最終章
第101話 おかえりなさい
夜半から降り続いていた雨は朝方にはすっかり上がり、ヒロキが目覚めたときにはレースのカーテンを薄日がほんのりと照らすくらいに天気は回復していた。ヒロキよりも早く目覚めた可憐がスイッチを入れたのだろう、
ふわりとした風に混じって漂う、ほんのりと食欲をそそる香りが目覚めたばかりの鼻腔を刺激する。その匂いに引き寄せられるようにベッドから下りたヒロキがキッチンに向かうと、そこでは
「おはよう、可憐」
ヒロキはフライパンでベーコンを焼く可憐の肩に後ろから軽く手を添えると、その頬に自分の頬を軽く寄せた。
「ヒロキ、大丈夫? 二日酔いなんてこと、ないでしょうね」
「だ、大丈夫、大丈夫。元気、元気」
ヒロキはそう言って可憐に向かって笑いかけた。
大学生活最後の夏休み、ヒロキはすでに内定が決まった会社にバイトを兼ねて週に二、三日のペースで顔を出していた。そして昨晩はヒロキがヘルプとして参加していたプロジェクトが無事完了しての打ち上げが開催され、途中からそこに可憐も合流して終電ギリギリまで飲み明かしたのだった。
「太田君、ちゃんと神子薗さんを送っていくのよ」
「おいおい、どこに送ってくんだ、歌舞伎町か?」
上司である神崎マネージャーや社の先輩たちに見送られながら店を後にした二人だったが、既に深夜、そのまま可憐を送って行こうものならヒロキの足がなくなってしまう。こうして二人は自然とヒロキの部屋に向かったのだった。
とは言え、実はよもぎの一件が解決して以来、ヒロキと可憐は週末になると二人で過ごすのが当たり前のようになっていた。そしてこの日も可憐はヒロキの部屋で過ごした後、夜には二人揃ってN市遊園地の花火大会を観に行くというのが今日の予定だった。
「さてと、できたわ。ヒロキ、これをちゃぶ台によろしく」
可憐から皿を受け取ってヒロキは居室のちゃぶ台に朝食を運ぶ。
今朝のメニューは軽く焼いたベーコンとスクランブルエッグ、たっぷりのバターを塗った厚切りのトーストには可憐お気に入りの酸味が効いたオレンジマーマレードが添えられており、それらとともに大きめのマグカップに注がれた苦みの強いコーヒーが並べられていた。
「これはサラダの代わりね」
野菜不足を危惧した可憐は冷蔵庫からよく冷えたゴールデンキウイ二個を取り出して、皮は剥かずに薄切りにするとそれを小さめの皿に載せて持ってきた。
「そう言えば、よもぎちゃんも朝食はしっかりと食べてたんでしょ?」
「あいつ、こだわってたよなぁ。おかげでオレまで朝食抜きでは調子がいまひとつな
飲み会の翌朝にしてはボリュームのある朝食をすっかり平らげた二人はキッチンに並んで後片付けを始めた。居室の窓にかかるレースカーテンの向こうにはそろそろ強くなってきた日差しが近隣の建物の壁に当たって明るく反射している。洗いものもすっかりと片付いて、今朝二度目のコーヒーをいれようとしていたそのときだった、玄関ドアの向こうからまるで大きな荷物が崩れでもしたような物音が聞こえた。
なにごとかと玄関を凝視して耳を澄ますヒロキと可憐。二人は目くばせすると、まずはヒロキが玄関ドアの前に立ってドアスコープから外の様子をうかがう。しかしその視界には何も映らなかった。
ヒロキはチェーンをかけたままロックを解除するとおそるおそるドアを開けて様子をうかがう。すると隙間の向こうにのぞく狭い視界によく磨き上げられた黒いメリージェーンタイプのシューズと白いソックスに包まれた足が見えた。
ヒロキはチェーンロックをはずすと用心しながらドアを開ける。つま先から
「えへへ、ごぶさたしてます、ヒロキさん」
よもぎはその顔に照れ隠しの笑みを浮かべながら恥ずかしそうに小さく敬礼をして見せた。
「よもぎ……どうしたんだ! まさか……まさか、成仏できなかったのか」
「いえ、そうじゃなくて、その、あの、とにかくいろいろなんです」
ヒロキは
「よもぎちゃん、お疲れさま……なのかな。とにかく、お帰りなさい」
「可憐ちゃんもごぶさたです、って、あ、あ――っ! ごめんなさい、よもぎ、そんなつもりじゃ」
「よもぎ、おまえ、なにをいきなり大声出してんだよ」
「ええ、だってだって、ヒロキさんと可憐ちゃんは、これってもしかして……とにかく、ごめんなさい、ごめんなさい」
ペコペコと頭を下げるよもぎがきっと察しているであろう誤解を取り
「違うの、そんなんじゃないのよ、よもぎちゃん。今日は花火を観に行こうって、それで……」
「いいんです、いいんです、可憐ちゃん。よもぎもいろいろあって少しは大人になりました。だから大丈夫です、えへへ」
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