかった。それだけを、今はやりとげなければならなかった。他には何にも拠り所はなかった。しかし書くものはおろか、紙の存在さえなく、パソコンもまた姿を消していることに気づく。仮眠をとるためのベッドもまた消え、そもそも部屋の中にあるはずの扉の存在がなくなっていた。壁を見つめていると、天井もまた同じ白い壁になっていて、立方体の中に居るような気がしてくる。そして地に足がついている感じが全くしない!扉の向こうには廊下が続き、また別の部屋へと通じている。階段があり、また別の階が存在している。建物の全体像に、イメージが繋がっていく。外には道が敷かれ、そばには別の家の存在がある。道路は太く進み、枝分かれしている。町が広がっている。その感覚がまったくないのだ。まるで繋がってはいかない。
ここがただの、立方体の物体であり、地面も何もない中、宙に浮いている。空に穏やかに浮かんでいる感じもしない。飛行船なんじゃないのか。突然、沸いてきた感覚だった。
それならイメージと感覚が重なる。いつのまにか、自分は輸送されているのだ。どこかで現実は切り替わってしまっていた。誰かが介入してきて、俺を連れ去ったのだろうか。
これは拉致されたのかもしれない。あまりに深夜深くに、仕事に没頭していたため、連れ去られていたことに、全く気づかなかった。眠らされていたのかもしれない。移送されていると考えれば、不思議なことは何もない。何のために?俺は誰に連れ去られているのか。誰に狙われたのか。何の目的が。ただの著述家だ。学者の一端にすぎない。これまでだってずっと書いてきたじゃないか。なぜ、日に限って。何があったのか。死地か。死地がいけなかったのか。死地がこの事態を誘発したのか。死地に飲み込まれることで。連れ出そうとしている。助けようとしている。これは救いの糸なのか?
史実家はそれ以上、ペンと紙、パソコン、コンピュータ、資料を探すのはやめた。
書斎を求めるのはやめた。死地をこれ以上、記述することもやめた。
自分はすでに死んだのだ。あれ以上、書くことは何もなかったのだ。ずっと長い間知っていたのかもしれなかった。死期は揺るぎ難くそこにあり、その最期のときに合わせて日々を進めていた。書くべきものを書き、そしてそれ以上書く必要を失ったときに、この世から去っていく状態とピタリと重なりあった。この世との繋がりが途切れ始めているのだ。誰に拐われたわけではなかった。自らこの世から去っているのだ。最初から決められた時間に、予定通りの帰還を果たしている。何も怖がる必要はなかった。死地が出てきた時点で気づいているべきだった。その前にあいつらと会っているときに気づいているべきだった。そうすればあんな別れ方はしないですんだ。あの日が三人で会うことのできる最後の機会だったのだ。あんな別れをしたことだけが、小さな後悔となっていた。
アンディは、さらなる外注業者から報告された情報を持って、ユージンの事務所を訪れた。
ユージンは相変わらず、探偵の看板をかけた事務所を閉鎖することなく、秘書の加賀ミーラもまた雇ったままだった。
アンディとは暗黙の了解で、表向きだけ生活に変化がないように心がけた。バイブルが搬入される日までは、目立った動きは避けたかった。加賀の顔をちらっとアンディは見た。彼女もまた素知らぬふりをしながら、すべてを了解しているのだろうと思った。
俺ら二人をあの悪名高い科学者へと引き渡したのは、他でもないこの女なのだ。
「ちょっといいか」
ユージンは、加賀に部屋から出るように、指示を出した。
「お茶は、持ってこないでいいから」
「わかりました」
眼鏡をかけた加賀も、なかなかかわいいなとアンディは思った。この女を抱いた日のことをすでに思い出していた。ほんの少しだけ、また別の女との記憶が混線していた。
「スペースクラフト社、だっけか」ユージンは言う。
「護衛だよ」
「どうして、そんな会社が」
「坂城は降りた。当然だな」
「黙認したのか」
「仕方ないだろ」
「で、俺たちだけで、どうやるんだ?」
「ユージ。そいつはまだ、早い」
「早いって。もう一週間を、切ってるじゃないか」
「そうだったな。しかし、まったくもって、今の俺には何も思い浮かんではこない。だから、まずはこれから聞いてくれ。いいか。スペースクラフト社のことを調べた。いいか、ユージ。聞いてるのか?スペースクラフト社の本社ビルは、探し当てることができなかった」
「なんだって!まだ存在しないっていうのか!ペーパーカンパニーか?そうなんだな!これではっきりとした。お前の言うことは、何もかもが真実味がねぇ。お前のでっちあげの幻想に違いねぇ。坂城も降りて当然だ。騙されずにすんだな。いいか。アンディ。お前の、このあとの言動によっては、俺も降りるからな。いいな」
「まあまあ。落ち着けって、ユージ。最後まで、話は聞けって。乗り掛かった船だろ。同じ男に施術を受けた仲間じゃないか」
「どうだかな」
「たしかに、本社は見つからなかった。答えは簡単だ。そんなものはないということだ。しかしユージ。研究所は他に必ずある。工場もまた」
「なんだ、その言い方は?見つけていないんだな」
「しかし、こっちの方は、確実にある。それと、これは現実に存在する。スペースクラフト社は、すでに複数の土地を買っていて、建物まで立てている。いいか。例えば、これだ。ブラックタージという名で、ピラミッドを模したけっこうでかい建造物を、すでに完成させている。着工じゃない。これが写真だ。これから一緒に見に行ったっていい。たしかに存在する。しかしだ。これが一体、何の施設なのかはこれっぽっちもわからない。窓もなければ、外壁はただ黒い塗装が塗り重ねられている。黒光りしている。出入り口の存在もよくわからない。土地には囲いのようなものはなく、その黒い建物は外部に対して丸裸だ」
ユージンは急におとなしくなり、じっと身動きせずに静かに聞いていた。瞬き一つしなくなっていた。
「そして空き地にしたままの所有地もまた、点在している。飛行場じゃないかと思われる。滑走路が何本か、設定されている跡が確認できた。ユージ。実に気味の悪い会社だ。狙いがまったく見えてこない。点ばかりが、発見できるものの、線としては少しも見えてはこない。線として見えるには、点が足りないからなのか。一つ一つの点の理解が、深みにはまっていないからなのか。それとも、これらはただのダミーなのか。俺たちの想像力が乏しいからなのか」
「おそらく最後のそれだな」
ユージンは言った。
「もう、必要な数は揃ってるんじゃないのか?無理矢理にでも繋いでみろよ。見えてくるものがあるんじゃないのか?」
ユージンは得意気に言った。「本社の場所だよ。それらの点が結ばれたところには、本社ビルが立っているじゃないか。そのビルの地下に研究所はある。工場は飛行場の下だ。明白じゃないか」
「ブラックタージが、本社ビルだって、言うのか?」
「違うだろうね」ユージンは冷たく言い放った。
「アンディ。いつからそんなに勘が悪くなった?本社ビルは存在しない。それが答えだ。本社は確かにどこかにはある。しかし地上にはない。建物として立っているものの中にはない」
アンディには言われている意味がまったくわからなかった。
「何の会社だと思ってるんだよ。スペースクラフト社だろ。商品化の第一号は、スペースクラフトバイブルⅠだろ?満を持して世に放たれる」
「ああ」
「ああじゃねぇよ。まだ、わかんないのかよ!俺の方が、よっぽど、探偵らしくなってきたぞ」
「続けてくれ」とアンディは言った。
「ブラックタージは、エネルギー施設だ。強力な電波を放っている。電磁波だ。周波数を巧みに変えることができる。そして広範囲に伝播することができる。高い周波数を、放出することができる。オフィスは入っていない。人がいるようには思えない。本社はな、アンディ。スペースクラフトバイブルⅠなのさ」
アンディの脳の中は、まったくの思考停止状態へと、追いやられてしまっていた。
気がつくと、原岡はスペースクラフトバイブルⅠの内部にいた。
まだ確か設計図を書いている最中だった。Ⅲまでの大まかな設計を終え、Ⅰの細かい部分に意識を集めている最中だった。
合間に恋人とも会っていた。Ⅰの設計図は完成間近だった。佳境に入っていたため、恋人との逢瀬は何度かキャンセルしたように思う。最後は食事もろくにとらずに、没頭していた。図版を会社の制作部に送った直後だろうか。まだ送ろうとしていたときだっただろうか。最後の設計に、まだ頭を悩ませていたタイミングだっただろうか。まったく、その瞬間が思い出せなかった。しかし確かに今、俺は自らが設計した宇宙船に乗り込んでいる。時間の経過が大きくすっ飛ばされたかのように。しかし原岡は心地がよかった。安心していた。これはある種の方舟だった。荒れ狂う時空のなか、それに耐える影響をゼロにするために設計された、空間だった。
原岡は船の外の乱れ、混沌としていく時空の震えを感じとっていた。
間に合ったと思った。この開発は自らが生き延びるためでもあった。自分だけでなく、市場化して多くの人たちを助けたかった。バイブルⅠはそんな破壊的な状況の中、無害で通過するために開発された、飛行船だった。そうして時を通過し、世界の構造が変わったときに、バイブルⅠはその素材を生かして、さらにバイブルⅡバイブルⅢへと、変幻させていくことができるように作られている。
同じ素材のままに構造を変化させていくことで、飛行船は持ち主にさらに馴染んでいくことになる。そしてその先にはまた、さらなる時空の変化が予想される。予期せぬ動きをとっていくことになる。その構造の変化に、また飛行船技師たちは未来を先取り、飛行船の構図を変えていかなければならないのだ。
この宇宙に存在する物質は常に同じだった。
構成を変えることで状況や事態、現れ出る物質を、異なるものへと仕上げているだけだ。原岡の作る飛行船は解体して、宇宙に返すことが最終的な処理の方法だった。
坂城警部は交際中のサエキナキコと婚約した。
坂城は最近のこの混乱した事態の中で突然、恋人にプロポーズをしてしまっていた。坂城は起こっている状況を全部話した。もしかしたら、自分はおかしくなっているのかもしれない。それでも構わなかったら、受け入れて欲しいと訴えた。半分は断られることを覚悟していた。ところがサエキナキコは無言で頷いた。この無言な所が、坂城には納得いかなかったが、それでもこれで結婚は決まってしまった。坂城にはそのつもりは元々なかった。結婚願望はまるでなく、生涯独り身で暮らしていくつもりでいた。仕事にはやりがいがあり、経済的にも恵まれていた。親友も居たし、恋人だっていた。サエキは坂城よりも十歳下の、二十九才だった。子供が欲しいと思ったこともなかった。サエキもそういった素振りは見せなかった。
坂城はこの今のままに、人生はゆっくりと進んでいくものだと思っていた。サエキはいつだって、坂城の話に反論しなかった。特に自分の意見を言うこともなかった。坂城は助言が欲しかったわけではなかったが、自分とは異なる意見を、主張してくる女を実は求めていた。プロポーズをした夜、坂城は恋人を家まで送り、そのまますぐに自宅マンションへと向かった。しかしこのまま家に帰るのもつまらないなと思い始めた。サエキナキコのマンションには、夜泊まったことはなかった。昼間に何度かお邪魔したことはある。坂城は何故か広い駐車場が設置されたバーに車をいれ、ノンアルコールビールでも一杯飲んで、帰ろうと思い始めた。一人で飲み始め、つまみのピスタチオを頼もうとしたとき、ふと、注文した直後に、横から何かがすっと現れた。ピスタチオの入った皿だった。気づけば隣に若い女がいた。今晩はと女は言った。「どうぞ。お食べになって。私、もう、いらないの。帰るのよ。待ち合わせた男が、来なくってね。待ちくたびれちゃった。あれ、あなた。あなた、確か、坂城さんよね。坂城警部じゃない?」
女の顔をじっと見上げた。坂城は特に何も答えはしなかった。
「やだ。こんなところにも、来るの?張り込み?そーなんだ。この店に?何の容疑?現行犯で捕まえるのね。まさか、私?ないない。薬もやってないし。ああ、そっか。ここの店の駐車場ね。お酒を出す店なのに、あの広い駐車場だからね。そりゃ、チェックしに来るわよね。でも残念ながら、この店にはアルコールは全くないのです。えへへ」
女はすでに酔っぱらっているように見えた。
坂城はバーテンの男がピスタチオの皿を差し出してきたことに、気づいた。
「ああ、悪いな」坂城は言う。
「そうですよ。うちはアルコールは一切出しません。本当です。確認していったらいい。警部さん。何て名前でしたっけ?手帳、見せてもらってもいいですか?」
坂城はしぶしぶ、内ポケットに手を伸した。今日は休日なのだ。やはりあのまま真っ直ぐ帰るべきだった。ところでこの女は、どこで会ったのだろう。何故、俺のことを知っているのだろう。
「ねーっ、えーって、ばー。坂城さんってばー。呼んでるんだから、答えてよ。私よ、私。もう別れてから、だいぶん経ってるから、忘れちゃったんじゃないの?あいだに色々あったしねー。坂城さんも、そうなのかしら?そうよねー。私だけじゃないわよねー。不公平よ。坂城さーん」
「この女は、なんで、こんなに酔っぱらってるんだ?」
たまらず坂城はバーテンダーに訊いた。
「うちじゃないですからね」と男は言った。
「男に絡むのなら、店の外にしてくださいよ。うちはそういう店じゃないんだから」
坂城はバーテンの男をじっと見た。冗談を言ってるようには見えなかった。アルコールも置いてはいない。男女関係はご法度。いったいどんな酒場だっていうのか。ふと、バーテンの男の、さらに上の棚の場所が目に入った。
「あ、あれは」坂城は思わず、声を出してしまった。
すかさず、横の女が口を破産だ。
「キューブの書籍よ」
「キューブ・・・」
形状から、光の反射具合から、警察に送られてきたあの予告状にそっくりだった。
コレかと、坂城は思った。これが、俺を、この店に引き付けたのか。女ではなく、バーテンダーに説明を求める眼差しを送る。しかしタイミング悪く、ドリンクの注文が入って、会話からはいなくなってしまう。女は言う。「ここの店長。いろいろと物好きなのよね。インテリアに凝ってるのよ。珍しいものを見つけてきては買い取って、店に飾ってる。こういうのを目当てに、通ってきてる人もいるくらい。アルコールじゃなくて、インテリアがエサなのよ」
坂城は、この酔っぱらいを何故か必要以上に警戒した。俺を罠にはめようとしてるんじゃないのか。これは演技なんじゃないのか。実に嘘っぽかった。しかし見れば見るほど、あのキューブの予告状に似てくるのだ。
「さっき、書籍だと言ったな」
坂城は言った。
「やっと、しゃべってくれた」
女は嬉しそうに答える。
「あの中には、書物が封印されてるの。ハイパーキューブ構造が取り囲んで、その中身を保護してるの。もちろん、その書籍だって私たちが知っている本とは違う。これは私の想像なんだけど・・・。やっぱりやめた。それよりさ、坂城さん。私が何で、あなたのことを知ってるのかは、思い出せた?」
ふと坂城には、目の前の女が何重にもかさなって、一瞬見えた。周囲の光景は消え、女一人だけがそこには佇んでいた。キューブの構造と同じ。坂城は女との関係を、この女との全生涯に渡った、すべての光景を、今見たような気がしたのだ。あまりに一瞬だったため、その後の意識はぼんやりとしてしまった。周囲の光景が戻ってくる。バーテンダーも、目の前に戻ってきている。キューブの書籍は棚の上に置かれている。
「あれをとってもらっていいかな」
坂城は言った。
「ああ、ちょっと待ってください。脚立をもってこないと、取れないな」
そう言ってバーテンの男は消えた。そのあいだ坂城はあの一瞬現れた女との全光景のいくつかを、引き出した。出会いはカジノだ。ラストギャンブラーを現行犯で連れていこうとしていたときのことだ。ラストギャンブラーは、すでに店から出たのだと言われた。そのときの女だ!ラストギャンブラーの、前の彼女だと言った。どうして、あのとき、この女を連れていかなかったのだろう。詳しく話を掘り起こさなかったのだろう。
光景は次へと変わっていた。この女とは付き合っていたのだ。不倫だった。目の前ではバーテンの男が脚立に乗って、もうすぐキューブに手が届くという状況に、いつのまにかなっている・・・。
ふと、横を見ると、女が消えている。
「あれ、ここに居た、女は?」
「女性ですか?」
「トイレ?」
「女性って、お連れさんですか?」
「連れではないんだけど」
「絡んできた女だよ。ほら、アルコール飲んでないくせに、ひどく酔っぱらってた」
「ははは」バーテンの男は、急に笑いだした。
「おもしろいですね、お客さん。うちは、アルコールしかありませんよ」
「なんだって」
「飲み屋ですよ、うちは」
「女は?」
「そういえば、居たかもなぁ。取っ替え引っ替え、してたかな」
「俺が?」
「お客さん、モテますよね。お客さんの方が酔っぱらってるんじゃないですか?すでに五杯はいってますよ。カクテル。大丈夫ですか?ちゃんとタクシーを呼んで帰ってくださいよ。まったく、あの若い女性たちの誰かが、お持ち帰りしてくれると、思ってたんですけどね。困ったな。しかし、あなたって人は。意外に真面目なんだな」
「どういうことだよ」
「婚約者がいるって、断ってましたよ」
「俺が?」
「覚えてませんか?」
「全然。確かに婚約者はいる。今日、プロポーズしたんだ」
「そうなんですか?おめでとうございます。そうなんですね。お祝いですね。一杯おごらせてください」
「それは、どうもね。けどさ、もう酔っぱらってるんだろ?」
「やめときます?」
「そういえば」坂城警部は思い出した。
脚立が目の前にはない!棚の上にあったキューブの存在もない!すでにバーテンダーがとってくれたのだと、テーブルの上にその物体を探すが、そんなものはない!
とってくれたんだよなと思いつつも、再びあの女の記憶が甦る。あの女と結婚しているのだ。不倫の果てにサエキナキコとは決別している。何故、そんなことまでわかる?
坂城はまだテーブルの上にキューブの書籍を探していた。店の中を見回し、その存在を密かに探す。しかしどこにもなかった。あの女でさえ、本当にそこに居たのかどうかわからない。キューブの書籍という物体もまた、俺の勘違いだったのかもしれない。
窓から、店の外を覗き見た。あの広大な駐車場など、どこにもなかった。
「あのさ、車のことなんだけど」
「お客さまの?」
「どこに、停めたんだっけ?」
「うちは、あいにく、駐車場は借りておりません。ですから、車のことは存じ上げませんね。車ではお越しにはならなかったのでは?路駐の取り締まりは厳しいですしね。近くにパーキングエリアもない。徒歩かタクシーで来たんじゃないでしょうか」
坂城はだんだんと、やってられなくなっていった。
プロポーズはどうなる?あいつの家に送り届けて、そして帰りに寄り道をしたのだ。
その道筋をすべて覆そうとしているのか?誰なんだ。いったい何なんだ?坂城はわけもわからず、出てこいと、大声で叫んでいた。気づいたときには、かなり暴れまわった後で、制服姿の警官二人に、両脇をおさえられていた。その警官は坂城のよく知る同じ暑内の部下であった。
加賀ミーラは一体、何度目となるだろうか。自身と関係を持った男の捜索願いを、警察に届け出ていた。坂城という警部が担当だった。そのとき、恋人関係にあった車の開発技術者、原岡帰還の捜索願いだった。一週間が経っても、原岡とは、連絡が取れなくなっていた。原岡の自宅は、知らなかった。外でデートするか、加賀の家に来るかの、そのどちらかだった。二、三日、連絡がつかなくなるのは、日常茶飯事のことだった。原岡は研究所に食事もとらずに、篭ってしまうことが多々あったのだ。しかしそういったときでも、原岡からは必ずメールか、電話はあった。仕事から解放された反動で、いつも原岡は加賀の体を執拗に求めてきた。ゆっくりと時間をかけて、堪能していった。挿入してからは射精することを拒むかのごとく、ゆっくりとゆっくりと、肌そのものの感触と匂いを、体の奥深くに吸い込むことを、繰り返していったように思う。加賀自身も、そんな原岡の行為が好きだった。丁寧に扱われることには単純に気持ちよかったし、焦らしにも似た、欲求不満もまた貯まっていき、最終的に沸きだしてくる、激しい快感と共に、爆発してしまった。身体中の細胞が体液となって、すべてを放出してしまったかのような状態に、加賀は心底、安らぎの世界を得ていった。原岡ほど、こんなに満たされた世界を与えてくれた男は他にはいなかった。本気で付き合おうと思った。原岡が望むのなら、結婚していい、とさえ思ったくらいだ。原岡の仕事の、邪魔はしたくなかった。原岡が望むままに、生きていってほしかった。原岡にただ寄り添い、私があげられるものはすべて、あげようと思っていた。それでも原岡は必ず、私を置き去りにすることはない。彼が仕事に没頭すればするほど、解放されたときの、私への反動は大きくなる。実際そのように、交際は進んでいった。原岡がプロジェクトを立ち上げ、自ら企画開発していった仕事と連動して、私たちの交際は進んでいった。互いが加速させあっていたように思う。私は不安に思うことはなかった。加賀は振りかえる。来たる未来に対して、不安なことは何もなかったと。特に何も考えてなかったし、日々を過ごしていくことに、集中していたように思う。
加賀は原岡との交際に集中するため、他の男との繋がりを、清算しようとしていた。
アンディは行方がわからなくなっていた。岡田有事に会いにいき、もう一人の愛人であった研究者の元に、岡田を送ることに決めた。岡田がその後、連絡のとれる状態になるかどうかは、わからなかった。しばらくしてとれなかったら、捜索願いを警察に提出すればよかった。そしてそうなった。
何度、男の捜索願いを出し続ければ、いいのだろう。
いい加減、同じ人間が、交際中だった相手を、次々と行方不明にしているのだ。私が殺しているみたいだと、加賀は誰もがそう思うだろうなと、笑った。しかしそんなことはない。原岡には早い帰宅を希望した。原岡とは愛し合いたくてたまらなかった。彼の感触、匂いを、私も感じていたかった。原岡には心も体もすべて許していた。私を好きにして欲しいと、望んだ初めての男だった。今回初めて、担当となった坂城警部と二人きりで、暑内の部屋にいた。この警官とも、未来においては、交際している姿がはっきりと確認できた。すでに加賀は坂城警部にも異性としての関心を抱いていた。節操もない自分を、懸命に恥じようとしたが、それは難しかった。
坂城を、すでに見えないところで。誘惑している自分しか発見することができなかった。
バーで一人飲んでいる坂城の横に、するりと入り込んでいる、自分の姿を見てしまっていた。
「では、受理致しました。進展次第、ご連絡差し上げます」
坂城は、事務的に、処理しただけだった。私の顔さえよく見ていない。心ここにあらずといった。何かに悩んでいるようだった。寝不足で憔悴しきっているようでもあった。
仕事が忙しくて、参っているだけのようには見えなかった。目に力がなかった。身体全体に輝きがなかった。そんな中年男の姿に、加賀はますます惹かれていった。
今日のところは退散するべきだなと、加賀は込み上げてくる新しい想いを、抑え込むことにした。
夜も圧倒的に深くなっていく中、ケイロスギサキは、今日も絵の創作を続けていた。
闇が最も深くなっていく中でこそ、今やるべき残しておくべき仕事は、加速がついていく。今しかできないことに、特化するのだと、スギサキは思った。
こうして、創作に没頭している時間の進み方は、通常とは違う。自ら、生み出すこの空間の中に、すっぽりと入り込んでいるときには、時間は外の世界ほど、はやくは進んでいかない。場合によっては、ほとんど進んでいないことだってある。
製作に入る前と終わった後。外の世界では、三日が過ぎていても、そこでは数分しか進んでいない現実感覚が、生みだされている。感覚が現実そのものだった。
自分はこの時間を生み出したのだろう。作品として仕上がったもの。物資として目に見える状態に仕上げたものすべてと、この時間は同義であった。作品を生み出しはしたかもしれない。しかし実際は、時間を生み出したのかもしれなかった。時間という作品を、ケイロスギサキは生み出しているのだと思った。時間を作り出すアーティスト、ケイロスギサキ!新聞の見出しを想像してしまった。生み出した、時間の数々。そしていつか、この生み出した時間はすべて、足されていくときが来る。時間はまた別の時間を取り込み、隔たった壁を破り溶かし、さらには融合していく。
別の時間が生みだされるのか。打ち消し合うのか。それはわからない。多重の時間が織り成していくときにしか、空間で何が起こるのかはわからない。そしてそれを、この自分は知ることはないだろうと思った。誰かが経験することなのだと、ケイロは思った。そしてそれは、観覧者以外にはありえなかった。多重の時間が織り成された空間に、含まれる、鑑賞者以外には誰もいなかった。そういった意味でも、自分はだいぶん普通の画家とは違う。一枚一枚、意味を持っていて、受け手もまた、好き嫌いが生みだされていき、別々にそれぞれの世界を広げていく、絵画の数々。相対的に見ることもでき、総体的にファンになることだってある。その一枚だけを、好きになることもある。だがこの時間を生んでいった作家は、少し違った。すべての絵を同時に見るときにしか、本当の意味での、絵の受け手になることはできない。すべてが揃ってこその、真の体験。それこそがケイロが本当に産み出したいものでもあった。そしてその全作の創造もすでに、終盤へと入っていた。もうあと一枚を残すところだった。自分で数えたことはなかったが、相当な規模になっていることだろう。管理組織にすべては渡してあった。ケイロは出来上がった作品には、何の興味も執着も未練さえ抱くことはなかった。その時々において、完全な仕事ができたことへの充足感しかなかった。けっして満足感ではなかった。
時間を生み出していったケイロ。外の時間では何十年といった、あまりに長い時間が過ぎ去っていったことであろう。自らの感覚はほんの何ヵ月にしかすぎなかった。
いや、それ以下かもしれなかった。どうだっていいことだった。しかし外なる時間は、確実に長く過ぎ去っていた。それは予想することさえ、できなかった。十年かもしれなかったし、百年近くが過ぎているのかもしれなかった。
それらを同時に炸裂させるのだと、ケイロは闇の中で囁いた。その閃光は相当なものとなるだろう。すべてが揃ったとき。自分はこの世にはいないだろう。作品は世界に散らばったままであろう。ひとつに重なるとき。それぞれの時間が編み込まれたキャンバスは、この世に何かを起こすはずだ。自分に分かるのは、せいぜいそこまでだった。
そしてこの自分の役割とは、その一つ一つのピースを地道に完成させていくことだけでもあった。
スペースクラフト社そのものの壊滅。それこそが今度の絵画の搬入を食い止める、最高のシナリオであることを、アンディは確信した。絵画が空輸で羽田に到着し、そこにスペースクラフト社の車が、迎えにきた瞬間、そのシチュエーションになったときには、すでに時は遅いのだと、アンディは思った。その前になんとか食い止めたい。搬入時に、妨害を加えることは、不可能だ。高度すぎるテクノロジーが、この場合のセキュリティに、すべてが結実している。スペースクラフト社が出動し、おそらく数日前から念入りに空港での搬送の受け渡しの準備に入った時点で、こっちの勝ち目は全くないだろう。あるいは、すでに完全に勝ち目はなくなっているのかもしれなかった。アンディは捨て身の攻撃しかないことを予感していた。全霊でぶつかっていけば、光は灯るかもしれない。ユージンにはそう主張した。
「お前はどう思うんだ?このことでお前が、何か意見を言ってくることもない。何か秘策でもあるんだろ?焦らすなよ。教えてくれ」
「いいと思うぜ」ユージンはクールにそっけなく答える。
「お前の考えで、間違いはねぇ。空港での受け渡しの準備に、クラフト社が入った時点でアウトだ」
「ユージの、勝負師としての勘に、乗ってみたいんだ。何が見える?」
「ふふふっ。何が見えると来た。実におもしろい。いいだろう。確かに見えるさ。その日の出来事がね。搬入は成功さ。俺たちは何もできやしない。しかしそう見えるのは、今の俺たちの状況を反映しているからだ。秘策が炸裂すれば、違った未来がまた見える」
「もったいぶるな」
「ああ。いつまでも、もったいぶりたいね。なぜなら」
「なんだよ」
「俺は、何もする気がないからだ」
「どうして」
「勝算がない」
「だから、こうして」
「お前には、浮かばねぇ。俺にもまた。坂城にも誰にも。俺たちは完敗だ。しかしアンディ。悪あがきをする権利はある。特にお前には」
「どういう意味だ?」
「お前は誰よりも、あれを食い止めたがっている。そういう奴に、あがく権利はあると言っている。俺と違ってな。俺はもうこれまであがきすぎた」
「わかんないぞ」アンディには話の矛先が理解できなかった。
ユージンには見透かされていた。
「いずれはお前だって理解できる。お前はまだ若い。俺ほど歳は食っていない」
ほとんど同じじゃないかとアンディは思うも、心の中に圧した。
今の俺は何もかもが的はずれだと呟いた。
「あがきすぎちまったんだよ。もうだいぶん前に、そんなことはやめるべきだった。だいぶん引っ張っちまった。ムーンはやめた。今さら、また、違ったあがき方に、転向したって、仕方がない。再び、引き伸ばすだけだ。だから、お前はいい。お前はいいんだ!俺はもう疲れた。一人にしてほしい」
ユージンの表情には言葉とは裏腹に、寂しげな様子は一切なかった。
「それでいいんだな」アンディは意味もわからず、そう言うしかなかった。
「坂城はどうなんだ」とアンディは付け加えた。
「どうだろう」
「どうなんだ?」
「だいぶん前にこの話からは降りたって、聞いたけど。その後はどうしてるんだろうな。俺よりは期待はできるんじゃないか。けれど、坂城はまだあがくほどの歳は重ねていない。俺にはそう見える」
「俺たちよりも、だいぶん歳上だぞ」
アンディはそう言ったすぐ後に、自らの発言を撤回したくなった。
しゃべればしゃべるほど、自分の無知をさらけ出していくかのように思えた。
「これがお前と会う、最後の機会なのかな」アンディは言った。「お前となら、いいコンビになれそうだったのに。これからの人生、襲撃とかじゃなくて、一緒に、何かができるだろうと本気でそう思ったのに。一緒に何かを立ち上げたり、できると思ったのに」
アンディの言葉は、ユージンにも十分届いていた。
しかし、その言葉には、少しだけ懐かしさのようなものが込み上げてきたものの、すぐに冷静に状況を見つめ返し、お前もいずれはわかるときがくるさと、ユージンは言った。
「そのいずれとは、それこそ、絵の搬入のように、何月何日という指定はできない。お前にそのときが来たらだ。遥か未来かもしれない。お前が死を迎えた、ずっと後のことかもしれない。前かもしれない。直前かもしれない。まだ中年と呼ばれる時代に、そうなるのかもしれない。あるいは明日にも、そうなっているのかもしれない。バイブルがやってくるその日に、なっているのかもしれない。俺は冗談で言ってるんじゃないぞ。あがくのをやめるその日は突然来る」
アンディはそれ以上、何も反応を返すことができなかった。
もう一人の アンディ・リー
アンディ・リー内務官は、エネルギー制作の法案を通すため、他の議員への説得のために奔走していた。エネルギー施設の、一極集中に関する懸念だった。内閣が閣議決定した内容は、国中各地に点在している、エネルギー施設から生み出されるものを、中央首都の一ヶ所に送信して、中央エネルギー施設にて、各方面から集まったエネルギーを、融合させて、ある一ヵ所に反射させることで、労せず倍にしていくという、機械の導入に関する承認だった。そして生まれた新たなるエネルギーを、再び逆に流して、各施設へと送信する。それを第一段階とする、上申書を作成したのだ。
これはさらなる段階を、予感させるものだった。その続きとは、内閣はまだ正式には発表してなかったが、再び各施設に送り返す前に、その強力に生まれ変わった、エネルギーを、一旦わざと、各施設へと送り返す初動を発するものの、すぐにまた、中央のエネルギー施設へと、送り返すことで、さらなるエネルギーの集中による、新たなエネルギーを発生させること。元の倍の倍のエネルギーへと、変換する計画が、秘密裏に進められていたのだ。
今や、政権の科学思考への傾倒は、留まるところを知らなかった。
テクノロジーの導入には、常に積極的で、迅速な整備が政策の中心には置かれ、特に今は、エネルギー政策に過分な比重がかけられていた。
人々の生活に直結する事柄であったため、政権はここへの焦点を、年々重要視していったのだった。支持率はそれに伴って上がっていった。アンディーリーを初めとした、政治家の少なくない人たちは、このあまりに急進的な、エネルギー政策に対して、危機感を募らせていった。だが政権内の人間は、これでも法案を通すスピードが時代のリズムからは、かなり遅れていると不満げであった。アンディー・リーのような人間は一人、また一人と、権力の中枢から疎まれ、弾かれていく時代が始まっていた。有権者もまた、そうした議員を時代遅れだと、投票しない傾向が加速していっていた。
おそらく次の選挙では、アンディも当選が危ういことであろうと、自覚していた。
何とかその前に、一矢報いることはできないものか。今後において風向きを変えるきっかけとなる法案を、残すことはできないだろうか。
すでにしばらくはこの急進的な流れは変わらないと思われる。そのあいだに何としても、隙間から防波堤となる礎を滑りこませたい。
アンディリーは議員に働きかけた。何とかこのとまらないエネルギーの集中化と巨大化を、阻止したい。逆の流れへと、転換させたい。確かに、集中巨大化することで、人類のエネルギーに対する恩恵は、計り知れない。エネルギーを産み出す人間側の労力は、激減し、払うコストもまた、ほとんどゼロへと近くなるのも、夢物語ではない。しかし、安全性が、完全に確保されているとは言い難かった。政府のお抱えの科学者たちは、皆口を揃えて、問題はないという。施設の囲いは強固で、エネルギーが外部に漏れる心配はない。大都市の地下に、その巨大施設が完備されていることそのものが安全性の証明なのだと、身も蓋もないことを言う、議員の存在も目立った。今や人間の都市も、そういった生活のコストとなるものはすべて、地下へと隠し置くような傾向が、強くなっていた。地上を有意義に使い、中空をも縦横無尽に使用することを、長い時間かけて目指してきた。その中空に移動兼建物、住居を持つことが、ブームになりはじめていたが、これが大量のエネルギーを必要としたため、政府はエネルギー政策を急速果敢に進めていく必要性にせまられていた。
現政権与党は、スペースクラフト社を、最大の支持母体とする組織として成り立っていて、そのバックアップで当選した議員は、当然、エネルギー政策に関する法案を作るため、議会へと乗り込んできた。国民もまた、クラフト社の商品を買うことがブームとなり始めていた。与党議員の主張に、協賛する有権者の数もまた、急激に増えていて、与党への支持は磐石なものとなりつつあった。エネルギー政策の新しい柱となる法案が、通り、中央への集中巨大化が進んでいけば、この大量に使うとされる、クラフト社の商品は、爆発的に売れることになるだろう。値段がネックになっていた。エネルギー問題が解消すれば、希望者のほとんどは、購入することができる。都市の住宅事情、交通システム、そしてライフスタイルは一変する。その変化はさらに与党に支持基盤となって、返ってくる。
新しい文明の幕開けだった。アンディリーもまた、与党議員であることには違いなかった。しかし今後党が辿っていく運命を考えたとき、自分はその考えに相容れないし、党もまた自分のような人間を、必要としていないことは明白だった。今度の選挙に立っても、当選する見通しは立たないだろう。立候補はしないことになるだろう。よってその選挙が行われるまでに、何とか一つだけでも、痕跡を残したい。エネルギーを首都に集中させて、その掛け合わせによって、さらなるエネルギーを増長させていくことを、止めるための法案。今はまったく、意味のない虫けらのようなものに見え、それでいながら、後には強力な攻勢へと打ち出ていける、反転の機となるようなものを。そうなるような一点を、アンディリーは、模索し続けていた。
研究所を畳むときが来ていた。
MSは研究はすべて終え、その成果としての痕跡は、人体の中へと埋め込んだ。
若い人体の中に。行方を追跡する装置は、何も埋め込まなかった。あとから、この自分が回収のために奔走することもあるまい。時代は変わる。私はここで終わりなのだ。あとはその埋め込んだ情報に、気がつくものが取り出せばいい。人体の奥ほど、安全な場所があるだろうか。当の本人が歳を重ねていくことで、気づくこともあるだろう。たとえ、その人間たちからは誰も、何も取り出すことができなくても、遺伝子に書き込まれた情報は、その子孫まで、末代まで痕跡は残っていく。波動もまた起き続けていく。気づく人間、次第なのだ。痕跡はいつだってあり続ける。
たとえ子供を作らなくとも、その人間が生きている間にする、あらゆる行為の中に、その暗号は埋め込まれていく。中でも徹底的にひとつのことを極めていくような仕事をする人間は、最もその痕跡を色濃く、この世に残す行為をしているのだ。まさにその仕事こそが、暗号を残すための、強烈な行動であるということを、本人が気づくことはないのかもしれない。子供をつくり、遺伝子を継承することよりも遥かに、この場合は意味のある行動であるということを、本人は気づかぬままである可能性も高い。この世を去る時までに、そのことに気づければ、それほど幸福なこともないのだ。
そしてそうした人間なら、埋め込まれた暗号に、自ら気がつくはずだとMSは確信していた。
さて、時は迫ってきている。わずかな時間しか、私には残されてはいない。
研究所にも畳み方がある。最後そのように畳むために、初めから設計されているのだ。終わりのときから逆算して、すべての物質はこの世に存在している。地下に広がる、狭くはない、この空間が次の瞬間には空洞となる。空洞を埋めるために、周囲の物質は急激に、その空洞に引き付けられ、エネルギーが発生する。その瞬間だ。
その瞬間に、横に、そして平らに長い、この直方体の研究所は、一瞬で、聳え立つ縦への構造へと、その姿を変える。地上に屹立する。私はそのときには、いない。私という存在も木っ端微塵に弾け飛ぶ。エネルギーの爆発の中へと、消えている。私そのものだった研究所は消滅する。地下にあった空洞もまた消えている。陰の研究者はいない。一瞬、空洞となった場所には土が埋め尽くされている。地上には縦に長い、巨大なビルと化した直方体が、天に向かって聳え立つことになる。空へと突き抜けていくことになる。私は消える。その最後の瞬間に、私は私としてのエクスタシーが、ピークへと駆けあがっていく。
ついに、天との回路は繋がった。神官の長年の願いだった。途切れたままの、この世に存在しない回路が、おもいもよらずに出現したことに、神官は心底驚く。
目の前にそれはある。あれほど人間を犠牲にしてまで天に捧げた祈りでも、空は黒く暗くなるばかりであったのに・・・。
空に穴があいていると、神官は見上げた。その穴からは、橙色の光が、大量に降り注いできた。あっというまに、視界のすべてが光に包まれている。そして視界の外にまで、光はどこまでも拡大している。どこまでもとまることはなかった。MSは研究所を畳んだ。
真上、一直線上に、私は消えていた。
あのときも奔走していた。何としても、首都の地下の施設に、エネルギーを集中させ、金融工学のレバレッジのごとく、エネルギーの倍々ゲームのような事態になることは、避けたかった。肯定的な面は確かにある。変わりゆく、テクノロジー社会においてのエネルギー問題は、一気に解決し、文明の進化は加速していくことになる。しかしとアンディリー内務官は思う。
その文明を支える根幹が、もしこれになるとしたら。これが、来たる世界の、心臓部分になってしまうとしたら。これほど恐ろしいこともない。専門家の安全性に問題はないという前置きは、もう聞き飽きていた。
そんなことが、かつてあっただろうか。事故は必ず起こる。
エネルギーの増長システムが、うまく稼働しないときもあるだろう。そのとき、高速で回っている文明のリズムを落とすことなく、何で補完するのだろうか。正常な時に多めに製造をし、作り置きでもしておくのだろうか。あるいはエネルギーの掛け合わせがズレることで、暴発してしまったのなら、どうするのだろうか。
予想以上に、強力なエネルギーが生成されてしまい、施設が許容できなくなってしまったら、どうなるのだろう。本当に、エネルギーをコントロールすることが、完璧にできるのだろうか。そもそも、そうやって、巨大なエネルギーが人間世界を支配していくことには、ならないだろうか。それだけじゃない。
そのようなエネルギー施設を、乗っ取ろうとする連中の増大だ。エネルギー施設が、この世を支配する神のような存在になる。ここを手に入れている者こそが、地上を支配することと、同義になる。崇め奉る市民が増え、そこはまさに聖地のようになるに違いなかった。施設そのものを奪おうとする、権力闘争は激しさを増していくことになるだろう。政治の中心はココとなり、化学の世界の人間もまた、闘争を繰り広げることになる。テロリストも、外からこの文明の心臓部を狙って行動を起こしてくる。エネルギー施設を巡り、人間の思惑が多重に渦巻いていくことにもなる。大気は不穏の一途を辿っていくことだろう。内務官はそうした派生していく影響力にもまた、別の危険性を感じとっていた。内から外から、この施設は人間の精神に、不穏さを提供する象徴にもなっていくはずだ。けっして宗教的な意味においても、聖地なんかにはなりえない。人間の心の闇に沈んでいる黒い意識を目覚めさせる、最大の象徴物にも、なっていくに違いない。代償としては、あまりに大きかった。
たかだか、テクノロジーの進化の寄与の見返りとしては、危険極まりない取り引きのようにしか、思えなくなっていった。そしてそのあいだも、エネルギーの増長は起こり続け、世界に生命を届けるべく、配送され続ける。人工的な生命力が、世界を躍動させ続けていく。そしてこの中心地の獲得闘争、破壊願望をも、増長させ続けていく。こんな世界はいったいどこへと導かれていくのだろう。主語なき世界はどこへと、行き着く場所を求めていくのだろう。行き止まりの先には、さらなる異なった転調が待っているのであろうか。
アンディリー内務官は、最後まで、そんな世界への橋渡しをさせない法案の成立に、奔走した。とにかく危険性を訴えかけることしか、最後はできなくなっていた。アンディリーの言うことは、もっともだと言われはしたものの、経済発展、生活水準の向上に歯止めをかけることは、誰にもできやしなかった。それに君の心配だって、杞憂に終わるのがオチなんじゃないのかね。そんな後ろ向きなことでは、次の選挙でいったい、有権者に何を訴えることができるのかね。変化こそが進化だ。成長だ。我々は進んでいかなければならないのだよ。政治はそれを助けていく役目を、担っていかなければならないのだよ。未来を信じるんだ、アンディくん。悪あがきは、もうやめにしようじゃないか。その先に何が起こるのかを、今考えても仕方があるまい。これまでできなかったことが、できるようになるんだ。そういった可能性がある道を、我々が閉ざしてしまっていいのかだろうか?これは、可能性の話だよ。可能性のあるものに対して、広げるということが、我々人間の役割でもあるんじゃないのかね?妨害してはいけない。妨害するために、我々は地球に来たのではない。君は人間を、全く信頼していない。そして自分自身を。あなた自身を、信用していないからなのだよ。我々のことを、君は言っているのではない。人間全体のことを、言っているのではない。未来の人間のことを、言っているのではない。今のその、君自身のことを、自分で言っているだけなのだよ。表現しているだけなのだよ。君がやることは、周りに向かって、奔走することじゃない。君自身を見ることなんじゃないのかね。君の心の動きを、世界に投影することじゃない。その投影を、君自身に戻すことなんじゃないのかね。強く投影しているのなら、その強さをもって、激しく、自分に反射させていくべきなのだよ、君は。やる仕事を履き違えている。是非、思い直してもらいたい。
アンディ・リーは何度も思い出していた。絵画バイブルが羽田空港に到着する日は、すでに明日に迫っていたのだ。
アンディはずいぶんと混濁した白昼夢を見ていたかのように、意識はその後もぼんやりし続けた。
ユージンは、一人、空港へと向かっていた。付近の道路はすでに封鎖されている。ユージンはタクシーを降りることにした。空港まで電車で向かうことにする。たかだか一枚の絵なのに、厳重すぎると思った。羽田空港第一ターミナルへと向かう。やけに閑散としている。土曜日の朝だからなのだろうか。これならアンディが居れば、すぐに発見ことができるかもしれない。警官の姿がある。坂城だ。空港に着いて、いきなり坂城を発見するとは何ということだろう。偉そうに陣頭指揮をとっている。やはり厳戒体制極まりない。そのとき、坂城がユージンに気がつく。一瞬、気づかぬふりをした。目があったのに、反らした。しかし坂城は再びユージンに焦点を合わせることはしなかった。
坂城は携帯電話をとり出し、そして話し始めた。みるみる顔色が悪くなっていった。
すぐにその場からいなくなる。ユージンの携帯電話が鳴る。坂城からだ。
「お前、やっぱり狙ってるんだな。アンディはどうした?」
「俺にも、居場所はわからねぇ。しかし、今日になれば来るんじゃないかと。こうして探している」
ユージンは答えた。
「それで何の用だ?」
「今な、ちょっと一緒に来てくれ。そうだ。お前も一緒にだ。重要なことだ。ついに場所がわかった。美術館のだ。絵が空港に到着する日に合わせて、やはり完成させやがった。美術館さ。バイブルの行き先さ。その所在地が判明した」
「わかった」とユージンは答えた。
「何で、警察が、動いてるんだ?」
「今、いちいち、話してられるか。とにかく、お前も来い。美術館の存在を確認しに行く」
「空港はどうするんだ?」
「そんなことはどうでもいい。お前にできることは何もない。俺らにも。ただ遠くから見ているのがオチだ。先回りするぞ。結局、その場に絵だって来る。次々とやってくる。バイブルを皮切りに」
「なんで俺も」
「アンディだってすでに掴んでいるさ。もうそこにいるさ」
ユージンは電話を切り、坂城の後を追った。
そこには確かに立っていた。屹立していた。はち切れんばかりに。空へと吸い込まれるように。見上げると、交通のない真新しい高速の道路のように。雲のある高さが、ゴールのようには見えなかった。
その様子を見ていると、周りの風景はすべて消え失せた。
「警部。これは・・・」
「ああ」
坂城は言葉にできなかった。
身体はずっと小刻みに震えていた。
「見たことがないな」ユージンオカダは言う。職務を放り出してきた坂城は、すでに警察官ではなくなっていた。二人はただ聳え立つ建物を畏敬の念で見つめているしかなかった。これを前にして、俺ら人間はいったい何の違いを指摘し合い、争うことなどできるだろうか。
「これ、本当に美術館なんだろうな」
「ああ」
あいかわらず坂城に正気は戻ってこない。
「あったんだな」ユージンはあらためて言う。
「あったんだ。ここに絵画バイブルは搬入される。そしてそれを期に、世界に散らばった断片は、いっせいにあるべき場所へと帰ってくる。それに立ち会えるのか?俺らは。状況はいったいどうなってる?なあ、坂城」
ユージンは坂城よりも意識ははっきりしていることを自覚していた。あるいはここに相棒のアンディも来ているのではないか。探そうと視界を周囲に移そうとする。
しかしユージンにはそれができなかった。意識ははっきりしているものの、視界がまったく取り戻せていないのだ。音もまた消えていて、思えば坂城の声がわずかばかり聞こえてくるだけだった。その坂城の反応もいつのまにかなくなっていた。屹立する銀色の建物以外に、世界はなくなっていた。次第に坂城の声ばかりではなく、存在さえも、近くからは消えてなくなってしまったように感じた。アンディもまたここにはいない。
ユージンは人も物もすべてが、自分が認識できる世界から、勢いよく脱落していっている気がした。ものすごい勢いで、すべてが俺から遠ざかっている。俺が彼らから遠ざかっているのか。そのどちらであっても、すでに同じことだった。ユージンの世界には今や、このケイロ・マリキ・ミュージアムしかなかった。何故かこのとき、絵はすでに搬送を終えて、内部に入っているかのように思えてきた。さらには、遺作バイブルだけではない、ケイロの生涯にわたって描き続けた、絵の一つ一つが、展示までされている姿が、目に浮かんでくるようだ。螺旋階段のごとく、下の階から上に向かって、軽やかに積み上がっていくように思えた。彼の生涯の軌跡が。舞い上がっていくかのごとく。ケイロの人生が。そしてそれに連動した別の人生の数々も。
すべてが螺旋を描いて天上へと舞い上がっていくようだった。羽のごとく軽やかに。
どんどんと絵は軽みを備えていっているようだった。色彩も薄くなり、キャンバスの厚みも消えていき、描いているものは輪郭も不鮮明になっていく。重厚な世界はより単純に空白の多いものへ。遺作バイブルはどこにあるのだろう。どこに位置しているのだろう。わからなかった。バイブルの存在を見失っていた。ユージンは白い霧に囲まれた記憶の中で、最初に搬入されたはずの、バイブルの行方を追った。追えば追うほど重みが消え、存在感をなくしていく。あれほどの重み、小さな絵ながらも、大人が何人抱え持っても持ち上がらないほどの。特別な重機でしか運べない、バイブルが、今や。すでに、この世のものではなくなっている。
ユージンにはそのように思えた。そして自分もまた、そのように感じていった。
もう一人の 加賀ミーラ
ヌードモデルを始めて二年近くが過ぎようとしていた。はじめてヌードではないファッションのモデルをしてみないかと誘われた。女のカメラマンだった。加賀ミーラという名前を使い、本名は伏せて、活動していた。若くて綺麗な、この体の需要は高く、加賀は顔を出さない雑誌の素人グラビアや、有名写真家のアート作品に、裸体を提供したりする仕事をした。頭から薄いベールを纏い、顔を曖昧にする条件で、美術学校にヌードモデルとしても派遣された。アート系の仕事と、エロ産業の片棒を担ぐ仕事を、織り混ぜながらの生活だった。美術系に行けば、必ず専属のヌードモデルにならないかと、高額なギャラで誘われ、エロ産業の方では、そのへんのバイトよりも低いギャラで、AVに出てみないかと持ちかけられた。どちらにも興味はなく、丁重に断りを入れた。どのみち、加賀は自分の顔を、世間に晒す気にはなれなかった。ましてや、裸と共に顔を出すことなど、考えたことすらなかった。たまたま寝た男が、ヌードカメラマンだった縁で、今の仕事をしただけだ。男は加賀の体を絶賛した。男は既婚者で、加賀との交際は、今後いっさい不可能であることを伝えた。加賀は納得しなかった。しかし男は付き合えない代わりに、割りのいい高額な仕事を紹介することで、何とか加賀の気持ちを納めてくれるよう迫った。人前で裸になるのには、たいした抵抗感はなかった。そのときは生活に変化が欲しかったので、それをいい機会だと捉えなおした。加賀は引き受けた。そして二年が経った。今度は女性カメラマンの一言が、あらたなる変化を、加賀にもたらしていた。カメラマンは加賀に言った。ヌードではない、モデルとしても、十分に通用すると。そう繰り返し言ったのだ。彼女はかなりの自信を持っていた。私が売れると見込んだ人で、ブレイクしなかった女の子はこれまで一人もいない。そう言って出してきた名前は、加賀も驚く、有名な女優ばかりであった。ハッタリにしては、行き過ぎていた。加賀は当然、首をたてに振ることはなかった。新手の詐欺か何かなのだろう。金をむしり取ろうとしているのか、性風俗にでも売り飛ばそうとしているのか。しかし、カメラマンの女性は真剣だった。その後も、説得工作は過激になっていった。紹介された芸能事務所は知っていた。名前の出された女優も所属する、有名な事務所だったからだ。カメラマンは、そのような大手芸能事務所と組んで、仕事をもらうフリーランスの写真家だった。いずれは、芸術系の写真で、世界に、自分の名前をとどろかせたいという野心を持っていた。しかし、ファッション誌における写真には定評があり、リピーターが殺到した。モデルが直接指名をしてくることも多かった。ヌードの依頼もあった、女性のヌードをとらせたら、男性の大御所カメラマンをも凌ぐと言われ始めていた。そのような経歴を知るにつれて、怪しく疑う加賀の姿は、もうそこにはなかった。
加賀はこの機会を十分に使うべきではないかと思い直した。ヌードモデルを、いつまでもやれるわけがなかった。ファッションモデルの寿命だって、そうかもしれないが、それがきっかけで、また次の展開が生まれる可能性は高かった。加賀は乗った。やってみて違うと思えばすぐに降りればいいのだ。その旨をカメラマンにはちゃんと伝えた。とりあえず一度現場に来て、ためしに撮ってみましょうと彼女は言った。
加賀は初めて服を身に付けたまま、多くの人に囲まれ注目されることとなった。これまで加賀は服を身に付けた状態では、極力人と関わらないようにしてきた。どうしても人と、必要以上に関わらなければならないときは、何故か、裸にならないと不可能だった。交際するときはもちろん、異性と二人きりで会わなければならないときなども、すぐに、裸になりたかった。相手も裸にしたかった。別に性行為は、嫌いではなかったが、できることならしないほうがよかった。行為のあとの脱力感が、あまり好きではなかったからだ。性欲もされほどどある方ではなく、一人でしていてもイクことはほとんどできなかった。ただ、服を着た状態で、人とうまく関わることができなかっただけだ。女性同士でいる時が、最も苦痛なことであった。まさか、二人でお互いの服を脱がせあって、抱き合うわけにもいかない。なので加賀は、女性の二人きりや、三人以上の男女の集団と関わりを、極力避けた。ヌードモデルは、大勢の人と関わる時間の使い方としては、相性がよかった。加賀、は服を着ての、最初の撮影の場へと向かった。途中に何度か、衣装を変えるために、更衣室で着替えをした。そのとき一瞬、裸にはなったが、その状態のままで、人前に出ていきたいくらいだった。何とか自制した。着替えておとなしく出ていった。
メイクを施され、さっきとはずいぶん顔が変わっていた。加賀はうれしくなってきた。自分が着せ替え人形のようになっている。昔、子供のときに遊んだ、ママゴトの記憶が甦ってきた。少女の人形を、あれこれ着せ替えていくだけだったが、あれほど楽しい時間もなかった。服を脱がせ、また別の服を探しているときに、人形を裸体のまま放置してしまっているときもあった。まさにそのときの、あの人形に、今自分がなっているんじゃないだろうか。もしかしてと加賀は思い直した。
この着せ替え人形の方に、自分はなりたかったんじゃないだろうか。裸になりたかったんじゃない。あれはほんの、服を着た状態と状態の合間を繋ぐ、仮初めの状況だったのだ。
本命が達せられないから、仮初めの状態で、運命を待つ。それを地で行った結果が、ヌードモデルということだったのではないか。仮初めだったのだ。服がやってくるのを待つ、あのときの、人形だったのかもしれないのだ。ずっと何も着せられないままに、放置されていたのかもしれなかった。私は今、人形そのものになっている。あのカメラマンの女性が、昔着せ替え人形で遊んでいた私の手のような気がしてきた。
あの女性は、私なのだ。私だと思っていた私は、人形だった。着せ変えられることを、ずっと長いあいだ、一人で待っていたのかもしれなかった。
加賀はすでに人前に顔を晒すことに抵抗がなくなっていた。あのカメラマンの女性が言ったことは現実となった。はじめは専属の雑誌モデルの仕事をした。だんだんと別の雑誌にも、別のカメラマンとも仕事をしていくようになった。次第に女性カメラマンとの接点は少なくなっていった。いつのまにか彼女は、ファッション業界からは、姿を消していたのだ。連絡はかろうじてとれたが、当初の夢であった写真を、本格的にとることにしたのだと、加賀には語った。アメリカに行って、本格的にアートを学びたいとも言った。そのときは、遊びにいくと加賀は言った。加賀は売れた。売れに売れていった。もう裸にならなくても、まったく不自然な状況には陥らなかった。ずっと性的な関心は強い方ではなかったので、プライベートでも、すぐに裸になりたいという衝動が消えたため、男性ともなかなか、そういった関係になることはなくなった。
加賀はファッションモデルに転向して以来、恋人を持つことも、セックスをすることからも遠ざかっていった。加賀に付き合おうと言ってくる男の数は、半端でなくなっていた。加賀も一緒にご飯を食べにいくことはあった。しかしそれ以上、関係は発展することがなかった。楽しい時を過ごすことで、二人は満足して、そのまま帰路についてしまった。友達として、その後は続いていくことになる。友達といっても、時々会うこともない、ただの知り合いであった。それでも、仕事が一緒になれば、また仲良く過ごすことになるだろうし、どこかで会えば、それはそれで嬉しくもなる。分かり合える心の交流すら、その瞬間はある。それが最大の満足だった。それ以上、何があるのだろう。
加賀はファッションモデルとして、それから五年の月日を、駆け抜けることになる。
そして、加賀に次なる転機が訪れることになる。ファッションモデルとしては一般的に、かなり旬を過ぎてからの、突然の下り坂がやってきたのだ。加賀は35を過ぎても、見た目はまったく、二十歳と変わることがなかった。そういった風貌を維持していたために、彼女に仕事の依頼をしてくる人たちは、誰も年齢を気にしたことがなかった。彼女の周りのスタッフもまたそうだった。ふと加賀の資料作成だったり、プロフィールの更新をするときに、思い出してしまうだけだった。それでもまたすぐに忘れた。しかしだんだんと、加賀よりも遥かに若い世代のモデルたちが、多く出てくることになり、それが自ずと加賀の年齢を色濃く浮き立たせるようになっていった。
加賀を単体で見たときには何も感じない事柄が、事務所全体、業界全体を眺め見たときに、相対的な違和感が沸いてくることも、少なくなくなっていった。それにつれて、その全く変わらないように見えた風貌にも、何故か、人工的な偽りの影を見てしまうことになる。加賀は美容整形には全く手を出したことはなかった。にもかかわらず、周囲は変わらぬ加賀を、好奇な目で見るようになっていった。加賀の明るい自然な笑顔を、違った風にとらえるようにもなっていった。そんな人間が増えていった。加賀にはまったく、相手の心の内など、知る由もなかった。35を越えて、じょじょに仕事が減っていき、あっというまに専属契約をしている会社が一つになっていることに気づいた。本当にその瞬間まで、加賀には自覚がなかった。加賀は自分の年齢を気にしたことなどなかった。このとき初めて自覚させられたのだった。
男性関係は、この五年、まったくなかった。それがこの見た目の変わらなさと何か関係があったのだろうか。男と性的な関係にある方が、ある種のホルモンが出て、むしろ肌艶もよくなり内蔵も健康的になるのではないだろうか。エネルギーに満ちてくるのではないだろうか。全くそういった生活からは、離れている自分は、老化もまた進んでしまっているのではないだろうか。加賀は自宅の鏡の前で、久しぶりにまじまじと、裸の自分を見てみる。まったく抱かれることのなくなった肉体を注意深く見た。六年以上も前の肉体を思い出してみようとさえした。比較しようと試みた。だがよくわからなかった。変わっていないといえばいない。胸もまた特別垂れてきているようにも見えない。お尻もまた同様だった。皮膚にたるんでいる箇所などない。艶もいいように見える。だんだんとそんな自分の裸を見ながら、この女を抱いてみたいと思うようになっていった。この女を自分のものにしてみたいと。優しく誘い、そして激しく汚してみたいと。肉体も精神もすべてをばらばらにさせて分解してしまいたい。壊すのではない。解体して再構成してみたいのだ。加賀はその想いが募っていくのを止めることができなかった。
男が必要だった。加賀は男を必要とした。男に誘われなくては成り立たない。男をその気にさせないといけなかった。ファッションモデルとして、雑誌などで微笑んでいる私は、男を誘惑しているそれではなかった。同姓に共感を得られる、そんな雰囲気を、無意識に作り続けていた。こんなことではいけない!こんなことでは、寄ってくる男などいるはずもない!いや、しかし、あのときは、男など必要としてなかった。男を意識することなど、なかった。そんな意識は、これっぽっちも、私の内側にはなかった。だからこその、この自然な笑顔だった。今、すでに、私はそのときの私とは違っていた。男を心の底から欲していた。そしてその気持ちに高揚した。私が男になっていた。男としてこの体を欲しているのだ。そういった高揚を、加賀は終始、保ち続けた。
それからは、かろうじて、契約関係が続いていたファッション誌もまた、加賀からは静かに離れていくことになった。入れ替わるように、かつて仕事を一緒にしたという業界の関係者の男から、電話が頻繁にかかってくるようになった。一人ではなかった。何人も。加賀はそのすべてに応じて、食事を共にした。すぐに彼らは加賀との体の関係を求めてきた。加賀は断るそぶりをしたものの、自らの欲求から逃れることはできなかった。六年ぶりだった。不安だった。相手の性器が、この自分の中に、ちゃんと入ってくれるだろうか。ずっと閉じたままだったのだ。自分で弄ることすらしてなかった。尿を排出するときも、まるで性器そのものを意識したことはなかった。風呂で洗うときもまた、性器だと意識したことはなかった。手や足と同じ扱いで、ただ洗浄していただけだった。入るのだろうか。加賀はかつて、両耳たぶに開けていたピアスの穴のことを思い出していた。塞がったまま、もう二度と開くことはないのではないか。バージンのときとは違う、一度開通したものが塞がるのだ。それを抉じ開けるのは、バージンの時よりも、遥かに難儀を擁するのではないか。不安に不安が重なり、それでいて相手の男には言い出すことができなかった。加賀は食事をしたすべての男に、この開通を託そうと、決意した。全然開かなくても、びくともしなくとも、その中の誰かは、達成してくれるに違いないと思った。加賀はそのとき、圧倒的な確信に包まれた。私だと彼女は思った。この私がそもそも、この体をものにしたいのだ。私が体の心配などして、一体、どうするのだろう。私がこの体を開通させるのだ。男はただの身代わりで、移るべくただの乗り物だった。さっさと乗っ取ってしまえばいい。それを開かせればいいのだ。心配などしてる場合ではなかった。私がその体を愛し、愛撫し、錠を溶かしていけばいいのだ。興奮してきた。一度目ではうまくはいかないかもしれない。何度だってやればいい。何人もすでに居るではないか。その裏にはさらに男たちの長蛇の列が続いているように、加賀には感じられた。この自分の後ろには、限りない男たちが連なっているように感じられた。
結果は、開通に難儀を要することなどなかった。それどころか、その濡れ具合に、自分の方が驚いてしまった。流れ出る液体はとどまることを知らなかったのだ。ここまで濡れてしまえば、あるいは男の性器が逆に、内部をうまく捕らえられなくなってしまうのではないか。性器同士の結合している感覚が、薄くなってしまうのではないか。男は緩い女の中で、行き場を失ってしまうのではないか。萎えていってしまうのではないか。何の抵抗もないまま、行き場を失い、そのまま抜き去って、帰ってしまうのではないか。みな、去ってしまうのではないか。良からぬ不安が渦巻く中、加賀は再び、自分が男であることを思い出した。調整すればいいのだ。もうこれ以上、あそこを愛撫して刺激する必要などないのだ。すぐに挿入した。私は男だった。男であり続けた。男の体を使って、女を凌辱し続けた。その男は長く、真剣な人間関係を持つことはなかった。一日に何人もの男がその女を攻め、もてあそび続けた。私は乗り物である男を、次々と変え続け、そして女は一人でその大群を受け続けた。その女とは一体誰なのか。加賀はそうして五年以上にも渡って、ちょうどファッションモデルであり続けた期間と同じくらい、いや、ヌードモデルの期間まで含めた、それと同じくらいの時間を、ただ、自らの身体を離れて、地上からは離れて、浮遊しているように見つめていた。過ぎてゆく時間の感覚は、奇妙にも、あまり感じとることができなかった。五年以上が経ったのを知ったのは、自らの身体感覚が、女に戻ったときだった。男に膣の奥で激しく射精されているときに、ふと目が醒めたかのように実感したのだ。
いたい、と加賀は叫んでいた。激痛が走った。膣にではなく、全身にだ。やめてと、加賀は、男を払い除けようとする。しかしすでに、膣の中には性液が放たれてしまっている。放出した男の、びくっびくっと波打つリズムが、虚空の中で続いていた。そのリズムは嫌がおうにも、加賀の体に連動してしまっていた。同じリズムで体をひくつかせながら、加賀は男を円心で受け入れ続けるしかなかった。男の性器はいまだ、抜き取られてはいなかった。目をつぶったままの加賀は、ここでようやく、目を開けることができた。やってる男がいったい誰なのか、考えもつかなかった。思いつく顔は多重に現れ、それでいて誰なのかはまるで心当たりがなかった。男の顔を見つめ上げる。しかし視界は取り戻すことができなかった。大きな影に覆われていた。巨体の男が覆い被さっているのだと思った。払い除けようと、その体に触れてみようと、両腕を伸ばした。しかし男に触れることはなかった。大きな影からは何の感触も、得ることができなかった。ふと痛みが消えていることに気づいた。波打つリズムはない。膣のあたりがじんわりと熱くなってきているのがわかる。それにつれて巨体の影は遠ざかっていくようだった。いったい誰なのだと、加賀は思った。私の体を好きにもてあそび、そして快楽を無造作に撒き散らして、去っていこうとしているのは、一体。加賀の全身は、ひどく冷たくなっていった。高まる膣の熱さとは、対照的に。冷や汗を通り越して、ほとんど硬直してきていた。
感覚がだんだんとなくなっていくようだった。膣の熱さは止どまることはない。その対極は増していく一方だった。いや、やめてと、加賀は叫んだ。助けてと、男の影を呼んだ。男の性器が抜き取られたのか、まだ中に居るのかどちらなのか、わからなくなった。抜き取られ、すでに居なくなってしまったような気もする。影はほとんどなくなっていった。一人、ベッドの上で取り残されているような気がする。加賀は冷えきっていく体の感覚を捨て、熱くなっていくただ一点に、意識を集中することにする。生命はそこにしかない。そう思うことにした。ここに、しがみつく以外に、方法はない。そうしなければこの状況から脱出することなどできない。
いつのまにか、危険な領域に自分がいることを知った。何がどうなっているのかわからない。とにかくこのままではまずい。加賀はこの五年にあった出来事が、頭の中でものすごい速さで、回転していく様子を見てとった。死ぬんじゃないだろうな。どうしてそんなに突然・・・。まるで、予期してなかった。そうだ。あの影は死神だ。こんなにも突然に襲われるとは知らなかった。死は突然にやってきた。それでも今は、熱くなっていくその場所に、一心に身を寄せる以外には、考えられない。私は女なのだと、加賀は叫びたかった。私は女だったのだ。男になろうとしていた。いや、なっていた。ほとんどこの五年。領海を犯していたのかもしれなかった。犯し続けていたのかもしれなかった。女である私を捨て去り、置き去りにし、放置し続け、なきものとして無視し続け、忌み嫌うものとして、避け続けていた。たとえ、私にそんなつもりなどなかったとしても。結果的に、そうあり続けた。反動から反動へと、極端に行き来する、ある種の人生だったと、加賀は思い返していた。受けるべきものは、すべて受けるしかなかった。受けとり続けるしかなかった。そんな状況を、眺め続けるしかなかった。何も手出しをすることはできなかった。ちょうどそのときだった!その瞬間だった。私は私を見下ろしていたのだ。
裸の私が、そこには横たわっていた。眼下に居た。あの熱い一点の感覚は、あり続けた。
しかし。私は今や、その熱い部分からも、離れてしまっている・・・。どうして熱さを感じことができるのか。不思議だった。私は私から抜け出てしまっている。全身の感覚はなかった。あそこの熱だけが、唯一、感触があり続ける。男はどこにもいない。影も形もなくなっている。その男の影が自分であることを自覚するのに、時間はたいしてかからなかった。私は宙に浮いている自分の背後を、見ることはなかった。そこには男などどこにもいなかったのだ。男はこの自分なのだ。そして膣の熱さであったものが、すでに膣であるという確信が消えている・・・。
この熱の塊はいったい何なのか。さらにどんどんと狭く小さくなっていくようだった。
小さく圧縮し続けていった。誰のものでなくなるのに、時間はあまりかからなかった。
ほんの何ミリというところまで、小さくなり続けているようだった。痛みもなく、快感もなかった。自分のからだの感覚では、なくなっている。男もいない。私もいない。ふと、ベッドに横たわっているはずの、女の裸体が、どこにもない。誰もいない。遠ざかっている。
上空に吸い込まれていくかのように。加賀は地上から遠ざかっている。
裸の体は地面に吸い付き、離れない塊の象徴であるかのように。加賀とは完全に分離してしまっているようだ。加賀は昇天していた。やはり死にとらえられたことに、違いはなさそうだ。私は生の世界からは離れていっている。しかしこの五年の性生活のことしか、映像で甦ってこないのは、一体なぜなのか。生涯に渡った、すべての記憶が回り続けてこないのは、いったい何故なのか。その映像の記憶の海の中に溺れていかないのは、一体何故なのか。死ぬんじゃないのか。最後に一度だけ、性行為がしたいと思った。
女としてやりたい。女としての感覚で、最後はやりたい。私はずっと男としてしかセックスをしてこなかった。最後に一度だけ、一度だけでいい。女として、地上に存在したかった。存在してから死にたかった。だか今や時は遅かった。身体からはだいぶん遠ざかってしまっている。熱も何も感じ取ることができなかった。記憶の海は止んだ。
加賀はどこでもない場所で愛を叫ぶしかなかった。
後のことは、ほんの余生についての話だった。加賀は死んだのではなかった。五年は、ほんの瞬きのようであった。モデルでの蓄えは底をついていた。あの不思議な現象の最後に、この五年のあいだ自分がしていたことが、鮮明にすべて押し寄せてきていた。
私はあの女性カメラマンと再会していた。坂城という名字だった。結婚して坂城に姓が変わり、その後、離婚をしてからも、坂城の性を名乗り続けていた。坂城姓に変わってから、私の写真は売れ始めたのだと彼女は言った。泣かず飛ばすのカメラマンだった私が、坂城性を名乗ってから、ファッション写真に引っ張りだこになっていった。その縁起を、私は信じたのだと。そしてファッション写真をやめた後も、名前は変えなかった。けれども私は、前衛写真家としては成功しなかった。この五年、かつての成功による貯蓄をくずしていきながら、何度も個展を開く日々を送っていった。自分の芸術性を追求していった。海外にも積極的に出ていって、売り込んでいった。でも駄目だった。私の写真はまるで受けはしなかった。売れなかった。やるだけのことはやった。そして私はその間もずっと、自分の作風を変え続けていった。結局、私には独自のスタイルがなかったのだ。見いだせなかったことが最大の敗因だった。たとえ写真が売れなくても、写真家として評価されなくとも、それでもそんな現実など無視し、ぶっとばしてしまうくらいの迫力が、過剰さが、私のスタイルにはまるで見いだせなかったのだ。そもそも私という個性の中ではそういった要素はなかったのだ。ないことを徹底的に思い知らされるための五年だった。私は一生分の表現活動をやり終えたの。もう思い起こすことは何もない。そして、かつての居場所に戻ろうと考えた。
「それで帰ってきたんですね。よかった。あなたにずっと会いたかったから。あのあと、気になっていたんです。自分の道を歩んでいったんですね。すごいです。尊敬します。うまくいったかいかないかなんて、そんなのは関係ありません!そんなふうに一度でも、全力で生きることができる。そこに私は感動すら覚えます。感嘆に値します。私には絶対にできないことだし。それにまだ、成功だってしないとも限りません。またファッション写真をとりながらでも、平行して続けていくべきです!私も応援します。できることがあれば何でも協力します!」
「聞いたわよ」とカメラマンの女性は言った。「あなたも、やめたんですってね」
「すみません」と加賀は言った。
「あ、いや、そういうつもりじゃなくて。いいの、気にしないで。あなたを無理矢理にこの世界に入れたのは、この私だもの。あとはあなたの自由にしていったらいいの」
「同じ五年前です」加賀は言った。
「私の場合は、あるときを境に、仕事が極端に減っていってしまった」
「そう。辛かったわね」
「賞味期限が切れたんです。でも、あなたは違う。あなたの仕事に、賞味期限などない」
「私ね」女性カメラマンは言った。「私にはね、戻る場所がもうないの。業界にかけあってみたんだけど、カメラマンはどこも足りてるって。むしろ居すぎるくらいだって。それにね、今さら私の名前はどこいっても残ってないらしくてね。結局、どうしても私である必要はなかったのよ。たまたま運がよかっただけなの。その勢いで時流の波に乗っていただけ。そのまま乗り続けていたらよかったのに。自分なんて捨てて、そのまま乗り続けてればよかったのに。そうしたら今だって、きっと売れっ子のカメラマンであり続けていたのに。仕事だってたくさん来ていたのに。あなたに尊敬されるいわれはないわ。私は落伍者よ」
「すみません」と加賀は言い続けた。「あなたの役に何も立てなくて。申し訳ありません。
あなたに対して本来なら、私が恩を返していかなくてはならない立場なのに。何もできない自分が恥ずかしいです。あなたがそれほど自分の道を賭けてもがいていたのに。私ときたら・・・。何も言えません。何をしていたかなど。この口では何も語ることができません」
そう言って加賀は黙りこんでしまった。
「何も言わなくていいわ。何も言わなくていいから。私ね、ひとつあなたに提案があるの。あなたさえよければ、引き受けてくれないかしら。私たちは一緒に組むのよ。一緒にやるべきなのよ。今度こそ、タッグを組んで。本気よ。あなたとなら、今のあなたとなら、絶対にいい写真がとれる。何も言わなくていい。この五年のあいだ、あなたが何をしてきたかなんて。何も言わなくていい。私にはわかる。それは無駄じゃなかった。通らなくてはならない、道だった。経験だった。何も後悔することはない。ただ少し意識深くはあるべきだった。それだけ。もっと意識を鮮明に自分のやってることを見ている必要があった。ただのそれだけ。かといって何も変える必要はない。それでもやはり同じ道を辿ったであろうから。少しの注意力が必要だっただけ。ずっと起きたままを、見つめ続ける必要があった。でもそうではなかったことを今、後悔する必要もない。今、そのことに気づけたことで、すべてが変わる。ただのそれだけ。あなたは変わったの。まったく以前とは違うの。あなたは別人になった!以前に会ったあなたじゃない!あなたはこれから自分を注意深く見守ることができる。今もそう。これからもそう。そしてね、過ぎ去ったあなたの過去、してきた過去をも、あらためて意識的に見ることができる。終わってしまったと思い込んでる過去を、今再び、空から見守ることができている。私はね、この五年をかけて、そのことを学んだ。あなたの言う通り。それがうまく行こうが行くまいが、ただそんな私を注意深く見守っていればそれでよかったの。ただ見ているだけでよかった。その見る視点が、私を越えた、その視点がなかったことが、最大の失敗だった。でも今気がついた。気がつけば、すべてが変わる。失敗も成功も消える。その区別自体が消える。あらゆる区別が消えるの。あなたと私を隔てている区別もまた。わかるかしら。たとえば高い壁が聳え立っていて、あなたと私を隔てているとする。お互いの存在を確認することはできない。壁しか見えない。居る予感さえ抱けない。ところがその壁よりも高い場所に移動したらどうかしら。あなたも私も存在を確認することができるようになる。つまりはこういうこと。私を注意深く意識して、見守っていくにつれて、その視点はずいぶんと離れ始めていくということよ。私を見ていたのに、いつのまにかあなたのことも見えている。壁という名の区分は意味をなくし、溶解してしまう。あなたでも私でもない、何かがその視点よ。これこそが、カメラマンとしての本当の視点でもある。本来の。私にはわかった。その視点さえ持つことができれば、私は無敵になる。成功や失敗をも超越した、カメラマンになれる!あなたや、私という区分をも、簡単に超越した、存在そのものになれる!一緒にやろう。私と。次の五年を!」
そして加賀は、次なる展開をしていくことになった。男も女も超越した性へ。
記者会見場は見事にバッティングしていた。ホテルを借りきっての記者会見が、隣同士で行われたのだ。はじめ女性写真家・坂城の会見場には、ほとんど取材陣はいなかった。アメリカ帰りのかつてのファッション誌で人気だった写真家、待望の写真集発売と、題されていたが、隣で催されていた会見場は、規模も人数も、百倍以上は有に越えていた。ケイロ・スギサキという名前の画家のデビュー会見だった。坂城はしばらく日本を離れていたために、その名前は知らなかった。しかしこれほどの注目度を誇っているのだ。大物に違いなかった。
けれども、別に何か作品を発表したわけではなく、ただのその人物のお披露目の場だということだった。有名芸能人の、結婚会見のような賑わいに対して、坂城のイベントスペースはあまりに小さく淋しいものだった。
「仕方ないわね」
坂城はスタッフの一人に言う。
「知ってる?ケイロ、なんとかって人」
マイクスタンドの調整をしていた若い男は、答えた。
「ニュースで話題になってましたね、確か。でも、あまりアートとかには詳しくなくて、自分」
「そうなんだ。私のことも?」
「申し訳ありません」
「ううん。いいの。しかし、すごい賑わいね。悲鳴まで聞こえてくる」
と言った瞬間、確かに銃声のようなものが数発、響き渡った。
「ちょ、ちょっと」
坂城よりも先に、若い男は部屋の外に飛び出していった。
すぐに戻ってくると、入り口のドアを閉めて、鍵をかけた。
「まずいです。今は出ては駄目です。静かに。物音を立ててはいけません。まさか。まさか、そんなことが・・・。今はここが安全です。とにかく静かに。静かに。ああ、そうだ。万が一のために、机の下に逃げ込めるように。椅子も盾にできます。窓はええと、ありませんね。非常口はどっちだっけか。くそぉ」
銃声はその後鳴ることはなかった。
何が起きたのかわからず、坂城は呆然としていた。
「やらかしましたよ。襲撃されたんです。隣が。武装した数人組のグループらしいです。僕もその一人がうろついている姿を見てしまった。大変なことが隣では起きています」
叫び声が一気に聞こえ、そのあと物が倒れたりぶつかりあったりする音が聞こえ、あっというまに静かになってしまった。坂城は扉に近づき、そっと開けてみようとする。
そのとき、若いスタッフにおもいきり手を叩かれる。
「駄目ですってば。まだ。こっちに来たら、どうするんですか」
「ちょっと、何なのよ。何が起きてるのよ。大丈夫よ。こっちになんて、こないわよ。狙われる何があるっていうのよ」
「それもそうですね」
癪に触り、坂城は男の脇腹に肘打ちをする。
「どういう意味よ」
「いやっ、その」
「いいわ。けれど狙いはそのケイロのようね。それ以外にはありえない。もう大丈夫じゃない?何の音もしないわよ。みんな打たれて死んでしまったんじゃないの?」
「おそろしいことを言いますね」若いスタッフは笑った。
「しっ。黙りなさい」
立場は逆転してしまったなと、男は思う。
記者会見場には坂城とこの男しかまだ居なかった。取材のカメラマン、記者、リポーターなどは誰もこの部屋にはいなかった。そのとき、部屋の扉をどんどんと激しく叩く誰かの姿があった。
「どうします?」
「あなた、行ってみて」
「開けるんですか?」
「誰なのか確かめなさい」
とすぐに、男の大きな声が響き渡った。ホテルのスタッフのものです!大丈夫ですか?
襲撃されていませんか?犯人は全員取り押さえられました。返事をしてください。開けてください!
「これ、ほんとだと思う?」
坂城は男に訊ねた。
「信用できる?」
「しばらく放っておきましょうかね」
「開けてください?無事ですか?」
「会見はどうなるんですか」と坂城は、ホテルスタッフだという男の声に、負けない大きな声を出した。
「会見は仕切り直しです。中止ではありません。仕切り直しです。今から一時間後にスタートです。幸い取材の方々に、死傷者は出ませんでした。ケイロさんも無事です」
「誰が無事じゃなかったの?」
「詳しいことはわかりません」
「誰か、撃たれたんじゃないの?」
「とにかく開けてください」
「あなたが犯人ではないという保証はない」
「無事ならいいんですよ。ただ、こちらも、会見を開く予定ですよね?何か不都合はありませんか?なければいいんです。私は退散します。それでは」
「あっ、ちょっと、待ちなさい!」坂城は叫んだ。「たしか、会見は一時間後だったわね?」
「そうです」
「何人いるの?」
「五百人は超えています」
「すごいですね」若い男は言う。
「わかった。開けるわ」
坂城は急に気が変わったかのように、勢いよく扉を開けた。
確かにホテルマンのように見えるなと思った。
「彼らにこう言いなさい。集まってる報道陣によ。隣でも会見があるからって。一時間もかからない。ほんの十五分。取材しなさいって。偶然隣で大物写真家の、写真集発売イベントがあるって、さあ、はやく。知らせてきなさい!」
ホテルスタッフはすぐに駆け出し、いなくなった。
「はやく、準備しなさい」
今度は小声で、坂城は若い男に指示を出した。
すぐに取材陣に対して写真集を配ろうと、急いで五十セットを積んで並べ始める。イベントに来た人に対して、販売するために用意していたものを、取材陣に配るためのものにしてしまった。あとは一言、写真集の中身についてコメントし、今後の展望などを話し、そうだ。もしかすると、これだけの芸能関係者がいれば、かつての自分のことを知っている人間もいるかもしれない。とにかく、イベントは中止だ。どうせ、誰も来ない客を待っていても仕方がない。情けで来てくれる取材陣を除けば、誰一人として、注目などしていない船出だ。予期せぬ遭遇があったのだ。隣りにいる人間をすべて、お客さんに変えてしまえばいい。
隣で何が起きたのかはよくわからない。しかし少なからず、皆動揺しているはずだ。
そんな心が揺れているときに、彼らの意識の中に、放り込んでしまおう。同じ会見場で、何もせずに再び待っているのも、きっと忍びないに違いない。ほんの少し、つかの間のリラックスタイム、笑い、悪い冗談のような息抜きが必要なのだ。その機会をつくってあげたらいい。わずかなもてなしだ。仕切り直すのにふさわしい、ほんのわずかな気分転換を。まさにこの写真集を製作したときの、コンセプトそのものだ。最高の演出が待っていた。予想外な船出が、できるかもしれない。ほんのわずかな心の隙間に、時間の空白に、サブリミナル的に、この私の写真を入れ込むことが、できるのかもしれない。
まさか、こんなことになるとは思わなかった。これならもっと、部数を刷ってくればよかった。坂城はこれからやってくる報道陣の奔流に備えて、静かに時を待った。
その一部始終を、加賀は上空から見ているようだった。
会見場同士を仕切る壁、天井の存在は、まるで見えていないかのようだった。
加賀は、その場にいないにもかかわらず、その様子が何故か、手にとるようにわかった。そしてケイロの会見で起こったことに意識が集中してくればくるほど、隣の坂城の会場は周囲の一背景として、薄ぼんやりと後退していくのだった。
するとケイロという画家について、だんだんとどういう人物かわかってくるようになった。それ以上、今は深く入り込みたくなったが、それでもケイロの簡単な略歴くらいは、引き出せそうな雰囲気だった。そしてケイロにこれから起こることもまた、ぼんやりと立ち上がってくるように見えた。ケイロが死ぬそのときまでの情報、生まれてきたときの情報。さらには生まれる前にまで遡った、両親を含んだそのときの時代背景や、さらなる先祖への遡り。もしその気になり、覚悟を決めて踏み込んでさえ行けば、それらの情報はすべてが開示されるような気がした。
今はやめておこうと、加賀は思った。一度掴んだ情報の全体性は、時間が経っても消えることはないだろう。細かいことはあとで、本当に必要なときに腰を据えてゆっくりと取りだすことにしよう。それがいい。
加賀は再び上空へと戻っていった。自分が鳥にでもなったかのようだった。しかしまだ完全なる鳥ではなかった。坂城のこじんまりとした会場に、ケイロ会見のために来た報道陣の一部が、移動し始めているのが見えた。坂城が手渡しするための写真集を用意している様子が、何故かしら滑稽だった。坂城は予想外の展開に、浮き足だっているのを、極力抑え込んでいるようだった。あんな重いものを渡して、彼ら報道陣は持ち帰ってくれるとでも思っているのだろうか。荷物になって仕方がない。これからメインのケイロの取材が始まろうとしているのに。報道陣は百人くらいがすでに移動していた。
坂城は簡潔に写真の説明をして、自分のプロフィールも添えた。その場で本を開く人間も出てきていた。写真をじっくりと見ている人もいた。マイクを向けて熱心に話を聞いている人もいる。おのおのがしたいように振る舞っていた。会見場を出て廊下で本を広げている人までいた。予想以上の反響だなと、加賀は思った。写真につまったパワーに、少なくない人がすでに引き込まれているようにも見えた。おそらく、頭で考えだしたらうまく理解できないに違いない。簡単に拒絶することはできる。しかし状況が状況だった。さっきの銃撃事件からは、三十分も経っていなかった。少なからす、浮き足だっていた。何とか平静さを保つために、皆、時間をもて余してもいた。なにもしないでじっと待っているのは、忍びないのだろう。そしてこの写真だ。何かにすがり付いて、あとの一時間を過ごす以外にはないのだ。
その隙間に、見事に入り込んだなと、加賀は思った。彼らは今、あまり論理的には考えられなくなっている。ある種、普段は、かかったままの理性のリミッターが、完全に外れている。強烈に心の深いところに刺さるかもしれない。加賀もまた、心が沸き立ち始めていた。自分のすべてを込めてよかった。初めはたいして期待などしてなかった。ただ今後やることは何もないし、ちょうどいいタイミングで誘われただけだった。ただそれに乗った。しかしだんだんと坂城の情熱に巻き込まれていった。坂城はカメラマンに徹するため、被写体に専念してくれる素材を探していた。私が格好の餌食として現れた。自分を自虐的にとらえていた。そう捉えていたからこそ、引き受けた。別に何の思惑もなかった。すべてを丸投げするしかなかった。丸投げするには絶好のタイミングだった。私はもう自分のやりたいことはすべて、やりつくしていた。あとはどうにでもなれという気持ちだった。私は何でもやるつもりだった。私は自分の体を坂城に完全に預けていた。坂城は被写体もまた自分が務めたかったことだろう。しかしシャッターを切る役目を、放り出すわけにはいかなかった。坂城は今は妥協するしかなかった。いずれはひとりで、すべてのことができる日が来るのかもしれなかった。その日まで、私が代わりに補うべきだと思った。こうなれば、どこまでもいくさと加賀は気合が漲っていった。好きに煮て焼いてくれどころではなかった。自ら火の海に飛び込んでいく心づもりになっていた。加賀は突然自分が投げやりにでもなっているのではないかと思った。これまでまるで感じたことのない状況が自分の中で生まれ出てきている。自分をめちゃくちゃにしてやりたいという感情だった。何かに似ていると思った。それも遠くはない、どこかの瞬間に似ていた。何だろう。何をしているときだろう。答えははじめからわかっていたのかもしれなかった。この五年にも渡る日々のすべてが、まさにそれだった。そして私はめちゃくちゃにされる方ではなく、破壊しにいく側にいた。
写真撮影は服を着たシーンと裸のシーンと、それぞれが半分ずつくらいだった。
加賀は言われるがままに従った。けれども撮影はまったくの淡白で、あっというまに終わってしまった。半日もかからなかった。かつてのファッション雑誌の撮影のときとは、まったく違った。あのときは一ページの、たった二枚の撮影のために、丸一日かけて数百枚もの写真を撮ったものだ。今回は際どいショットを撮ることへの覚悟は、できていたし、ヌードはヌードでも、もっとエグイ光景までをも、勝手に思い描いていたのだ。単に乳房、乳首、陰毛、尻の割れ目を、見せるくらいでは終わらない、両足を極端に広げて、自らの指でその奥の闇をも、激しく開ききる。男の手でもしないくらいの露出を、坂城は要求してくるものだと信じこんでいた。そのために、加賀は前日から、念入りに、性器の洗浄をしていた。当日の朝もまたそうだった。見せることのできる限界まで自分がしていくことを、当然のことだと思い、現場に向かっていた。当然、性器だけではなく、肛門もまた同じだった。特定の男に対してではない、この空に向かって、宇宙に対して、もう隠し守るものは、何もないという状態まで、過剰に開いていくつもりだった。
本番は実に拍子抜けだった。全裸の写真も、ほんの数枚撮っただけで、あとはあっさりと服を着させられてしまった。ところが、何より驚いたのは後日撮った写真を見に行ったときだった。心底驚いた。ありえなかった。そんなショットなど撮影された覚えすらなかった。そんなものばかりで埋め尽くされていた。中には背景がまったく違うものまで存在していた。そんな場所になど、行ったことすらない。あのときの撮影でさえ、全くなくなっている。合成なのだろうか。好き勝手に作り上げたものなのだろうか。そういえば坂城は、商業的なファッション写真が撮りたいのではない、アートの世界にチャレンジし、成功するのだと、そう語っていたではないか。そう思ったとき、私は素直に納得した。好きなようにやればいい。これは私の写真集ではない。ただ素材を差し出したにすぎない。身体を差し出したにすぎない。写真は合成ではないと、坂城は言った。私はあなたをありのままにできるだけ撮ろうとした。そして撮った。それがこれらの写真なの。何の加工もしていなければ、特に私の計算が入ったものも何もない。これはそのままのあなたを写したものなの。だが見れば見るほど、次から次へと写真の束をめくるほど、放心状態から逃げ出すことができなかった。そんな馬鹿なと。
出来上がった写真集には、服を着た加賀も、一糸纏わぬ加賀もいた。それだけではなかった。加賀が事前に心づもりをしていた、あのシーンたちも、バッチリと入り込んでいるではないか。まるで私のそういった意識を、読み取ったかのごとく。奥の奥まで。闇の闇まで。闇をめくりあげ、裏返してしまった、世界までが、広がっているかのごとく。そしてなぜなのだ。この五年の間の生活でしていたであろうと思われる行為。それがそこには、大量に写りこんでいたのだ。その少なくない枚数が、まるで走馬灯のように、螺旋を描いて激しく回っているのだ。重ね積み上げられ、それが一つの写真にまとめ上がっている。亀裂が入り、分離し、ほどけ散っている写真として、成立しているものまである。まるで、私の意識の中を取り出して、撮影したかのような光景だった。
そのとき、加賀には閃くことがあった。あの短時間でおそらく、坂城は素早く私の中を撮影したのだと。外側ではない内なる世界を取り出して、押さえたのだと。それをあとから私から離れたところで精密に取り出して、再構成した。自由に、深く浅く、広く激しく、優しく、私という存在を見つめつくしたのだ。坂城はそういった目を、体現するための現物を、ここで目の前に提示してきたのだと加賀は受け止めた。
加賀は今、女性として最後のセックスが、やはり猛烈にしたくなっていた。
写真集のタイトルは「VIBLE」だった。
加賀はそのバイブルが、眼下の世界中に広がっている様子を思い浮かべた。確かにこの写真集も少なくない数が出回っている。しかしタイトルは同じで、別の形態の本の存在もまた、たくさんあった。インターネットで検索をかけたら、ずらりとタイプの異なる、著者の異なる書籍が、並んで現れてきそうだった。本だけではない、絵画や音楽アルバムのタイトル、さまざまな商品名に、その名前を見ることができた。これはほんのバイブルにおける、起こりえる一つの世界だった。加賀は自分の写真集を成すがままにさせて、遠ざかることにした。
坂城を囲むようにしていた取材陣も、隣の会見場へと戻っていった。坂城の周りには一人の若い男のスタッフしかいなくなっていた。用意した部数はすべて記者やカメラマン、リポーターに配ってしまった。あらためてイベントを再開することはできそうになかった。すべて完売したかのような会場に、スタッフは満足げに立ちすくんでいた。
坂城は手際よく会場の後片付けをしている。予期せぬ出来事で始まった彼女の新しい人生だった。そのまま突っ走っていったらよかった。彼女なら必ず自分の人生をまっとうしてくれることだろうと思った。加賀は身を引くように、その場面から静かに去っていった。最後に坂城の別れた元夫のことが気になったので、少しその人物に意識を飛ばしてみた。警察官だった。どこかで出会ったことのある男だった。しかし確信がもてなかった。これまでに出会ったのか、これから出会うのか。この状態ではそれがうまく把握できないのが、唯一の難点だった。いずれこの先なのかもしれない。坂城のことはもうだいぶん、私から遠ざかってきていた。加賀はどんどんと地上からは解離していっていた。遠ざかる風景にただ、身を委ねているしかなかった。このまま私はもう二度と、地上には舞い戻ってこないのかもしれない。そうも思った。最後に一度だけ、男性との肉体関係を現実にしようと、加賀はアンディの姿を探した。
アンディはカジノ場にいた。その場所をピンポイントで意識の焦点を絞り、一気に空気を圧縮して、そこを目掛けて降下していった。
加賀はカジノ場の中にいた。瞬間で風景は一変した。加賀は自分の体をさわった。
なぜか肘を触り、二の腕へと上がっていき、肩を押さえ、首を確認し、頬を伝って、頭部へとかけ上がっていった。一方、太ももに手を置き、膝から足へと向かっていこうとしたが、躊躇い腿を上へとあがっていった。股間に触れるふりをした。そのまま腹から胸へと移動させた。胸の膨らみを確認した。股間を触る勇気がなかった。本当に女性として、戻っているのだろうか。胸のそれは、確かに女だった。加賀は、自分の局部が女になっていることを、最後まで、確信を持つことができなかった。トイレに行って確認する気も、わいてこなかった。いずれにしても、今この時点で、確定させる気にはなれなかった。それに、店内のどこにトイレがあるのかもわからない。店内に女性の姿はない。
アンディをまずは探さなくては、と思い直した。普段から店に来ているように、小慣れた演技をしなければならなかった。ゲームのルールさえよく知らなかった。アンディの姿は確認できた。
だいぶん、遠い場所にいる。加賀は、フロアから一段高くなった席の並ぶ場所へと、移動した。そこでアンディを見失わないように、しっかりとマークすることにした。だが一人の男のことが、どうしても気になって仕方がなくなる。帽子を深くかぶり、髭を長く生やした細身の渋い男だった。ここから見ているだけでは、若いのか歳がいってるのかがよくわからない。目元が隠されている。その雰囲気は独特だった。そして彼の周りには人がいなかった。いないというよりは、正確に言うといるのだが、そこには実際の距離以上の距離があり、空間としての断絶間があるように思えた。そしてこの男、このフロアの中のどのゲームにも参加してはいない。それでいて何かをしている。何かのギャンブルを、今もしている。その集中力の高さが雰囲気として、周りを寄せ付けずにいるのかもしれなかった。
しかし対戦相手のいない、ディーラーの存在のない、一体何をしているのだろう。
アンディの位置を常に確認しながらも、加賀はその男に興味を牽かれていった。たぶん話かけても、相手にされないであろう。どんな誘惑にすら、乗ってくる気配がなかった。
いったいどうしたらいいものか。加賀はそのことばかりを考え続けた。店の人間にそろそろ声をかけられる頃かもしれなかった。何もせずに若い女がこんな場所でふらふらとしているのだ。目立って仕方がない。やはりはやいところ、誰かに話しかけ、連れのように、振る舞う必要があった。アンディの元へ行った。頼れるのはアンディしかいなかった。声をかけると、アンディはすぐに乗ってきた。元来の女好きという感じだった。
気さくに私の挨拶に乗ってきてくれる。ここの常連なのだろう。ちょっとからかってやろうと思った。「あなた、今日、相棒にあうわよ」
そう言ってみた。不思議がるアンディに、畳み掛けるように、あの男よと、指を素早く示した。
「おもしろいことを言う女だな」
アンディはこの遊戯に乗ってきた。互いにただの暇潰しだということがわかっているかのようだ。
アンディはその男の傍へと移動した。突然、その男がラストギャンブラーであることが閃いた。この男は違法なギャンブルをしている。警察が常々狙っている男だ。そして。
警察はここのカジノ場と取引をしている。運営を認め見逃してやる代わりに、そいつの逮捕に協力しろと。今も刻々と、警察が踏み込む準備をしている。すぐそこにまで、来ている。そう感じた。そしてその警察官。陣頭指揮をとっているのが坂城だ。あの写真家の、別れた夫だ。そうか。ここで出会うんだと、加賀は納得した。
アンディと今日中に寝ることができるのか。考えを巡らせていた。確かにアンディとは結ばれはするものの、それが今日であるのか。今日が可能なのか。どうみても、流れ的にはそういった状況になりそうになかった。諦めるか。繋ぎ止めて次回に持ち越すか。
アンディとの縁はそう簡単には切れそうにはない気がする。加賀はその場の流れに身を任せることにした。カジノ店に身を置いたまま、加賀は再び意識を体の外へと出していくイメージで、空へと帰っていった。
加賀ミーラは再び鳥になったかのごとく、肉体から抜け出し拡張して、カジノ場全体を見下ろしていた。壁や天井は半透明に透き通り、街全体が視野に入るまでに、上昇していた。そして私という肉体が、存在している世界全体と、一体化しているように拡張していった。そう認識したとき、加賀はそういった世界が、一つではないことを感覚として知ることとなった。隣り合い、存在している世界が、いくつもあることに気づいていった。
一つ隣の世界に焦点を決めて、降りていってみた。
加賀はある地上の一点に向かって吸い込まれていくかのように、急降下していくのを、止めることができなかった。一瞬、真っ暗になり、次の瞬間、加賀はベッドに横たわっていた。肌触りのいい、白くて薄い寝巻きを着ていた。天井は高く、シャンデリアのような照明が瞬いている。こんなものが落ちてきたら、大変じゃないかと、それを避けるようにベッドから起きる。部屋はかなり広い。格調高い家具が並んでいる。広い屋敷のようだ。加賀は耳を澄ませた。なるほど。こんな人生もあったのだな・・・。鏡を覗きこんだ。似ても似つかないヨーロッパ風の白い肌の女が立っている。髪の毛は見事に黄色い。加賀はそれ以上、詮索することなく、一思いで上空へと帰る。
きっとこんな世界が、無数に広がっているに違いなかった。今それらは同時に、別の私として、人生を進めていっているのだろう。特に、それのどれにも関わる気には、今はなれなかった。どれも放っておくことにした。私などいなくとも、彼らは勝手に、物事を進めていくのだ。いや、物事の方が勝手に進んでいくのだろう。とにかく、私など必要はなかった。加賀という暫定的な肉体もまた、放っておいて構わなかった。あのカジノ場では、私などいなくても、事は起こり、その起こった事の中で、私はそれに対応しているはずだ。今このときも。
そこに意識を集中すれば、目の前にその情景は現われてくる。今は勘弁してほしい気持ちだった。
もうすでに知っているようでもあれば、知らないような気もした。
それより今は、離れたいと思った。地上からはできるだけ離れたいと。私はどこへ行こうとしているのだろう。わからない。けれども、上へ上へと引っ張られていく力が働いている。肉体としての加賀からは、大きく引き離そうとする力が、働いている。そう長くはない人生だと思っていたが、これがまさにそのときなのだろうか。すでに大気圏は有に越え、地球を見下ろしているかのようだ。その地球もまた、さまざまな状況に別れていた。
これが、歴史というものなのかと、加賀は思った。はじまりから終わりまでを、一気に見たような感覚だった。横に一気に広げられたような。どこがはじまりなのかもわからないほど、すべてが一つの塊として存在していた。その中に、加賀の分岐した人間は、広範囲で散らばっているかのようだった。その一つ一つから、加賀のそれぞれの意識が、同時に抜け出ているかのようだった。そして地球の外で、それらは再会を果たすかのごとく、融合し始めているような、そんな状況だった。
加賀は別の加賀たちとの統合を果たしている。
加賀はもう二度と、この流れに逆らって、下降していくことなどありえないような気がしていた。地球からの解離もまた、とどまることをしらないようだった。どんどんと天上へと吸い込まれていっているかのようだった。
すでに上なのか下なのか。方向感覚はまるでなくしていた。時間もまた、前に進んでいるのか過去に遡っているのか。後退しているのか、そのどちらなのか、わからなかった。
加賀はただ、始まった大きな流れに対して、浮いていることしかできなかった。そして流されていく意識を、できるだけまた、さらに離れたところから、目撃し続けようと試みているだけだった。
しかし次第にそういった区分もまた、奔流による統合の波に、あっけなく飲み込まれ、加賀は完全に自分という存在を失っていった。
そうして加賀は、経てきた、この眼下の世界、多重に分岐していた世界が、その重なりを溶かし合い、互いの相違を打ち消しあって、空間を消している様子を見てとった。
世界と世界が、ぶつかり合い、解け合い、消えていっている。その世界。それぞれが、固有の時間をもっていると思われる、それぞれの世界が、今一瞬の混濁の末に、消滅する道を、辿っているのがわかる。異なる時間が、同じ場所に、理不尽にも同居することになってしまう。その一瞬が、地上の人間にとって、地上にいる加賀、つまりは私にとって、どれほどの体感があるものなのか。一瞬とは肉体においてはどれほどの長さなのか。重圧なのか。全く知るよしもなかった世界が折り畳まれていくように、見えるのかもしれなかった。
遠くに存在していた別の点と点とは、その距離はあっというまに縮まり、同じ地点として多重に折り重なっていくように見えるのかもしれなかった。
あらゆる場所が、折り畳まれていくことで、そこにいる加賀は、圧縮の果てに消えていくのではないかとも思われた。
だがそれもまた、今の加賀からは単に想像することしかできなかった。
加賀はそんな地上の様子からは、ますます離れていってしまっていた。
しかし意識は薄れることなく、鮮明になっていくばかりだった。時間と空間を隔てている壁が、加賀には溶けていくように感じられるだけだった。それに連動して、地上の肉体は消えてなくなっていくように感じただけだった。土や水に還っていくように。
第三章 鎮魂の空
選挙は淡々と行われた。
祭りを模した宴のあとで、元政権を信任するかしないかの投票が、人々によって行われる。そして政権はあっけなく倒れ去った。血も流れない、混乱も全く起きない、透明な交代劇だった。住人のほとんどが投票場所にすら行かなかった。
宴を最後にその地を去ってしまったのだ。信任も不信任もなかった。そうした制度システムそのものを、拒絶した。拒絶したというよりは、全くないものとして無視した。相手にしなかったのだ。そんなことなど、行われていることすら、まるで気にもとめず。さんざん祭りで大騒ぎをした後で、何の未練もなく、生まれ育った地を捨て去った。誰一人、後ろ髪を引かれた者はいなかった。新しい展望が、彼らの中にはっきりとあったのか、それはわからなかった。しかしその背中は何の迷いも見受けることができなかった。
そのときの、その年の書記官が、この自分だった。
今もまた、史実家として、文筆業を営んでいる自分のルーツのひとつが、このときの記憶だった。史実家としての在り方は、この瞬間に育まれていた。時間をかけて育ったものではなかった。この瞬間に、史実家としての生涯にわたる、すべての指針が決まったのだろう。あのとき、書記官としてその宴から選挙へと続いていく一連の出来事を、書き取めていた。とにかく、目の前の事実をより詳細に、素早く記す必要があった。さらには、後から書き直して、清書することは禁止されていたので、一筆書のようにほとんど止まることなく、一気呵成に、三十時間以上にも渡る仕事をこなさなければならなかった。
激しすぎる重労働だった。この日のために、書記官は入念な準備をしていった。体力作りのこともそうだったし、書き取る訓練だったり、状況を正確に把握する能力だったり。書記官になってから、地道に積み上げてきた能力があってこその、この直前期の、集中準備でもあった。この行事の書記官を任されることは、大変、名誉なことであったので、どの書記官も、この日の晴れ舞台を当然目指して、日々精進していっていた。自分もまた、そうであった。十年以上も落選した末に、やっとの選出であり、喜びは爆発した。しかしどれほど能力を高め上げ、体力を強化していっても、この日にかかる労力は、半端ではないため、この一日でその後の生きていくエネルギーのすべてを、前借りするように失ってしまう者もいた。書記官として、再起不能となるばかりでなく、日常生活に支障の出るほどの、重症化してしまうケースも、珍しくはなかった。肉体的には乗り越えても、意識のほうがその後ぼおっとし続けてしまい、空洞になったかのような、人生を送るものもいた。手厚い保護と治療、リハビリが組まれるが、元に戻る人間は誰もいなかった。以前のその人では確実になくなったのだ。脱け殻であり、中身の抜かれた、死んではいない、肉の塊と化していた。だがそれでも、書記官たちにとっては、その日の名誉は何を失ってでも、得たいものであった。その後のことについては、考えないようにしていた。そして、廃人のようになってしまうことも、本人にとっては、何も辛いことではなく、そもそもその本人自体が同じ肉体に、そのまま留まっているようには見えなかった。彼らはその日を境に、別の世界に昇天してしまったのだと。本気でそう考える人までいた。実際にそう見えるのだから、無理もなかった。そこにはもう、誰もいないのだ。昨日までいた書記官は、その日この世の最高地点へと舞い上がり、空へと消えてしまったのだ。彼らは歓喜の中、生きたまま、死の世界へと羽ばたいていってしまった。肉体を抜けて。死が強制的に肉体から意識を追い出すことなく。自分から軽やかに、抜け出ていったのだと。
しかし、肉体には肉体の、この地における寿命があった。その生涯を、まっとうする権利があった。その肉体を、地が預かる形で、朽ち果てる最後の日まで、丁重に扱う。
書記官たちの認識はだいたいのところ、そのような見解で一致していた。もちろん書記官以外の人間。特に家族は、そのようには考えていなかったが。
長年、書記官としての仕事をしていると、それを通じて訓練を繰り返しているとそのような気持ちになってくるのだから、不思議なものだった。そしてその昇天の日を迎えられる一握りの人間を、羨ましくなっていくのだ。名誉だという世間的な地上の論理も、もちろんあった。しかしそれよりも、そういった特別な死を迎えることへの期待と、切望の方が遥かに大きかった。その最後の名誉を預かった書記官は、その閑散とした選挙会場を、描写していた。まさか、自分が最後の書記官になるとは、思いもしなかった。その日の前半の仕事と、後半の仕事は、まったくの正反対のものとなってしまった。そして書記官である自分は悟った。去年までの書記官のように、エネルギーの最高出力と共に意識の最高の地点へと、引き上がっていくことには、決してならないのだと。引き上がっていかない最初の書記官として、歴史に刻まれることになるのだということを。前半の高まりを持ったまま、後半の静寂を、見届けなければならないこと。半分生きたまま、半分死んだままの状態で、今後、生きていかなければならないこと。すべてがわかってしまったのだ。そして今、その人生の続きをこうして歩んでいるということ。中途半端に上がったまま、下がることも昇天することもできず、この状態のままに何度も生まれ変わらなくてはならなくなったこと。史実家は、あの日のことを思い出した。
あの日、起こったこと。書き記したこと。あのままの状態で、肉体の寿命が来て、その後この世を去っていったこと。そして、そのときの状態に今、やっと追い付くことができたこと。やっと、あのときの波長まで、上がっていくことができたこと。この人生の前半はずっとそうであったこと。史実家として、書き記し続け、積み重ねていくことで、この場所まで来たかった。ようやく、目的の半分を達成することができた。この宙なる空間にはみたこともないような鳥が待っている。透明で輪郭だけがやたらと、巨大な気体のような、液体のような個体のような生命体だった。かつては物質密度が濃く、獰猛であり、威圧的な肉体を持ち、透徹した目、雰囲気を持った、孤高の覇者といった風貌を持っていたようにも思う。物質の密度は薄くなり、地上に降り立つ重厚さが取り除かれ、鳥の姿に似せて宙を舞っていたこの生命体。
書記官はそんな鳥の姿を、何度も目撃するようになっていた。そしてそれは良い兆候だと思った。
理由のわからない液体の流出は止まらなかった。無職透明、無味無臭だったものが次第に赤く色づいて生臭いにおいを発するようになっていった。水漏れになるような箇所はなかった。機体に燃料は積まれてはいない。氷結になるほどの気温でもない。一体どこから液体が発生しているのか。乗っている人間から漏れ出ているものでもない。試験飛行においては飲み物を含めて、何も機内には持ち込んではいけないことになっている。
いったいどこから。原岡帰還はその原因を掴めずに苦しんでいた。
もう完成しているのだ。どこに欠陥があるのだろう。一ヶ所なのか二ヶ所なのか。それ以上なのか。肉眼で確認することができない。数値にも異常は出てはいない。原岡の頭の中に良からぬ思いが去来してくる。このまま納品してしまっていいんじゃないだろうか。見て見ぬふりをして。誰にもわからないじゃないか。ほんのわずかな液体じゃないか。それにこれは何も不具合から発生しているものじゃない。外気との兼ね合いの中で、たまたま起こった、自然現象に違いない。そうに違いない。実際、飛行においては、何の問題もないじゃないか。原岡は眠れぬ夜を過ごした。もうどれくらい、恋人に会っていなかっただろうか。連絡のとることのできない彼女の気持ちになると、切なさが込み上げてきた。
実際に、物理的な何かが本当に腹の下部あたりから勢いよく、沸き出してきたような感じがして、ぞくっとしてくる。体内の奥に眠っていた何かの液体が、身体をあっという間に上昇して、排出されたかのようであった。原岡は辺りを見回した。何も吹き出してはいない。飛び散ってはいない。その感覚は消えることなく、今度の飛行機体のことと重なっていた。
やはり、何かが漏れ出たのだ。
外から起こった現象ではない。機体の外部、外側で、起こったことではない。そうじゃない。内部だ。もう一度、内部を点検する必要があるということだ。それを示唆している。そしてその何かとは、数値にも異常が現れず、この目に見える箇所に原因があるわけでもない。じゃあ一体、どうしたらいいのか。しかし漏れ出ている液体は、確かに現実だ。いや、違うんじゃないか。あの赤く染まってきた液体も、実際には存在しないものなのではないか。この自分にしか、見えないものなのではないか。原岡は恋人の加賀に、それを確かめてもらいたかった。だが原岡は一人きりだった。完成に至るまで、原岡は会社の人間には会うつもりはなかった。何が問題なのだろう。まるで血が吹き出ているようじゃないか。どこかに致命的な傷があり、それが流れでているようじゃないか。どこから出ているのだろう。それがわからなければ塞ぎようがない。それとも塞ぐ必要はないのだろうか。漏れ出る液体に対して、原岡は眺めていることしかできなかった。
そしてさらに何日も、その状態は続いていく。赤色はさらに濃くなっていった。においもきつくなっていった。機体の床部分に湧き出し、傾きに沿って、最低部にまでゆっくりと流れ出ていく。そしてそこから、壁を通過して外に出ていっている。部屋の床に伝っていっている。原岡は目を疑った。発生している源がどうであるかというよりも、壁を通過している?隙間などないこの素材を?
違う。これは実際に出ている液体じゃない。俺の目に映っている幻覚にやはり違いはない。考えるべきところは発生源だ。機体の内部だ。目に見える内部から、さらに見えない内部へと移行する方法。それだ。さもなければ、いつになっても何も見えてきやしない。どこまでその内部は通じているのかはわからない。致命的な欠陥が、取り返しのつかない事故に結びつかないよう、今対策を立てていくしかない。完成したはずだったのだ。まったく問題は、なかったじゃないか。表面上の計算では、浮かばれない、見えない何かだった。原岡はこうして、一人きりで作業をしていることに初めて、光明を見い出していた。誰かに相談できることではなかった。技術者にも知り合いにも恋人にも。自分一人で、解決しなければならない問題だった。そしてそれは、内部のさらに内部に、反転を繰り返していくことでしか、おそらく見つかることはないだろう。何と恵まれていることだろう。運命に感謝していた。運命が自分に何をさせたがっているのか。原岡は生まれて初めて、心神深くもなっていた。神の存在を、なぜか身近にも感じていた。今この近くに来ているとさえ思ったくらいだ。非常に注意深く、意識は圧縮されていった。
何かがいる。何かが来ている。それは俺への訪問者だ。
その何かが自らの存在を示したいがために、赤い液体を?血の刻印をここに?
なぜ?何のために?いたずらなのか?それとも真剣な伝言を?
原岡の心のなかでは、疑いと心神深さが、せめぎあっていた。
機体の中に入り、内部を静かに見回した。これが内部だ。その内部とは、一体どこにあるのだ?内部の内部という理解のできない概念が、宙に浮かび上がり、ぐるぐると渦巻いていた。行き場を失い、飛行船の中を旋回していた。
ちょうど、そのタイミングで、原岡は一冊の本と出会った。インターネットだけは繋いでいたので、もちろん恋人や会社関係の人間とは、連絡を取ろうと思えば取ることもできた。気分転換に、たまっていたメールの整理をしていたときに、たまたま「死地」という題名が飛び込んできた。はじめは小説だと思った。しかし、あらすじを読むと、どうもそうでもないらしかった。作者は史実家とかかれている。ペンネームなのだろうかと、訝りながら、すぐに購入を決めてしまった。電子版が、すぐさま送られてきた。
無血開場される時代の変遷期における、政権転覆の話だった。歴史物だったのかと。一瞬、それ以上、読むのをやめようとした。がしかし、原岡は、それよりも神経を別の回路へと繋げたかった。仕事のことからは離れたかった。光と闇が、その存在場所を変えるとき、と章題は始まっていた。その繰り返しから、逃れることはできない。昼と夜の世界である。光の世界は、来たる闇の世界を増長させ、闇へと転覆すると同時に、光の世界は、その目には見えない領域へと、産み落とされる。
原岡はすぐに、パソコン画面の文字の羅列から、目を逸らした。始まりからして、不穏な空気に包まれている。そもそもこれは、何なのだ?何のジャンルの文章なのか。何が今から始まるのか。つかの間の休息を望んでいた原岡には、重すぎる先制パンチだった。
ちょっと待てと、画面に向かって、叫びそうになってしまう。目には見えない領域でという文言が、胸に突き刺さってくる。目には見えない領域で、産み落とされる。すぐにあの漏れ出る液体のことに、意識は向いてしまう。仕事からは距離を置きたいのに。思惑とは裏腹な展開になってしまう。
無血開場という文言にも、遡ってしまう。あの赤い液体。あれは、血なんじゃないだろうか。誰かが流した血。目には見えない。その土地では見えなかった。つまりは、無血開場に見えただけで、実は、もっと深いところでは・・・。大量の血が流されている。漏れ出てくる赤い液体。ここにその源はない。源はどこか別の場所。別の世界。通常は繋がっていない、世界同士の出来事。何かの拍子に開通してしまった。
何の拍子に?
スペースクラフトバイブルⅠの製作。完成間近。ほとんど完成している・・・この状況。漏れでる液体。欠陥。違う。欠陥ではない。穴が空いているわけでもない。機械のトラブルによる妨害でさえない。完成に、ほとんど近づいているからだ。原岡は、我にかえる。
何を、考えてるんだ?
しかし、イメージは、さらに先へと繋がってしまう。完成に近いからこその、記し。別の世界と、繋がり始めていることの、証拠。別の世界。本来ならば、関係の深い、深かった場所。ということは。これから、完成度が加速していくにつれて、漏れでる液体の量は・・・。
そうなのだろうか。赤い濃度は・・・、匂いは・・・。
原岡は、大きく息を吐く。先を読むことにする。その光と闇の繰り返しこそが、我々の地球における時間の進み方、そのものである。当たり前すぎて、さっきまでの不穏さからは急に振り落とされてしまった気になる。何なんだこれは。これはただの駄文にすぎないんだな。面白くもない、売れてもいない本だったんだ!ざっと流し読みをして、早めに寝てしまおう。そう思った。原岡にはそんな考えが浮かんできた。その日、上空には、グリフェニクスが飛んでいた。新種の鳥だ。かつては、自らの重さから、飛べずに、地上を這っていくだけの動物であった。少々、からだも大きかった。鳥の見た目を持ちながら、地面を徘徊するグリフェニクス。それが、その日は、上空を飛んでいるのだ。飛べないことで、地上を支配するしかないと思ったのか、グリフェニクスは、地上の覇者として君臨する。今グリフェニクスは飛んでいる。闇と光の世界の交代劇に、裂け目をいれるために飛んでいたのだ。光が地上の覇者であるとき、それにふさわしい、似つかわしい、能力をもった人間が台頭し、文化が台頭し、文明が台頭し、政権が台頭する。闇の時代には、闇の時代に相応しいものが。崩れ、廃れ、滅びていき、再び、復活してくる。その繰り返しだ。その繰り返されるリズムからは、逃れようがない。そんなリズムに組み込まれているはずの、グリフェニクスが、今飛んでいる。
太陽があった場所に。月があった場所に。グリフェニクスは浮かび飛んでいる。
太陽も、月もない、昼でもない、夜でもない、その空間に。宙空の覇者のように、グリフェニクスが・・・。無血開場が、両方の世界で同時に起こったのだ。それが、こうした特殊な状況を、起こした。史実家は語っていた。血が、流れ出るはずもない。光と闇の両者の戦いでは、なかったのだから。互いが入れ替わるための、攻撃ではなかったのだから。そして、相手に対して、降参したために明け渡した、行動でもなかった。両者が、同時に、明け渡したのだ。放棄したのだ。血は一滴も流れ出なかった。大地が、赤く染まることもなかった。そして地上を闊歩していたグリフェニクスは、上空高くにいた。
原岡はすでに、引き戻ることのできない場所へと、踏み込んでしまっていることを自覚した。今日は眠りにつくことはできないかもしれない。そして、無血開場は連鎖していく。
地球上に留まる風ではなく。宇宙へと漏れだしていく。また漏れ出す。連鎖は少しずつ進んでいき、引き返すことのできない地点へと到達する。俺と同じだと原岡は思う。
それを越えたとき、もはや漏れだした風は、連鎖というイメージでは、とらえられない。爆発だ。一気に、物質の組成は変わる。グリフェニクスは無傷だった。爆発のなかに生まれた唯一の静寂のように、何の影響も受けない、唯一の象徴であるかのように。
宇宙に浮いて、こちらを見ている。それが、我が社である。
我が社?
うたた寝から覚めたかのごとく、原岡は目を激しく擦りながら、画面を再び凝視する。
ただの広告だったのだ。グリフェニクス社の広告だったのだ。いつのまに刷り変わってしまったのか。はじめから、これを見ていたのか。本を選んで、購入したはずだった。
それを、電子書籍で読み始めていた。それが、突然、転調している。
繋ぎ目がわからなかった。パソコンには、そんな本の履歴はなくなっている。漏れ出る何の話だっただろう。そうか。あまりに、仕事のことで頭が一杯になっていたために、漏れ出る液体の解決を、見知らぬ広告の上に、投影して、重ねてしまっていたのかもしれなかった。漏れ出る血は、何だっけか・・・。無血開場の連鎖だ。そのとき流されたであろう、実際には流れてはいない血が、ここに繋がった。そして、あふれ出てきた。
原因は、ここではない。原因はここにはない。けれども、誘発する何かは、ここにある。
導き入れた装置が、ここにはある。スペースクラフトであるのは、間違いない。これの何に、反応したのだろう。それがわかれば、この漏れは止まる。そして、こっちの漏れを止めることができれば、あっちの出所の漏れをも止めることができる。それかもしれない。そのためにこうして、ここに現象を現して、この俺に何かをしてもらいたかったのかもしれなかった。俺に助けを求めてきている何かがあった。
原岡の目は夜の帳の中でいっそう、冴え渡ってしまっていた。
予想通り、原岡は眠れない夜を過ごすことになってしまう。
もう完成品としての、スペースクラフトバイブルⅠの中で生活を始めてもいい時期だった。しかし漏れ出る液体のことが気になって、仕方がない。寝ている間に、床が水浸しになっていることも考えられる。研究室での寝泊まりが、続いた。漏れ出ている大元は、一体何なのか。誰かの血が、こうして流れ出続けているのは、決していいことのようには思えない。出ることに意味はあったのかもしれないが、出続けることは絶対によくない。
もし自然に止まらないとすると、誰かが止めに入るしかない。この俺だ。そしてスペースクラフトという名の飛行船もまた、気になった。水の上に浮く船とは違ったが、もしそのような船だったとしたら、水の侵入は致命的だ。行き着く先は沈没船だ。商品化などとは言っていられないレベルだ。宙に浮く飛行船であっても、同じことだ。水蒸気か?大気中の水分が、こうして壁の内部に水滴を?氷結?外と内の温度さが、水を誘発しているのだろうか。けれどそれなら、赤くなる理由に説明がつかない。やはりこの次元とは、違う世界との開通に、何か原因があるのだ。
塞ぐべきなのか。塞いで閉じてしまったらいいのだろうか。
だが原岡には、閉じる行為こそが、自然に逆らっているように思えた。むしろ開ける方向に、もっていくのが我々の仕事だ。開き方が足らないのだろうか。そうだ。そうに違いなかった。開き方が、繋がり方が、中途半端なのだ。開いているのかいないのかわからない、繋がっているのかいないのかわからない、微妙な位置で止まってしまっているからだ。それがこの漏れ出るといった現象に集約されているのだ。開く方により舵を切らなくてはならないのだ。
すでにスペースクラフトバイブルの骨格は完成し、構造は揺るぎないものとなった。
その上で何が足らないのだろう。開ききっていないとは、いったい何のことなのだろう。ここでも技術的、物質的なことではないのだろうか。何かを象徴する意味なのか?いったい何を開けばいいのか。漏れ出るというよりは、漏れ入っているわけだが、それは完全に閉じていることを意味してはいない。ほんのわずかでも扉は開いている。開き始めている。壁は溶け始めている。壁?何の壁だろう。その壁を溶かすために、より溶かすために、このプロジェクトは立ち上がったのだろうか。
飛行船を未来の人間の自宅にして移動手段にしていくという、この空間ビジネスは、本当のところ何を目的としていたのだろう。
原岡は急に、そのアイデアを思い付いた当初の瞬間へと、意識を遡らせていた。はじまりには何があったのか。空間か。空間に関する捉え方だ。想い。感覚。そんなところに本質があった。この空間に存在していながら、存在していない。存在していないのに、存在している。そういった状態に、そもそもの興味はあった。空間を操る魔術師になりたかったのだ。空間が自分を支配し、空間的な制限の中に我々の方が合わせなければならないといったこの現実。空間の中においてしか、存在できないこの窮屈さ。窒息しそうだった。
自由になりたかった。物理的制限から。それは時間からの解放をも意味していた。時間を越え、空間を越え、存在できる瞬間が欲しかった。そんな瞬間が、続いていく場所が欲しかった。この世界全体、地球全体が、そうであってほしかった。そのためには、まずは、個人的スペースにおける変革が必要だった。すべてが、そこから始まっている。そういった想いこそが、構想の根っこにあったことを、原岡は思い出していった。そのときだ。
夢の中にあったスペースクラフトバイブルが、目には見えない領域から、見える領域へと降臨した最初の感触があったのだ。
「あ、そちら、アンディ探偵事務所でいらっしゃいますか?」
「いえ、違いますけど」
「違う?間違えたかな。確かに、そうだと思うんだけど。探偵事務所じゃないの?」
「ええ、違いますね。しかし、正確な理由を言わないことには、きっとこれから何度もかけてくるでしょう。もう今はそのような業務は、やっておりません。以前はやっておりましたが。探偵の真似事のようなものを」
「アンディさんですか?」
「そうです。アンディ・リー本人です。こうして本人がいきなり電話に出るわけです。いかに本業を続けていないかが、お分かりかと」
アンディはそう自虐的に言った。
「おやめになったんですか?」
「そうです」
「完全に?また、どうして?けっこう繁盛なさっていたでしょう。評判を聞きました」
「ありがとうございます」
「私の件だけでもいいので。この一件だけでも何とか、力になってもらえませんかね。困っているんです。大変、困っているんです。頼る人が誰もいません。到底、私自身で解決のできることのようには、思えない」
「それはお気の毒です」
「気の毒?なんて言い方だ」
「力になれなくて申し訳ありません」
「本気なのか?」
「もう二度と、業務を再開することはありません」
「じゃあどうして、業務停止のようなニュアンスにしている?」
「お名前をよろしいですか?」
「ああ。ゴルドだ。世間的には、ドクター・ゴルドとして、名前は通っている」
「ゴルドさん?まさかあのゴルドさん?」
「たぶん、そのゴルドだ」
「そうでしたか」
「引き受けてくれるかね?」
「そうですか。ゴルドさんですか」
「オーケーだね?」
「ちょっと考えさせてください。で、あなたが、自分で解決できないことがおありだとは。信じられないな。そんな弱音を他人に、平気でおっしゃる人ではないでしょう?どうしたっていうんですか?しかも僕みたい人間に。実態もよく分からない、この探偵業もどきに、相談だなんて。地位も名誉もあるあなたが、僕に?」
「恥を忍んで頼んでいるんだ。察してほしいね」
「しかしゴルドさん。本当に僕は、この業界から足を洗ったんです。力になれることは何もありません」
「じゃあ、こうしよう。これは仕事ではない。正規のルートでは全くない。ただの個人的な頼み事だ。信頼関係に基づいた、ただの趣味の延長だ。あとでほんのお礼を渡すだけの。そうしよう。これは仕事ではない」
「個人的な信頼は、僕とあなたとの間にはまったく存在しませんけど」
「仮初めの話だ」
「それが嫌で、業務は停止したんですよ」
アンディはうんざりしたような声で答えた。
「うちの女房のことなんだ」
「そんなことだろうと思いましたよ」
「いや、違うんだ。それだけじゃない。もっと重要なことは、この後にある。まってくれ。切らないでくれ。一つ一つ解決しよう。なっ。ひとつひとつ。一番身近でわかりやすい、単純なところから責めるのが、常套だと思ったんだ。すまない」
「じゃあ、全部、言ってみてください」
「全部?」
「そうです。ひとつひとつだなんて、ケチくさいことを言ってないで、全部。すべてをテーブルの上に広げて、並べてみたらいいです。同時に解決してしまったほうがいい」
「力になってくれるんですか?」
「そんなことは、一言もいってません」
「女房のことです。彼女は浮気をしているみたいなんです。それも別の学者に。よりによって私の同胞に。しかもかなりの格下だ。なぜあんな男に。ほとんど世間的には通用していないような落伍者だ。どうして落伍者に自ら近づいていくんだ?女房はきっと騙されているんだろう。そうに違いない。薬を打たれているんだ。好きなように操られている。そうでしょ。そう思いませんか?それなら助けてあげないと。私以外に、いったい誰がしてやれるのですか?それに私はまだ、あいつのことを愛している。夫婦関係そのものは良好なんです。学会やパーティにも、同伴していますし。外食にだって頻繁に一緒に行きます。洋服などを買うのも一緒に。それなのにあいつは影で、こそこそと別の男に会っている」
「なるほど。で、奥さんには直接問い正したんですか?」
「そんなこと、できるわけないじゃないか!しらばっくれるか、逆ギレするか。それとも、正直に、いや、そんなことはありえない!しらを切るに、違いない!そういう女なんだ」
「それで、どうしたいんですか?」
「その男を殺してほしい」
「ちょっと、やめてください」
「縁を切るくらいでは、再び、くっつくに決まってるじゃないか!さらに、結び付きが強くなる。そういうのはもう結構だ!」
「もうですか」
「仕事もうまくいっていない。うまくいっていれば、女房のことだって、どうでもよくなる。私だって好き放題すればいいんだから。ただ、今はそんな状況にはない。会社は瀬戸際にきている。経営状態は悪く、改善を図るためには、新しい商品を開発して、市場に投入していかなければならない」
「メインの商品とは、スペースクラフトバイブル、のことですね」
「そうだ」
「僕も、それを、愛用していますから」
「話が早い!」
「何の話ですか?」
「いや、とにかく、これ。もう市場は、飽和状態だ」
「だいぶん、儲けたでしょう」
「頭打ちだね」
「それにしても」
「開発が、うまくいってないとは。飛行船事業ですか?」
「それもそうなんだが」
「なんです?」
「その他にも、多角化して、商品開発を進めたんだ。私の発明を生かしてね」
「例えば」
「あまり、ここでは言えないな。あなたが仕事を受けてくれているという、状況がなければ」
「さっきは、仕事じゃないって。まあいいや。その商品たちが、売れてないんですね。開発費は莫大だ。クラフトバイブルの利益以上に、資金を投入してしまっている。クラフトバイブルの成功で、銀行からの融資は、無尽蔵でしょうからね」
「わかってるじゃないか」
「あの、だんだんと、探偵業の僕に依頼する内容では、なくなってきてる気がするんですが。つまりは、経営を建て直したいって、ことなんですか?」
「いいから、最後まで聞けよ。全部をテーブルに並べろと言ったのは、お前の方だ。あ、いや、失礼。あなたの方ですよね」
「そうでした」
「これも、企業秘密なんだけど、このスペースクラフトバイブルの開発者っていう人物が、実は変死をしてましてね」
「やっと、探偵ごっこっぽくなってきたな。続けてください」
「なので、それ以降の、リニューアル商品が、まったく出せない状況になっている。彼が、スペースクラフトを一人で開発したのでね。その鍵を持ったまま、死んでしまった。ただ、本体は完成していたために、あとはコピーして、大量に生産してしまえばよかった。スペースクラフトバイブル社は、そうやって、大きくなっていったんです。ただのコピーをするためだけに。商品を流通させるためだけに。拡大への勢いは、これほどついているというのに。にもかかわらず、内部ではその先が白紙。急激な下降線へと入る、臨界点まではもうあと一歩だ。それまでに、何とかスペースクラフトバイブルⅡを投入しようと頑張りましたが、いまだ、実現には至らず。Ⅰの鍵が、開発者本人以外では、どうしても見つけることができない。私をもってしても。いろんな技術者開発者にも、声をかけて試してもらった。世界中の。けれども駄目だった。だから私はそのあいだに、何とか別の主力商品の開発に力を注いだ。新しいシリーズまで作ったんですよ。ひとえに私の、私そのものの賜物です。しかし、市場は、まったく受け入れてくれなかった。当たらなかった。需要はまったくなかった。誰の需要をも、喚起させることが、できなかった。そういうことです」
「あの、ちょっと、お話に水を差すようで、申し訳ないんですけど」
アンディは言った。
「その、奥さんですなんけど、別に、不倫してるんじゃないないのかもしれませんね。その、クラフトバイブルの鍵にあたる解明を求めて、奔走しているのかもしれません。あなたとは、別のルートで。優秀な研究者を、探し当てようとしているのかもしれません。こういっちゃ、何ですが、所詮は、人間が作り出したものですから、人間が解決できます。奥さんは自分なりに心当たりを、訪ねていらっしゃるのかもしれませんよ」
「なんと素晴らしい推理だな。さすがだよ。評判は伊達じゃない!勘が非常に素晴らしい方だ。そうじゃないかもしれないが、そうだと思わせる煌めきがある。証拠はまだ、何も提示されていないのに」
「ありがとうございます。それでその売れてない商品っていうのは、例えば、何という名前で、どういったものなのですか?教えてください」
アンディはすっかりと、その気になっていった。
「キュービックシリーズと、名づけたものなんです」
自宅に帰る途中、加賀はいきなり背後から口を塞がれ、車の中へと連れ込まれた。そこはスペースクラフトバイブルだった。この飛行船、人を拉致することもまた、容易にさせるのだと思った。加賀は目隠しをされ、服は下着を除いて、ほとんどが脱がされ、おそらくベルトであろう。皮膚を思いきり叩かれた。相手が何人いるのかわからなかった。
話し声は聞こえなかった。男なのか女なのかもわからなかった。加賀はふと女なのではないかと感じた。目隠しをするときに、最大に接近したその身体からは、ほんのわずかだったが、女の匂いが漏れ出ているような気がしたからだ。ベルトをしならせているのも、自分が女であることの非力さを、誤魔化しているためのように思えてくる。
こうして最初から服を脱がせるのも、性的な襲撃だと思わせようとしている作為にすら感じられてくる。何か裏があるに違いないと加賀は思った。抵抗せずにその場の流れに身を任せるしかないなと思った。耳を澄ませ、今起こっていることに注意深くなるしかなかった。
下着姿で放置されるのには、少し寒い季節であった。スペークラフトの中は、温度調節が自然になされているが、裸の人間を基準には当然していない。鞭と化したベルトの叩きは、そのあいだも容赦なく続けられた。脅迫めいた文言を待ったが、相手は何も言ってはこなかった。自ら口を開いた方が良いのだろうか。目的がわからなかった。
確実にこの白い肌は、みみず腫になっていることだろう。赤く晴れ上がっているに違いなかった。手足は紐で結びつけられていたので、まったく抵抗することができなかった。
やめて!と叫んだら、解いてくれ!と訴えたならば全ては終わるのだろうか。何かを私の口から割らせたいのであろうか。それとも私に対するこれは警告なのだろうか。私の行動に対する何かの。そうに違いないと思った。相手は確実に私がただ、こうして鞭を打つだけで、事の深層を瞬時に理解できると踏んでいる。これ以上、ひどいことにはならないだろうと、加賀は思う。あと少し耐えていれば、それで終わるのだろう。おそらく、あのことだろう。ああした不貞を働いていることを咎める、警告なのだろう。夫がやらせているとは思えなかった。ましてや、本人が今いるわけでもないのだろう。誰か女をつかって、こうしてやらせているとは考えにくい。とすると、夫の気持ちを勝手に推し量り、自発的に警告を与えるべく動いているのかもしれなかった。あるいは夫のことが好きな女の誰かが。とにかく面倒なことにはなった。夫に裸を見せることはないだろうが、あの男には機会がある。来週はまた彼の研究所を訪問することになっている。裸で抱き合うことにもなる。そのときまでにこの傷が治っているとは思えない。拒むことはできない。あの男には知られる。私は事実を話すことになる。あの男は激怒することになるだろう。そして何らかの行動を起こすことになる。そこまでを見越しての、こうした傷の付け方なのだろうか。だとしたら、私の日頃の行動を、すべて把握している。
ああ、そうか。こうして傷をつけることで、あの男に対して、体を晒せなくさせることが目的なのであろうか。
しかしいずれは消える。また消えそうな頃を見計らって、襲撃をしに来るのであろうか。
「いい加減に吐いたらどうだ?」
男の声だった。女ではなかった。
「言えば、これ以上は勘弁してやる。これ以上は」
全くの見込み違いだったなと加賀は思う。これ以上というのは、この下着をも引きちぎり、とても考えたくない暴行を加えることなのであろうか。
声の感じからして、それほど年齢がいってるようには、思えない。
「何を言えば。何を言えば、解放してくれるのですか」
加賀はそう言うしかなかった。あらかじめ決まっていた台詞を言わされているかのようであった。
「知っていることを何でもだ!」
「何のことですか」
「原岡帰還君のことは知ってるよね」
その名前が出てくるとは思わなかった。てっきり別の男だと思い込んでいた。
原岡帰還。私の付き合いの中ではもっとも近く、しかも交際期間の短い男・・・。
「死んだよ」
「えっ?」
「二週間前に。発見はね。実際はもう何年も前だ」
「そんな・・・。まだ一ヶ月前に会ったばかりです」
「とにかく、死んだ」
「付き合いは、今はありません」
「そのようだな」
「あなたは、誰なんですか」
ベルトが力強く、この皮膚をとらえた。
「あっっ」
思わず声が出てしまう。さっきまでとは、まるで違う強さだ。
「訊かれたことだけに答えろ。いいか?」
「ええ」
「きこえているのか?」
麻痺しかけた左足の太股に再び、鞭は重ねられる。
「原岡帰還君から、聞いてるだろ?」
「何をでしょうか」
「彼の仕事のことだよ!」
「悩みは。はい」
「そんなことじゃない!」
鞭は、さらなるしなりを誘発する。
「仕事の内容だ!スペースクラフトバイブルについてだ!何か話してなかったか?」
加賀は、原岡との会話をすべて思い出そうと試みていた。
「何でもいい。スペースクラフトバイブルについて、彼が語っていたことを。悩みでもいい。何か君に漏らしているはずだ。いいか。よく思い出して、正確にそのときのことを言うんだ」
「そう言われましても」
加賀は、本当に彼から仕事の話を聞いたことがなかった。悩んでいる様子はあったが、それもまた、私が何かを言えるような立場にはなかった。彼自身でしか、克服することはできないものだった。彼は人に同情されることは好まなかったし、わかりあえることもないと思いこんでいた。自らの内に溜め、私には親密な体の関係だけを求めてきた。私もまた、そういった彼に対して応えていった。私たちの想いは一緒だった。
「何か、漏らしたはずだ。どんな隠し事でも、女には漏らしてしまうものだ。そういう無防備な関係になればなるほど。思い出していないだけだ!お前は真剣に思い出そうとしていない。それは必ず漏らしたはずなのだ。やはりこんな鞭ごときでは、まるで効果がないな。いいだろう。そのまま原岡とのことに、焦点を当て続けろ。そのままだ。いいな。ここには誰もいない。お前もいない。あのときだ。原岡の家のベッドにお前はいる。原岡もいる。互いに、すでに服は脱がせている。原岡もお前も互いを求めあっている。ほら、もう到底、我慢することなどできないはずだ。互いの体を欲しあっている。その対極の体は、すでに漏れ出てしまっている。体の中に、留めておくことのできない分泌物は、すでに漏れ出てしまっている。漏れ出てしまっているんだ。互いに。互いがそのことを知っている。そして助長し合っている。ほら。結合するしかないだろ。それ以外に、漏れを防ぐ方法なんてないだろ?互いが互いで防ぐ以外には。方法はないだろ?塞ぎ合うんだよ。そうしなければ、流失し続けることになる。そうなってしまえば、何も良いことなど起こらない。ほら。互いを漏れ出させることは終わりだ。塞ぎ合うのだ!一緒になるのだ!ひとつに!さあ」
下着はいつのまにか取り除かれていた。体の芯の奥深くに私とは異なる何かが勢いよく侵入してきた。加賀は大きな声をあげた。その一撃でイクっと叫んでいた。
前後には何もなかった。時間はそこに止まってしまっていた。原岡との記憶もまた、当然含まれていた。だがそれだけではない。夫とのことも他の男のことも。すべてのあのときが、内包されていた。一撃はそのあと、やってくることはなかった。静寂だけが辺りを包んでいる。体はどこにも感じられない。何かが、自らの身体から、漏れ出ているような感覚はない。互いが互いで、塞ぎあっているのだろうか。私はこのあと、どこに行くのだろう。どこから来たのだろう。今何をしているのだろう。何がこの身に起きているのだろう。
すべてを忘れかけたときだった。男が自らを失い、解放するような大きな声が、加賀の耳には聞こえてきた。
加賀は全裸でベッドの上にいた。
服はどこにもなかった。下着もそうだった。そればかりではなく、心にもぽっかりと大きな空洞が空いてしまったようで、物事をうまく整合することができずにいた。
切なさが何故か満ちてきていて、不意に泣き出してしまいそうになる。愛し合ったのか犯されたのか。初めから一人でいたのか。下着すら理不尽に剥ぎ取られていることの説明をどうつけたらよいものか。そもそもここはどこなのだろう。スペースクラフトバイブルであることはわかる。誰のスペースクラフトなのだろう。個人を特定するものが、部屋には何もない。そしてスペースクラフトバイブルが今、移動しているのか、停泊しているのかもわからなかった。寒さは感じない。掛け布団の存在すらないのだ。
今まで何をしていたのか。からだに残った感覚で、想像しようと試みる。眠っていてただ目覚めただけのような、気だるさではない。明らかに身体をつかったような疲労感。そして体の奥に残る異物感。それすら自分のものとして、吸収しようとする細胞の活性感。確実に男と交わった感覚に苛まれている。徒労感に満足感が加わり、それが去っていったという切なさ。さらなる求め。色んな感情が、加賀の回りを渦巻いていた。
加賀は少し不思議に思った。感情は普段は自分の肉体の中に、存在するものだった。うごめき、のたうち回り、体を侵食、攻撃するものであった。それが今は体の外にある。外を回っているように感じられる。そう思うと、この身体もまた自分の外側にあるような感じになっていく。ベッドに横たえている、別人としての自分を見下ろしているように感じられる。このまま私によく似た全裸の女を、そのまま見捨てて行ってしまうことも、可能なことのように思えてくる。私を去る、今はチャンスなのかもしれないと思うようになっていく。
こんな女など知らない。下着の在り処すら知らない女など、ろくなものじゃない!持ち物は何もなく、見知らぬ場所のベッドの上で横たえている。滑稽きわまりない。誰に犯されたんだ?いったい誰と関係を持ったのだ?浮かび上がってくる男は、一人ではなかった。この切なさはどうしたら埋めることができるのだろうか。そういった視点で、男を選んだらよかったのか。突然、原岡帰還が、目の前に蘇ってくるようだった。ここが原岡の自宅であるかのように、感じられてきた。ここは原岡の家で、研究所でもあり、試作品段階のスペースクラフトⅠである。原岡が最後にもがき苦しんだ場所。最後だって?最後?加賀は誰に問うわけでもない声を、あげていた。
原岡は死んだのだと、誰かは言っていた。ここで?スペースクラフトの完成と引き換えに?なぜ。なぜ、引き変わった?原岡は行方不明になっていた。加賀は警察に捜索願いを出した。坂城に願い出た。その坂城も今は行方不明になっている。私と関わった男は、皆、地上から姿を消してしまっている。原岡が死んだって?なぜだ?さっきは原岡と性交渉をしたのか?死んだ人間と?それとも彼が生きているときにした記憶を、遡っていったのか?夢の中の出来事だったのか?私の中に眠っている、記憶を掘り出しただけだったのか?漏れるとか、漏れ出ないとか。そんな声が、どこからか聞こえてきたように思う。あれは何だったのか。何が漏れ出ているのか。どこから。漏れ出てきては駄目だとか。漏らさないためにだとか。行為中、ずっと、そういった想いが奔流のように押し寄せてきていた。それに飲み込まれ、溺れていっていた。
今なら少し離れたところから、見ていることが、できるのかもしれないと加賀は思った。原岡との過去の行為を、鮮明に思い出そうと、身体の内部に働きかけた。原岡は何か言っていただろうか。あるいは口にしなくとも、私には何か感じ取れていたのではないか。あのときは快感に溺れて、忘れてしまったことでも、今なら、その無言の震えが、伝わってくるのではないか。原岡は何に悩んでいたのだろう。何を解決することで、スペースクラフトの完成にこぎ着けようとしていたのだろう。私に何を訊ねたかったのだろう。あのとき私に何を求めていたのだろう。何を引き出そうとしていたのだろう。
悩みをぶつけるとか、不安を解消するために私と過ごしていたのではなく、私の中から重要な鍵を取り出そうとしていたのではないか。そしてそれは取り出せた。
スペースクラフトは完成した。原岡は死んだ。一連の出来事は一瞬のうちに帰結する。
何故彼は死んだのだろう。彼が本当にこの世にはいないことに同意する自分が、初めていた。あのあとで生きのびることなど、到底不可能なことのように思えてきた。そしてこのスペースクラフトバイブルが原岡そのものであるかのようにも思えてきた。彼に守られているような気にもなってきた。こうして何も身につけずにいられるのは、彼の中にいるからだと。この暖かさは彼とひとつになっているからだと。何も恐れることはない。確かに原岡本人は死んでしまったのかもしれない。けれどもそれに代わるものを残してくれた。どこにいっても、クラフトバイブルは今は存在している。これから益々増えていくことになる。原岡自身が自己増殖を続けているようであった。原岡は死んだんじゃない。形を変えただけなのだ。今も生き続けている。前よりも遥かに巨大で至るところに。その気になれば、すぐにでもひとつになれる存在に。
漏らさなかったからだと、加賀の中から想いが込み上げてきた。私は彼の力になったのだと。彼は漏らさなかった。それが何なのかはわからない。それこそ、彼以外には、知りようがない。しかし彼は、それをずっと漏らし続けていた。外部に。それではいけない。それでは完成には至らない。そこが肝心なところだった。これを自分の外に漏らしてはいけない。より内側へ、より内側へと、それよりもさらに内側へと引き戻し、取り戻さなくてはならない。逆流させなければならない。塞ぐ栓が必要だ。原岡は最後の鍵を探していた。私に無言でその相談をしていた。そうした問いを、私が彼の中から引き出しているのかもしれなかった。
私も漏らしたくはない。私もずっと漏らし続けていたのだ。もうたくさんなの。これ以上漏らし続けるのは。あなたと思いは同じ。あなたのやっていることは、何も理解することはできない。でもその想いだけは、一緒。だから私とあなたは出会った。私たちは同じ思いで繋がった。そして、私たちは、何度も体を重ね合わせた。普段なら、これまでなら、漏らすために、漏れ出てしまっただけの行為だったものが、このときは劇的に変わった。互いが互いの漏れ出る栓を塞ぎあった。互いに流出させることを助長し合っていた行為ではそのとき、なくなった。引き戻った。自分の内側に。これまで漏れ出ていた勢いそのままに。そして互いの塞ぎ合いは、その流れを増長させていった。磁石の反発のように、激しい勢いで引き戻っていった。原岡は死んだ。それが原因で死んだ。
私は生きている。私は死んでしまうほどの何の持ち合わせもなかった。死ぬべきときではなかった。私にはまだその資格はなかった。原岡にとっては、すでに機は熟していた。最後のきっかけが必要だった。その鍵は私にあった。通じあえるそれを持っている人間こそが、その条件だった。私はあの男を殺したのだ。
そういえばこれまでも、男を次々と行方不明にしてきたが、原岡で初めて、完全にこの世から葬り去ることに成功したのかもしれないと、そう思った。
「キューブビックねぇ」アンディは言う。
「それって、キュービックバイブルのこと?」
「よく、知ってるな」
「キューブの予告状とか」
「それは、何だ?」
「おそらく、キューブの書籍を応用したものだろう。あんたが考えているほど、そのキューブシリーズは、当たらなくもないですよ。実際、俺は、欲しいと思ったし。けれど、すぐに、市場からは消えてしまった。俺の中の何かは動かされたのに。俺に限った話じゃないと思う。やり方次第では、あれは当たると思う。売れるためには、いくつもの仕掛けが、必要かもしれないけれど、それでも、確実に当たると思う。科学者さんの領分じゃないか。けれども、そんなことも言ってられない。会社の存亡危機なんですよね?経営を安定させなければならない。あのキューブの構造の、開発者なんですよね?あなたが」
「そうだ」
「実に、才能があるんですね」
「そんなことより」
「スペースクラフトの方か?心配するな。まだ、売れ続けます。Ⅰがまだ」
「けれど、Ⅱへの進化が前提で、客は購入してるんだ。Ⅰで停滞し続けたら、大変なことになる。損害賠償請求される恐れだってある。それが一番、やっかいだ」
電話でのやりとりだったが、何故かアンディには、ゴルドと目の前で顔を付き合わせているような気になっていった。懐かしい気持ちにもなっていった。
「確かにな。開発者本人が亡くなってるんじゃ。手がかりも残していないんだな。あんなキューブを開発できるあんたでも、手に終えないこととなると、これは誰においても、難しいことなのかもしれない」
アンディは独り言のように呟いた。
「とりあえずは、できることから。キューブを売らなくては。いろんなバリエーションを作れるんだろ?それはあんたが産み出したものだ。あんたが鍵を握っているんだ。企業秘密の鍵を。どうだ?他人に教えられるのか?手がかりは残していけるのか?」
受話器の向こう側は、しばらく沈黙に包まれた。
そのあいだはまさに、二人に物理的な距離があることを、明白に思い知らされた。
「可能だとは思う」とゴルドは言った。
「歯切れが悪いな」
「本気で、再現可能な状況を、自分以外の部外者が見たときにわかるといった状況を、望んでいなければ、それは無理だ。それもまたひとつの開発だ」
「なるほど」
「それより、勝手にわかってしまう、理解してしまうという方が、簡単な気はする」
「伝えるよりか?」
「そう。ただ、わかってしまうことほど、正確なものはない」
「クラフトは、無理じゃないか」
「同じレベルに、我々が、到達していないからだ」
「そういうことか。受け手次第ってわけか。相手頼みなわけか。それは、計算できない」
「クラフトバイブルのコアの構造を、あんたが、理解できるレベルにはないということだな。いずれは、可能なものなのだろうか。誰かが、解明してくれるものなのだろうか。無理だと思ってるんだろ?だから、そんなに焦ってる。なあ、その開発者は、完全に構造を理解していて、確信を持って、クラフトバイブルを作ったと思うか?」
アンディは訊いた。
「間違いない」
「ということは、キューブは、そのようにして製作されたわけだ」
「だからこそ、さまざまなものに、この技術を投影することが、できる」
「クラフトバイブルも、そうなんだな」
「そのコア構造を、つかむことさえできれば、その進化系の開発だけでなく、あらゆる物質に働きかけて、同じ構造を投影させることができる」
「掴めれば、の話だな。じゃなかったら、あのクラフトⅠを、いつまでもコピーしていく以外にない」
「劣化コピーだ」
「なるほど。わずかずつ、品質のレベルは、落ちざるを得ない。もっとも、品質うんぬんよりも、その形状に飽きてしまうだろうがね」
「そういった未来が見える」
「そうか。とりあえずは、キューブの方で売り出して、できるかぎり多角化していく以外に方法はないな。そのあいだに、クラフトのコアを、見つけ出さなくてはならない。なあ、誰か、いないのか?あんた以上の天才学者も、いるだろ?そいつらに、解明してもらったらどうだ?もちろん、危険なことは承知だ。その男が、まともな神経を持っているとは限らないからな。いいや。そういう奴に限って、著しくイカれている場合が多い。そのコア構造を、簡単に盗まれてしまうことにもなるな。あんたには渡さず自分のものにしてしまう可能性が。もしそうなったら・・・」
「考えたくもないね」
「本当にいないのか?何を恐れている?いるんだろ?あんたに匹敵する学者。心当たりは、あるんじゃないのか?むしろ、そいつを恐れているんじゃないだろうか。俺にはそう思えてならない。身に覚えが、ないこともないから。そういった男のことは、できるだけ考えたくはない。一刻も早く、排除したいものだ。あんたもそうに違いない。最も重要なこと
から、実は意識を反らそうとしている。だからだ。どうでもいい、戦力にすらならない、俺なんかに電話してきている。あんたを非難してるわけじゃない。ただ心当たりは、すでにあるんじゃないのかって言ってるんだ。俺には、薄々、そいつの存在が浮かんできてもいるよ。あの、最初の奥さんの話が、極めて胡散臭かった。あんたの奥さんが関係をもっている男っていうのは、普通のその辺の男じゃない!そのことを、あんたは、暗に意味して話をしていた。俺が、気づくかどうか。実に試していた。その男さ。その男なら、可能性があるんだ。どうなんだ?」
再びドクターゴルドが物理的に近いところに感じるようになった。
空気がそれまでとは違った震え方をした。
「さすがだな。アンディー・リー。合格だよ」
ゴルドは力強い声で、そう言い放った。
「試すようなことをして、悪かったな」
ゴルドの話し方から棘が消えた。
「いえ、そのようなことは」
「うちの家内は、君とも関係していることは知っている」
「えっ?」
「君と付き合っていたこともある」
「まさか」
「加賀ミーラと言ってね」
「それは・・・」
「ああ、いいんだ。気にしなくて。気にしなくていい。もうすでに終わったことだ。それにうちの夫婦関係は、少し特殊だ。君が気にすることじゃない」
「もうだいぶん、前のことですよ」
「そうだな」
「彼女とは、自然消滅を・・・」
「だろうな。自然発生したものだ。終わり方もそういうことだろう」
「ええ」
「そこが、僕らの関係とは違うところだ」
アンディはその意味を推し量ろうとしたが、当然のことながらよくつかめなかった。
「加賀さんは」とアンディは言った。「元気なんですか?そうですか。結婚していたんだ。何も知らなかった。あのときは探偵だったのに」
「今だってそうじゃないか」
「いや、そういう意味では。そうなんですね。僕、彼女については何も調べてなかった」
「当然だ。好きになった女に対して、する行為じゃない」
「今も、元気なんですよね?」
ドクター・ゴルドは答えなかった。しばらくの沈黙の後で、「プライベートなことは、もういいよな」と言った。そっちからふっかけてきたんだろうと、アンディは思った。
加賀は色んな男と付き合っていた。その事実を知らされて、ショックはショックだった。薄々、何かは感じ取っていたのかもしれなかったが、彼女については、ずっと見て見ぬふりをしていたように思う。そして今も彼女のことが好きだった。
何とかもう一度会えないものか。ゴルドを通じて、会う機会が生まれるんじゃないかと、邪な考えも頭をよぎってきた。
「本当のところを言うとね。君とは、是非、組んでみたいんだよ。一緒に仕事がしてみたいんだ。ただ、それだけなんだ。探偵でも何でも、肩書きは関係ない。好きに名のったらいい。そんなものはこれからは関係ない。私だって科学者という枠には、到底収まりつきそうにない」
話はあちこちに散らばり続けていたものの、何となく思うことがあった。
妻だという加賀の交際した範囲を、この男は後追いしているのではないかと。
加賀が先鞭をつけた男たちを、品定めする旅を、しているのではないかと。ふと、加賀ミーラはすでに、亡くなっているのではないかと感じ始めていた。亡き妻の、奔放な裏の顔を暴くために、歩き回る夫を主人公にした映画が、昔、あったような気がする。
けれどもそういった感じにも、思えなかった。交際していた男たちに対する、嫉妬や憎しみが充満している様子もなかった。今後、充満していく気配もなかった。
どういったつもりなのだろう。ゴルドの声から読み取れる波長にしか、今は手がかりはない。けれどもその手がかりがあれば、今のアンディには十分な気もした。
ふと閃いたのは、加賀が開拓した男たちを、ゴルドが回収するといったイメージだった。
加賀とゴルドの夫婦は、自らそう呼んだように、通常の関係ではなかった。ある種の、タッグのように、アンディには感じられた。ひとつのチームなのだと。二人はそれぞれの特徴を生かすために、同じ思いを共有し、実現するためにあえて、ばらばらな行動をとっている。
発揮する場所と段階が違うからだ。しかしそうであればあるほどに、二人の絆は逆に深いということが浮き彫りになっていく。世間的には不仲だと思われる行動と、振る舞いをとればとるほどに、この夫妻はより裏では深い関係を築いていて、内奥では共に前進し、統合しているということになってしまう。そうだとしたら、この二人のあいだにある共通の想いとは、いったい何なのか。何が二人を結びつけているのか。そして片方がこの世に存在しなくなっていたとして、その固い絆が何故、いまも続いているのだろうか。何があるのだろう。
アンディは、ゴルドが、そういった謎かけをしているように、今度も受け取った。
「奥さんの死因は何だったのですか?」
アンディは、訊いた。
ゴルドは間髪いれずに、答えてくれる。
「さすがだよ。アンディくん。そんなことは一言もいってないのに」
「それも、わかるんじゃないのかね?」
「どうでしょう。無理でしょうね。そういった能力はありませんから」
「愛人の家だよ」
ゴルドは、あっさりと告白する。
「愛人宅でね。その愛人は、すでにいなくて。彼女が一人で、その家に居た。しかも、全裸で。服はどこにもなかった。彼女はベッドに仰向けになって、穏やかに目を閉じるように死んでいた。当然、事故として、警察の捜査が入った。司法解剖も。事件ではなかったようだ。殺人事件でも当然なかった。医学的にはまったく、原因を突き止めることはできなかった。心不全という名前がつけられ、速やかに処理された」
「その愛人は?」
「もちろん、捜査対象だが、そのときにはすでに、亡くなっていた」
「ということは」
「彼が殺したのだと、そう言いたいのか?そうではない。それはない。彼は仕事中に、おそらく、無理が祟ってしまったのだろう。過労がある短いタームに、急激に集まって、極端な負荷がかかってしまった。そのため、身体の全機能が一瞬にして破壊されてしまったという話だ。彼は仕事場で死んでいた。研究室で。鍵もしっかりと内側からかかっていた。事件性はない。そしてアリバイもあることになる。妻を殺しにいくことは、できない。何か細工をしていたような跡もない。彼女の死とはまったく関係がない。時期はたしかに重なっていたがね。それも愛人関係のなせる、得意技じゃないのかね。波長が合っていたのだろうね。繋がっていたのだろう。けれどもそんな波長を、逆手に使って、殺人を犯せるはずもない」
「なるほど。その男に不振な点は何もなかったわけだ」
「おかしいのは、唯一、彼女が裸だったってことだ。部屋には脱いだ服はなかった。鍵はやはり内側から閉められていた。誰かが侵入した形跡もなければ、出ていった形跡もない。彼女は初めから一人きりだった」
「誰が見つけたんですか?」
「俺だよ」
「あなたが」
「そう。彼女の行動はすべて、お見通しなわけだろ?その部屋に入ってから、あまりに時間が経ちすぎていた。それで警察に連絡をして、中に踏み込ませた」
「なるほど。じゃあ、不審者がいなかったっていうのも、あなたが一番ご存じなわけだ」
「そういうことになる」
また、何かを試されているのだ。どれだけ試したら、この男は気がすむのだろうと、アンディは思った。
「まさか、裸で、その部屋にやってきたわけじゃないでしょうからね」
アンディの言葉に応えてくれる声はない。ふと受話器の向こうには、突然誰の姿もないような気がしてきた。誰の存在もない。どことも通話は繋がってはいない。悪い夢を見ていたかのような状況になっていた。アンディは我に返った。何をしていたのだろう。リダイヤルをするための番号は、何も提示されてはいない。何十分としゃべり続けていた会話の記録もまたない。電話はどこからもかかってきていないことになっている。何か特殊な機能を使って、ゴルドが証拠の隠滅を図ったのだと思った。痕跡をなくすことのできる技術など、あの男にはあまりに容易すぎる芸当のように思えた。
その後、電話は鳴らなかった。ドクター・ゴルドを調べるよう、外注調査会社に、電話をした。返信が来るまでのあいだ、身の回りの整理をしておこうと思った。
この事務所を引き継いでから、すでに一ヶ月近くが経っている。ユージンが立ち上げ、加賀が秘書を務めていた状況は、あっというまに終わりを告げていた。ユージンは死んでしまったのだ。路上で倒れ、そのまま病院へと運ばれ、そのあと息を吹き返すことはなかったのだ。道行く発見者は、見つけた時点で、すでに息はなかったのだと語った。死因はこちらも特定することができなかった。心不全という名前で、速やかに処理された。事件性は特になかったとされる。心臓が突然止まったという以外に、原因がまったくわからない死だった。ゴルドの妻はユージンの秘書の加賀でもあった。加賀とも肉体関係があったのは間違いなかった。ゴルドの話では、加賀は愛人の家で亡くなっていたのだという。その愛人はユージンではないような気がした。そのこともまた、調査会社に情報を依頼した。
それにしても、ここに来て、俺の周りには死人が多くなりすぎている。知り合いは皆いなくなってしまうような気がする。加賀の愛人のことは、すぐに返信が来た。
原岡帰還という研究員だった。スペースクラフト社の主任開発者とある。ゴルドの話と繋がった。ゴルドはスペースクラフト社の人間だった。開発者が亡くなり、その鍵となる情報がつかめなくなり、困っているのだと。クラフトバイブルを進化させていくことができずに困っているのだと。この男なのだろうか。確かにゴルドにしてみれば、愛人への嫉妬だけで殺すには、あまりにリスクが高すぎることになる。
致命的に自社の利益が損なわれる。ゴルドにしてみれば、この男そのものがマスターキーなのだ。
加賀の奔放な恋愛は、いったいどれほど広がっていたのだろう。
全部が同時なはずがなかった。交際期間はそれぞれが重なり合っているものの、少しずつズレながら、組合わさっていったのだろう。その一ピースに自分もまた居た。ゴルドと共通の女を知っていることになる。加賀を含め、加賀と関係をもった男は、次々と死んでいくように思えた。
坂城か。坂城に連絡をとってみよう。あの男も確か、加賀と関係が・・・。はっきりとはわからなかったが、そのようなことを、仄めかしていたような気がする・・・。警察署に電話をかけた。いない。彼はすでに所属していないということだった。配置転換だと思った。しかしまた同じ事を聞かされる羽目になる。警部は亡くなりましたと。アンディは知り合いだと名乗り、彼に大事な情報の提供があるのだと、伝えた。
「死んだのですか?」
「ええ。まだ、一ヶ月前のことですが」
「そんな。殺されたとか?」
「なぜ、そう思うのですか?」
「いや、職業柄」
「残念ながら。その可能性も、否定はできません」
「どういうことですか!」
「いえ、少ししゃべりすぎました。申し訳ない。それ以上は」
「かなり親しくさせてもらっていました」アンディは食い下がった。
「そういわれましても。そういえば奥さんが」と言いかけて、再び警察の人間は口をつぐんでしまった。
「奥さん?奥さんがいたんですか?」
「知りませんでした?いや、知らないか。それも最近の話で。亡くなる一週間前に、入籍なさったそうです。突然ね。まだ式も挙げていないとかで。突然が突然を呼んで、ずいぶんとおかしなことになってしまっている。展開が早すぎて、それでいて、ぷつりと全てが途切れてしまっている。その途切れたままに、我々は放置されているんです。困りましたね。本当に困りました。そう考えるとこの前、警察に届けられた、奇妙な予告状の分析も、なかなか進んでいません。あんな予告状。解読が難しい。キューブの箱、みたいなものなんですよ。爆発物かと思いましたよ。起爆装置みたいな。あのときは坂城さんも。あ、その、予告状の送り主の名前。坂城なんですよ。もちろん、坂城さん本人とは違いますけど。そんなわけがありません。坂城さんは関係ありません。でも、偶然にしては。いや、何でもない。聞かなかったことにしてください」
この男はしゃべりすぎた。ずっと口外することができずに、自分の中で処理に困り続けていたような、雰囲気だった。
もっと吐かせてやりたいと、アンディは思った。
「その話は、僕も知ってますよ」とアンディは言った。「坂城さん本人から」
「そうでしたか」
「まだ解決してないんですね。いや解読でしたか」
「困りました」
「それで坂城さんの告別式は、当然終わっているのですよね?」
「そうです。盛大なお別れの儀式でした」
それ以上は、何も聞き出せないだろうなと、アンディは思った。
これ以上話をしていれば、この男の愚痴に付き合うはめになってしまう。切り上げ時だった。
それにしても、ゴルドの情報の到着が、遅すぎた。
こんなにも時間がかかったことなど、かつてあっただろうか。もう一度発信してみる。
ついでに、坂城の情報も求めることを伝えた。坂城の情報はあっというまに来た。
ほとんど、送ったのと同時に返ってきた。すでに送る準備は万全で、今か今かと要求されるのを待っていたかのようだった。
坂城警部。享年37歳。事件の調査中、不慮の事故により死亡。車両衝突による、意識不明の重体の末、同じ日の未明に死亡。妻が遺体を確認。この妻は結婚してまだ一週間。式は上げず。入籍は二人で区役所を訪れてすませる。交際期間は一年。坂城には愛人があり。籍を入れた当日も、愛人との密会の記録があり。しかし愛人と結婚する気はなかった。愛人との交際帰期間は、不明。それほど長いものではなかった。一夜以上、一ヶ月未満といったところ。車両事故として処理。相手の車両はいまだに特定できず。殺意があったのかも不明。過失致死運転とするのかも未定。被疑者不定のまま、事件は未処理のまま。捜査本部が本格的に立ち上がる模様。坂城の愛人関係は警察もつかんではいるが、妻には報告せず。その愛人もまた同時期に死亡。こちらの死は事件性なし。事故の可能性も確認されず。坂城の事故との関係性は薄い。それぞれが別の案件として扱われている。
ゴルドの情報はそれでもまだ、来る気配がなかった。
途中報告でも何でもいいから送ってほしいのだと伝えた。だが反応はない。
アンディはその晩に手に入れるのを諦め、錯綜する複数の情報と、一定の距離を置きながらベッドに横になって天井を見つめた。
ほとんど熟睡していた。ゴルドの情報が来たのだった。すぐに目が覚めた。
何の着信音も、ヴァイブレーションもない中で、アンディは情報が来るほんの少し前に確信した。アンディは、コンピューターの前に座り、そして情報は数秒後に来た。
ドクター・ゴルド。確認はできませんでした。まだ、生まれてきてはいないようです。
そのおかげで、少し手間取りました。彼はまだ、生まれてきていないようです。情報はありません。ゴルドはまだ・・・。
空白のスクロールが続いた。アンディは静かに、次なる情報が来るのを待った。
何も来るわけがないと思いつつも、待った。どれほどの時間が経ったことだろう。
アンディはコンピュータの前に座り続けた。空白を見続けていた。外注業者はそれでもアンディが画面を見続けているのを知っていたのか。何とかそれ以上の報告書を作成しようと試みているような気がした。だが、それ以上、情報はやってくることはない。
まだ、生まれてもいない男の情報を、必死で探しているのだ。
アンディは、その空白が、最大の情報であると言わんばかりに、受け止め続けた。
これから生まれ出てくる男?自分よりも遥かに若い男。あとからやってくる男。あの声からは想像もつかなかった。自分よりも確実に年配の男の声であったのだ。この世に今実在していないのなら、それは死んだからのように思えてくる。
ゴルドはすでに寿命の尽きた老科学者のようであった。報告書はやってこない。ゴルドはまだ。ドクター・ゴルドはまだ、生まれてきておりません。申し訳ございません。ゴルドはまだ・・・。圧倒的な空白のあとで、再び調査会社からの報告が、何かの広告のように挟み込まれてくる。もうわかった、十分すぎるほどにわかったからと、アンディは何度も頷いた。
そして、アンディは、ここで不意に自らの調査を依頼した。名前を打ち込み、この男を調査して欲しいと。躊躇なくそう願い出た。アンディには今、そうせざるを得ない何かがあった。自分のことを依頼にかける以外に、何もすることはないように感じたのだ。
これが最後の調査でもあった。この自分以外にどんな対象もなかった。アンディは送信した。空白の中に自らの願いを放り込んだ。ずいぶんと遠回りをしたなと思った。今やっとその名前を入力することができた。アンディは返信を待った。すでにそこから動く意思もなかった。どこかに行くつもりもなかった。返信はすぐにやってきた。これが最後の瞬間だろうとアンディは思った。これで終わるのだ。見た瞬間にすべてが終わる。終わるためのスイッチを、アンディは何の躊躇いもなく押すことができた。何故かケイロ・スギサキの絵画の全てが、あるべき一つの場所に折り重なっていく様子が思い浮かんできて、それと自分の今をダブらせて見ているアンディがいた。アンディはまだ、生まれてきておりません。空白のスクロールが続いた。
アンディプロローグ @jealoussica16
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