第31話 彼は初めて意味を見出す

ふぅ、と一息ついてドアノブに手を掛けた。『高校生のテスト勉強推奨』の文字が今では『立入禁止』に見える。……それはオーバーか。


カランカランと小気味良い音を立ててドアが開く。するとちょうど最後の客が店を出るところだったようだ。


入り口正面にあるレジに山科さんはいた。


俺の顔を見ると少し驚いたような表情をして、「どうかなさいましたか?」と問い掛けてくる。


「失礼を承知でお聞きしたいことがあります」


山科さんはいつものように柔らかい笑みを浮かべて小さく頷く。今から何を聞かれるのか察しているようだった。


それでも俺は真っ直ぐに目を見据えて拳を握る。


自分勝手な理由で山科さんの過去を掘り返そうとしている自分に腹が立つ。


けれどここまで来たらもう引き返す事はできない。俺はまた一つ息を吐いてから口を開いた。


「奥様は、もう、亡くなられているのでしょうか」


一瞬の静寂。しかしそれは何時間とも取れる途方もなく長い時間に感じる。


「……えぇ。5年前に病気で」


山科さんは顔色一つ変えることはなかった。しかし声音は寂しさを含んでいる。


「すみません、突然こんなことを」


「いえいえ、しかしよく気が付きましたね」


「なんとなく、というか、多分そうなんだろうなと」


「それはそれは、素晴らしい勘の持ち主でいらっしゃる」


先ほどよりも少し嬉しそうに笑う山科さん。しかし俺は奥さんの生死を確かめるのが目的ではない。


「奥さんとの思い出は、今でも覚えていますか?」


こんな質問、大抵の人からすれば当たり前のことだ。けれど俺には、過去の大切な思い出というものが存在しない。


山科さんは表情一つ変えずに言った。


「当然ですよ。しかし—


思い出とは時と共に風化するものです。英単語や数式のように、何もかも完璧に覚えていることなどあり得ません」


山科さんは初めて笑顔ではなく、憂いを帯びた表情を見せた。


「顔のホクロの数、唇の色、目の大きさ。何もかも記憶の中ではうろ覚えになってしまいます。


だから私はこの店をオープンしたんですよ。彼女が大好きだった人形、1人じゃ食べ切れないぐらいの特大パフェ、そして学生達が必死に勉強する姿。それらを形として残しておきたかったんです」


だから、と山科さんは続ける。


「貴方みたいに、過去に何かを抱えているような人を見ると、つい声をかけたくなってしまうのですよ」


「……分かるん、ですか」


「えぇ、最初この店に来られた時から」


あの時俺は、生徒指導室で高梨実憂と初めて顔を合わせた翌日だった。そんな小さな綻びを山科さんは初対面で見抜いていたということだ。


部屋を照らす明かりがいやに眩しい。そんな眩しさを遮るように俺は俯く。


そして俺は初めて自分のことを話し始めた。


「俺には、高校に入る前の記憶がほとんどありません。知恵や知識とかじゃなく、出来事や人については何も覚えていないんです」


その時、山科さんの表情が変わる事はなかった。その代わり、いつもの柔らかな笑みで一つ頷く。


それからポツリポツリと俺はこぼすように呟いた。


「だから、大切な記憶や過去が何なのかわかりません。家族も、友人も、何もかも知りません」


俺は目を閉じて息を吸う。そのままゆっくり目を開いて、再び息を吐くと同時に話し始める。


「俺には居たはずなんです。大切な家族や友人が。なのに何も思い出せない」


こんなこと、殆ど初対面の相手にする話ではない事はわかっている。けれど俺の言葉は止まらない。そして山科さんも笑みを崩さずに聞いてくれている。


「医者に言われました。君の記憶喪失は君自身の意思で記憶を閉ざしてしまっていることだって。あまりにも辛い思いを重ねすぎたことが原因で心が限界を迎えたそうです」


自分のことなのに、随分他人事な話し方だと思う。けれどそれは当然だろう。俺自身何一つ身に覚えがないのだから。


そして俺は一番聞きたかったことを口にする。




「そんな辛い過去を取り戻す必要は、あるのでしょうか」




それを聞いた山科さんは尚も笑みを崩さない。


すると山科さんは、レジにあった棒付きの飴を取り、俺に手渡してきた。


「これは……?」


「妻が好きだった飴です。コンビニに売ってるありきたりなペロペロキャンディですけど」


懐かしそうに飴を見つめる山科さんは、再び俺の方を向き直る。憂いに満ちたその笑みは、何か心に刺さるものがあった。


「妻は亡くなる前に病院のベッドで「このペロペロキャンディをもう一度食べたい」って言ったんですよ。変な人でしょ?……まぁ結局食べさせてあげられなかったんですけどね」


「……じゃあどうして」


俺にはわからなかった。このペロペロキャンディは山科さんにとって辛い思い出の品のはず。なのにそれをいつも目に届くレジの前に置いてお客さんに配るなんて。


「私はね、辛い思い出は楽しい思い出とセットになってるんだと思うんですよ」


「どういう、ことでしょうか」


「この飴は確かに私にとって辛いものです。けれど彼女が好きだと言ったのもまた事実。このお店もパフェも、何もかも、大好きだった妻との思い出とセットになってるんですよ」


だから、と続ける。


「どんなに辛い思い出があろうとも、楽しくて幸せな思い出もあることを忘れてはいけません。貴方の過去がどんな辛く悲しいものでも、その中に必ず貴方にとって大切な思い出もあるはずですよ」


大切なものほど失った時に辛くなる。


どこかでそんな言葉を聞いた気がする。


俺は辛かった過去から逃げた。けれどそれは同時に、失って辛くなるほどの幸せな思い出からも逃げてしまったのだ。


けれど俺は、そんな辛い部分を受け入れることができるのだろうか。


すると山科さんは、俺の肩にポンと手を乗せた。親が子を見るような優しい目で。


「君はまだ高校生だ。今の自分が過去の自分と違うことなんてよくある話だよ。それは君も普通の高校生も相違ない。だから—




今をきちんと楽しむんだよ」


「……はい」


何だか全て見透かされているようだった。


今の自分と過去の自分は別人ではないのかという漠然とした見えない恐怖。それを山科さんは分かっているのだろう。


レジの上にある時計を見ると、ここに来てからまだ5分ほどだ。いやに長く感じたものだ。


「すみません、突然お邪魔してしまって。また来ます」


山科さんはいつもの店員としての顔に戻り、一つ頭を下げた。


「またのご来店、お待ちしております」


俺は踵を返して、出口のドアを開ける。


すると目の前には見知った顔があった。


「……なんでここにいるんだよ












大野」

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