第一章 はじめまして、よろしくです
第3話 初まりの始まり
世間では受験シーズン真っ只中ではあるものの入学試験日でも合格発表日でもないこの日の大学内は人影もまばらで閑散としていた。そんな二月の昼下がり、休業中の学内カフェテリアには女子学生が一人ポツンといるだけだった。
ストレートロングの黒髪を赤いヘアゴムで束ねた彼女は一番奥の四人掛けテーブルをひとりで陣取っていた。テーブルの上には自販機の紙コップと積まれた数冊の本、彼女はそれらをかわるがわる手にとっては忙しそうにページをめくっている。
「何年生だろう。この時期まで課題を残してるのかな。ま、オレも再レポに次ぐ再レポ、同じようなもんだけどな」
そんなことを思いつつ青年は静まり返ったその場を後にしてレポート提出のために研究棟へ急ぐのだった。
低めの天井からLED照明の真っ白い光がライトグレーのリノリウム床を明るく照らす。天井と壁の白い塗装でより一層の明るさを感じるその廊下を青年は足早に歩いていく。彼の左腕にある耐衝撃ゴムで覆われた黒い腕時計のデジタル数字は一三時五〇分を表示していた。
廊下の両側には床と同色のライトグレーに塗られたドアが規則的に並ぶ。奥の突き当りから三つ手前のドアの前で青年は立ち止まると、軽く深呼吸して息を整えてからノックをしてドアを開けた。
「失礼します」
青年は誰に言うともなしに挨拶して部屋に入ると後手でドアを閉め、室内をざっと見渡す。左手の壁際には年季の入ったスチール棚に大量の段ボール箱、部屋の中央には液晶モニターとキーボードがセッティングされた四台の机、そして部屋の右手にはタワー型PCで構成された数台のサーバーが並んでおり、それらの前には腕組みをしてモニター画面とにらめっこしている白衣の男性がいた。
ここは青年が履修している計算化学の研究室である。コンピューターを用いて分子軌道や結合エネルギーの計算をするのが主であるその研究室には化学科と言いながらも試験管もビーカーもなく、さながらIT企業の開発室のようだった。
青年はサーバーの前に座るその男性に恐る恐る声をかける。
「あの……レポートの再提出を……」
男性は青年の声に小さくひと呼吸つくと、面倒臭そうにイスから立ち上がって彼の前にやって来た。そして差し出されたレポートの冊子を受け取ると目を細めながらその場でパラパラとページをめくる。男性は要所要所の図や表をチェックすると最後の参考文献のページを確認する。課題はみな指定の書式で書かれているため、こうして見るべきポイントだけを機械的にチェックすればよいのだった。
「ふ――ん、三回目の再レポートか……よし、いいだろう。お疲れさん」
白衣の男性はそう言って目の前に置かれた茶色いデスクトレーにそれを投げ入れると、再びそそくさとサーバーの前に戻っていった。
青年が目の前のトレーに視線を落とすとそこには既に同じような数冊の冊子が置かれていた。
「君が今日最後のお客さんだよ。これで無罪放免、よい春休みを」
白衣の男性はそう言ってバイバイと手を振った。
「ありがとうございました」
さっさとサーバーの前に戻って背を向けている白衣の男性に青年は軽く頭を下げてその部屋を後にした。
二回のダメ出しを食らって三回目の提出となる実習レポートが今日ようやっと受理された。都内のとある理科系大学の三年生である太田ヒロキはこれでようやっと四年生の春を迎えることができるのだった。あとは新学期までの間、来るべき就活に少しでも有利なゼミがどこかを調べたり、大学のOBでもある幼馴染が勤務する会社でいつものようにちょっとしたアルバイトでもして小遣い稼ぎができればよい。そしてそれこそが彼にとっての充実した春休みなのだ。
ヒロキがキャンパスを出て都合のよい構想を思い浮かべながら地下深い駅のホームにたどり着いたとき、彼が住むN市駅方面への直通列車がちょうど到着したところだった。
「よし、いい展開だ」
ヒロキはひとりそうつぶやくと目の前で扉を開けている車両に飛び乗った。
N市駅は東京北西部に位置するN市の中心的な街である。かつては踏み切り渋滞で有名な古臭い駅だったが、その後の再開発で高架駅となり今では複数の地下鉄路線が乗り入れるターミナル駅へと変貌している。ヒロキはこの街で生まれ育ちこのN市駅の移り変わりも見てきた。
大学入学が決まった春、彼の父親に海外転勤の話が持ち上がった。それはまさに大抜擢による栄転で母親もそれに同行することになった。大学に通うために東京に残る息子の仕送り代わりにと親子三人が暮らした住まいは賃貸に出される。こうしてヒロキは突然のひとり暮らしを余儀なくされた。そんな彼が新生活を始めるにあたって選んだ地は自分が慣れ親しんだこの地だった。
ヒロキがN市駅に着いたのは午後三時、高架駅のホームから見渡す景色は雲ひとつなく日差しは高く明るかった。
試験もなければ課題もない、そんなゆったりとした開放感に包まれたヒロキはこのままアパートに戻るのがなんとなくもったいない気分だった。滅多にないこんなのんびり気分をもっと楽しみたい、そう考えた彼の頭にふと浮かんだのは雄大な枝を広げた巨木の姿だった。
「そう言えば大ケヤキ神社の御神木ってあれからどうなったんだっけ。台風で倒れたときは大騒ぎだったよなぁ……よし、就活成就を兼ねてお参りしてみるか」
正月やら祭やら、そんなイベントでもなければ神社など顧みることもない、それもありふれた地元の神社ならなおさらのこと。そして彼は今、神社に向かってペダルを漕いている、まるで何かに招かれるように。
しかしそれこそがこれから始まる彼にとっての長い夜の予兆であることなど、そのときの彼には知る由もなかった。
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