第2話 大きなケヤキの木の下で

 もう間もなく己の寿命が尽きようとしていることは、他ならぬ御神木自身がよく理解していた。

 そんな巨木の根元で一人の少女が目を覚ます。

 ゆっくりと立ち上がって空を見上げるとそこには冬枯れた枝葉が青い空を覆っていた。

 少女は急に何かを思い出したように拝殿に向かうと絵馬所に目を向ける。そこには書かれた文字も読めないくらいにすっかり茶色く日焼けしたたくさんの絵馬が納められていた。少女は落胆の小さなため息をつくと、とぼとぼと歩いて再び御神木の根元に腰を下ろすのだった。



 それは晩秋のある日のこと、すっかり葉が落ちた御神木の根元でいつものように膝を抱えてうずくまる少女は耳元の小さなおさげ髪が湿った風に揺れるのを感じた。


 少女は立ち上がって空を見上げる。


 乾いた冷たい風と湿気を帯びた生ぬるい風とがぶつかり合って大気をかき混ぜ、あっという間に空は厚い雲で覆われる。鉛色と灰色のまだら模様が描くそれは粘度の高い墨流しのように流動的でその姿はまるで大蛇のうごめくとぐろを思わせた。

 もわりもわりと形状を変化させながら、雲は手を伸ばせば触れることができそうなくらいに低く垂れ下がる。今にもここまで降りて来て自分を飲み込んでしまうようなその姿を少女は境内の真ん中でぼんやりと見上げていた。


 高密度の湿った風が境内の地を這う。じっとりとしたその空気が少女の身体からだに絡み始めるとともに風の勢いがいや増すと、すっかり日焼けした白木の絵馬が鳴子のように乾いた音を奏で始める。

 やがて少女の頬に大粒の雫が当たる。ひとつふたつと感じた粒はあっという間に滝のような土砂降りとなり、乾いた地面に叩きつけられる雨粒が巻き起こす土埃の匂いに境内全体が包まれた。


 雨を避けようとまだ幾分の葉が残る御神木の根元に戻ろうとしたそのとき、少女の頭の中に男性とも女性ともつかない強い声が響いた。


「寄るな、離れよ!」


 少女はその声が命ずるまま拝殿の庇に逃げ込むと、身をかがめてそこにうずくまった。


 直後、一瞬の閃光が境内全体を照らす。

 間髪を入れずに破裂音にも似た雷鳴が鳴り響く。

 少女は身をすくめながら不安気に御神木を見上げる。


 すると再びの閃光、そのとき少女の目に映ったのはそれが目の前にそびえる巨木の幹を貫く様だった。

 御神木の枝葉全体を揺さぶる音がまるで断末魔の慟哭に聞こえた。

 閃光と雷鳴は二度三度と容赦なく巨木に襲いかかり、四度目のいかずちが引き連れてきた突風によって巨木はその幹を濡れた大地に引き倒された。


 それは僅か数分のできごとだった。

 長きを生き抜いた御神木の最期を、少女はただただ震えながら見ていることしかできなかった。



 地べたに横たわる巨木の枝葉は雨と風に打たれて一定のリズムを刻むように揺れていた、それはまるで息も絶え絶えに最期を待つかのように。

 それまで身を潜めるように膝を抱えていた少女が恐る恐る立ち上がろうとしたそのとき、その頭の中にまたもや声が響く。


「案ずることはない、これもまたことわり。われは間もなく消え往くがここに結界を張り、其方そなたたすけとなる者をここに導こう。其方はそれを待つがよい。腐らずけがれず気持ちをしっかりと持ちて待てばそれは遠からずやって来る。必ずやって来る。必ずだ」


 声の余韻が消えた今、あれほど激しく降っていた雨も風もすっかり止んでいた。

 少女は倒れた巨木に近づいてみる。まだ所々に水溜りが残る境内を歩くたび黒いローファーの踵が水を含んだ土に浅く沈んだ。

 巨木の幹は少女が見上げるあたりで無残に折れ、残された幹を囲むように広がる枝葉の残骸からはところどころでぽたぽたと水の滴を落としていた。


 すると突然、目の前に広がる枝葉が音を立てながらゆさゆさと揺れ始めた。その揺れはみるみる大きくなり、その姿はまるで水に濡れた子犬がそうするように巨木が全身の水を撥ね飛ばさんとしているようだった。

 少女の顔にパシャリパシャリとしぶきが当たる。少女はあわてて腕で顔を隠す。

 やがて気配は静まり少女が腕を下ろして再び巨木の残骸に目を向けたとき、それはぼんやりとした黄色い光に包まれていた。光はもやもやと形を変えながら御神木の残骸である根元のあたりで球体を形成する。続いてそれはゆっくりと上昇して少女の前で数秒ほど止まったかと思うと、すぐさま目にも止まらぬ速さで上空に飛び去っていった。

 そして少女が再び御神木のあった場所に視線を戻すと、そこには何もなくただ平坦な土の地面があるだけだった。


 少女は再び空を見上げる。するとそこは日もなく月も星も雲もなく、ただ群青色が広がっているのみだった。

 境内を囲む生垣の外にあるのはだた真っ暗な闇だけがあり、境内から下りる石段の先もまた闇の中に溶け込んでいる。それはまるでこの場所全体が漆黒の奈落の上に浮かんでいるかのようだった。そう、これこそが御神木が最期の力を振り絞って残した結界なのだった。


「そのときは必ずやって来る」


 少女は巨木のあった場所に立つ。群青色のぼんやりとした青に包まれた空間の中で彼女はその言葉が御神木の最期の言葉であったと理解したのだった。



 それは御神木の神託なのか、はたまた少女の強い願いによるものなのか、やがてこの地にひとりの青年がやってくる。そこからこの不思議な物語は始まるのだった。

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